今週の礼拝メッセージ
渇くことのない水   1998.3.15(SUN)

新城教会牧師 岡本信弘

<今週のメッセージの御言葉>
ヨハネの福音書4章13節〜14節
 イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」

 ハレルヤ!皆さんと共にこの教会で礼拝をもてる恵みを感謝します。皆さんのお祈りによって健康が支えられ、毎週のように東西南北に行き来する中でも守られ、楽しく神様のご奉仕をさせていただけることを感謝します。
 最近、新聞やテレビで毎日のように自殺、経済破綻のニュースが流れてきます。この先どうなるのだろうかと誰もが不安を感じ、どこを基準に、何を求めれば本当の祝福を得ることができるのだろかと思うに違いありません。クリスチャンであってもなくても皆が不安を感じているこの時に、私たちは何を求めて行くべきでしょうか。たとえば、十名の人に右か左かの一つを選択して下さい、と言った時、九人が右を選んだとしても、左が絶対正しいと思えば、当然のように皆さんは左を選択すると思います。しかし私たちの人生においては、九人が右を選んだなら、違うと思っても右と言ってしまうことがないでしょうか。中学生が人を刺したという事件で、評論家や大学教授が家庭環境、心理状況など、色々な分析をしています。そして解決策についても話し合われています。しかし、その人たちが言っていることは推論に過ぎず、絶対だということはあり得ません。起こってしまった事件を振り返り、ああすればよかった、こうすればよかったなどと言い合うことはできますが、これからのことを誰も予知することはできません。色々な人に意見を聞いたり、解決のてががりになりそうな本を読んだりして私たちは答を探します。
 しかし沢山の意見を聞けば聞くほど読めば読むほど、どれが本当に正しい道なのか、迷ってしまうのではないでしょうか。
 皆さんの車にもカーナビがついている方もあるかと思いますが、カーナビに目的地をセットすると、どの道を行くとどのくらいの距離で、どのくらいの時間がかかるということが表示され、とても便利です。しかし、使い方がわからなければ、また目的地が決まっていなければ何の役にも立たないのです。皆さんは目的地を目指しているでしょうか。今まで進んできた道はわかります。ある人は五十年、ある人は三十年、ある人は二十年・・・と生きて来た足跡はわかりますが、これからどこに向かい、どのように生きて行くべきか、どのようにしたら私たちは祝福された人生を送ることができるのでしょうか。マタイの福音書には「狭い門から入りなさい。滅びに至る門は広く、いのちに至る門は小さい」と書かれています。多くの人が祝福を受けたいと探し求める中で挫折し、自殺してしまうこともあります。祝福の道とは容易には手に入れることのできない道なのです。
 先週の日曜日の午後は、色々なクリスチャンの家庭で交わり会が開かれました。神様に出会ってどのような祝福を受けたか、近況報告、祈りの課題などを分かち合いました。私は講壇で話すのは得意とは言えませんが、雑談することはとても好きです。人の話を聞くのも好きなのですが、話と話の間が空いてしまうのがあまり好きではないので、自分のことをたくさん話してしまいました。その時にある人から「先生のように祝福された人に、今まで会ったことがない」と言われました。私にお金があるわけでもなく、頭が良いわけでもなく、何ができるというわけでもありませんが、確かに祝福されてきたと思います。私は家に帰り今までのことを振り返って主の前に祈った時に、神様が私にたくさんの素晴らしい恵みを与えてくださったことを思い返すことができ、心から感謝しました。
 今日始めて来られた方と私が違うことの一つは、恵みによって私はクリスチャンの家庭に生まれ、その中で育ってきたということです。わけもわからないような小さい頃から、毎週教会に連れて来られていました。教会に通いさえしていれば親は喜んでくれると思いながら、通う内に神様に出会って救われました。色々な教会に出かけるようになり先生方とお話しする時、「どのようにして教会に行くようになったのですか?どのようにして救われたのですか?」という質問を必ず受けます。クリスチャンホームに生まれた私は何と説明して良いのかわからず返事に困ることがあります。「どうして教会に導かれたのですか?」と聞かれると「私の両親に初めて与えられた子どもがダウン症という精神薄弱児であったために、教会に導かれたのがきっかけで、母が初めにイエス・キリストに出会うことができ、私が母のお腹の中にいた時、母が洗礼を受けたのです。」と話します。家族中で教会に通っていた私は、小・中学校に行っている頃から神様をはっきりと信じ、神様のために働きたいと思っていました。今思うととても純粋だったと思います。教会に新しい方が来られたり、青年で学生の時に救われた人を見る時に、もしあの人と同じようにクリスチャンの家庭に生まれていなかったら、誰かに誘われたとしても「面倒くさいし、これで良い。死ぬ時には死ぬ。病気になる時には病気になる・・・」と人生に対する考え方をごまかして教会に行かなかっただろうと、救われなかったのではないかといつも思ってきました。そして先週「あなたのように恵まれている人はいない」と言われた時にふと考えました。私が生まれた時には終戦後で、日本の経済も安定し食べる物がないとか着る物がないということもなく「あなたほどわがままに育った人はいない」と家族に言われるほど気ままに生きてきました。クリスチャンの家庭に生まれ、たくさんの恵みをいただいて祝福の中にあったからこそ、家庭の中に平和があり、健康が支えられ、何の不自由もなく生きてきたにもかかわらず、それが当たり前のこととして恵みを恵みと感じていなかったことに気付かされました。そしてまた、もし私がクリスチャンの家庭に生まれておらず、大きな問題にぶつかったり、病気をしたり、事故にでも遭ったら、また家庭に分裂があったら私も神様を求め、本当の祝福を求めただろう、と考え方が少し変わりました。そして、それでは祝福の基準は何だろうともう一度考えてみました。今は政治、経済、教育が崩壊の一途で皆が不安を抱き、祝福への道を見つけ出すことができないでいる人が沢山います。たとえお金があっても不正をし、自殺する人がいます。健康であっても、家庭の中が平和でも、それは一時的の喜びに過ぎないことを私たちは感じています。
 ヨハネの福音書四章にはひとりの女性が出てきます。この箇所はイエス様がガリラヤに行くためにサマリヤを通ったことが書かれています。サマリヤ人とユダヤ人は行き来がなく、仲良くありませんでした。普通のユダヤ人は遠回りをしてサマリヤを避けていたにも関わらず、イエス様はわざわざサマリヤを通って行き、スカルという町で井戸の傍らで休憩している時に、ひとりの女性がやって来ました。ここには六時頃と書かれていますが、今の時間で言うと昼頃になります。熱い最中に水を汲みに来る人は誰もいませんでした。そのようなことから見て、この人は孤独で人からさげすまれている人のように思います。イエス様はその女性に「わたしに水を一杯ください」とお願いしました。すると女性は驚き、「なぜ、あなたはユダヤ人なのに私に水をくださいと言うのですか。」と言いました。そして、そのことに対してイエス様は、

『「もしあなたが神の賜物を知り、また、あなたに水を飲ませてくれと言う者がだれであるかを知っていたなら、あなたのほうでその人に求めたことでしょう。そしてその人はあなたに生ける水を与えたことでしょう。」』

と言われました。女性がこの言葉を聞いた時、わけがわからなかったと思います。そこで女性は「先生、あなたは汲む物を持っておいでにならず、この井戸は深いのです。その生ける水をどこから手にお入れになるのですか。」と言いました。「あなたはそれをどこから手に入れるというのですか。手に入れるすべを持っていないではないですか」と言っているのです。しかしイエス様は、もっと驚くようなことを言われました。十三節から十四節に、

『イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」』

 この言葉はこの女性にとって衝撃的でした。今は毎日、暑い最中に水を汲みに来なくてはならないけれども、もうこんな暑い時に水を汲みに来なくても良い、泉が湧き出てその水をいつも飲むことができ、いつも使うことができる。私たちは水道をひねればすぐ水を手に入れることが出ます。しかしこの当時彼女は毎日一回、水を汲みに行かなくてはならず、水は非常に貴重なものでした。その水がこともあろうに汲みに行かなくても、泉となって湧き出る。絶対に渇くことがない水をもらうことができる、と聞いた彼女はその言葉にとても興味を持ったと思います。普通の人が聞いたら「あの人は頭がおかしい」と思ったかも知れません。しかしこの女性は、「先生、私が渇くことがなく、もうここまで汲みに来なくても良いように、その水を私にください。」と頼みました。単純に信じて、そのような水があったらその水をください、私もその水が欲しいのです、とこの女性は願いました。私たちは祝福を受けたいと願いながら、その水がどこから来るのかわからずに探し求めています。しかし、私たちもこの渇くことのない水を手に入れることができます。これは勿論私たちが喉の渇きをいやすために飲む水ではなく、私たちの内面的な渇きをいやす水です。色々な不安や問題も一時的には色々な遊びやお金において紛らわすことができます。しかしそれはほんの一時です。私たちがいつも祝福される条件は、いつどのような時にも変わることのない喜びを持っていることです。いつも笑っているというわけではありません。私たちの心の中に喜びがあることです。どのような悲しみや問題にぶつかった時にも平安をもつことができることが祝福です。「渇くことがない水、内側から湧き出るほどの水をあなたも持つことができる。」と言われた女性がイエス様こそ神の子であると知り、生ける水をいただき、祝福を得たことが聖書に書かれています。
 祝福の水、渇くことのない水を手に入れる条件はいくつかあります。まず、最近教会に来られた方は、創造主なる神を求め、神様がすべてを造られたことを知ることです。私たちを造り、生かし、導いてくださる神様を知ることが祝福をいただく最大のポイントです。多くの人が祝福の水を探していますが、なかなか見つけることができません。それは順序が間違っているからです。人間がどこから来て何のために生き、どこに行き着くのか、また自分は何故ここに存在しているのか。創造主なる神様を知る時、私たちはその答えを得、祝福を手に入れることができるのです。「いのちに至る門は狭い」と先ほども聖書の御言葉を読みましたが、祝福の門は狭く、そこまでの道は狭いかも知れません。しかし今、皆さんはその入り口に立っています。私は恵みによってクリスチャンホームに生まれ、狭い道も容易に通って来ることができ、その門の入口を見出すことができました。しかし、最後にその門を入ることを選び取るのはひとりひとりに委ねられているのです。決断が必要です。皆さんも今その入口にいることを覚えて下さい。そして創造主なる神様を認めることをお勧めします。それこそが祝福への第一歩なのです。

『あなたの若い日にあなたの創造者を覚えよ。』

と聖書に書かれています。私が恵みによって幼い時に神様を知ることができたのは大きな特権です。しかし「今は恵みのとき、今は救いの日です。」と書かれているように、今も神様の恵みの祝福を受けることのできる門が開かれていることを覚えていただき、ぜひ創造主なる神様を信じて下さい。
創世記一章一節に、

『はじめに、神が天と地を創造された。』

と書かれています。神様ははじめに天と地を造られ、それと同時に星、海、山、木々、鳥、動物を造り、最後に人間を神様の愛の対象として造られました。神様は人間を神の形に似せて造られ、私たちが神様と交わることができるようにした、と書かれています。神様と共にいる時、私たちは平安と喜びを感じることができます。
この教会にも最近小さい子どもたちが沢山与えられて、友だち同士で遊んでいる姿を見て、「お前たちは何も考えないで、遊んでいられて幸せで良いなあ」と言うことがあります。そんな何も考えていないような子たちも、不安に感じる時があります。それは両親、特にお母さんが自分の視野から消えた時です。楽しく遊んでいる時は良いですが、ふと気がついてお母さんがいないことがわかると、一度や二度は楽しいおもちゃや美味しそうなお菓子をあげれば忘れてしまいますが、その後続くと我慢できなくなり、他のどんなものも役に立ちません。お母さんが近くにいることがその子にとって最大の平安の時です。そのように私たちも神様と共にいることが平安であり、私たちを造って下さり、生かして下さり、導いて下さっている神様と共に歩むことが私たちの祝福、平安を得る秘訣です。
 では、私たちは何の目的で生きているのでしょうか。苦しみ、悲しみの中で、こんな人生は送りたくないと思っている方もいるかも知れません。神様がいるのになぜこんなに苦労しなくてはならないのだろうかと思っている方もいるかも知れません。しかし聖書に「あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたがたを選んだ。」と書かれているように、神様は私たちを愛していて下さいます。初めて来られた方も神様の前に覚えられ、神様が皆さんを選び、導いて下さっています。勿論皆さんが自分の意志で来られたと思います。誰かに誘われて仕方がないと思って来られた方や問題を抱えて来れた方がいると思いますが、クリスチャンの方を含めてすべての人が神様の導き、神様の御手の中で今日ここに座っています。神様の御言葉を聞くことができるというのは大きな特権です。私たちは何のために生きているかと考えるのではなく、何のために「生かされている」のかを考えるべきです。自分のためにどうやって生きているかではなく、神様が何を私にさせようと望んでおられるかを考えることが必要です。何のためにここにいて、生かされているのかを是非、考えてみて下さい。
 聖書の中に、神様と共に歩んで祝福をいただいた人たちについての記述がたくさん書かれています。アブラハムは信仰の父と言われ、神様がわたしの友、と呼んだ人です。何故アブラハムは素晴らしい祝福をいただくことができたのでしょうか。彼は百才になるまで子どもがありませんでしたが、彼の信仰を見て子どもを与え、その子どもによって彼の子孫とその地を祝福しようと言われました。今よりももっと年数を生きた時代でしたが、それでも百才の人が子どもをもつということはありませんでした。しかし、神様の約束どおり子どもが与えられました。アブラハムはイサクと名付けられたその子を、目の中に入れても痛くないほど可愛がり、その成長を見ては喜んでいました。しかし神様は大きな試練を与えられました。「あなたのひとり子イサクを私にささげなさい。」アブラハムは耳を疑ったと思います。「神様。あなたはこの子を通して祝福を与えると言ったではないですか。またこの子を通して素晴らしい恵みをくださると言ったのではありませんか。何故、今になってこの子をささげなくてはいけないのですか。」と聖書には書かれてはいませんが、思ったと思います。私だったら文句を言ったと思いますし、これは神の声ではないと否定したかもしれません。しかしアブラハムは信仰もって、神様が言われたことに従順に従いました。そしてイサクを連れ、三日間の道のりを進んで神様がささげよと言ったモリヤの地に行きました。途中で少年イサクに「全焼のいけにえがありません。」と聞かれた時、アブラハムはとても辛かったと思います。いけにえがイサク自身だということは、まだイサクには話していませんでした。しかし、神様が備えてくださるという信仰をもって全焼のいけにえの祭壇を作り、そこにわが子イサクをささげようとし剣を振り上げようとした時に、「あなたが自分の子どもよりわたしに従ったそのあなたの信仰を見た。」と言われ、いけにえとしての山羊を備えられたのです。そして創世記二十二章十六節から十七節に、

『仰せられた。「これは主の御告げである。わたしは自分にかけて誓う。あなたが、このことをなし、あなたの子、あなたのひとり子を惜しまなかったから、わたしは確かにあなたを大いに祝福し、あなたの子孫を、空の星、海辺の砂のように数多く増し加えよう。そしてあなたの子孫は、その敵の門を勝ち取るであろう。』

と書かれています。彼は素晴らしい御言葉をいただくことができました。私たちが祝福を受ける道は神を認めることと同時に、神様第一の生活をすることです。時として私たちは目の前にある幸せ、祝福を取りたいと思います。神様のために働くことが楽しいと思いながら目の先の祝福を勝ち得たいと思います。しかし、私たちが祝福を受けるために、また結果的に神様から「よくやった忠実なしもべだ。」と言われるためには、神第一の生活を私たちがどこまですることができるかが鍵なのです。今日初めて来こられた方は、クリスチャンになったら自分の子もささげなくてはならないのかと思われるかも知れませんが、勿論神様は私たちにできないことは要求されません。神様は私たちの苦しい時、問題がある時、どんな時にも共に歩んで下さり、いつも心配して下さり、気づかって下さり、愛して下さっているのです。
 もう一つ大切なことは、私たちの目的地がはっきりしているかどうかです。今どんなに人生が楽しくても、前に用意されている道が素晴らしい祝福の道だと思っても、その先にある道がしっかりとゴールにつながっているかどうかを見極めなくてはなりません。そしてもしゴールがぼやけてしまっているのなら、祝福のゴールへの最短の道を教えていただく必要があります。
私たち人間は、神によって愛の対象として形造られましたが、初めの人間アダムとエバが神様との約束を破ったことにより、罪が人間の中に入りました。これが原罪と言われるものです。小さな子どもが、親が教えたわけでもないのに、覚えてほしくないと思っているのに、偽ること、悪口を言うことをいつの間にか身につけてしまっています。人間の中にある原罪という罪が、生まれた時からインプットされているからです。人間は罪をもって生まれ、罪を行い、罪をもったまま死に、永遠の地獄に行く。これが人間に定められている道です。それを人間の力、努力では変えることはできません。しかし神様は人間との交わりを回復し、神様の国・天国に連れて行きたいと願い、救い主イエス・キリストを今から二千年前にこの地上に送って下さいました。それがクリスマスです。イエス・キリストは処女マリヤを通して何の罪もない人として、人類で初めて罪を持たないままこの地上に生まれて下さいました。そして三十三年生き、すべての人間のために十字架にかかって死んで下さいました。神様がイエス・キリストを十字架にかける苦しみは大きな苦しみでした。それはちょうどアブラハムが、わが子イサクをモリヤの山で祭壇にささげるのと同じ心境だったと言われています。三日間の道のりはちょうどイエス様が十字架にかけられ、葬られ、黄泉に下り、地獄の刑罰を受け苦しみを受けられ、三日目によみがえってくださったのです。アブラハムがイサクをささげるためにモリヤの山へ行くまでの三日の道のりは、胸が張り裂けるほどの辛い旅だったと思います。しかし信仰もってささげた時、もう一度救われ、祝福を受けることができ、その後も大きな祝福を受けたのです。
神様は一度はイエス・キリストを私たちの身代わりとして十字架につけることを許され、地獄に送り私たちの受けるべき苦しみを与えられましたが、私たちの救いのためにもう一度この世に復活させて下さいました。そして今も生きておられるのです。そしてイエス・キリストを信じるだけで天国に入ることができます。これは素晴らしい祝福です。スカルの女性が渇くことのない水を求めて手に入れたのと同じように、皆さんにも是非渇くことのない水を手に入れていただきたいのです。それは人間の力や努力ではなく、一方的な神様の愛、一方的な恵みの中で私たちはそれを今受け取ることができるということを覚えて下さい。私たちが神と共に歩む人生こそが不可欠であり、神のために生きることほど喜びに満たされた祝福に満たされた人生はないことを今日知っていただきたいと思います。
 お祈りします。 

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