今週の礼拝メッセージ
救いを受けよ 1998.2.15(SUN)

新城教会牧師 滝元 順

<今週のメッセージの御言葉>
新約聖書 マルコの福音書5章25節〜34節
ところで、十二年の間長血をわずらっている女がいた。この女は多くの医者からひどいめに会わされて、自分の持ち物をみな使い果たしてしまったが、何のかいもなく、かえって悪くなる一方であった。彼女は、イエスのことを耳にして、群衆の中に紛れ込み、うしろから、イエスの着物にさわった。「お着物にさわることでもできれば、きっと直る。」と考えていたからである。すると、すぐに、血の源がかれて、ひどい痛みが直ったことを、からだに感じた。イエスも、すぐに、自分のうちから力が外に出て行ったことに気づいて、群衆の中を振り向いて、「だれがわたしの着物にさわったのですか。」と言われた。「群衆があなたに押し迫っているのをご覧になっていて、それでも『だれがわたしにさわったのか。』とおっしゃわれるのですか。イエスは、それをした人を知ろうとして、見回しておられた。女は恐れおののき、自分の身に起こった事を知り、イエスの前に出てひれ伏し、イエスに真実を余すことなく打ち明けた。そこで、イエスは彼女にこう言われた。「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。安心して帰りなさい。病気にかからず、すこやかでいなさい。」

 ハレルヤ!このように、御言葉を語ることができる特権を心から感謝します。皆さんのお祈りに支えられて、東京リバイバルミッションの働きが前進していることを感謝します。また、祈りによりいつも守られていることを感謝しています。
 二月十一日(水)は全国四十七都道府県庁前で日本のリバイバルと救いのために祈る集まりがありました。日本中が同じ時刻に、県庁の前に集まって日本の救いのために祈りました。二千五百名程が全国で集まってくださいました。本当に素晴らしい祈りの時でした。私は奈良に行きましたが、そこには六十名程が集まり一緒にリバイバルを祈り、とても恵まれた一時でした。東京ミッションが今年九月に行われますが、そのことのために熱く祈り続けていきたいと願っています。今日も色々なところで決起大会が開かれています。既にそりのために出かけている者たちもいます。ぜひ、とりなしの祈りをしていただきたいと思います。
 先週はこの教会に、二人の赤ちゃんが誕生しました。新城教会の成長の一つに「生物学的成長」というのがありますが、多くの赤ちゃんが産まれることを嬉しく思います。また、霊的にも救われ、誕生する方々も起こされていることを感謝します。先週は三名の方々がバプテスマを受けられましたが、更に多くの方々がイエス様を信じて永遠のいのちに預かるよう、祈り続けたいと思います。今日は伝道礼拝ですから、なるべくわかりやすく話したいと思います。
 今朝読んだストーリーは、四福音書中、マタイ、マルコ、ルカの三カ所で取り上げられている記事です。ということは、イエス様が起こされた奇跡の中でも重要なものです。これは、イエス様がゲラサで悪霊を追い出した後、ガリラヤに戻って起こった奇跡です。ゲラサで霊的戦いに勝利した後、イエス様の周りに奇跡が多く起こってきました。この奇跡は、会堂管理者ヤイロが、「娘が死にかけているので直るようにお祈りしてください」と頼んだところから始まっています。
 当時、イエス様は有名人でした。なぜなら、イエス様の行かれる所には素晴らしい業が起こっていましたから、口込みでイエス様の噂が広がっていきました。イエス様が宣教された本拠地は最初ガリラヤ湖周辺でした。そこはあまり広い場所ではありません。湖付近に人が住んでいますので、イエス様が起こした奇蹟は、どんどんと噂となって人々の間に広がって行ったことでしょう。そんな噂を十二年間、長血を煩っていた一人の女性が聞きました。これは婦人病の一種だと言われますが、彼女は十二年間出血が止まらず痩せ細り、今にも死にそうな状態であった事でしょう。
 もしも、日本に、どんな病気でも祈って直すというすごい人物が現れたら、あらゆる所からうわさを聞いて人々がやって来ると思います。
 今、いくら医学が進んだと言っても直らない病気がたくさんあります。先週私は、二人の病の方々を見舞う機会がありました。その方々は、現代医学ではなかなか直らない病の方々でした。その方々のために、主のわざが現されるようにと祈りました。その一人は、父親が医者で、「最先端の医学をこの子に費やしています。しかし、どうしようもありません。」と言われていました。人生は悲しいことに解決できない問題が多くあります。当時もこの女性にとって長血はどうすることもできない問題であり、状態はどんどん悪くなる一方だったのです。彼女は完全に望みを失っていた人でした。体は蝕まれ、財産も医者に費やして失い、経済的にもどん底でした。そんな時にイエス様について聞きました。それで、彼女は何とかしてイエス様に近づこうとしました。しかし、イエス様は有名人でしたから、周りは人だらけでなかなか近づくことができなかったことでしょう。しかしその女性は、「イエス様の着ている服にでも触るならば私は癒される」と信じたというのです。聖書は、五章二十八節に、

『「お着物にさわることでもできれば、きっと直る。」と考えていたからである。』

と書かれています。日本語の聖書だと「考えていた」と訳されていますが、英語の聖書だと、「彼女は言っていた。」となっています。彼女は、「イエス様の衣に触ったら癒される。」と口で告白していました。
 口から言葉を出すということはとても重要なことです。日本人はなかなか自分を表現することが苦手だと言われます。外国の方々は表現が豊かで感心します。私もあのように自分を表現できたらと思います。言葉でのコミュニケーションは聖書的なことです。聖書は神の言葉です。神様は言葉の中に住んでおられます。ですから、神の言葉、聖書を読むと神のことがわかるのです。救われるためには、「イエスは神の子であり、救い主である。」と口で告白が必要です。「イエス様を信じます。」と口で告白する時に、神の力が働き、救ってくださいます。心の中でイエス様は救い主であると考えているだけではいけません。口で告白することが重要です。
 この女性は、「イエス様の衣に少しでも触れるならば私は癒される」と口で告白していたのです。
 ある日、彼女の家の近くにイエス様が来るという情報を得、さっそく日頃告白していたことを実行に移しました。彼女は群衆をかき分けて、イエス様の衣の裾に触ったのです。それもイエス様の正面から触れたのではありません。イエス様の後ろから衣の端を少しつかみました。その瞬間、イエス様の体から力が流れ出て、病が癒されたのです。
 今でもイエス様がこの地上に生きておられたらどんなに素晴らしいことでしょうか。私たちもイエス様の衣に少しでも触ったら病が癒されるはずです。しかし、イエス様は十字架にかかられて後、よみがえって天に帰られてしまいました。その代わりに、目に見えない助け主、聖霊様が人々の中に来られました。
 始め人間は神様と親しい交わりが出来ました。顔と顔とを合わせて話すことができる状態でした。しかし、神様は目に見えないお方です。ということは、人間は始め、「霊的な目が完全に開いていた」のです。
 見える世界はほんの一部です。光りでも人間が見える範囲はわずか二〜三パーセントです。後は見えない世界です。目に見えない世界があります。現実的にも目に見えない世界があるように、霊的な世界もあるのです。人間は顔形を見ますがそれはごく一部であり、人間は大きな霊的世界と共にあります。しかし、霊の目が閉ざされていると、ただ現実の世界だけに支配されます。
 教会に来るようになって変わるのは、目に見えない、霊的な世界が開かれることです。人類が失った、霊の世界について理解できるようになるのです。それは大変素晴らしいことです。人類が霊の世界が理解できなくなった理由は、罪を犯して神から離れてしまった結果です。しかし、神は人間を救うためにまず、旧約聖書時代、預言者を通して言葉を語られました。しかし、それだけにとどまらず、言葉を語ってくださっていた方自身が人となって人類の歴史に来てくださいました。その日がクリスマスであり、その方がイエス・キリスト様です。預言者の口を通して語られていたのがこの方であったとわかりました。そして、今、聖霊様によって、もう一度、霊の世界での神との交わりが回復されたのです。ということは、私たちが信じるならば、霊の世界で神と触れることができるのです。そして、イエス様の時代と同じ事が起きるのです。
 彼女がイエス様にふれたとき、イエス様は、「誰が私に触ったのか」と言われました。誰がさわったのかイエス様はわかっていたと思いますが、彼女が自分から申し出ることを願っていたのだと思います。彼女は驚いて、イエス様に自分に起こった一部始終を話しました。するとイエス様はその女性に、五章三十四節。

『そこで、イエスは彼女にこう言われた。「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。安心して帰りなさい。病気にかからず、すこやかでいなさい。」』

 私たちにも、この言葉をイエス様からかけて欲しいですね。彼女は自分の口で告白し、「イエス様の衣に触れたら癒される」信じていました。信仰とは、ある意味で「告白すること」です。
 また、この「信仰」と訳されている言葉をギリシア語辞書で調べてみると「信頼」という意味の方が先にあげられています。ということは、この箇所のニュアンスは、「あなたの、わたしに対する信頼があなたを直したのです。」ということになります。私たちが救われるために必要なことは、イエス・キリストに対する「信頼」です。「イエス様が必ず直してくださる。」と信頼することが重要です。今日、ここにおられる多くの方々がイエス様を信じていると思いますが、「イエス様は私の救い主。私を救ってくださるに違いない」と「信頼」したから救いを得ることができたのです。人生で誰に信頼を寄せるかは大切なことです。永遠に変らないイエス・キリストに信頼するならば、決して揺らぐことがありません。「信頼」することが即ち、「信仰」です。
 そして、「あなたの信仰があなたを直したのです。」と書かれていますが、「直す」という言葉は、「救い」という言葉から来ています。ギリシア語で「救い」を「ソーテーリア」と言いますが、この「直る」という言葉はその言葉から来ています。当時、ギリシアの世界の中で「救い」という言葉がどのような概念で使用されていたかを調べてみると、意味を深く知ることが出来ます。一般的なギリシア語の概念では、救いとは、「体の健康」であったそうです。それが第一の意味でした。ということは、まず、イエス様の救いの中に、「病からの癒し」が含まれているのです。続いて、「一般的な安全や保障」という意味も含んでいるそうです。イエス様の救いは、「人生の安全と保証」を意味します。我々は、先のわからない世界に生きていますが、イエス様に信頼するならば安全が保障されるのです。守りがないと生きることができません。車に乗っていても、いつ事故が起きるかわかりません。道を歩いていても、いつはねられるかわからない恐ろしい交通戦争の中にあります。また、現代医学でも対処できない病気が多くあります。そのような中で生きていくには、いつも不安があります。しかし、救いとは、「安全と保証」を意味しています。
 また、救いとは、「困難からの救い」という意味があります。人生の中で困難にぶつかり、どうすることもできない状態に陥ったことがあるかも知れません。救いはそんな、「困難からの救出」という意味を含んでいます。今日皆さんの中に「困難の中にあります」と言われる方は、イエス様を信じて信頼してください。そして、救いとは、「敵からの救い」という意味もあります。日本は戦争状態にあるわけではありませんが、霊的には戦いがあり、悪魔が私たちを狙っています。しかし、悪魔の力からの救い、「敵からの救い」という意味があるのです。
 そして、この救いという言葉には、「終末的な意味」があります。誰もが感じているように、やがてこの世界にも終末が来ます。聖書は、人類がどうすることもできないような状況に陥ることを預言しています。人類は神から離れ、自分勝手に歩み罪を犯しました。その結果をやがて刈り取るのです。今、世界の状況を見ると、その刈り取りをすでに始めていることがわかります。去年も世界の環境についての会議が京都で持たれましたが、なかなか二酸化炭素の削減についての数値が採択されませんでした。今、この地球は温暖化が進み、歯止めが効かない状況にあります。最近は冬と言ってもあまり寒くありません。いつ寒かったのだろうと思う冬さえあります。私たちの教会にはペルーから来られている方々がおられますが、ペルーで今、異常気象が起こっています。ぜひ、祈ってあげてください。エルニーニョ現象により、各地に大雨が降り、大洪水が起こっています。温度の高い海域により気候がくるっているのです。これも地球温暖化による結果のようです。それらは全て、人間が自分勝手に神を忘れて歩んだ結果を刈り取っているのです。日本も政治、経済、教育、社会とすべてに問題がありますが、これも神を求めないで自分勝手な道を歩んだ結果です。やがて、人類は自らの手で自らの首を絞め滅亡する日を迎えるのです。しかし、そんな終末が来てもゆるがない「救い」について聖書は教えています。聖書の中で一番素晴らしい救い、それは、「永遠の命」です。永遠の救いが私たちの中に保証されています。
 今週私は、「東京ミッション決起大会」のために、鹿児島県に属する小さな島々に行きます。徳之島、奄美大島、屋久島、そして、種子島に行きます。また長崎の五島列島でも決起大会があります。九州に行くと、かつて多くのクリスチャンがいたことがわかります。そして、その多くが自分の信仰を守るために殉教したことがわかります。島原には「首塚」と呼ばれる場所があり、そこには三千近くのクリスチャンの首が埋まっているのです。とても心が痛みます。今でも海岸で地引き網を引くと、骨がかかったりするそうです。それはキリスタンの骨だと言われます。当時、クリスチャンが増え広がったのを恐れた幕府は、クリスチャンを弾圧し殺しました。なぜ、彼らが殉教できたのか、それはイエス様を「信頼」していたからです。イエス様が真の救い主であり、永遠の命を与えてくださる方であると信頼していたからです。
 殉教に至るまで信じる切ることができるでしょうか?彼らは現実的に、「永遠の命」を手につかんでいたのです。聖書の救いは、「永遠の命」にあります。イエス様を信じたら、永遠が保証されます。私たちは天国に行くことができる、これが保証です。
 しかし、この救いは、死んでからの命の保証ばかりではなく、同時に、この地上においても意味合いを持っているということです。
 今日、もしもここに病の方がおられたらぜひ信じてください。救いの中に「健康」があります。イエス様は私たちの健康に気を使ってくださり、癒してくださるのです。今日、目には見えませんが霊の姿でイエス様がここに立っておられることを信じ、「信頼」してください。
 新城教会にも主は素晴らしいことを行ってくださっています。先週の日曜日には、三名の方がバプテスマを受けられましたが、その中のひとりのブラジル人の方の証を聞いて、私はとても恵まれました。彼は酒飲みで喧嘩好き。ありとあらゆる悪をして生活していたそうです。ある時彼は酒を飲み喧嘩をし、ビール瓶で頭を殴られて意識不明になりましたた。今も顔に傷が残っています。しかし、イエス様を信じてそれらの罪から全部離れることができ、酒も要らなくなったと証ししていました。悪習慣、麻薬からも解放され、今はイエス様に信頼しているそうです。一般的に言うならば、そのような世界に陥ってしまうと、なかなか更正は難しいものです。色々な国々が専門機関を作って麻薬中毒者やアルコール中毒者を更正させようと真剣になっています。しかし、科学の粋を集め、専門家たちによって頑張っていますが、ほとんど効果がないのが現状です。アメリカでは麻薬がらみの犯罪が多いそうです。刑務所は満員で収容しきれないほどだそうです。その人たちを更正させるために色々行いましたが、何をやっても効果がなく、そのような人たちは何回も刑務所に戻って来るそうです。しかし、近頃、牧師を呼んできて刑務所の中で伝道集会を開催したそうです。そして、イエス様に信頼することを教えたそうです。すると、その方法が一番更正率が高いことがわかったと、先日のBSニュースでやっていました。素晴らしいことです。イエス様だけが世界の希望です。イエス様が今も生きておられる証拠です。
 先週、「油の注ぎ祈祷会」を行いましたが、その中で一つの祈りに導かれました。それは耳の悪い人たちが癒されるようにという祈りでした。その時に、小学校三年生の滝元麗歌ちゃんに証してもらうように導かれました。イエス様はこの教会の中でも奇跡を起こしてくださっています。今日もイエス様が生きておられる証拠として、母親の典子姉にそのことについて証していただきたいと思います。
 「小学校での聴力検査で、娘の聴力レベルが悪いので病院に行ってくださいと言われ、耳鼻科に行きました。検査をした途端医者が、『この子は聴力障害者で、手術をしても、薬を飲んでも、何をしても全くどうすることもできないので、来週、補聴器の検査に来てください』と言われました。私は娘が少しは耳が悪いかな?とは思っていましたが、いきなり医者から『もうどうしようもありません。手の施しようがありません』と言われ、頭を金槌で殴られたかような気分で家に帰りました。次週、補聴器の検査に行かなくてはならないと突然言われてしまったので、多くの方々に祈っていただきました。その一週間後、病院に行く前に、順先生のところに行ってお祈りしていただきました。順先生が耳に手を置いて祈った時に、麗歌は大げさに、「熱い、熱い・・・!」と言って部屋の中を走り回っていました。それから病院に行きました。病院に行ってまず聴力検査をしました。一回目の検査をした時、看護婦さんが首を傾げて戻って来ました。「おかしい・・・。この子、聞こえるよ。」と言っていました。そしてもう一度検査をしました。その時にも聞こえていました。そして医者に診てもらったら、「聞こえますね。大丈夫です・・・。」と言われ、不思議な表情をされていました。私の中には喜びが溢れていました。完全に障害者と言われていたのが直りました。感謝します。」
 「牧師:今日は聞こえますか。」「麗歌:聞こえます。」
小さな声まで彼女はしっかりと聞こえています。障害者と言われたのが完全に癒されました。それで先週の「油の注ぎ祈祷会」の中で彼女に耳の悪い人のために祈ってもらいました。すると、山崎兄の耳が癒されたと言っていました。彼は耳を手術しなくてはならないと言われていたそうですが、直ったと言っていました。主の栄光が現されています。
 彼女は一時的に癒されたのではなくずっと癒されています。イエス様は生きておられます。これはイエス様を「信頼」するかどうかにあります。私たちが信頼するならば、必ず、イエス様は触れてくださいます。今日皆さんの中に困難があったり、問題がある方はイエス様に信頼して祈ってみてください。イエス様はそのことに解決を与えてくださいます。私たちに必要なことは、「イエス様にはそのことができる」と信頼することです。今日はイエス様を心から信頼しましょう。「イエス様に信頼するならば救われる」と告白しましょう。今日は病や困難など、救いが必要な方々のために祈りたいと思います。また、何よりも永遠のいのちをいただきましょう。

バックナンバー
戻る
戻る