今週の礼拝メッセージ
策略に打ち勝て   1998.3.22(SUN)

新城教会牧師 上條 実

<今週のメッセージの御言葉>
旧約聖書 創世記三章一節〜十三節
さて、神である主が造られたあらゆる野の獣のうちで、蛇が一番狡猾であった。蛇は女に言った。「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか。」女は蛇に言った。「私たちは、園にある木の実を食べてよいのです。しかし、園の中央にある木の実について、神は、『あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといないからだ。』と仰せになりました。」そこで、蛇は女に言った。「あなたがたは決して死にません。あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。それで女はその実を取って食べ、いっしょにいた夫にも与えたので、夫も食べた。このようにして、ふたりの目は開かれ、それで彼らは、自分たちが裸であることを知った。そこで、彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰のおおいを作った。そよ風の吹くころ、彼らは園を歩き回られる神である主の声を聞いた。それで人とその妻は、神である主の御声を避けて園の木の間に身を隠した。神である主は、人に呼びかけ、彼に仰せられた。「あなたは、どこにいるのか。」彼は答えた。「私は園で、あなたの声を聞きました。それで私は裸なので、恐れて、隠れました。」すると、仰せになった。「あなたが裸であるのを、だれがあなたに教えたのか。あなたは、食べてはならない、と命じておいた木から食べたのか。」人は言った。「あなたが私のそばに置かれたこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです。」そこで、神である主は女に仰せられた。「あなたは、いったいなんということをしたのか。」女は答えた。「蛇が私を惑わしたのです。それで女は食べたのです。」

 ハレルヤ!今日、御言葉を取り次ぐことができることを感謝します。昨日教会では遠足がありました。約百二十名ほどの方々と東京に行くことができた。その前日金曜日は風雨共に大荒れの天気でした。明日の遠足はどうなるのだろうか思い、お祈りしておりましたが、見事に神様は、私たちの祈りに答えてくださり、雨は一滴も降らず、風も強くなく、暖かい日で、事故もなく行くことができたました。東京ミッションが九月に行われることもあり、武道館に行って祈り、その後で二グループに分かれて楽しい時を持ちました。観光コースと散策コースに分かれてました。私は散策コースに参加しました。新宿にてお昼過ぎに解散し、四時十五分に渋谷教会の前で集合することを全員と約束しました。右も左もわからない東京なので、たぶん何人かは迷って遅れてくるだろうと思い、迷った時の対策として持っている方々の携帯電話やPHSの番号を聞き、遅れた人にはこちらから電話をするという対策をとりましたが、必要ありませんでした。四名が四時十五分より五分遅れて来ましたが、バスの出発が四時三十分となっていましたので、大したこともなく無事守られて帰って来ることができました。とても有意義な交わりの時が与えられました。
 では御言葉を学んでいきたいと思います。エペソ人への手紙六章十一節から十二節に、

『悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗闇の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。』

と書かれています。また悪魔は「吠えたける獅子のように私たちのまわりにいる」と言うような御言葉があります。私たちのクリスチャン生活は、日々霊的な戦いです。勝つか負けるかです。悪魔は私たちを何とかして神様の救いから遠ざけようと必死になって働いています。そして毎日霊的な戦い・悪魔の策略を覚えます。私たちはまず、この戦いがどこから始まったのか、起源を知るべきです。この世は神によって造られ、神によって始められました。天地創造は真の神によって創造されました。そして創世記一章三十一節には、

『そのようにして神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ。それは非常によかった。こうして夕があり、朝があった。第六日。』

と書かれています。神様はすべてのものを造られたのち、それを見て非常に良かったと満足されました。神様の傑作品がこの地上です。しかし創世記三章では、エバは蛇によってだまされ、結局、私たち人類は神の国からすべり落ち、滅びの世界に入ってしまいました。アダムとエバがこの蛇の策略に打ち勝ち、今なお神の国が続いていたのならば、どのようになっていたのだろうかと考えます。しかし、エバが罪を犯した結果、人類に罪が入り、人間は死ぬものとなりました。そして男性は汗を流して仕事をし、また、女性は産みの苦しみがあり、様々の呪いを受けてしまいました。神によって造られたエバが全人類はじめの霊的戦いをしました。これが人類の霊的戦いの起源です。エバは悪魔である蛇の誘惑に会い、負けてしまいました。悪魔が人に向かって初めて誘惑をかけてきたのです。結局神が「非常に良かった」と満足した天と地を悪魔が汚してしまいました。そして、現在でも同じ手口を使って私たちクリスチャンに、暗闇の世界に引き込みたい、クリスチャンからか永遠のいのちを奪い取って地獄に落としたいと願って悪魔どもは働いています。ですから今日どのように悪魔どもは策略を巡らせてきたのかを覚え、その策略に完全に打ち勝っていかなければならないと思います。では人類に対して悪魔どもはどんな策略を巡らせてきたのでしょうか。そしてどのようにして、その悪しき策略から打ち勝っていかなければならないでしょうか?
 第一に創世記三章一節に、

『さて、神である主が造られたあらゆる野の獣のうちで、蛇が一番狡猾であった。蛇は女に言った。「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、本当に言われたのですか。」』

と書かれています。私たちは悪魔の策略に打ち勝っていかなくてはなりません。悪魔である蛇がエバに、「神は本当に言われたのですか?」と神様が言ったことに対して疑問文に変えて質問しています。これは、御言葉を疑わせているのです。聖書は一点一画変わらないことを私たちは信じています。神様の言葉は絶対だと信じていました。しかし、蛇はエバに向かって最初の策略として、「本当なんですか。」と呼びかけています。私たちが悪魔の策略に陥らないためには、一点一画変わらない神の御言葉を信じきって行くべきです。神の言葉には偽りがないと信じ受け入れて行かなければいけません。皆さんの聖書はどのくらいの厚みがありますか。当たり前のことで創世記の一章一節から黙示録二二章二一節までの同じ聖書を持っています。しかし悪魔に「本当ですか?」と誘惑された時、御言葉を疑ってしまう人はいないでしょうか?あなたの聖書はどこにありますか?と質問された時、「聖書の六十六巻神の御言葉です」と全部差し出すことのできる事が幸いです。しかし新約聖書くらいの厚さを差し出し、あとの旧約聖書程の厚さの御言葉は信じきることができないから、前に出せないと言うような方もいるかも知れません。いやもっと極端な方は二・三枚の御言葉の用紙を差し出し、後は隠してしまう。そんな人もいるかも知れません。あなたは神の言葉である聖書をどれ程差し出すことができますか?私達は簡単に「それは六六巻全部差し出すことができます」と言ってかたずけてしまいますが、本当なのでしょうか?御言葉が私たちの本当の支えとなっているでしょうか。心の底から信じていますか?あなたの人生のマニュアルであり、辞書であり、私たちがわからない単語があった時に、辞書を引いて意味を確認するのと同じように、生活の中で私たちが困った時に、この御言葉を絶対的な言葉として読んでいるでしょうか?権威ある御言葉。神の言葉として今日受け取りましょう。しかし、私たちはなかなか聖書を読みません。何か問題が起こったとき、御言葉を読まなかったらいけないにも関わらず、私たちは今までの経験を思い起こし、経験の中で問題を対処してしまいます。しかし、御言葉は絶対です。ヨハネの福音書一章一節に、

『初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。』

という御言葉があります。御言葉こそが私たちにとって絶対的なものであり、クリスチャンの生活の中で欠かすことができないものです。私たちはもう一度このことを深く覚えていくことが必要です。悪魔は、「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、本当に言われたのですか。」と最もらしくエバに誘惑しています。その時エバは、

『女は蛇に言った。「私たちは、園にある木の実を食べてもよいのです。しかし、園の中央にある木の実について、神は、「あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ。」』

と書かれています。ここで既にエバは悪魔の策略に負けています。二章十六節から十七節に、

『神である主は、人に命じて仰せられた。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」』

と書かれています。「必ず死ぬ。」と書かれているのにも関わらず、エバの言葉は、「死ぬといけないから。」とあやふやにしています。確信がなくなっています。今日あなたの御言葉はしっかりと聖書六十六巻ありますか。御言葉を「アーメン。」とそのまま信じることができますか。「確かそうだと思いますが?・・・。」というのではなく、誰がなんと言おうと神様が私たちに与えてくださった御言葉を信じ受け入れましょう。私たちは悪魔の策略に打ち勝っていかなくてはいけません。
 第二番目にあなたは御言葉を読む時間を持っていますか?私たちはその時間が大切だとわかっていますが、私たちは聖書を読まなくなってしまいます。「忙しい」という気持ちが優先してしまい、いつの間にか仕事を優先していまい、聖書を読む時間を失ってしまっています。生活に追われ、目に見えるものだけを追い求め、目に見えない霊的な部分を後にしていることがあります。悪魔は最初に御言葉について「本当ですか?」と誘惑してきました。私たちのクリスチャン生活の中で悪魔の策略に打ち勝って行かなくてはなりません。神様が与えてくださる武具を身につけて立ち向かっていかなくてはなりません。だから、御言葉をしっかりと読んでいきたいと思います。今日この礼拝で聖書を読んだから、「今日はもう読まなくても良い・・・。」などと思わないでください。今日神様があなたに大切な御言葉を語りたいこと願っています。それを受け取ってください。御言葉を読んで下さい。神様はエデンの園でアダムとエバに語りかけ、「アダムよ。エバよ・・・。」と名前で語りかけたのと同様に、今日あなたの名前を呼びかけ、神である御言葉をあなたに教えたいと願っています。
 第三に、御言葉は絶対に付け足してはいけません。三章三節に、

『しかし、園の中央にある木の実について、神は、「あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ。」』

と書かれています。「死ぬといけないから」とあやふやに答えていること、また、創世記二章十六節、十七節に書いていない言葉をエバは言っています。それは、「触れてもいけない」と言っているのです。創世記二章十六節、十七節では、「「善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」としか書かれていません。しかしエバは、「触れてはならない。それを食べたら死ぬといけないから。」と言っています。実際に、罪から遠ざかるためには触れない方が良いのです。もっともらしい言葉です。しかし、御言葉から見ると、神が言われた言葉に付け足しています。私もこのことを読みながら、神様の御言葉を自分なりに解釈してしまいがちなところがあると思いました。「御言葉の書かれた当時はこうであるが、今の時代はこうではない。」と時代が違うことにして、最もらしく解釈してしまうことがあります。しかし、神様は時代は関係なく、一点一画変わらない御言葉を私たちに与えてくださっています。ですから、私たちは御言葉をそのままストレートに受け入れていかなくてはならなりません。何千年前の言葉でも、現在も生きて働く御言葉です。付け足したり、都合の良い言葉に変えてはなりません。
 第四にまた蛇がエバに向かって「本当に言われたのですか。」と語りかけたことは、相手に向かって不信仰を植え付けさせようとさせています。私たちも御言葉が信じられなくなってはいけません。御言葉をそのまま受け入れた時、御言葉はあなたに働き、素晴らしい祝福を与えて下さいます。あなたの信じられる御言葉は、聖書の六十六巻そのままです。誰がどのように言おうと百人のうち九十九人が「その言葉はおかしい。そんなことは絶対ない・・・」と言ったとしても、「そんなことは非科学的、幼稚だ」と言われたとしても、私たちは御言葉を権威ある御言葉として信じて行きましょう。今は御言葉の権威が失われてしまっています。アナコンディア先生が今年四月後半から五月始めの十一日間連続で全国を回って決起大会をして下さいます。私は去年アナコンディア先生が来られた時に、近くで先生の働きを見せていただきました。何故あんなにアナコンディア先生には素晴らしい祝福と力を神様が与えているのでしょうか?何故アナコンディア先生を通して素晴らしい癒しや奇蹟が現されているのでしょうか?それは、私たちと何ら変わりのない御言葉をしっかりと握っているからです。同じ人間であるけれども御言葉の権威を受け取り、権威を持って使っているからだと知りました。アナコンディア先生はサタンに向かって攻撃する時に、癒しの祈りをする時、権威を信じ、確信を持って「絶対にその通りになる」と百パーセント信じ切っています。しかし私たちが実際に祈ろうとする時に「私たちが祈っても駄目ではないか・・・」などと信じていると言いながらも不信仰を持ってしまいます。権威を失っているのです。私たちに与えられている御言葉は、飛行機で言うならば、ファーストクラスの一番高いサービスの良いチケットかも知れません。そのチケットを持っていながらも、一番安いエコノミーの所に荷物を持ったまま旅をしているようなものだと思います。新幹線でグリーン車の個室の切符を持っていながらも、自由席のギュウギュウ詰めの車輌の中で大きな荷物を背負ったまま旅をして、疲れはてている人かもわかりません。御言葉の権威を持っていないことは、そのようなところで信仰生活を送っていることになります。神様は、「すべて疲れた人、重荷を負っている人は、わたしの所に来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」と言われます。私たちは神様から与えられた御言葉の権威を持って重荷を神様に委ねていけば良いのです。神様は癒し主です。だから癒しを信じて私たちは神様に期待して癒していただけるのです。また、私たちはイエス様が十字架にかかってくださり、葬られ、三日目によみがえってくださったことをいくら頭で考えても理解することはできません。死んだ人が、甦って「天国に行ってきた」と聞いたわけでもありません。しかし、私たちはその権威を信じています。天国に行けると信じています。今日御言葉の全て、権威を信じましょう。あなたがたとえ重荷や病気を持っていたとしても、解決して下さると信じ、最高に良くして下さると信じましょう。神様の御言葉は一点一画変わりません。だから今日神の権威を信じて私たちのために十字架にかかってくだり、イエス様が永遠のいのちを与えてくださったことを、信じましょう。百パーセント御言葉を信じていきましょう。
 また第五にローマ書十章十七節、

『そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。」 』

と書かれています。悪魔は策略の中で御言葉をどうしても読ませないようにとするのと同時に御言葉を聞かせないようにもしています。悪魔は私たちを忙しさの中で御言葉が語られる集会に出席させないようにしています。礼拝・また交わりや家庭集会などの集会から離れさせるのです。今、東京リバイバルミッションのための準備をしていますが、東京の教会では立地条件や仕事上、祈祷会が持てなくなっています。集会が極端に少なくなっています。礼拝しかしていない教会があります。平日には人が集まらない。集会をやってもダメだと、集まることを止めてしまいます。私達は新城教会スケジュールを見ても、毎日集会があることが普通になっています。しかし、他の教会の方が、新城教会のスケジュールを見られたら何と忙しい教会だと言われます。毎日のように御言葉が語られていることは素晴らしい祝福です。悪魔は一緒に集まること、御言葉を聞かせないようにと策略を仕掛けます。私たちは御言葉を聞いた時、信仰が強められます。悪魔はそれを知り、私たちを御言葉から遠ざけるために集会から離すことを巡らせます。また、兄弟姉妹との交わりを持つ中で、心が豊かになり、私たちの信仰が守られていきます。しかしこのような交わりからも悪魔の策略の中で段々遠ざけられてしまいます。御言葉を私たちに読ませず、聞かないようにさせてるのが悪魔の策略です。あなたはどれだけ聖書を読まれていますか。今日聖書を手にしたのは先週の礼拝以来と言われる方はいませんか。また火曜日や水曜日の家庭集会以来ではありませんか。私たちの生活の中で絶対に手放してはならないのは御言葉です。毎日読んで下さい。一つでも多くの集会に参加して下さい。 また、第五番目に、創世記三章四節、

『「そこで蛇は女に言った。「あなたがたは決して死にません。」』

と書かれています。これは、「善悪を知る木から実を食べても、絶対に死にません。」という意味でした。蛇はエバに「絶対に死にません。」と言っています。私たちクリスチャンに対する悪魔の挑戦・策略は「大丈夫です。天国に行けます。罪を犯していても、そのまま行きなさい。神様は愛ですよ。あなたを忍耐深く待っておられますよ。祝福されていますよ・・・。」と神様の御言葉を疑わせ、「罪を犯していてもそのままで大丈夫だ」と言っています。しかし、最近私は黙示録三章で、「わたしはあなたの行ないを知っている。あなたは生きているとされているが、実は死んでいる。」という御言葉を読んだ時に、もう一度自分のクリスチャン生活を照らされました。本当に自分には愛があるだろうか。今神の前に堂々と出ることができるだろうか。神の前に出たとき、多くの罪が示されました。自分は汚れきったものでメッセージなんかできる者ではない。その時私はもう一度十字架の血潮を仰いで、「神様。私の罪を許してください。」と祈りました。十字架の血潮によって私たちはあがなわれています。また聖餐をいただく時に、「自分を吟味してその上でいただきなさい。」と書かれています。毎週私たちはこの聖餐をいただくことができます。しかし悪魔は、「お前大丈夫だよ。そのままで大丈夫だよ。悔い改めなくても大丈夫だ。罪を犯しても大丈夫だ。」と悪魔は仕掛けてきます。しかし私たちは罪に対してははっきりと「ノー」と妥協せずに言いましょう。罪に対して戦っていかなくてはなりません。 第六番目、三章五節に、
『あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」』
と書かれています。食べた後の三章七節には、
『このようにして、ふたりの目は開かれ、それで彼らは自分たちが裸であることを知った。』
と書かれています。悪魔は私たちの霊的な目が開かれることを非常に恐れています。しかし逆に罪の世界での目は開かれて欲しいです。悪魔に最初は「大丈夫だ。」と言ったにも関わらず、一度策略に引っかかり、罪を犯してしまうと裸だと気づかせて、「お前は罪人だ。もう駄目だ。」と私たちに呼びかけるのです。皆さん今日覚えて下さい。あなたの霊的な目を逆に奪い取って、神様の霊的な目を開かせていただきましょう。この教会の中でも霊的な戦いの賜物を頂き、子どもたちの中で、霊的な目が開かれたことを聞いています。「あの子どもたちはそうかも知れないが、私は目が開かれることはない」と言われるかも知れません。しかし、アダムとエバは最初から目が開かれていました。しかし、逆に目が開かれることを呼びかけられて罪を行い、肉の目が開かれて裸だとわかりました。今日その霊的な目を悪魔から奪い返す祈りをしましょう。私たちの霊的な目が開かれるように祈り求めていきましょう。私達はいつもいろんなものを見ています。昨日も東京で多くの人を見ました。始めは何も思わなかったのですが、ふと、「この人たちのために祈らなくてはならない。」と語られました。その時、今まではただの人ごみだけしか見れなかったのが、神様によって目が開かれたのです。心の中で「神様。この人たちが救われるますように。」と祈るようになりました。目が開かれる。いつも見ているものが、神様をとうして見ることができるのです。私たちは職場の人たち、親族、家族など色々な人を私たちは見ますが、私たちはどのような目で見ているのでしょうか。エバは罪を行ってしまったがゆえに肉の目が開かれて裸であったことに気がつき、恥ずかしいと思っていちじく桑の木を身に着けました。しかし、それではいけません。私たちが周囲にいる人々が滅びることを、神の目で見ましょう。霊的な目が開かれるように、祈りましょう。神の目で人を見ましょう。また霊的耳を開かせていただきましょう。悪魔は私達の耳を塞いでしまったのです。神様が夕方になるとエデンの園に来て「アダムよ。エバよ。」と呼びかけると、いつもはすぐにその声を聞いて、アダムとエバは神様のもとに来ました。しかし、エデンの園の中央にある善悪を知る木の実を食べてしまった罪の結果、「アダムよ。エバよ。」と神様が呼びかけたのにも関わらず、物陰に隠れ「私は恥ずかしい。裸ですから・・・。神様あなたの前に出ることはできません。その声に従うことができません。」というように耳を貸すことができなくなってしまいました。今日御言葉はあなたに語っています。いつも通読している場所でも、神様はあなたに示してくださいます。それを受け入れるかどうか、聞くことができるかは私たちの霊的な耳が開かれているかが問題です。聖書を毎日読んでいく中でただ私たちは聖書を読まなくてはいけないということで一章読んだ、二章読んだ・・・ということで終わっていてはいけません。「今日私に神様語ってください。御言葉を聞く耳を与えてください。」と祈って御言葉をいただきましょう。
 最後に、三章十節から十三節には、神様が裸であるということを聞いた時に神様は、「だれが裸であることを教えたか。アダム」と尋ねると、「あなたの与えたあのエバが私にこれを食べよと言ったから食べたのです。」と人に責任を擦り付けています。すると、今度はエバが「あなたが造った蛇が私に誘惑してきたから。」とまた人に責任転嫁してしまっています。私たちが今日最後に学ぶべきことは、人が言ったからとか、人がどうしたからと言うのではなく、神様はあなたを注目しています。あなたの信仰における悪魔の策略を見抜いて打ち勝っていただきたいと思います。人は関係ありません。あなたの信仰生活は、「あの人がこう言ったから・・・。」と言って私たちの信仰生活が左右させられるものではあってはいけません。神様とあなたは一対一だということを覚えてください。あなたに語っています。今日この中で、まだバプテスマを受けていない方、ぜひ心を決めてバプテスマを受けてください。また、あなたが今日罪を持っていたのならば、へりくだって悔い改めましょう。私たちは人が悪いとすぐに人を裁いてしまいがちです。私たちは素直な気持ちになって、「すみませんでした。」と悔い改めることです。また、「このように従いなさい。」と言われる時に、素直に「はい。従います。」と聞くことができることが必要です。人のことを考えないで神様が言われていることをしっかりと受け止めて生活していきましょう。

『悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗闇の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。』

  悪魔の策略を見抜きましょう。打ち勝ちましょう。御言葉は六十六巻すべてです。私たちは御言葉なしでは生きていけません。もう御言葉を手放すことがないように。聖書を開いて御言葉で生活を決めていきたいと思います。最後にお祈りします。

バックナンバー
戻る
戻る