今週の礼拝メッセージ
リバイバルの受け皿 1998.3.8(SUN)

新城教会牧師 滝元 順

<今週のメッセージの御言葉>
新約聖書 マタイの福音書20章20節〜28節
そのとき、ゼベダイの子たちの母が、子どもたちといっしょにイエスのもとに来て、ひれ伏して、お願いがありますと言った。イエスが彼女に、「どんな願いですか。」と言われると、彼女は言った。「私のこのふたりの息子が、あなたの御国で、ひとりはあなたの右に、ひとりはあなたの左にすわれるよようにおことばを下さい。」けれども、イエスは答えて言われた。「あなたがたは自分が何を求めているのか、わかっていないのです。わたしが飲もうとしている杯を飲むことができますか。」彼らは「できます。」と言った。イエスは答えて言われた。「あなたがたはわたしの杯を飲みはします。しかし、わたしの右と左にすわることは、このわたしの許すことではなく、わたしの父によってそれに備えられた人々があるのです。」このことを聞いたほかの十人は、このふたりの兄弟のことで腹を立てた。そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、言われた。「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者たちは彼らを支配し、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。あなたがたの間では、そうではありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、あなたがたのしもべになりなさい。人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためであるのと同じです。」

 今日は「リバイバルの受け皿」というテーマで話したいと思います。今日、どのようにしたらリバイバルが起こるだろうか、また、そのためにどのような準備が必要なのかについて考えさせられます。赤ちゃんが産まれる時、親はそれなりに準備します。リバイバルも同じようなものだと思います。生まれてくるリバイバルのために準備が必要です。それには色々な準備があります。聖霊に満たされること、クリスチャン一人ひとりが整えられること、組織をしっかりとさせておくこと、多くの人々のために教会施設も備えておくことも必要です。しかし、最も重要な要素として考えられるのが、リバイバルを受け止める価値観であると思います。この点について整理しておかないと、リバイバルをしっかりと受け止めることができないと思います。
 この世の中には多くの問題があります。日本に於いて考えてもみなかったような多くの問題が噴出しています。何が根本的原因かというと、第一ヨハネの二章十七節に、『世と世の欲は滅び去ります。しかし、神のみこころを行なう者は、いつまでもながらえます。』とあるように、人の欲望であると思います。それが結果的に現実の問題となってあらわされるのです。
 私たちは日頃、この世の中の価値観の中にどっぷりと浸かって生活しています。六日間はこの世の中で生活し、日曜日は教会に来ます。うっかりすると、この世の価値観をそのまま教会に持ち込む危険性があります。この世の欲にリバイバルを築き上げるのならば、「世と世の欲は滅び去る」わけですから、そのリバイバルはやがて壊れてしまいます。それは個人的にも同じことです。私たちの信仰生活を世の価値観の上に築き上げるならば、必ずそれは崩れてしまいます。クリスチャンの価値観は、御国の価値観でなければなりません。神の国の価値観をしっかりと身につけなくてはなりません。特に、リバイバルためには、神の国の価値観をしっかりと受け皿として根づかせなくてはなりません。
 「東京ミッション決起大会」において、多くの教会におじゃまする機会があります。ある教会は聖霊の力を強調しますが、ある教会はさほどでもありません。また、ある教会は全く聖霊のことは聞いてもいません、という所もあります。しかし、日本の教会の現状を見るとほとんど同じです。なぜ、聖霊の働きを強調しているのにも関わらず、あまり強調していない教会と変わらないのかと思います。これは自分自身をも含めての話ですが、何かに問題があるのではと思います。そして、それはリバイバルを受け取る受け皿に問題があるように感じます。
 さて今日お読みした箇所は、イエス様がエルサレムに上って行かれた様子です。イエス様は十字架にかかられる前、エルサレムに上って行かれました。このことについてマルコは、イエス様がすごい気迫でエルサレムに上って行った様子を記しています。周りの者たちが恐れるくらいの気迫で、先頭に立ってエルサレムに上って行かれました。イエス様はエルサレムに上っていく理由を弟子に話されました。それは、エルサレムに上って十字架にかかるということです。しかし、それを聞いた弟子たちは、あまり聞いても気にしませんでした。あまりにもイエス様が気迫に満ちてエルサレムに上って行く姿を見て、「イエス様のことだから、何とか言ってもエルサレムでイスラエルの王座に就くのに違いない」と考えました。それでゼベダイの息子、ヨハネとヤコブのお母さんは、息子と共にイエス様のところにやって来て、親ばかだとお思いますが、「イエス様、あなたが神の国の御位につかれた時には、(彼らはそれを地上の王国だと考えていました)息子達を右と左に座らせてくれませんか?」とコネを使って願いました。悲しいことに、イエス様の思いと、弟子たちの思いとはあまりにもかけ離れていました。それを見ていた残りの十人の弟子たちは、『このことを聞いたほかの十人は、このふたりの兄弟のことで腹を立てた。』と書かれています。「何だあの兄弟たちは、母親まで連れて来て、イエス様にコネを使って左右に座らせて下さいとは、なんてこった・・・。」
 要するに全員が、イエス様が王様になったら自分たちもあわよくば大臣にでもなって、一旗あげてやろう、と思っていたわけです。弟子達にはイエス様についていれば、「やがて偉くなれる」という期待がありました。その時のイエス様は、二十六節から読むと、

『「あなたがたの間では、そうではありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。」』

 この世の中の価値観とは全く逆を言われました。この世の中の権力者は人々を支配し、威張って人の上に君臨するものであるが、あなたがたの中で偉くなりたいと思う者は、仕える者になりなさいと言われたのです。そして、イエス様はご自分のことについて言われました。

『「人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためであるのと同じです。」』

 全くイエス様の視点は弟子たちのものとは違いました。やがてエルサレムに上ったイエス様は、十字架にかけられ殺されてしまいました。弟子たちはイエス様の十字架の時には皆逃げて、失望してガリラヤにエマオにと、元いた場所に帰ってしまいました。彼らは夢も希望も失ってしまいました。
 前回私は、聖書は、人生に対するマニュアルであると話しました。「マニュアル」にはある結論に至る一つ一つの過程と、なぜそのような結論に至るのかについて記されています。マニュアルをよく読むとトラブルに会わなくて済みます。
 私はいつもコンピューターを使います。小さくて高性能なコンピューターを最近手に入れて使っています。しかし、マニュアルを読まずに適当に使っていると、全く動かなくなったりして大変なことがあります。最初からマニュアルを読んでおけば良かったのにと思うことがよくあります。私たちの信仰生活も同じです、聖書はある結論に達する過程と結論について書かれています。弟子たちの生き様を見て、始め彼らの視点がどのようなものであったのか、またそれがどのようにして変えられていったのかについて学ぶ事が出来ます。弟子達は数々の事件に巻き込まれ、彼らの元来持っていた価値観が変えられていきました。その後、弟子達は神に用いられるようになりました。ということは、私たちもその過程を学び、世の中の価値観で生きていてはならないことを悟らなければならないのです。現に、日本も今までの価値観でやってきて良いことはありませんでした。今、価値観の転換がすべての領域で求められています。
 イエス様は十字架で死なれましたが、三日後に弟子達は何と、死人の中からよみがえったイエス様に出会いました。それにより、彼らは失っていた望みを回復しました。使徒の働き一章を読むと、彼らはイエス様に、

『「主よ。今こそ、イスラエルのために国を再興してくださるのですか。」』

と聞いています。彼らには愛国心もあったとは思いますが、最初からイエス様がイスラエルの王様になったら偉くなりたい、という思いがありました。しかし、イエス様は彼らに祈っているようにと言われ、オリーブ山から天に帰ってしまわれました。天に帰られた時、弟子たちはボーッと天を仰いでいました。この時は、イエス様が死んでしまった時ほどのショックは見受けられません。きっと、戸を閉め、鍵を閉めた部屋に入って来られたり、ある時には五百人くらいに同時に現れたりさらに超自然的なイエス様は、天に帰って行かれたけれど、そのうち戻ってくるに違いないだろうと思っていた事でしょう。また御使いからも、「あなたがたが今見ているのと同じ様でイエス様はもう一度帰って来られる」と言われたのですから、彼らは、イエス様は昇天されたがまた近いうちに帰って来るだろうと思っていたはずです。それで、彼らはイエス様が言われたとおりに集まって祈っていました。すると、彼らに聖霊が注がれ、エルサレムに大リバイバルが起こりました。なんと三千人が救われ、続いて五千人が救われ・・・という、すごいリバイバルが起こりました。エルサレムでは外国人も救われましたが、なんとユダヤ人たちが悔い改め救われました。何しろ、数週間前にイエス様を十字架につけた人たちがイエス様を信じるようになったのです。そして、使徒の働き六章七節には、

『こうして神のことばは、ますます広まって行き、エルサレムで、弟子の数が非常にふえて行った。そして、多くの祭司たちが次々に信仰にはいった。』

と記されています。何と、今まで反対していたユダヤ教の祭司達もこぞってイエス様を信じました。聖書には記されていませんが、多分弟子達は、自分達が失ったものが再度回復されるチャンスについて考えたことでしょう。「エルサレムでは、皆イエス様を救い主として信じるようになった。祭司たちだって信じるようになったではないか・・・。これならすぐにイエス様が帰って来られるはずだ。」彼らはイエス様が明日にでも帰ってくるように思っていたはずです。そんな彼らには、まだまだ昔の古い価値観が残っていたと思います。しかし、そこでステパノが殺されるというような迫害が起こりました。そのため、エルサレムにとどまることができず、ユダヤとサマリヤ、そして付近の町々に散らされてしまいました。その結果、彼らが話しもろくにしたくないような、サマリヤ人に福音が伝えられるようになりました。また、挨拶も交わしたくないような、一番嫌っていた異邦人にも福音が伝えられるようになりました。迫害により、彼らの価値観が変えられ、結局、「偉くなりたい」とか、「何かを受ける」というような視点から解放されて、与える視点に変えられていったのです。
 私たちもその弟子たちの姿から学ぶことができます。私たちは今、リバイバルのために聖霊を求めていますが、土台となる価値観が世の欲であるならば、それはやがて崩れてしまうということです。今この世のテーマは何しろ力です。力がなかったら素晴らしいポジションを受けることができません。今も受験シーズンですが、受験生も苦労していますが、受験に合格することは、テストができる方から合格します。力がある方から合格します。できない方から取るような学校があっても良いと思いますが、リバイバルが起こって教会で学校を作るようになったら、強い方よりも弱い方を優先するような学校を作っても良いと思いますが、何しろこの世の中のテーマは力です。経済も、権力も、力を得るというのが最高の価値です。しかし、このテーマと聖霊の力が結びついたら恐ろしい結果になります。最終的には個人の信仰生活も、同時に教会をも破壊してしまうことになりかねません。ということは、視点がイエス様の言われたように、権力を振るう者ではなく、仕える者の姿、また、受けるのではなく、与えていく姿、この現実の拡大ではなく、神の国の拡大に変えられる必要があります。今朝学ぶべきことは、リバイバルを受け取る受け皿として、持っている視点や価値観を変えられる事です。偉い人とは仕える人です。私は牧師をしていますが、リバイバルが起こったら大勢集まって、偉大な牧師になって人々の前に君臨するのだ、というような、「威張りたい」という体質が前提ならば、やがては失敗します。私はしもべであり、皆に仕えて行くべきものです。牧師業はある意味でサービス業で、人々に仕える働きです。ガソリン屋がガス欠している車の所に油を配達に行き、自ら給油するように、信仰が弱っている人がいたならば、すぐに聖霊の油を持って行き励まし助けてあげる、そんな仕える者でなくてはならないと思います。どうか、私のためにも祈っていただきたいと思います。リバイバルが進んで行くならば、へりくだって主に仕えることができるようになりたいです。これが牧師だけではなく、皆同じ視点を持って主に仕えるならば、必ずそこにリバイバルの受け皿ができ、リバイバルは拡大します。また受けることだけではなく与えることを考えていく時に祝福も来ます。去年から今年にかけて語られている御言葉の中に、「受けるよりも与える方が幸いです」というメッセージがありますが、これは真理です。自分のためにがんばっている時にはなかなか祝福は来ません。私も今、東京ミッションのために色々なところに行って働いていますが、ふっと何のためにわざわざ来ているのだろうか、と思うことがあります。東京のために働いて少しくらい得があるのだろうかと思います。東京にリバイバルが起こり、新城教会は少しくらい人数が増えると思いますか?東京から新幹線に乗り継ぎ、だいたいここまで四時間くらいかかります。「来れるなら来てご覧」という世界だと思います。東京ミッションのために働いても、何も得しないではないかと思います。しかし、イエス様は「それで良い、受けるよりも与える方が幸いだ。」と言われました。自分の利益のために、また自分の所属している教会だけの祝福のために、得るためだけに働くならばそこにはわながあり、この世と同じことになってしまいます。ということは、私たちは常に天国の価値観、神の視点を持っていることが大切です。聖書の価値観がこの地上に現され、日本を覆うならば日本は必ず変えられます。
 聖書は決して強い者に価値があるとは言っていません。第一コリント十二章に賜物ということと関連して、「私たちはイエス様ご自身のからだであり器官である」とあります。今日ここにおられるひとりひとりは、強いとか弱いとかそのような見かけでは判断されないのです。これは、各器官としての働きがあるというのです。イエス様が頭で私たちは各器官であるのです。また聖書は「弱いと見えるところが、かえってなくてはならないものです。」と教えています。この教会で一番賜物がある人は誰ですか?皆に賜物がありますが、一番重要なのは目立つ牧師や伝道者ではなく、あまり目立たない方です。今日あの人は教会に来られていたかな?というような、少し弱さを持っておられる方が一番なくてはならない存在だというのです。これは真理です。私たちの弱さの中に神が働いてくださり、弱いところが大切だという視点がなくては、この世の価値観と同じになってしまいます。教会の中では決して、この世の価値観で判断するのはやめましょう。しかし、教会から帰っても、この世の価値観ではなく、クリスチャンは御国の価値観で生きて行かなくてはなりません。どんな時にも世の価値観に毒されることなく、天国の価値観の中に生きる者であれば変えられることができます。
 今神様は日本で色々な新しい御業を始めておられます。今まで考えても見なかったような、弱い場所を使っておられます。昨日、聞いた、先週あるところで起こった証をします。
 今年の正月に、三十六時間PPHが当教会を会場に行われましたが、そこに、数人の若者たちが来て、燃やされて家に帰って行きました。それで彼らは自分の街の駅前で路傍伝道を始めたそうです。すると、その路傍伝道により、駅前でたむろしていた不良少年少女がイエス様を信じるようになったそうです。特に一人の中学三年生の女の子が変えられ、教会に来るようになったそうです。彼女は両親が離婚し、小さな頃から虐待を受けて育ってきた子です。しかし、彼女は路傍伝道で救われてから、毎日のように教会に来て祈るようになり、特に彼女はギターが弾けて賛美が好きで、また、教会に来て祈ることが楽しみになったそうです。
 近頃、教会で祈っている時に神様が彼女に語りかけました。「あなたも出て行って路傍伝道しなさい。」彼女はつい最近救われたばかりで、「エッ、私が何をしたら良いの。」と思ったそうです。しかし、彼女はギターを持って、まずは自分の家の周りを賛美しながらまわりました。それが先週の月曜日のことだそうです。「イエス様はあなたを愛しています。」と賛美しながら家の付近をまわったそうです。そうしたら、バス停におばあちゃんが腰をかけていて、賛美を聞いて感動し、ちょうどそのおばあちゃんはおじいさんを近頃亡くされて悲しい時だったのです。「イエス様は本当に救ってくださるのですか?」と声をかけたそうです。「そうですよ。イエス様は救ってくださいます。私なんかこんなに変えられました。」と自分の証をしたそうです。すると、おばあちゃんは涙を流しました。そして、「救いとは何ですか。」と聞きました。「それは、イエス様の十字架です。」と答え、その女の子は月曜日に一人のおばあさんを救いに導いたそうです。それで気をよくして、彼女は火曜日には近くのデパートにギターを持って入って行き、「イエス様はあなたを愛してる」と賛美し始めたそうです。するとすぐに店長が出て来て、「こんな所で歌なんか歌ってもらっては困る」と怒られたそうです。すると彼女は、その店長をつかまえて、「私はイエス様を信じて変えられたのです。」と語り始め、証を一時間程しました。すると店長は感動し、「素晴らしい話だ。その話を屋上でしてくれないか」と言い、屋上に人を集めて路傍伝道を始めました。それから彼女は八百屋さんに行きそこでも「イエス様はあなたを愛してる。」と歌うと皆が集まり、彼女の話を聞きました。
 彼女はなんと水曜日には近くの小学校に行きました。そして学校に入って「イエス様あなたを愛してる」と賛美しました。今度は校長先生が出て来て、「こんな所で歌ってもらっては困ります。早く出て行ってください。」と言われました。すると彼女は、「ちょっと待って、校長先生、聞いてください。私はイエス様を信じたらこんなふうに人生が変えられました。」と証しました。そうしたら、校長先生は感動して、「中学生に問題が多いというのに素晴らしい話だ」と一クラスずつまわって話をしてくれるように彼女に頼みました。それで一年一組から黒板に「イエス様はあなたの救い主」と書いて、何と彼女は一時間も話をしたそうです。そうしたら子どもたちは、「私たちもイエス様を信じたい」と言ったそうです。そして、一年二組、三組・・・と話して先生も感動してしまったと言うのです。信じられないような話ですが、本当だそうです。
 すると先生たちが、「こんな良い話はない。一つずつ廻っていたら時間がかかるので、校内放送を使ってくれ。」と言われたそうです。「あまりにも素晴らしい話だから、放送を運動場にも流して周囲の住民にも聞かせたい」と、校内放送でイエス様が救い主であって自分を救ってくれたということを語ったそうです。すると気が付くと、校庭に地域の住民が十数人が、「オレもイエス様を信じたい。」と集まって来たそうです。
 今、聖霊様が働いておられます。本当に神様が弱いところに働いておられます。まだその女の子はバプテスマを受けていないそうです。神様は今まで傷ついて苦しんでいる人たちを救い出し、この日本のリバイバルのために使っているのです。
 そんなリバイバルの受け皿として、この世の価値観をもって受け止めるならば、リバイバルを受け取ることができないのです。心から主の御名をあがめます。
 今年、そのようなことが各地で起こされるように祈りたいと思います。私たち一人一人を神様が整えて、この日本のリバイバルのために用いようとされていることは確実だと思います。そのために、どうしても受け皿となる「価値観の転換」が大切であると信じます。

バックナンバー
戻る
戻る