今週の礼拝メッセージ
主の御心が現わされるところ 1998.2.8(SUN)

新城教会牧師 滝元 順

<今週のメッセージの御言葉>
旧約聖書 第二歴代誌 16章9節
主はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのです。あなたは、このことについて愚かなことをしました。今から、あなたは数々の戦いに巻き込まれます。

 ハレルヤ!三週間ぶりに皆さんとともに礼拝を守ることができ、心から感謝します。皆さんのお祈りに支えられていることを感謝します。私は先週、ひざの筋を痛めてしましました。これは職業病かも知れませんが、いつも右手にマイクを握り、右ひざに負担がかかるような格好で長時間立ってメッセージしているので痛めたのだと思います。それほど神様に使っていただいて感謝していますが、少し歩くのにも苦になっていました。歩くことができるのも神様の祝福だと、心から感謝する機会となりました。短距離ランナーではなく、長距離ランナーとして神に仕えて行きたいと願っています。
 新城教会にプレーリーという車がありますが、皆さんは車を買ったらどのくらい使われますか?三万キロくらいで車を変えられる方がいますが、少し長く乗る人で十万キロくらい走るかもしれません。プレーリーは昨日メーターを見たら、二十七万五千キロ走っていました。月まで届くほど走っています。そのくらい長く私も神の前に用いられれば感謝です。この車は甲子園ミッションの時に購入し、東京ミッションまで走り抜けてきた車です。今年リバイバルが起こったらリバイバル記念館を建て、その車を展示したい位です。
 私たちが神様に末永く扱っていただき、祝福され歩む秘訣は今日お読みした御言葉が鍵となると思います。第二歴代誌十六章九節の前半に、

『主はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのです。』

神が御力を現わされる場所は何処でしょうか。
 ユダ王国三代目のアサは、若いころ神様と心が一つになっていましたので国に平和がありました。しかし、晩年、彼は神様の御心を求めることから離れてしまいました。すると、ユダにイスラエルが攻めてきました。その時、アサ王は神を求めるのではなく、アラムの王のところに金銀を持っていき、同盟を結ぶことを願い人間的方策に走り、神を求めることを第一としませんでした。その時、予見者ハナニが神から遣わされ、語ったのが今読んだ言葉です。神は私たちと心を一つにしたいと願っておられるお方です。国においても、家族においても個人においても、神の御心と一つになると神の力を体験できるのです。そこから外れると、「今後あなたのところに戦いが続く」と書かれているように、問題が起こってくるのです。
 現在、日本は神の御心から外れています。ですから、問題が多いのです。今日本が一番求めなくてはならないのは、天地宇宙を造られた神と心を一つにすることです。日本が神の御心から離れている結果が社会に現れています。政治は汚職で染まり、経済は未だかつてなかったような不況に陥っています。教育の世界においても問題があり、特に犯罪の低年齢化が進み、社会を大きな不安が覆っています。これは、一言で言うならば、真の神から心が離れた結果です。私たちは今こそ、真の神と心を一つにすべきです。そうでないと神の力を体験できないばかりか、数々の戦いに巻き込まれるのです。これは教会でも同じ事です。
 今社会に色々な問題が起こっていますが、悲しいことに教会の中にも多くの問題が起こっています。先月、日本の教会の状況についての統計が出されました。それによると、現在日本に七七五五の教会があるそうですが、昨年の礼拝出席者の平均を見ると、一教会につき三十四人であったそうです。これは一昨年と比べマイナス一となります。一昨年は三十五人でしたが、三十四人になってしまったということです。ということは、だいたい日本全体で八千人近くのクリスチャンが、教会から去っていったという計算です。本当に私たち教会も、もっとへりくだって主の御心を求めなくてはならない時期に来ているわけです。
 マタイの福音書七章二十一節に、

『わたしに向かって、「主よ。主よ。」と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたし父のみこころを行なう者がはいるのです。』

と書かれています。主の御名を呼ぶだけでなく、神の御心を行わないと神の国に入ることはできないというのです。日本にリバイバルが始まるために、神の御心を心から求めなくてはならないのです。しかし、逆に神の御心を求め始めると、どんな場所においても御力が現されてきます。これは国においても個人においても家族においても、また、教会においても同じことです。
 先週、私は沖縄のある教会で奉仕させていただきました。その教会は儀式中心の教会で、私たちのような賛美はなく、祈りも決められた祈祷文があり、それを読むのが祈りとなります。だから自由な祈りの時間はありません。私はどのように集会を導いたら良いのかわからなくて、先生に聞きました。すると先生は、「自由にやってください。」と言われました。
 先生は甲子園ミッションの時、ミッションから送られてくる色々な印刷物を見て、「こんなに金を使ってバカらしい。」といつも少しだけ目を通して、ごみ箱に捨てていたそうです。しかし、ある時、教会の中に大きな問題が起こったそうです。教会で一生懸命に働いていた人が病気になり、祈らなければならない状況が起こったそうです。それで、「祷文の何ページを開きます」と言うような祈りでは難しいと感じたそうです。「病のために具体的に祈らなくては」と思ったそうです。それで、教会員たちを招集し、祈り文は関係なく、自分たちの言葉で祈ってみようと手をつないで祈ったそうです。「神様。この人の病気をいやしてあげてください。」すると、不思議と病気が癒されたそうです。「こんなことは私たちの教会の歴史の中に一度も起こったことがない。」と驚いたそうです。しばらくして、もうひとりの人が病で集中治療室に入って、もう助からないと言われましたが、先生は確信を持ち、大胆に集中治療室にまで入って「神様。この人もいやしてください。」と祈ったそうです。そうしたら、その人が立ち上がり、完全に癒されて教会に来るようになったというのです。
 最近、教会は霊的戦いにも目が開かれ、「教会の敵は悪魔だ」とわかったそうです。教会の建てられている場所は、昔の日本軍陣地があった近くで、沖縄戦で多くの日本兵が戦死し、死体が浮いていたような池を埋め立てて建てた教会です。それまで教会の中に何となくおかしな霊的雰囲気を感じていたそうですが、最近それがその場を支配している悪霊のせいであることがわかったそうです。そして祈りだしたそうです。すると、以前その教会を牧会していた先生が来て、あることについて話し出したそうです。
 ある時、その先生が夜中、書斎でメッセージの準備をしていたら、ノックする音が聞こえたので扉を開けると、なんと日本兵が立っていて、「水をください。」と言ったというのです。彼はびっくりして、「これは夢にちがいない。」とすぐに戸を閉めたそうです。これは日本兵ではなく悪霊です。
 決起大会ではざわめきのから賛美し、本当に恵まれた集会となりました。「順先生、ぜひ、今日は悪霊が砕かれるように祈ってください。」と言われましたので、私も真剣に祈ってきました。
 なぜその教会に神の力が現されるようになったのか。その理由はただ一つです。教団、教派は何も関係がありません。その方々が、心から神を求め、神の心を知りたいと願い始めたからです。神の心と一つになってきた時、そのような力が現されてきたということです。一番大切なことは、心から神の御心を求めていくことです。
 第二歴代誌十六章九節を新共同訳聖書で読むと、

『主は世界中至るところを見渡され、御自分と心を一つにする者を力づけようとしておられる。このことについてあなたは愚かだった。今後あなたには戦争が続く。』

 ここには「御自分と心を一つにする者を力づけようとしておられる。」と書かれています。日々の生活の中で「あなたの心と一つにしてください。」と祈り続けて行くならば、神は私たちを力づけてくださいます。どのグループに属するかではなく、神の御心を求めるかどうかです。神の御心と一つになるためには、内側に神の心を持つしかありません。
 ある人の考えていることが分かったら、どんなに幸せかと思います。その人の心を完全に自分のものとしたら、どんなに良いだろうかと思う人がいるかも知れません。しかし、人の心はなかなかわかりません。
 第一コリント二章十一節には、

『いったい、人の心のことは、その人のうちにある霊のほかに、だれが知っているでしょう。同じように、神のみこころのことは、神の御霊のほかにだれも知りません。』

 人の心は本人しか知りません。同様に、神の心も聖霊様以外知らないのです。また、十六節に、

『いったい、「だれが主のみこころを知り、主を導くことができたか。」ところが、私たちには、キリストの心があるのです。』

とあります。聖霊様は私たちに神の御心を知らせる方であるということです。
 パウロがエペソの教会を訪問した時の挨拶は、使徒の働き十九章二節です。それは、「信じた時聖霊を受けましたか?」でした。これがパウロの挨拶でした。エペソ教会の人たちは何と答えたでしょうか?それは、「いいえ。聖霊の与えられることは聞きもしませんでした。」でした。
 彼らは主を信じ、仕えていましたが聖霊様については何も知らなかったのです。新共同訳聖書だと、「いいえ、聖霊があるかどうか聞いたこともありません。」となっています。口語訳では、「いいえ、聖霊なるものがあることさえ聞いたことがありません。」
 彼らはイエス様を信じましたが、聖霊を受けているかと問われると、「聖霊があるなんて聞いたこともない」と答えました。それでパウロは彼らにイエスの御名によってバプテスマを授け、彼らに手を置いて祈りました。すると彼らに聖霊が下り、彼らは異言を語り預言をし、聖霊に満たされ、エペソ教会は霊的戦いのために用いられる重要な教会として育っていきました。
 「信じたとき聖霊を受けましたか。」皆さんは何と答えられますか?「聖霊があるなんて聞いたこともありませんでした。」と答えられるでしょうか。「信じたとき聖霊を受けました。」と言われるでしょうか。
 今週は私にとって忘れることができない週です。一九九二年二月十三日、夜中の十一時頃、愛知県民の森で私たちが祈っているところに聖霊様が訪れました。あの時のことは一生忘れません。甲子園ミッションの働きが始まった直後で、どのようにやっていけば良いのわからず私たちは途方にくれていました。祈るしかないと、真剣に主を求めて祈りました。「神様、あなたが何を私たちに望んでおられるのですか。どうか教えてください。私たちに聖霊を注いでください。」と真剣に祈り求めました。その時、突如として私たちの上に聖霊様が激しく訪れ、ほとんどの人が、堅いコンクリートの床に倒されました。私はその時、激しい津波のような音を聞きました。今まで人が倒れるのは病気の時にしか見たことがありませんでした。しかし、その時はわかりました。「聖霊様が私たちのところに来られた。」それは、神が人のところに下りて来られたという経験でした。私は驚いてすぐにその祈祷会を中止し、教会に逃げるようにして帰ってきました。しかし、その波が私たちを追ってきて、教会でも同じことが起こり始め、後から入ってくる人も巻き込まれるようなことが起こりました。その時から私も変えられました。
 この教会の古くからの信者さんはよく知っていますが、「新城教会は二代目で終わりだ。滝元先生の時は良かったけれど息子の代になったら駄目になる」と言われていました。私もその通りだと思っていました。私はある兄弟に、「順先生はわりと悪賢くて頭が良いけれど、このままではだめだね、しかし、聖霊に満たされたら変わると思うよ。」と言われました。私は、「頭の良い人は聖霊に満たされ難い。感情的な人が聖霊に満たされるのだ」と言っていました。私は考え方も行動も全て人間的でした。しかし、聖霊様に触れられてから、私の中に変化が起こり始め、今は心から燃えて主に仕えています。
 あの時私たちは本当に強烈な体験をしました。しかし、それから六年程経って、あの時から何が変わったのかと思い巡らせました。考えてみると、その時から変わったことは、「聖霊様ご自身を日々意識するようになった」ことです。
 聖霊に満たされるために、何か強烈な体験が必要であると思いますが、強烈な体験は必要条件ではありません。経験は主が生きておられることを印象付けるための補助的なものです。ということは、ちょうどパウロが、「信じたとき聖霊を受けましたか。」と尋ねると彼らが、「いいえ、聖霊の与えられることは聞きもしませんでした。」と答えましたが、これは彼らのの意識の中に、聖霊様の存在が意識されてなかったということです。ということは、聖霊様に満たされるのは強烈な体験を通してではなく、「聖霊様が共におられる現実を意識すること」です。聖霊様が私たちといつも共におられることを認識することが聖霊に満たされる秘訣です。私は毎日聖霊様がともにいてくださるということを認識しています。聖霊に満たされることは、「認識すること」です。今週、ぜひ、聖霊様が共におられるということを瞬間瞬間忘れずに認識してみてください。必ず神様の心と同じになって神の御力が現されていきます。
 先ほど話した教会の先生が決起大会の最初の挨拶で、「私たちの教会にこの頃、新しいことが起こっています。そして先日、おもしろいことが起こりました。」と話されました。
 沖縄では暑いので、戸を開けることが多くあります。先週も二十五度くらいありました。その教会に先日、一羽の鳩が入って来て十字架の上にとまったそうです。「これは偶然かも知れないが、教会の中に聖霊様がお入りになったという証拠だと思い、私は心から感謝しました。」と語られました。今まで鳩が教会に入って来ても、教会は何も感じませんでしたが、今は鳩が入ってきたのを、「聖霊様が教会に入られた証拠だ」と「認識した」のです。
 これが聖霊に満たされる秘訣です。今日主がここにおられ、聖霊様が私たちの中にいてくださることを確認しましょう。もしも、まだここに聖霊様がおられることがわからない方は、まず、イエス様を救い主として信じ受け入れることが必要です。「聖霊によらなければ誰もイエスは主であると告白することはできない。」と聖書に書かれていますので、まずイエス様を信じるならば、聖霊様が私たちの心に入ってくださいます。そして、聖霊様は聖い方ですので、罪があると聖霊様を体験することができません。罪を悔い改めてイエス様の十字架を自分のものとして信じることです。そうすれば、皆さんの心の中に天地宇宙を造られた聖霊様が宿ってくださり、神の心が形造られるようになります。そうすると神の力が現されます。色々な戦いからも遠ざかることができます。幸せな人生を送るためには神の心と一つになることです。それが即ち、御霊様に満たされることです。神の思いを私たちの心にできるように心から祈ります。

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