今週の礼拝メッセージ
リバイバルの受け皿 その2 −神の国の法則−   1998.3.29(SUN)

新城教会牧師 滝元 順

<今週のメッセージの御言葉>
マタイの福音書18章1節〜5節
 そのとき、弟子たちがイエスのところに来て言った。「それでは、天の御国では、だれが一番偉いのでしょうか。」そこで、イエスは小さい子どもを呼び寄せ、彼らの真中に立たせて、言われた。「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたも悔い改めて子どものようにならない限り、決して天の御国には、はいれません。だから、この子どものように、自分を低くする者が、天の御国で一番偉い人です。また、だれでも、このような子どものひとりを、わたしの名にのゆえに受け入れる者は、わたしを受け入れるのです。」

 ハレルヤ!今日このようにして三週間ぶりに御言葉を取り次ぐことができることを心から感謝しています。皆さんのお祈りに支えられて東京ミッションの働きも前進していることを感謝します。
 今度、東京ミッションで「絶望から希望へ」というトラクトが出され、それを都内に三百万部配布しようという計画があります。このトラクトは東京ミッションのために特別に作家の三浦綾子さんが書いてくださいました。これが豊かに用いられるように祈ってください。また、読んでみてください。今日本が大変暗くなり、多くの人々が絶望感を持っていますが、イエス・キリストこそが希望であることがはっきりと皆にわかるように祈っていきたいと思います。
 私も東京ミッションの働きで忙しく毎日色々なところに行っています。三週間前にここでの礼拝が終わってから、私はハワイに行きました。ホノルルに着くと向こうは日曜日の朝八時でした。九時からの礼拝で奉仕しました。私の時間は十五分と言われていたので東京ミッションの案内の予定で行きましたら、「メッセージ 滝元順」と週報に書かれていました。その教会では、いつも礼拝メッセージは十五分だそうです。体が半分寝ているような状態でメッセージを語りましたが、神様は弱いところに働かれ、素晴らしい一時でした。その集会が終わってすぐにもう一つの教会に行き奉仕しました。結局ハワイには二日間だけ滞在し、私は「ざわめき」のレコーディングのためにも行きましたので、空港、教会、スタジオと三か所に行っただけでした。そして、日本に帰って来たらすぐに神学校での奉仕がありました。また、神学校が終わってすぐに四国に行き、先々週は高知で礼拝を守りました。また先週は沖縄に行きました。そこでは特殊な体験をしました。
 先週行った教会は、今話題になっているアメリカ軍の嘉手納基地にある兵隊たちが集まっている教会です。そこは東洋一の空軍基地です。教会に日本人は数人で、ほとんどがアメリカ人で、七割が黒人で、三割が白人です。ハワイでは日本人にしか会わなかったので、ほとんど英語を使う機会はありませんでしたが、沖縄に行ったら、迎えに来てくださった方もアメリカ人牧師で、そのまま直行で嘉手納基地内のホテルに連れて行かれ、食事に行ったレストランの前には戦闘機が並んでいて異次元でしたが、そこでも素晴らしい集会でした。三百人ほどの方が集まり、強く聖霊が働かれた集会となりました。皆さんのお祈りを心から感謝します。また続いて先週はずっと群馬県に行き、決起大会を持ちましたが、そこでも主が豊かに働いてくださったことを感謝します。
 沖縄の嘉手納基地に行った時のことですが、そこに入るには許可書を持っていなければなりませんでした。許可書を持っていないと捕まってしまうからです。その基地は米軍の中でも重要な任務があり、極東地域の安全のために働いています。そのような基地の中で私が祈っていた時に、神様が一つのことを教えてくださいました。以前、教会は基地のようなところでなければいけない、ということを学びました。聖書は、教会は敵の門前に建てられ、ハデスの門もそれに打ち勝つことはできない、と教えています。教会は、「暗闇に抵抗するために存在している」のです。私たちの教会も悪しき力に対して脅威にならなくてはなりません。また、基地からは戦闘機が色々な方向に飛んでいましたが、私たちの教会の中からも、今日は韓国や台湾などその他各地に出て行って主のために働いています。しかしまた、ここに戻ってきます。そのような役割が私たちの教会にあると思います。神様が日本のリバイバルのために私たちに役割を与えてくださっていると思います。「神様。どうか、霊的にこの基地のようになることができますように・・・。」と私は祈ってきました。その基地の中は町のようになっています。アメリカの街がそのまま移っているような所です。メインストリートはハイウェイのようで、車が多く通っています。スーパーマーケットもあり、二十四時間営業のコンビニもあります。銀行も、何もかもあります。学校だけで六箇所もあります。
 教会もそのようなところだと思います。教会の存在意義は暗闇の中から人々を救い出すために暗闇の門前に建てられ、ひとりひとりが役割を果たし、用いられていくところであると思います。

 さて今日も皆さんとともに御言葉を学んでいきます。前回私は、「リバイバルの受け皿」と題して御言葉を皆さんとともに学ばせていただきましたが、何事も前提が違うと議論がかみ合わず、いくら話し合っても交わることはありません。同じように私たちがイエス様を信じても、最初に持っている前提や価値観が違うと神様が働こうとしてもなかなか働くことができない現実があります。私たちは今日本のリバイバルを願っています。日本の人口の九十九パーセントが救われていないという中で、この民が救われて永遠のいのちを持つために働かなくてはなりません。しかし、リバイバルをいただくための前提や価値観を間違ったら、神様がリバイバルを与えようとしても、受け取ることができないのです。これは国においても、個人においても同じことが言えると思います。それで前回、聖書の中から「神の国の価値観」について学びました。
 前回の復習を致しますと、ペンテコステの日に聖霊が注がれ、素晴らしいわざが起こりましたが、結果的にそれらのことを通して使徒たちの視点が変えられたということでした。はじめ、使徒たちは「偉くなりたい」という野心があったようです。しかし、神様が最終的に彼らの視点を変えられ、彼らが最も交わりたくなかった異邦人のところに福音を伝えるようにされました。視点が変えられなければ、エルサレムだけのリバイバルでとどまり、彼らはそこで満足し、他の所には行かなかったと思います。神が聖霊を注ぎ、色々な問題を起こして視点を変え、異邦人にまで福音が伝わるように変えられました。ということは、聖霊様の一番大きな働きは、私たちが持っている価値観に触れることです。私たちはまず、神の国の価値観に変えられていくことが必要です。それがないと、なかなか聖書を読んでも理解できない部分があります。
 私たちは強いものに価値があるという前提の中に生きています。しかし、聖書はそうではありません。キリストのからだ、各器官としての位置付けがあります。私たちはキリストのからだであり、各器官です。今日ここにおられるひとりひとりはキリストのからだの各器官です。人間は強い、目立つところだけを見ますが、聖書は「弱く見えるようなところが、かえってなくてはならないもの」と教えています。教会の中にも弱く見えるところが、かえってなくてはならない場所です。
 第二に、ビジネスなどもそうですが、一円でも多く受け取ろうという、「与えるより儲ける方が幸い」という前提です。しかし、聖書はそうでなく、「受けるよりも与える方が幸いである」と教えています。
 第三には、私たちが権力を持ったら、威張って人を支配しますが、神の国ではそうでなく、「偉くなりたいと思う者は仕えるものになりなさい。また、しもべとなりなさい。」と教えています。
 またこの世の中の価値観は現実の拡大を願いますが、神は御国の拡大を願っておられるということを学びました。
 今日はその続編とも言うことができますが、前回学んだ御言葉の前に書かれている箇所から学んでいきたいと思います。先ほど皆さんとともにお読みしたマタイの福音書十八章には、

『そのとき、弟子たちがイエスのところに来て言った。「それでは、天の御国では、だれが一番偉いのでしょうか。」』

とあります。弟子たちがイエス様とともに働く中で、彼らがいつも気にしていたことは、「この中で誰が一番偉いのか」ということでした。弟子たちがこの世の価値観に支配されていたのを見ることができます。そんな時にイエス様は、

『そこで、イエスは小さい子どもを呼び寄せ、彼らの真中に立たせて、言われた。「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたも悔い改めて子どものようにならない限り、決して天の御国には、はいれません。」』

と言われました。すぐ近くにいた子どもを真ん中に立たせて、「子どものようにならなかったら、天の御国に入ることはできません。」と言われました。当時、子どもの地位は全くないに等しいものでした。当時は子どもは「つまらないもの」の代名詞だったそうです。大人もそれほどにへりくだらなかったら、神の国に入ることはできない、「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたも悔い改めて子どものようにならない限り、決して天の御国には、はいれません。」と書かれています。
 イエス・キリストを信じるためには、まず悔い改めなくてはならないのです。悔い改めるという言葉は原語で「向きを変える」という意味です。今まで持っていた視点、向きを変えなくてはならないのです。そのためには神様の前に心を開かなくてはなりません。今日初めて教会に来られた方もおられるかと思いますが、私たちが天国に入るために必要なことは、まず向きを変えなくてはならないということです。今まで神などは必要ないと思っていたかも知れませんが、そうではなく、「私には神様が必要です。」と神に向かって向きを変えていくことが必要です。
 またイエス様が、「だから、この子どものように、自分を低くする者が、天の御国で一番偉い人です。」と言われましたが、神の国の価値観では、自分を低くするものが一番偉い人だというのです。この世の価値観ではなく、神の国の価値観で生きる者たちの集団が真の教会の姿です。ということは、教会の中で偉くなりたいと思うならば、へりくだらなくてはならないということです。聖書は「互いに人を自分よりも優った者と思いなさい。」と教えています。皆さんの隣にいる人はあなたよりも優った人なのです。そのように判断しなくてはなりません。神の国では強い者ではなく、へりくだった者が偉い人です。五節には、

『また、だれでも、このような子どものひとりを、わたしの名にのゆえに受け入れる者は、わたしを受け入れるのです。』

と書かれています。子どもを受け入れることはイエス様を受け入れることと教えています。これは、うっかりと読み過ごしてしまえば何ともないような言葉ですが、これは大切な御言葉です。
 今、社会問題になっており、毎日のようにテレビや新聞をにぎわせているのが少年犯罪です。毎日のように少年が事件を起こし大変なことになっています。近頃の少年はなぜ、事件を起こすようになったのでしょうか。イエス様が言われた法則は、神を信じる者たちだけに適応されるものではありません。全世界は神の手にあるのですから、御言葉は世界に適応されるのです。従わなかったら、結果を刈り取らなくてはなりません。
 日本はこの神の御言葉からそれてしまいました。「このような子どものひとりをわたしの名のゆえに受け入れる者は、わたしを受け入れるのです。」とありますが、子どもたちをある意味において、受け入れなかった結果を刈り取っているのです。現代の風潮で、子どもが産まれるのを快楽の結果のように簡単に思っている人が大勢います。
 今朝、四元雅也・直美夫妻に男の子が産まれたことは大きな喜びです。クリスチャンは喜んで神様から与えられたプレゼントとして子ども達を受け取りますが、現代の多くの人々が、子どもを産むことを、快楽の結果のようにしか思っていないのです。そして、子どもを受け入れることよりも、自分たちのことを優先してしまい、多くの家庭が崩壊しているのが現実です。
 先日、ある新聞で教育専門家がこう語っていました。かつては家庭が子どもたちの傷の癒し場であったというのです。
 私の幼かった頃は、家に帰ったら学校で少しくらい嫌なことがあっても癒されると信じていました。お父さんお母さんは世界の誰よりも強い、と信じていたものです。誰かにいじめられて泣いて家に帰っても、両親によって癒されました。そのような時代にも色々な問題が社会にはありました。当時、日本に起こっていた問題の中心は、「不登校」という問題でした。なかなか子どもたちが学校に登校して来ない、家から出て来ないという問題でした。初めは「登校拒否」という言葉が使われていましたが、その言葉が改正され「不登校」という言葉になりました。色々な問題があっても、家にいる方がましだということでした。だから、家にいれば傷を受けることはないので学校には行かない、という子ども達が多くいました。しかし、徐々にその子どもたちが家庭では癒されなくなりました。ということは傷が癒されないまま、子どもたちが学校や社会に出るようになったのです。すると「いじめ」という問題が起こってきました。それでもまだまだ、いじめをする子どもたちは少なかったので、親たちは自分の子どもが被害に会うことを恐れました。自分の息子や娘が学校でいじめられたら困る、ということで教育相談所には「いじめられる」事に関する相談が多くありました。しかし、近頃では「いじめられる」という相談は増えていないそうです。なぜならば、今や親たちは自分の息子や娘が被害者ではなく、「加害者にならなければ良い」と心配しています。それは「キレル」という言葉に代表されるように、近頃は何でもない子どもたちが、突然凶器を振り回して人を傷つけてしまったりすることもあります。今では普通の子どもが危ないと言われます。これは根本的には日本が神から離れて、イエス様を受け入れない、子どもたちをも受け入れなかった結果でもあります。ですから、子どもを受け入れることはイエス様を受け入れることでもあるという意味をしっかり捉えていくべきです。
 ルカの福音書四章九節にはマタイの十八章と同じことが書かれています。九章四十六節から四十八節に

『さて、弟子たちの間に、自分たちの中で、だれが一番偉いかという議論が持ち上がった。しかしイエスは、彼らの心の中の考えを知っておられて、ひとりの子どもの手を取り、自分のそばに立たせ、彼らに言われた。「だれでも、このような子どもを、わたしの名のゆえに受け入れる者は、わたしを受け入れる者です。あなたがたすべての中で一番小さい者が一番偉いのです。」』

 ここでイエス様は不思議なことを語られました。あなたがたの中で「一番小さいものが一番偉いのです」と言われました。これは真ん中に立たせた子どものことを指しています。社会において一番見下げられていたような子どもが神の国では一番偉いと語られました。今日、この会衆の中で一番偉いのは牧師でも伝道者でもなく、社会的地位がある人でもなく、子どもたちです。子どもたちに大きな拍手をしてあげましょう。これが神の国の価値観です。
 しかし、なかなかそう言われても受け入れ難いことかも知れません。「あなたがたすべての中で一番小さい者が一番偉いのです。」の「偉い」という言葉のギリシャ語の意味を調べると「重要、強烈、驚くべき」とも訳すことができます。イエス様がどのような概念でこの言葉を使われたかは分かりませんが、ルカによる福音書九章の前半、即ち、このストーリーに入る前のストーリーとの関連を考えるとある程度推測できます。それは、一人の人が弟子たちの所に、悪霊につかれた子どもを連れて来て、解放の祈りを願ったことから始まります。子どもを連れて来た人も、イエス様のところでなくても弟子達で良いだろうと考え、また、弟子達も子どもならば大丈夫だろう、という気持ちで祈ったことでしょう。弟子達は、「悪霊よ。この子どもから出て行け!」と祈りました。しかし、悪霊は出て行きませんでした。彼らは困って子どもをイエス様の所に連れていきました。そして、イエス様が「悪霊よ、出て行け!」と命じたら、悪霊は出て行きました。それから、先ほどのストーリーを話されています。子どもを束縛していた悪霊は、普通の悪霊よりも強いものでした。弟子たちは多くの悪霊追い出しの経験あり、このくらいは簡単だろうと思っていたけれど、残念ながら出て行かなかったのです。
 悪魔は決して理由なしに人を束縛することはありません。悪魔は確固たる理由をもって、特にその人の持っている賜物を狙います。「こいつには素晴らしい賜物がある、それをオレのためにとってしまおう。」と奪います。悪魔は決して新しいものを創造することはできません。なぜならば、神ではないからです。ということは、神の創造物を横取りして使うしかないのです。悪魔が狙っているのはその人が持っている賜物です。一番強力な賜物を取り上げたいのです。それが、なんと子どもだったのです。
 今、青少年に関する問題が日本に多いですが、この背景にも、このような理由が関係していると思います。悪魔が真剣になって子どもたちを狙っています。だから私たちは子どもを受け入れ、子ども達が持っている賜物が神の国では大きなものであり、用いられるよう祈る必要があります。イエス様が宮を聖めたストーリーがありますが、その時に用いられたのも子どもたちでした。子どもたちが賛美していた時、暗闇の力が砕かれていきました。リバイバルもただ大人たちが頑張れば良いのではありません。神様は子どもたちにも大きなみこころを持っておられるのです。
 昨日も、教会が祝福されるように、今日の礼拝が祝福されるように、また一つ一つの部屋が聖められてその中に悪霊が入り込むことがないように、教会の子ども達がチームを作って祈っていました。嬉しかったです。このメッセージを語ろうと考えていましたので、私はすぐに子どもたちを呼んで按手して祈ってもらいました。意外なところに神様の賜物があります。家庭の中でも子どもたちの信仰がしっかりとしてくると、悪魔は入ることはできません。だから悪魔は家庭を壊して子どもたちに傷をつけ、家庭を乗っ取ろうとしています。皆さんの家庭に与えられた子どもたちは重要な存在です。また、神の国の中では子どもたちは一番偉いもの、重要なもの、強烈なものだということです。だから、子どもたちを受け入れなくてはなりません。
 日本のリバイバルのために子どもたちが用いられるのではないかと思います。この教会に聖霊が注がれた時にも、まず子どもたちの霊的な目が開かれていきました。その点からも私たちの持っている概念とは全く違う働きを見ることができます。神の国の法則は、このように私たちが一般的に持っている概念とは全く逆のことが多くあります。
 「すべての中で一番小さい者が一番偉いのです」と書かれていますが、「小さい」という言葉は、ギリシャ語では、「ミクロス」といいます。英語では「極端に小さい」という意味です。「偉大」という言葉は「メガス」です。最近「メガ」という言葉をよく使います。コンピューターでも「メガバイト」とか店でも「メガマート」などそれは「巨大」という意味です。小さいものが巨大であるというのです。これは私たちの概念と全く違います。私たちは巨大な物は巨大であり、小さい物は小さいと言います。しかし、神の国においては小さいものが大きいものなのです。人は価値評価として、小さいものをバカにします。「こんなものは対したことがない」とバカにします。しかし、神の国では小さく見えるような、吹けば飛ぶようなものが大きなものです。だから軽くあしらってはいけないというのです。ですから、子どもたちのことについても同様です。聖書は、小さいものを忠実に扱うように教えています。
 ルカの福音書十六章十節は、

『小さい事に忠実な人は、大きい事にも忠実であり、小さい事に不忠実な人は、大きい事にも不忠実です。』

と教えています。小さいことを忠実に行わなくてはならないのです。私たちの信仰生活の中で重要なことは案外小さなことです。神様は時々私たちの中に、小さな神の国の種を与えてくださいます。神の国の実現はそれを捕まえるかどうかによるのです。それを捕まえると、実は小さいようでも神の国においてはとても大きなものなのです。だから私たちの信仰生活の中で小さな神様が与えてくださる種を大切にすべきです。「神の国はからし種のようだ」とイエス様が言われました。今週も神様はあなたに小さなものを与えてくれます。それを握らなくてはならないのです。「大したことはない」と思うところに意外なものがあります。
 今日午後からは「PPS」というプログラムがあります。これは、賛美、祈り、御言葉を表します。この集会で賛美し、御言葉を読みお祈りをします。何気ないかとは思いますが、そのような小さな中に大きなものが隠されています。
 この頃、新車を買った方々は、昔の車とは違い色々な機能が付いています。皆さんの乗っている車でキーにスイッチが付いている方があると思います。先日私はある人の車を借りましたら、小さなスイッチがキーについていました。「それは何か」と尋ねました。するとそれは、ドアをロックする時に押すとドアが全部閉まると言われました。開ける時にもそれを押すと全部開くというのです。そして、キーで直接開けないようにと言われました。どうしてかと尋ねると、開けたら防犯ベルが鳴って大変なことになるそうです。私の車には付いていませんが、あのスイッチは小さいのに強烈です。スイッチを押すと全部の鍵が閉まり、また開くのです。小さなものが大きなことをします。神の国も同じことです。
 マタイの福音書十八章十八節に、

『まことに、あなたがたに告げます。何でもあなたがたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたがたが地上で解くなら、それは天においても解かれているのです。』

このスイッチは大きなものではなく、小さなものです。神様が今週も小さなアイディアを与えてくれます。このために祈りなさいとテーマを与えてくださいます。小さいと思ってもそれを押すと大きな扉が開きます。これが神の国の法則です。今週決して大きなところにではなく、小さな何でもないような部分に心を留めていきたいと思います。
 先週、私は月曜日に帰って来て県民の森祈祷会に行きました。その時神様が一つの祈りを与えてくださいました。それは、神様からある祈りを受け取るということでした。「今からお祈りしますので神様からの御声を受け取ってください。」と言いました。そして、「色々な国の名前を教えてください。」と祈りました。すると、皆にそれぞれ神様が祈るべき国名を教えてくださいました。その夜、大阪の方から中高生が来て祈祷会に参加されました。その時、その中のひとりが、「ビックリした。」と言って隣の人に「ザンビアって何?」と聞きました。その人が祈っている目の前に「ザンビア」という文字が突然出たそうです。だから驚いて隣の人に聞いたら、「それはアフリカにある国の名だ」と教えてくれたそうです。それでザンビアの為に祈ったそうです。神様がなぜ、祈るように指示を与えたのかわかりませんが、その国に何らかの必要があったので祈らせたと思います。
 そのあとで「日本のある県について祈りましょう。」と言いました。すると、その子がまた、「ビックリした。」と言って「ゴシマ列島って何?」と聞きました。すると、「それは、ゴシマ列島ではなく、五島列島だよ。」と言いました。目の前に、「五島列島」という漢字が現れたのですが、その人は正確に読めなかったのです。そのために祈りました。小さな祈りが、実は大きなことであると教えようと、主が不思議なことを現わされました。今週、皆さんの心にふっと国名が浮かぶことがあるかもしれません。祈って下さい。皆さんの祈りは小さいかも知れませんが、神様はその祈りをもってその国に偉大なことをしてくださいます。御国の働きは、このようなものです。私たちが何気なく考えているところに神は素晴らしい力と鍵をおいておられます。リバイバルに向けて、私たちが日頃持っている価値観をまず神に差し出して主からの、新しい「神の国の価値観」を受け取って歩んでいきたいと思います。お祈りします。

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