今週の礼拝メッセージ
暗闇から光へ   1998.4.19(SUN)

新城教会牧師 滝元 順

<今週のメッセージの御言葉>
使徒の働き26章17節〜18節
 わたしは、この民と異邦人との中からあなたを救い出し、彼らのところに遣わす。それは彼らの目を開いて、暗やみから光りに、サタンの支配から神に立ち返らせ、わたしを信じる信仰によって、彼らに罪の赦しを得させ、聖なるものとされた人々の中にあって御国を受け継がせるためである。

 ハレルヤ!ひと月ぶりに新城教会に帰ってメッセージを取り次ぐことができ心から感謝します。一ヶ月間どこに行っていたのだろうか、と思うほど、色々な場所で東京リバイバルミッションゆえに、私のようなものを使っていただき感謝です。また、皆さんの祈りなしには働くことができません。毎日のとりなしの祈りの大切さをひしひしと感じています。これは、何か私がうまいことを言っているのではなく、皆さんが祈ってくださる時に、メッセージや祈りに大きな力を受けます。私たちは、リバイバルの働きを一つとなって進めていきたいと願っています。
 さて、今日は「暗闇から光りへ」と言うタイトルで学んでいきます。使徒の働き二十六章十七節十八節に、

『わたしは、この民と異邦人との中からあなたを救い出し、彼らのところに遣わす。それは彼らの目を開いて、暗やみから光りに、サタンの支配から神に立ち返らせ、わたしを信じる信仰によって、彼らに罪の赦しを得させ、聖なるものとされた人々の中にあって御国を受け継がせるためである。』

とあります。この箇所はパウロに与えられた使命です。同時に、それは私たちの「救い」についての教えでもあります。私たちが救われることは、「暗闇から光りへ、サタンの支配から神に立ち返えること」です。それを、他の訳し方をすると、「サタンの支配から神に取り返す」という意味です。私たちはイエス様を何気なく感じていますが、それは「支配権が変わった」ことなのです。
 先週はイースターでした。この教会のイースターに出席したいと願っていましたが、先週は滋賀県でイースター礼拝を持ちました。そこでも祝福された時でした。イースターとはイエス様が死の力、サタンの力を滅ぼしてくださった証明の日です。「救い」という言葉を何気なく私たちは使っていますが、ギリシア語の言葉においても、ヘブル語の言葉においても中心的な意味は「解放」です。今まで日本の教会では救いとは、単に魂の安らぎや、究極的な永遠のいのちだけが強調されていました。しかし、意味はもっと広く、それは全人的な救いであり、敵からの救いを現します。根本的には、サタンの手から神の支配に移されるという、素晴らしい事実なのです。今日ここにおられる方々は、神様の支配、神の子どもとされているということです。これは気が付いていても気が付かなくても事実です。ですから、私たちがイエス・キリストを信じるということは、ひとつの宗教に入って、教えを守っていくということではありません。
 私は気がついたら牧師の息子として生まれていました。両親は田舎で伝道を始めましたので、とりあえず産んで増やそうかということで、私は八人兄弟です。しばらくしたらお隣の見城さんが救われ、そこは十二人子どもが生まれ、また岡本さんが救われ、五人の子どもが産まれ、伊藤さんが六人子ども産んで下さり、たったの四軒で三十数人の日本の平均的な教会ができてしまいました。生物学的成長も大きく教会成長に貢献するところです。兄弟が多いことも、今になってはそれが大きな戦力となっています。献身者はだいたいそこから出ています。私は昔、世間はだいたい、兄弟が多いのが普通だと思っていました。近くに豚小屋があり、豚は一度に何匹も子どもを産むので、人間もそうだと思っていました。しかし、四月に学校に入学して驚きました。家族調査票をもらって自分の家族を全部書くマスがなく、「私は普通ではない」とはじめて知りました。私は、「牧師には絶対になるものではない」と思っていました。私の両親を見ていて、牧師の仕事は自分の家族のことよりも、外のために頑張ります。家の中に難民のような子どもが溢れているのにも関わらず、外のために一生懸命働きます。大変なところに生まれたと思いました。しかし、そのような中で私はイエス様が本当の神様であることがわかりました。私はある意味で、教会を内側からも外側からも、上からも下からも見たような者です。それでもなおかつ、イエス様が救い主だと信じ、牧師にまでなっていることを見たら、「イエス様は本物の神だ」と信じるべきです。イエス・キリストを信じることは宗教ではありません。本物の神様がおられるのならば信じるのは人間の本分だと思います。自分の両親がいるのを、両親だと認めて「宗教に入った」とは言わないのと同じように、神様が実在するのを信じるのは宗教ではありません。これは人間の本分です。イエス様を信じることができたのは、素晴らしいことです。日本のクリスチャンは少ないのにも関わらず、そのような中でイエス様を信じられたことは素晴らしいことです。そして、この素晴らしいこの福音を伝えて行くべきです。イエス様こそが救い主・解放者であることを伝えるべきです。イエス様こそ、暗闇から光りに、サタンの支配から神の支配に移してくださる唯一の方です。
 今週の土曜日からアルゼンチンのリバイバリスト、カルロス・アナコンディア先生が日本に再来日されます。去年九月にも来られ、大変素晴らしい集会を持ってくださいました。今回は十一日間の集会を持ってくださいます。私も同行しますのでぜひ祈ってください。日本のリバイバルのために行いますので祈ってください。アルゼンチンに今、リバイバルが起こっていますが、リバイバルとは何であるのかについて彼らは気がつきました。それは何でしょうか。それは人々の支配権が変わることです。
 人は二種類の人しか存在しません。それは、「神に支配される人」か、「悪霊に支配される人」のどちらかです。人間はどこかで支配されながら生きているのです。自分で生きているようですが、神に支配されているか、または、悪魔に支配されているかのどちらかなのです。
 日本人の世界観の中で、悪魔や悪霊をどのような感覚で理解しているでしょうか。悪魔?嫌だ、あまり関わりたくない、と思います。「悪魔か悪霊のイメージを描いてください」と紙と鉛筆を渡したら、多分、多くの方がアニメの「ゲゲゲの鬼太郎」に出てくるような、ネズミ男や塗り壁などという、妖怪の絵を描かれると思います。ある人は、想像力を働かせて、それよりもっとこわいものを描かれるかも知れません。しかし、そのような概念は間違っています。よく、「狐の霊」だとか、「狸の霊だ」とか言われる人がいますが、そのように考える時、既に我々は霊的戦いに負けているのです。なぜならば、悪魔・悪霊は聖書によると、元天使なのです。それも堕落した天使です。悪魔悪霊は人間よりも高い知能と知識を持った高等生物なのです。ということは、人間をはるかに越えた存在なのです。だから、あんなゲゲゲの鬼太郎に出てくるような、ネズミ男のようなドジばかりやっている存在とは違うのです。悪魔は始めから罪を犯している罪の専門家なのです。人間を堕落させる人類の敵なのです。だから悪魔を家の中を荒し回る、ネズミやゴキブリのような存在と同一に考えてはいけません。人間を支配するおそろしい存在なのです。そのようなものに支配されてはいけません。真の神に支配されなくてはなりません。
 神と呼ぶことができるお方はただ一人です。神と呼ぶことができるとしたら、どのような存在なのでしょう。私たちは一瞬しか生きられません。次の瞬間何が起こるかわからない存在だからです。
 先週私は、兵庫県にある神学校で二日間奉仕させていただきましたが、それは関西学院大学のすぐ下にありました。阪神大震災の時、付近の関西学院学生寮がたくさんつぶれて、大勢の若い方が亡くなったそうです。人間には、次の瞬間、何が起こるのか全く予知することができません。計画は立てますが、その計画は未定であり、次の瞬間何が起こるのかわかりません。
 しかし、神と呼べる方は、過去も現在も未来も、全て現在形で持っておられるはずです。過去は取り戻すことができませんが、神は過去も現在形で持っておられます。また、未来も現在形で持っておられなかったら、神と呼ぶことはできません。神様は過去も現在も未来も現在形でもっておられるお方です。その方に支配していただくのですから、素晴らしいことです。イエス・キリストを信じるということは、過去、現在、未来を現在形で持っておられる方に人生を支配していただくことです。ということは、私たちの過去も回復され、現在も祝福され、未来も保証されるのです。
 しかし、悪魔の支配とはどのようなものでしょうか。ヘブル人への手紙二章十四節に、

『そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。』

と書かれています。悪魔の支配とは、神の支配が「いのちの支配」であるのと反対に、「死の支配」です。悪魔の支配があると、やがて死を迎えなくてはならないのです。
 死は誰もがやがて迎えます。百年後に生きている可能性がある人は、この中では今日、献児式を行う四元聖徒くんくらいだと思います。百年経ったらこの場にいる全員がこの世から出ているでしょう。しかし、聖書に書かれている本当の死とは、肉体の死だけではなく、「永遠の滅び」です。人が捨てられる、「ゲヘナ」というところが用意されているのです。悪魔の支配は暗闇の支配であり、悪魔はその暗闇に何とかして多くの人を連れて行こうとしているのです。イエス様はその中から、私たちを救ってくださるのです。これはすごいことです。もしあなたが、イエス様を信じていないとしたら、イエス様をぜひ信じてください。イエス・キリストを信じるならば、死からいのちに、暗闇から光りに、サタンの支配から神の支配に変えられるのです。
 元々人間は神によって目的を持って創造されました。それにもかかわらず、人類が悪魔の支配の中に入っているとしたら、どこかで悪魔が入り込んで来たということです。聖書には、人類に悪魔が入り込んで来た歴史が書かれています。それは、始めの人間アダムとエバが罪を犯したことに始まり、人類に死の力が入ったのです。悪魔が人類に入り込む唯一の方法は罪です。教会では罪についての話しをします。「罪を悔い改めて聖くなりましょう」とよく語ります。それは、道徳的に高められるためではなく、罪が唯一、悪魔の人生への進入路だからです。今日、私たちは悪魔の進入路を断たなくてはなりません。イエス様を信じないならば、人間よりもはるかに力を持った霊的存在である悪魔の支配を受けるのです。これは「とりつかれる」というように理解してはいけません。それは、「支配される」ということです。
 昨日、カンボジアの元支配者、ポル・ポトが亡くなったと報道されましたが、あの独裁者によって大勢の人が死に追いやられました。しかし、あのような独裁者の下にいなくても、私たちが神から離れているのならば、最終的には滅びがもたらされます。あなたに死の恐怖があるとしたら、それは、「神を信じないで生命が終わると、今度は本物の死が訪れるので注意しなさい」「本当の神を求めなさい」という、神の忠告でもあります。イエス様を信じて支配を変えていただくことが必要です。同時に、主を信じていても、もしも悔い改められていない罪があるならば、悪魔の支配は受けませんが、「悪魔からの影響」は受けます。
 何年か前に、成田空港内の土地が買い取られて整備されたと報道されました。その土地は、反対派の人々が所有していた土地でした。広い成田空港の中にも、空港建設反対派の人たちが少しだけ、土地の所有権を持っていました。だから大きな飛行機が降りてきても、そこを無断で通過することはできず不便でした。しかし、それが取り除かれたので、今は飛行機が通れるようになったのです。
 私たちクリスチャンは、イエス様によって救われ支配権は主の手に移っていますが、悔い改められていない罪があるとすれば、悪魔はその部分を通して、何らかの影響を及ぼすことができるのです。反対派の所有する土地において成田空港が飛行機の運航に影響を受けていたのと同じです。
 今から私は三つのことを話しますが、もしも一つでも該当したならば、取り除いていただき、悪魔の影響を受けないクリスチャンになっていただきたいと思います。同時に、まだイエス様を信じておられないならば、罪を台座に悪魔はあなたを支配し、やがては死に至らせるのです。イエス様によって、その支配権を変えていただきましょう。
 人間は三つの領域からできていると聖書は教えています。第一テサロニケ五章二十三節に、

『平和の神ご自身が、あなたがたを全く聖なるものとしてくださいますように。主イエス・キリストの来臨のとき、責められるところのないように、あなたがたの霊、たましい、からだが完全に守られますように。』

と書かれています。私たちは、「霊」「肉」「魂」の三領域からできています。私たちは目に見える肉体しか見ていませんが、実は、人間とはもっと領域の広い存在です。そして悪魔は、霊か魂か肉体のどこかに、足がかりを捜しています。そこから、クリスチャンには悪影響を、イエス様を信じていない人には支配を及ぼし、暗闇に引き込み、永遠の滅びに向かわせようとするのです。この進入路を断たなくてはいつまでも解放されず、いつまで経っても悪い影響を受け続けます。
 まず第一に、人の霊の領域に悪魔が入り込む要因は、「偶像礼拝」「占い」「オカルト」などの罪です。偶像礼拝は恐ろしいものです。神ならぬ神々を拝む、人間が勝手に神を作って拝むことは一番大きな罪です。今日もしも、偶像を拝んでいる人がいたら、これは聖書に書かれている事であり、永遠に関わる問題なのではっきり言いますが、「悪魔の支配が偶像礼拝を通してあなたに及んでいる」のです。人間は、「霊、魂、肉体」で一つですから、その中の一箇所捕まれたら、その人自身が支配されていることになります。そのまま、滅びに連れて行かれるのです。偶像礼拝の罪から離れなくてはなりません。
 ある人は、「私は神様を信じています。私が拝んでいるのは偶像ではありません。本物の神です。祈りを聞いてくれます。」と言われるかも知れません。しかし、本物か偽物かを見分けなくてはなりません。
 沖縄には「ユタ」と呼ばれる占い師がたくさんいます。多くの人が人生の節目にユタの所に行きます。「これからどのようにすれば良いか聞いてください。」と尋ねます。すると、ユタが先祖の霊に祈り、「神はこう言われています。あなたは昔、先祖を粗末にしたことがあるから、行って先祖を拝んできなさい。そうすれば問題が解決します。」と多くの場合言われます。相談者はそれを実行します。そうすると不思議に、身の回りの問題が解決します。それで、「やはり神様がおられる」と信じます。しかし、しばらくすると、以前解決した問題よりもうちょっと、大きな問題が起きます。それで、驚いてユタの所に再度行きます。「また問題が起こりました。」と言います。するとユタは、「あなたは祖先を祭ることをその後、やめてしまったでしょう。それで祖先が怒っています。だから問題が起こったのです。もう一度、拝んできなさい。そして、これだけの寄付をしなさい」と言われます。「そうですか。それでは」とユタの言うことに従うのです。するとまた問題が解決します。「神様ありがとうございます。」と言います。しかし、またしばらくすると、それよりももっと大きな問題が起こるのです。
 これは明らかに神からではなく、サタンからの支配です。もし、皆さんの中に、「私は神を信じています」と言っても、そのようなことが身の回りに起こっていたとしたら、それは本当の神ではありません。本当の神は私たちに祝福を与えてくださる方で、見返りを要求されるような方ではありません。呪いを解いてくださる方です。偶像礼拝やオカルト、占いの罪は、霊の領域をしっかりと束縛するものです。今日はその罪を悔い改めて、神の支配に入るよう、祈りたいと思います。
 同時に、クリスチャンの方々は、「私は偶像礼拝の罪をすでに悔い改めました」と言われるかも知れません。しかし、出エジプト記二十三章三十二節には、

『あなたは、彼らや、彼らの神々と契約を結んではならない。』

と書かれています。ある神社に何気なく頭を下げますが、それは、その神社を支配している悪霊との契約行為なのです。ということは「偶像礼拝の罪を赦してください。」と悔い改めるだけでは不十分なのです。まだ悪霊との契約書が残っているからです。この契約書は自分が悪霊と結んだものなので、自分で解かなくてはなりません。「イエス様の血潮の契約により、悪霊との契約書を無効にします。」と祈らなくてはなりません。これは悔い改めの大切な要素です。偶像を複数拝んだことがあったら、それを全て細かくリストアップして、神に悔い改めて祈るのと同時に、各々の契約書を破棄しなくてはなりません。契約が残っていると契約を通してあなたは悪霊の影響を受け続けるのです。特に、日本では、家全体が悪魔にささげられています。既に家系自体に悪霊との契約があります。私たちは、その契約を打ち破り、家系を取り返さなくてはなりません。「イエス様の名によって、悪霊との契約を砕き、私の家はイエス様に仕えます。」と祈るべきです。
 第二に、魂の領域での悪魔の侵入口は、エペソの四章二十六節二十七節、

『怒っても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません。悪魔に機会を与えないようにしなさい。』

 魂の領域で束縛しようと悪魔が狙っているのは「憎しみ」を通してです。「誰かを赦せない」というのは、必ず正当な理由があります。「あの人は私に、こういうことをしたのだから、私があの人を赦せないのは当然のことだ」と正当化します。もし今、誰か赦せない人がいるとしたら、あなたはその人から何らかの被害を受けているはずです。
 怒りという性質は神が人のために備えたものです。怒るという性格を持ち合わせていなかったら、人間の生活はメリハリがありません。何を言われても、何をやられても笑っていて、気持ちの悪いものです。しかし、毎日色々な出来事で頭に来ることがあっても、「日が暮れるまで憤っていてはいけない」ということです。生鮮食料品は夜になると少し色が変わり、一晩経つと腐るように、怒りも同様に、次の日になると腐ってきて、これが「憎しみ」に変わります。腐ると蝿がたかるのと同じように、悪魔が進入します。私たちは憎しみから解放されなくてはいけません。憎しみは魂の問題でもありますが、最終的には「霊的問題」となり、憎しみ自体に束縛され苦しめられるのです。しかし、これはイエス様の十字架によって取り除くことができます。今日、もしも、赦すことができない人がいたら、イエス様が私たちを赦してくださった事実を考えるべきです。イエス様が私たちのためにどんな犠牲を払われ、罪を赦されたのか。だから、「イエス様が私を赦してくださったように、私もあの人の罪を赦します。」とイエス様のゆえに赦すことが第一歩として大切です。そうすると、だんだん心が解かれます。私たちの中に憎しみを一つも入れることがないようにしましょう。これは、悪魔の影響が強く現われるところですので、砕いていただきましょう。
 第三に、肉体を狙っている悪魔の影響力、支配力は、第一コリント六章十八節に、

『不品行は避けなさい。人の犯す罪はすべて、からだの外のものです。しかし、不品行を行なう者は、自分のからだに対して罪を犯すのです。』

と記されているように、「不品行と姦淫」の罪です。今の時代は汚れており、結婚前に性的関係を持つことが普通であったり、何人ともそのような関係を持ったり、また、結婚しても不倫をしたりしていますが、それは恐ろしい罪です。これは内側に入ってくる罪であり、これが、人生への大きな、大きな、悪魔の進入路になるのです。世の中が、どんなに不品行を強調したとしても、教会はその罪と戦うべきです。また、クリスチャンはこの罪に絶対に毒されてはいけません。どんなに汚らしい世になっても、私たちはきよくあるべきです。今日私たちはそのような罪に決して負けることがないように、神から助けをいただくべきです。今、テレビや雑誌は汚れた罪を強調するようなものばかりです。これに目を向けてはいけません。そのような影響は目や耳から入ってきます。私たちの五感を通してです。だから見るものを注意しなくてはなりません。テレビでも汚れたテレビをじっと見ていると、悪魔に侵入されます。雑誌でも捕らえられたら侵入され、クリスチャンでも大きな影響を受けます。多くの人たちが、性欲に支配されています。それでこの世の中には多くの問題があるのです。この罪に対して、私たちは厳しくあるべきです。若い方々は決してその誘惑に負けないでください。これは今、若い人たちだけの問題ではありません。悪魔は、この方法を真剣に使っています。日本だけではなく、世界中で使っています。この罪は、私たちの内側に入り、肉体と魂、最後には霊まで刺し通し、やがて私たちを滅ぼしてしまうものです。もしもそのような罪があったとしたら、きよめ赦していただくべきです。
 クリスチャンは、すでにそれらの罪について悔い改められたと思います。しかし、このような罪は後から何となく責められるものです。「お前は、あのけがれた罪について、悔い改めたかも知れないけど、本気でお前は悔い改めたのか。」という責めが心に来ます。それで、「私は本当に悔い改めたのだろうか。」と考えます。また悪魔は、「お前は、悔い改めの時に涙を流したか。お前の隣で悔い改めていた人は涙を流していたぞ。」「いや、少しは涙が出たと思うけれど・・・」すると悪魔は、「あの時、鼻水は出たか?鼻水は出ていなかったではないか。お前の隣で悔い改めていた人は、涙と鼻水でぐちゃぐちゃだったぞ。あれは本物の悔い改めだ。しかし、お前はどうだ。涙が一滴くらい出ただけではないか。鼻水も出ていないようではまだ赦されてはいないぞ・・・・」と責められるのです。
 もしも皆さんの中で、罪を悔い改めたけれどまだスッキリしないという人は、何が悪いのでしょうか。悔い改め方が足らないのでしょうか。聖書は、「罪を言い表すならば、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦しすべての罪から私たちをきよめてくださる。」と約束されていますので、主の前に告白した罪は赦されているはずです。それでもスッキリしないとすれば、どこかにまだ、責められる原因が残っているということです。悪魔は理由無しに、私たちに影響をもたらすことはできません。ということは、何かの理由があるということです。その原因とは何でしょうか。それは、「不品行や姦淫」は「結婚制度」という「契約」と関係があるからです。実際、旧約聖書のエレミヤ書三章には偶像礼拝と姦淫の罪を同レベルで扱っています。なぜならば、偶像礼拝と不品行、姦淫の罪は、神様の前に道徳的な罪以上に、「契約的な罪」であるからです。マルコの福音書十章に結婚式の時に読む教えがあります。七節から九節に、

『それゆえ、人はその父と母を離れて、ふたりの者が一心同体になるのです。それで、もはやふたりではなく、ひとりなのです。こういうわけで、人は、神が結び合わせたものを引き離してはなりません。』

と書かれています。結婚というのは「ふたりではなく」、「ひとり」だと言うのです。結婚とは大きな奥義であり、神の目から見ると、ふたりではなく「ひとり」なのです。別々の霊ではなく、ひとつの霊です。別々の魂ではなく、ひとつの魂、そして、ひとつのからだです。神様の目にはそのように映ります。だから聖書は、奥さんがクリスチャンで、主人がクリスチャンではない場合も心配しなくても良い、と書かれています。奥さんがイエス様を信じていたら、主人もきよめられていると書かれています。ということは、不品行や姦淫の罪は、結婚と同じ一体の契約を結ぶことになります。複数の関係を持てば、複数の肉体、魂、霊と一体なることです。いくつかの人格が一体になるようなものです。多くの人格がくっついた人が世界中に多くいます。結婚以外の契約はすべて血潮により取り去ってもらわなくてはならないのです。ということは、この罪は「契約的な罪」なのです。だから、悪魔はこの罪をうまく利用し、不品行や姦淫を強調し、「罪を犯せ、結婚する前に肉体関係は普通のことだ、不倫もOK!何人ともでもどんどんやれ!人生は一回しかないのだ・・・。」と言います。それを行うのは、「あなたの罪は私の罪」、「私の罪はあなたの罪」「私の傷は、あなたの傷」、「私の束縛はあなたの束縛・・・」と世界規模に広がって行きます。だからこれは恐ろしい罪です。大きな罪です。道徳的側面だけではなく、「契約的側面」を扱わないと悪魔に常に責められるのです。もし、そのような契約の断ち切りができていなかったら、今日は祈りましょう。まだイエス様を主として信じてなかったら信じてください。イエス様を信じることは「支配権が全く変えられる」ことです。支配権を変えていただき、サタンの支配から神の支配に入れられ、サタンの影響を全く受けない神の国に生きる者とされたいと思います。そうすれば、リバイバルが進みます。この地上が悪くなっても、神の国は全く別世界です。闇が濃ければ濃いほど、光りがよく光ります。これからの時代は主を信じる者と、信じない者との差が大きくなります。神の国に生きる者として、サタンの影響を受ける者ではなく、神の力を体験する者とされたいと願います。一言お祈りします。

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