今週の礼拝メッセージ
十字架の福音を伝える   1998.4. 5(SUN)

新城教会牧師 岡本信弘

<今週のメッセージの御言葉>
新約聖書 コリント人への手紙第一 1章18節
十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。

 ハレルヤ!主の恵みを心から感謝します。皆さんのお祈りに支えられて主のご奉仕をさせていただいていることを感謝します。新しい年度を迎え、新しい学校や職場に通い始める方もおられると思います。少し前までは、東京ミッションまであと二年と思っていましたが、半年を切ってから早いもので、あと百数十日となりました。少し焦りを感じていますが、心新たにして進んでいきたいと思います。
 ミッションの働きも祝福され、三月十八日付けで東京ミッションの会場となる日本武道館の会場費三千三百万円を支払うことができたことを感謝します。当初、もしこの会場費が集まらなかったらどのようにして借り入れをしようと考えていましたが、皆さんのお祈りにより、また多くの献げ物が与えられ、すべての必要が満たされました。また、本大会に向けて二千万円ほどの準備金も与えられています。四月に入り、東京事務所が移転しました。三月二十一日の遠足の時、新しい事務所を見ていただいて祈っていただく予定でしたが、改装工事が遅れたため皆さんにお見せできず、残念に思いました。それまで十一坪程のところでしたが、今度はクリスチャンの実業家の方が安く提供してくださり、四十坪程ある所に移ることができ、本大会までの準備が続けられていきます。
 今日、東京ミッションのプログラム、ガイドブック、またポスターが皆さんの手に渡りましたが、それを見て、どこに参加するかと計画を立てていただき、さらに祈っていただきたいと思います。関西のある教会では、ホテルをたくさん押さえて東京ミッションに備えているようです。ここでも十数名の方は、聞いていますのでホテルを押さえています。東京ですので泊まる所がなくなることはありませんが、当日近くになれば電車で少し遠くに行かなくてはならなくなりますし、行くことが決まると、心も東京に向くと思うので、今からぜひ計画していただきたいと思います。さらにこちらからも様々な耳より情報を提供していきたいと願っています。
 今回のポスターを見て「大丈夫かなあ?」と思われる方と「これは良い!」と思われる方と賛否両論だと思います。私はこのデザインを初めて見た「これが日本のキリスト教会に受け入れられるだろうか・・・」と思いましたが、私の意に反してリバイバルミッションの実行委員会の先生方は「これは良い!今の時代はこれでなくては・・・」と言われました。このポスターの訴えるところは『崩壊』です。まさに今の日本の状態を表していると思います。金融破綻や中高生の問題など、様々な問題の中、日本がこれからどのようになってしまうのかと誰もが不安を感じ、またクリスチャン誰もがこの問題を解決するためには「イエス様の救いしかない!」と感じているはずです。そのような中で東京ミッションがこの年に開かれるということは、神様の摂理です。勿論、東京ミッションだけがリバイバルの働きではなく、リバイバルの一つの通過点に過ぎません。この集会を通して主の御業が現され、主の栄光が現されるように祈っていきましょう。
 皆さんにいつも祈っていただき、ミッションだけでなく、他の部署の働きも祝福されています。プレイズ出版も今、二十五名程のスタッフになり、施設も随分充実してきました。ミッションニュースにも少し載っていますが、四月の末には、私が願ってきたリバイバル情報誌を発行できるようになりました。「カイロス−神の時−」という名前で、九月までは東京リバイバルミッションの特集を組み、色々な先生方の熱い思いをお伝えする予定です。是非、祈っていただくとともに応援していただきたいと思います。この雑誌が多くの人たちに読まれ、リバイバルの働きが前進するように願っています。また、どの部署も経済的にも祝福されていることを心から感謝しています。しかし、教会は会堂が建ってから十八年になり、色々なところが老朽化してきて補修が必要となっています。教育館も五年、六年を経てこれから資金のいる時ですので、さらにすべての面で祝福され、リバイバルの御業が拡大されるように祈っていただきたいと思います。

御言葉を学びます。
『十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。』

 皆さんは甲子園前からリバイバルを祈り、奉仕し、献げて来られたと思います。しかし、その時々に私たちの願っているリバイバルは、どのようになったらリバイバルなのかを考えます。祈る度ごとに祈りの課題が与えられ、リバイバルのために祈ってきました。リバイバルは、信仰復興です。奇蹟が起きたり、癒しが起きたり色々な業が起こること、これもリバイバルのために必要なことですが、それがリバイバルではありません。魂が救われ、神様との交わりを回復することがリバイバルです。私たちの毎日の生活は、朝四時に起きる人もいれば、五時に起きる人もおり、色々な生活パターンがあります。いつも朝早く起きて私たちのために祈ってくださっている方がいることを聞いて感謝しています。私たちの一日の生活だけを見るならば、クリスチャンであってもクリスチャンでなくても何も変わらない生活です。それぞれの時間帯は違いますが、同じように毎日が動いています。しかし、私たちとクリスチャンではない方とは何が違うのでしょう。表面的に見るならば、クリスチャンは朝起きた時や食事の前にお祈りをしたり、聖書を読み、また賛美をし、日曜日に礼拝に来ることですが、もっと根本的な違いがあります。そのことを聖書は的確に表しています。ペテロ第一の手紙一章八節から九節に

『あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、ことばに尽くすことのできない、栄に満ちた喜びにおどっています。これは、信仰の結果である、たましいの救いを得ているからです。』

と書かれています。私たちはクリスチャンになったからと言って病気がなくなるわけではありません。また、クリスチャンになったからと言って突然お金持ちになるということもありません。しかし、私たちがイエス・キリストを信じたことにより、「イエス・キリストを見てはないけれど愛しており、信じており、信仰の結果である魂の救いを得ている」と書かれています。私たちは、今このような中で祝福され、喜びの中にあります。これは、私たちがイエス様を信じることにより、人生の目的を知ることができたからです。私たちが永遠のいのちをもち、天国に行くことができる望みがあることは、何にも代え難い素晴らしい祝福です。

『十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。』

「十字架の言葉・・・」私はクリスチャンの家庭に生まれたので小さい頃から十字架を見てきましたし、イエス様のことをずっと聞いてきました。しかし、多くの人が教会に来るまでは、十字架とは無関係だったと思います。ある人は、十字架がイエス様の張り付けになった死刑の道具であったということは知っていたかも知れませんが、十字架と自分とは何の関わりもないと思っていたと思います。そして今もなお、十字架と私とは何の関係もないと思っている人、また、十字架のことなど考えたこともないと思っている人が大勢いると思います。私たちクリスチャンは、イエス様によって救われたことにより、十字架の意味を知ることができました。来週四月十二日(日)はイースターです。イエス様が十字架にかかられて死んでくださり、三日目によみがえってくださったことを記念するイースター・復活祭です。クリスマスは、十二月二十五日と決まっていますが、イースターは日が定まっていませんし、毎年日にちが違います。辞書を開けば書かれていますが、イースターは春分の日以降の満月後の最初の日曜日という事になっています。いつ満月かわからなければ次のイースターはわかりませんが、三月二十二日から四月二十五日の一ヶ月の間にイースターがきます。確かに、イエス様が処女マリヤを通してクリスマスの日に生まれなければ、イースターはありませんでした。また、クリスマスは、日本にクリスチャンが〇.一パーセントを満たないと言われているにも関わらず、どこの店でもどの団体でも祝われています。「喜びのクリスマス」というイメージがあります。しかし、イースターは一般的にあまり知られていません。私たちにとって「喜びのクリスマス」であるとすれば、イースターは「恵みのイースター」と言えると思います。クリスチャンにとってみれば、クリスマスよりもある意味では、重要な時だと考えられます。私たちが罪の中から救われ、罪のない者とされ、永遠のいのちをいただくことができたのは、紛れもなく、イエス様がこの地上に人となって来てくださり、罪のない生活をし罪を持たないまま、私の罪、すべての人の罪を背負って十字架にかかって死んでくださったことがとても重要です。イエス様が十字架にかけられることは既に預言され、また新約時代にも多くの箇所で記述されています。イエス様は、自分がかけられる重い十字架をかつがされ、いばらの冠をかぶらされ、三十九のムチを打たれた後に十字架にかかられました。今は、十字架がネックレスや飾りものにされ、きれいなイメージがありますが、昔は一番残忍な処刑方法の一つでした。その十字架が、イエス様の復活により、それまでに生まれてきた人、その時に生きていた人、またこれから生まれてくる人、すべての人類の罪を取り除くものへと変えられたのです。イエス様は十字架上で血を流され、肉を裂かれ、脇腹に槍を刺され、地獄の刑罰を受けるために死んでくださいました。。そして人類の誰もが打ち破ることができなかった死の力を打ち破ってよみがえってくださいました。私たちは、もう一度イースターの意味を覚えるべきであり、イエス様の苦しみ、贖いを感謝したいと思います。
 それでは聖書は、イースターをどのように教えているのでしょうか。皆さんは、神様が与えてくださったこの恵みを感謝していると思いますが、多くの人たちは、このイースターがこんなに重要な日であるにも関わらず、見過ごしにしています。来週のイースター礼拝が過ぎればイースターの重要性に気が付かずに終わってしまいます。十字架の意味は、イエス様が十字架にかかられ三日目によみがえり、今も生きている福音です。だからこそ、サタンが最も嫌う、サタンに対して一番攻撃できる武器です。この事を私たちクリスチャンは疑いなく信じています。コリント第一の手紙一五章一七節から一九節に、

『もし、キリストがよみがえらなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがは今もなお、自分の罪の中にいるのです。そうだったら、キリストにあって眠った者たちは、滅んでしまったのです。もし、私たちがこの世にあってキリストに単なる望みを置いているだけなら、私たちは、すべての人の中で一番哀れな者です。』

と書かれています。もしこの言葉のようであったら、牧師が一番愚かだと思われます。しかし、私たちは、この御言葉を信じ切って毎日の生活をしています。イエス・キリストがクリスマスに誕生したことは、歴史上の事実ですし三十三年生き、十字架にかかられたことも認めています。しかし、イエス様が十字架に死んだだけではなく三日目によみがえられたこの事実をも皆が知るべきです。ある人たちは、弟子たちがイエス様の遺体をそっと盗んでどこかに葬ったのではないかと言いいます。。しかし、イエス様が死の力を打ち破り、よみがえってくださったことが真実です。

『もし、私たちがこの世にあってキリストに単なる望みを置いているだけなら、私たちは、すべての人の中で一番哀れな者です。』

と書かれています。イエス様は神か、それとも気がふれたかと言われるくらいに十字架の言葉は衝撃的でした。イエス様の十字架の死にざま、そこから死の力を打ち破ってよみがえってくださったことは神の力です。しかし最初に読んだ御言葉をイエス様を知らない人たちが読んだのならば、何という意味なのかと思うに違いありません。「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。」これは、私たちがイエス様を信じた者であるからこそわかります。色々な重要なことを多くの人が見過ごしています。今の時代にあって何が重要であるか人それぞれ違いますが、私たちにとって何が一番重要なのかという優先順位が、救いを受けた時に、全く優先順変わりました。
 一般の方に「何が一番あなたにとって重要ですか?」と尋ねると「いのち」と答える方が多いようです。聖書の中にも「たとい全世界を得ても真のいのちを損じたら何になろうか」と書かれています。もし、肉体の終わりだけであったら息を引き取った時、それで終わりだと思えば良いのですが、そうではありません。聖書の中に「人間は一度死ぬことと、死後さばきがあることが定まっている。」と書かれているように、私たちが死んでどうなるかが問題です。多くの人が今、「自分さえ良ければ良い。自分だけが幸せだったら良い」と思って生活しています。皆さんもクリスチャンになる前は、そうだったと思います。自分だけとは言いませんが、最優先は自分です。自分が幸せになるためにはどうするか。自分があり、家族があり、友人がある。そして困った時の神頼み・・・これが人間の一般的な考え方です。私たちが本当の意味において神様を知らなかった時「神様を信じています」と言いながら、自分が幸せな時は良いけれども困った時だけ神様を引っぱり出し、自分の幸せのために神を利用する。そのような人が多くいます。政治、教育、社会問題になっていること全てが、自分を中心に考えるからこそ問題が起きています。しかし私たちクリスチャンは、イエス様を信じていることによって全く百八十度変えられました。神様を第一にした生活「神の国と神の義を第一に求めなさい。そうすればすべてのものが与えられる」神様を知らない時は、この御言葉を聞いても「そのようなことがあるはずがない」と思っていましたが、イエス様を信じることにより、神の国を第一に求めたらすべてのものが与えられること、すべてのものが導かれるということを体験しています。また、聖書の中に最も需要な御言葉として「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くしてあなたの神である主を愛せよ。」と書かれています。また、第二番目に「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」と書かれています。今の私たちは、神が第一、第二に人であり、第三が自分があるという生活に変られました。私たちに今ある使命は、イエス様の十字架の福音を神第一の生活の中で、人に伝えていくことです。神様は、私たちに命令を与えてくださいました。「神様の命令は、私たちに重荷とはなりません。」と書かれていますが、重荷になっている方が多いんではないでしょうか。私たちは救われて永遠のいのちをいただき、いつ死んでも天国に行くことができるという恵みの中で喜びの生活をしています。しかし家族、友人、近所の方々は、ほとんどが今も滅びに向かっていることを思う時に、何とか伝道しなくてはならないと思っているはずです。しかし、一方では伝道したくてもできない。なかなか教会に来てくれないし、そのことをわかってくれない。教会に来ても何度か来たけれど離れてしまったという多くの人を見ています。「伝道しましょう」と言っても「私は言葉の人ではなく、口べたですから。質問されても何も答えられないですから」と言ってなかなか一歩踏み出して伝道することができません。しかし、それは皆さんの勉強不足ではありません。私たちが人々に語る時、伝道する時に神様が皆さんに力を与えてくださいます。しかしなぜ語れないのか。私たちが語ろうとする時、うまく語れなかった、まだまだ勉強が足りない、もっともっと勉強をしてあの人が質問してきた時に答えられるようにならなくては・・・と思います。サタンが必死になって働いているからです。エホバの証人は、相手がこういうふうに質問してくるから、こう答えなさいとマニアルで訓練されています。ですから、皆さんが話したらたぶん太刀打ちできないのではないかと思うくらい学んでいます。それは悲しいことに、間違った教えについてなのですけれど。彼らは、サタンに導かれて語っています。ある意味で、熱心にやっていることは素晴らしいと言えます。以前エホバの証人が私の家に来た時、私が一人で家にいたので話を聞きました。そして私は、「そんな間違った教えについてこの付近で話してもらっては困る」と言いました。すると彼らは、「私たちはこの事を信じているのですよ」と言われました。「私は牧師ですので、あなたたちが間違っていることを教えてあげるから、上がりなさい」と言うと「あ、いいです。結構です」と脅え、焦っている様子でした。私たちが、福音を語る時にサタンも妨害を加えることを覚えてください。皆さんが恥ずかしかったり、口べたであったりすることもあるかも知れませんが、それと同時にサタンが必死になって「あなたにはその賜物がない。あなたは語ることが下手だからやめた方が良い・・・。誰かがやってくれるからあなたがやらなくても大丈夫だ」と語りかけ、皆さんも変に納得してしまいます。サタンは「そうだ、やっぱり自分が語るべきではない」と思わせます。そのようなものすべてをサタンが皆さんに語っていることを覚えてください。特に、十字架の福音を語る時が一番問題です。「教会に来てください。」と友だちを誘うことや世間話をすることは簡単です。しかし、そこから一歩入ってイエス様の十字架の福音を語るところまで行くまでには大きな淵があります。そこを飛び越える事ができるかどうかです。それは、私たちが聖霊の力に満たされていくことと同時にサタンの囁き、惑わしがあることを知り、祈りつつ神様の助けをいただくことが必要です。サタンをそこから退けて、策略を見破って私たちが伝道する時に神様は、私たちに語る言葉をその時々に与えてくださいます。勿論、私たちは、聖書を読んだり勉強することも必要です。何にも知らないのに語ることはできません。しかし、皆さん一人一人には生きた証しがあり、自分が救われた証しがあります。私たちは、何も知らないで信仰を持った者はいません。私たちのためにイエス様が十字架にかかられて死んでくださり、三日目によみがえってくださり、私の罪を全部背負ってくださり、私たちは、それを信じるだけで義と認められ、信じるだけで永遠の国天国に入ることができると確信を持っているからこそ、今イエス様を信じています。私たちにとって御言葉は重要なものであり、御言葉は私たちの力です。しかし、私たちが言葉上で御言葉を羅列するだけではなく、私たちが神様によって導かれた証をしていくべきです。私たちが十字架の福音の御言葉を語る時にこそ、神様が私たちと共に働いてくださいます。
 聖書の中に「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」と書かれています。皆さんがそれを信じ、ずっと祈り続けてきたと思います。ある人は「私は、もう十年、いや二十年、三十年・・・と祈ってきたけれどまだ家族が救われていない。私の信仰が足りないのでしょうか」と言われるかも知れません。しかし、神様がこの御言葉を与えてくださった以上必ず救ってくださいます。ですから、皆さんこれからも信仰を持って進んでいただきたいと思います。私は幸いにもクリスチャンホームに生まれて、家族の中にクリスチャンではなかった人はいなかったので、家族に対して伝道する必要はありませんでした。私の家族の中で、一番最後に救われたのが私のおじいさんでした。おじいさんは、皆が教会に行っていながらも一人頑固として教会に行かず、仏壇を拝んでいました。私は「このおじいさんだけは絶対に救われないだろう。仕方がない。イエス様は信じる人も信じない人も造られたのだから・・・」と自分で決めていました。しかし、神様はその中に働いてくださり、滝元先生が何度か伝道してくださって、病床で十字架の福音が語られて、おじいさんはイエス様を信じました。この会堂ができた当初、孫を連れて教会に何回か来たことを今でも思い出します。このことを思う時、神様は必ず救いを与えてくださると信仰がもてます。
 また、必ず皆さんに伝道するチャンスを与えてくださいます。学校に行く時、会社に行く時、家にいる時にも、どこかで福音を語るチャンスがあります。その中で神様は必ず導いてくださいますので、信仰を持って出て行ってください。私たちが恐れずに大胆に十字架の福音を語る時に神様が栄光を現してくださいます。「神が私たちに与えてくださったのは、憶病の霊ではなく、力と愛と慎みとの霊です。」と聖書に書かれています。またパウロは「私たちがどうしてもしなくてはならないこと、福音の伝達は、私たちに委ねられている。もし私がこの福音を伝えなかったら、私はわざわいに遭います。そして私たちがもし強いられたとしても私たちにはこの務めが委ねられている。」と語られているように、私たちも福音を伝えるべきです。私たちは弱く、足らない者です。私たちの人間の理解や考えの中で「この人にこう言っても駄目だろう。無理だろう・・・」と考え、色々な策略を考えます。しかし福音宣教・十字架のことばを語るには、人間的な策略ではなく、神様がどのように導いてくださるのかを信じていただきたいと思います。
 東京に住んでいた家内のおばあさんは(二度ほど教会にも来てくれたことがありましたが)クリスチャンではなかったので、何度かイエス様の話をしたことがありました。ある時「あなたに言わなかったけれど、七十年前に私はミッションスクールに通い、毎日聖書を読んでいたんだよ。女学生時代には、教会に歌を習いに行ったこともあるんだよ」というのです。そのことをきっかけに、二時間ほど話しをしましたが、その時神様が働かれ、おばあさんはイエス様を信じられました。その後、おばあさんは病気になり、家内の両親が住んでいる豊川で亡くなり、私が葬式をしましたが、安らかに天に召されて行きました。その時私は、神様の時があると感じさせられました。
 一番皆さんの身近の人たちが、神様を知らないままでは滅んでしまうことを覚えてください。これから私たちは、神様からさらに力をいただき、福音を伝えていくべきです。特に来週は、イースターでゴスペルブランチがあります。是非この機会に皆さんの家族や親族のまだ救われていない人をお誘いください。そして十字架の愛に触れられ、救われるように祈っていきましょう。イエス様の福音を知らない人たちにとっては、十字架のことばは愚かですが、私たちにとっては神の力であり、この十字架の力によって私たちに今喜びがあり、祝福があります。さらにこの喜びを一人でも多くの人に伝えていきたいと思います。一言お祈りします。

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