今週の礼拝メッセージ
とりなしの祈りの大切さ   1998.4.26(SUN)

新城教会牧師 上條 実

<今週のメッセージの御言葉>
旧約聖書 創世記18章1節〜2節
主はマレムの樫の木のそばで、アブラハムに現われた。彼は日の暑いころ、天幕の入口にすわっていた。彼が目を上げて見ると、三人の人が彼に向かって立っていた。彼は、見るなり、彼らを迎えるために天幕の入口から走って行き、地にひれ伏して礼をした。

 ハレルヤ!いつも祈っていただき支えられていることを感謝します。今日他の先生方は福岡の方でアナコンディア先生の縦断決起大会があり、行っています。昨日から行われていますが、昨日は福岡市民会館で行われ八百五十人ぐらいの方が集われたそうです。二時からの集会で八時までの決起大会でしたが開場前から六百人程が並んで待っていたそうです。大変祝福されたという報告を聞きました。感謝いたします。続けて五月五日まで続きますのでお祈りください。早速、御言葉を学んでいきましょう。今日は有名なアブラハムから「とりなしの祈りの大切さ」を学んでいきたいと思います。私たちは毎日の生活の中で色々な祈りの課題があります。この問題を早く答えて欲しいと切実に祈りをささげていることがあります。今までには、数々の祈りの答えを神様から答えていただいていますが、ある問題は、いつまで祈っても祈りが答えられないことがあります。家族の救いのために祈っている方がいると思いますが、家族のために一生懸命に祈りますが、なかなか答えられません。また日本のリバイバルのために祈っています。早く日本にリバイバルが来るように毎週のように県民の森に行き、叫んで日本のリバイバルを求めています。しかし、現実に日本にリバイバルが起きていません。この地域のために祈っていますが、いまだに二百数十名の礼拝で止まってしまっています。なぜだろうと考えます。「求めなさい。そうすれば与えられる」と御言葉で語られているのに、まだ答えらない現実があります。どうしたら答えられるのでしょうか?無理なのでしょうか?そんなことはありません。私は最近創世記のアブラハムの記事を読み、「とりなしの祈り」が私たちの個人的な祈りの課題の答えと深い関係があることを学びました。アブラハムというと思い出すのは百才という高齢でひとり子イサクが生まれたという記事を思い出します。待ちに待った子どもが産まれた。普通では絶対に生まれるはずがない子どもが、神様の祝福の中で、イサクが生まれたという記事を読みながら、自分の祈りとアブラハムの祈りのどこが違うか。何故私たちの祈りは聞かれないのか、学ぶことができました。アブラハムはイスラエルの父、信仰の父を言われています。イスラエルでは、日本でもそうですが、跡取りがとても重要視されています。跡取りというと自分のことを考えます。私は、旧姓滝元でした。私の家内の父親は長男で、娘ふたりだけで跡取りがいないためら養子が欲しいということで私が上條となりました。日本でもこのようなところがありますが、イスラエルの国は家系を重視し、跡取りが大切な国であり、長男は長子の権利という素晴らしい特権を持つようになっています。しかしアブラハムには跡取りがありませんでした。欲しくてたまりませんでしたが、当時はアブラムでしたが、彼ら夫婦には子どもがありませんでした。そんなアブラムに創世記十二章一節で、神様が初めて声を出してくださいました。それは、一節から四節に、

『その後、主はアブラハムに仰せられた。「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。アブラムは主がお告げになったとおりに出かけた。ロトも彼といっしょに出かけた。アブラムがカランを出たときは、七十五才であった。』

と書かれています。このように神様は約束をくださいました。アブラムが七十五才という高齢になった時に初めて約束をくださいました。この十二章一節からの御言葉をあなたに今日、直接語ってくださったら、ワクワクしてしまうような言葉をアブラムは語っていただきました。すぐにでも待望の子どもが産まれる、素晴らしい祝福をいただくことができると思ったと思います。しかし、時が経って行きました。創世記十五章一節で再度アブラムに神様が子どもを与えると語ってくださいました。十二章と十五章で二度も神様からあなたに子どもが産まれる、あなたは祝福されると言われたのです。しかし時が経ち、祈りの答えが与えられないために、アブラムは心配になってきました。十六章一節からには

『アブラムの妻サライは、彼に子どもを産まなかった。彼女にはエジプト人の女奴隷がいて、その名をハガルといった。サライはアブラムに言った。「ご存じのように、主は私が子どもを産めないようにしておられます。どうぞ、私の女奴隷のところにおはいりください。たぶん彼女によって、私は子どもの母になれるでしょう。」アブラムはサライの言うことを聞き入れた。アブラムの妻サライは、アブラムがカナンの土地に住んでから十年後に、彼女の女奴隷のエジプト人ハガルを連れて来て、夫アブラムに妻として与えた。彼はハガルのところにはいった。そして彼女はみもごった。彼女は自分がみごもったのを知って、自分の女主人を見下げるようになった。』

と書かれています。七十五才の時、神様から「あなたに子どもをあたえる」と語られました。その十年後、十年間もアブラムは神様の約束を待ち続けました。しかしまだ答えられない。神様が二度も直接現れて言ってくださったにも関わらず答えられない。その事でアブラムはサライは人間的な行ないで子孫を残そうと考えています。神様はあなたから子どもを与えると言われたのにも関わらず、サライの女奴隷であるハガルによって子どもを残そうと考えました。人間的な行ない、工作をしたのです。私たちも色々な祈りの課題があり、一生懸命になってアブラムのように十年、いやもっとかも知れませんが、真剣に祈り続けている課題があります。私たちもよく待ちきれずに、自分の考え、自分の思いで祈っていながらも行動してしまう時があります。このアブラムもしびれが切れて、サライの女奴隷ハガルのところに入り、子どもをもうけました。ハガルは女奴隷でしたが、子どもができたことがわかった時、主人であるサライを見下げるようになりました。アブラムは人間的な行ないで子どもができましたが、サライは傷ついてしまい、ハガルを追い出す事となってしまいました。祝福を失ってしまったのです。祝福どころか、かえって問題を抱えてしまったのです。私たちも人間的な色々な思いの中で祈りの答えが待ち切れず、人間的に動いてしまうことがあります。アブラムは信仰の父だと学んでいましたのでこの記事を読んだ時、何かホッとしました。アブラムも私たちと同じ人間なんだなぁと思いました。私でしたら一日でも早くということで、人間的な行動をとってしまいますが、アブラムは十年目に人間的行ないをしてしまいました。しかし更に十四年が過ぎた時、もう一度神様はアブラムに現れました。十七章一節に、

『アブラムが九十九才になったとき主はアブラムに現われ、こう仰せられた。「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ。わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に立てる。わたしは、あなたをおびただしくふやそう。」アブラムは、ひれ伏した。神は彼に告げて仰せられた。「わたしは、この、わたしの契約をあなたと結ぶ。あなたは多くの国民の父となる。あなたの名は、もう、アブラムと呼んではならない。あなたの名はアブラハムとなる。あなたを多くの国民の父とするからである。』

と書かれています。再度神はアブラムに語ってくださいました。アブラムからアブラハムと呼ぶ。そしてアブラハムは国民の父となり、あなたから素晴らしい祝福を与えるということをこの十一節から神様が語ってくださいました。しかし十七章の十七節に、アブラハムはそのような言葉を聞いたにも関わらず、

『アブラムはひれ伏し、そして笑ったが、心の中で言った。「百歳の者に子どもが生まれようか。サラにしても、九十歳の女が子どもを産むことができようか。そして、アブラハムは神に申し上げた。「どうかイシュマエルが、あなたの御前で生きながらえますように。』

とアブラハムは言っています。アブラハムは十年間待ちました。またここでは九十九才になっているということは七十五才ですから二十四年間もアブラハムは子どもが産まれるように、子どもが産まれるようにと祈り続けてきました。十年前にはハガルを通してイシュマエルという子どもが産まれ、その子も成長してきています。そしてもう自分は九十九才であり妻のサラは八十九才となっている。そんな年寄りの私たちになぜ子どもが産まれるのか。神様は今回も「あなたに子どもが産まれる」と言われたのにも関わらずアブラハムは笑っています。「できませんよ。私はもう百才なので無理だ」と思い、だから跡取りはイシュマエルにしてくださいと言っています。そんなアブラハムに、まだ神様は忍耐され十九節で、

『すると神は仰せられた。「いや、あなたの妻サラが、あなたに男の子を産むのだ。あなたはその子をイサクと名づけなさい。わたしは彼とわたしの契約を立て、それを彼の後の子孫のために永遠の契約とする。」』

と初めて具体的な啓示をしてくださいました。あなたに「男の子」を与えるその子どもを「イサク」と名付けなさい。と言っています。しかし、その前に自分は九十九才、妻サラは八十九才もう駄目だ。そんな年寄りに生まれるはずがない。今まで二十四年間待ち続けたが、もうあきらめてしまい、駄目だと思ってしまっています。しかし、神様はお前に男の子を与える。それもイサクと名前を付けなさいと言われています。今日皆さんの色々な祈りの課題があると思います。そして祈っても祈っても現状は一向に変わらないかも知れません。また、この人が救われて欲しいと祈り続けている中で、時が過ぎてしまい、もう難しい、駄目だと思うような時期が来てしまっていませんか。初めにお読みした十八章の箇所はアブラハムがマムレの樫の木のそばで天幕の入口で涼んでいた記事です。ここに日の暑い頃、天幕の入口に座わりこんでしまったと書かれています。これからが暑い時で働くことができない。疲れはててしまっている状態です。疲れ果ててアブラムは天幕の入口に座っているような現状です。私たちも神様は必ず祈りに答えてくださるという御言葉を聞いています。しかしなぜ答えられないのか、私たちは祈りに疲れてしまい、もうやめてしまうような時があると思います。日の暑い天幕にアブラハムが座っていたということは、疲れ果てたこと、働くことができないために日陰に入った、また日陰に入ってしまい奥に引っ込んでしまったのです。自分にはできない、現状は何も変わっていない。疲れ果ててしまったもう祈るのをやめてしまおう。此の祈りの課題だけは無理だ。自分のような信仰では聞かれない、と思ってしまいます。私も時々あります。一生懸命に祈っています。しかし、自分の祈りをすぐにでも答えて欲しいと思っても、答えられず辛い思いをしたことがあります。「神様この時を逃したら証しにならないではないですか」「この事を答えていただかないと困るのですが」と祈っていますが、祈りの答えが目の前を通り過ぎてしまうような状況。祈りが答えられない、どうしてこの時に神様は答えてくれないのだろうかと思う時があります。しかし、その日の暑い時に神様は初めてアブラハムの実生活の中に現れてくださいました。神様と二人の御使い。三人がアブラハムの前に立ったと書かれています。十八章二節に、

『彼は目を上げてみると、三人の人が彼に向かって立っていた。彼は見るなり、彼らを迎えるために天幕の入口から走って行き、地にひれ伏して礼をした。』

と書かれています。注解書によるとアブラハムは外も見ることもなく下をうつむいていたというのです。彼らを見た時、驚いて立ち上がり、礼をしたという意味があるそうです。驚いて神様が来られたのでひれ伏して「さあ私のところに入ってください。通り過ぎないでください」と挨拶をし、すごいもてなしをしています。昨日ある姉妹に「三セア」の小麦粉をこねてパン菓子を作ってくれと書いてあるけれど、一セアが七・六リットルだと書かれているので二十一か二十二リットルくらいの量だと書かれているが、いくつくらいのパンができるかと聞きましたが、それはイースト菌を使ったりすると違うなどと言いながら、計算してみると三人に出すような量ではないパン菓子を出しています。そしてすごい御馳走を出しました。子牛をほふったり、牛乳や擬乳を三人のために用意し、アブラハムはもてなしました。そして、神様はもう一度語られました。十八章の十節に、

『するとひとりが言った。「わたしは来年の今ごろ、必ずあなたのところに戻って来ます。そのとき、あなたの妻サラには、男の子ができている。』

と書かれていました。少し前は男の子が産まれる、その子をイサクと名付けなさい。と名前が語られました。しかし、今度はいつという時を限定されました。来年の今頃、もう一度私が来る時にはサラは男の子ができていると神様が言われました。アブラハムとサラは答えました。十一節から十二節に、

『アブラハムとサラは年を重ねて老人になっており、サラには普通の女にあることがすでに止まっていた。それでサラは心の中で笑ってこう言った。「老いぼれてしまったこの私に、何の楽しみがあろう。それに主人も年寄りで。』

と書かれています。またここでサラが否定的になっています。自分は人間的にからだが死んでしまっている。生めるような体ではない。駄目だ。と不信仰を抱いています。信仰の父アブラハム、サラというと素晴らしい信仰を持っていると思いましたが、ここまで神様から「男の子が産まれる、その子をイサクと名付けなさい」「来年の今頃絶対に生まれるから」と言われながらも「大丈夫かな。人間的には無理だ・・・。」と言って不信仰を抱いている。信仰の父と言われているが、人間性を見ることができ、自分と同じだ、自分と比べることができないくらい向こうは優っていますが、なにか共通点を見い出しました。その時に言われたことは十四節に、「主に不可能なことがあろうか。」という言葉を残しています。今日もう一度覚えてください。絶対に駄目だと思っても祈り続けてください。そしてその後に今日特別に学びますが、神様はこのアブラハムに不可能はないと言われた後、どのように行動しているかについて十七節から、ソドムとゴモラのことが書かれています。神様がアブラハムに出会って子どもが産まれる、祝福されると約束された後でその足でソドムの方に足を向けています。そしてソドムの方に行こうと思った時に、この事をアブラハムに隠しておくことができないと言い、ソドムとゴモラを滅ぼす計画をアブラハムに語りました。その時にアブラハムは、「もしあのソドムの町に五十人正しい人がいたらあなたはそれを滅ぼすのですか」と問いただしています。「いや五十人いたら滅ぼすことはない」その時に、もう一度四十五人いたらあの町を滅ぼしますか。と聞きました。それでも滅ぼすまい。また四十人では、三十人では、二十人では、最後には十人では・・・と聞きました。神様は十人でも正しい人がいたら滅ぼさないと言われました。アブラハムはソドムとゴモラの町が滅ぼされないように、ソドムとゴモラの町に甥のロトと家族がいる。アブラハムは一生懸命にあの町が滅ぼされないように一生懸命神様にとりなしをしています。その時に十人いても滅ぼさないと言われました。しかし、そこには十人いませんでした。結局ソドムとゴモラの町は滅ぼされてしまいました。しかし恵みの中でロトの家族だけは神様によって助け出されました。「子どもが産まれるそしてイサクと名付けなさい」「来年の今頃あなたは子どもができている」という素晴らしい約束をいただいた後、神様のとった態度はそのようなさばきでした。その時にアブラハムは一生懸命にとりなしをしました。私はこれを見た時に今の時代によく似ていると思いました。今新聞やテレビでニュースを見る時、殺人事件が頻繁に起きています。それも中高生など低年齢化の殺人事件傷害事件が起きています。誰が考えても今は世の終わりの時であり、光りのある間にと東京ミッションで訴えて祈っていますが、間もなくイエス様が帰って来られてもおかしくない現状です。アブラハムはソドムとゴモラの町をとりなして五十人でも四十人でも最後に十人でもいたら助けてください。と神様に訴えています。この暗やみの時に私たちは自分の家庭のこと、商売のこと、近所付き合いのこと、親戚付き合いのこと、家族の救い、色々な願いがあるかも知れませんが、ここで教えているのは「受けるより与える方が幸いである」ということです。とりなしの祈りです。自分のことは必ず神様が与えてくださる。「神の国と神の義をまず第一に求めなさい。そうすれば、それらのものはすべて加えられる」と書かれています。すべてのことを神様が約束されています。だからとりなしの祈りをしなさい。魂の救いのことを祈りなさい。と書かれています。結局ソドムとゴモラは滅ぼされてしまいました。そしてその後二十章にはアブラハムはソドムとゴモラから離れて、一節から二節に、

『アブラハムは、そこからネゲブの地方へ移り、カデシュとシュルの間に住みついた。ゲラルに滞在中、アブラハムは、自分の妻サラのことを、「これは私の妹です。」と言ったので、ゲラルの王アビメレクは、使いをやって、サラを召し入れた。』

と書かれています。ここでアビメレクという王様が出てきています。この王様にサラは九十才にも関わらず非常に美しく見えたと書かれています。二十章の最後にはこのアビメレクの家庭にも子どもがなかったと書かれています。だからアビメレクは何とかして自分の子どもを残したいために、サラを招き入れました。召し入れたということはある意味で、自分の奥さんになってくれ、そして自分と関係して子どもを残してくれという意味があります。アブラハムはもう自分は駄目だ。年老いてしまっているし、サラも女性としての体が死んでしまっているのだから絶対に子孫を残すことはできないと信じていました。にも関わらず、アビメレクは、サラを見て自分の奥さんにしよう、この人と一緒になって自分の子孫を残そうと言っています。私たちクリスチャンは知らず知らずの内に信仰が小さくなってしまい、もう自分は駄目だと、人間的になってしまいます。駄目だと考えてしまいます。しかし、世の中の人。悪霊礼拝をしているような人は大胆です。新聞広告を見ても背後霊がいますと大胆に出していたり、水子の霊。このまま行ったらあなたは不幸になります。死にます。などと大胆に書いています。しかし、クリスチャンは大胆に書くこともできません。大胆に新聞に書けるかというとなかなか勇気がいります。教会ニュースでも新年の時に、皆さんの一年の祝福のために祈ります。と書きますが、大胆にあなたの病が癒されるとか、絶対にあなたの家庭が祝福される。家庭が祝福されるというように書くことは勇気のいることです。しかし、アビメレクはパッと見でサラが美しい、この人にはそのような能力があるということで召し入れてしまっています。しかし、二十一章を見ると、結局サラはアブラハムの妹だとごまかしていましたが、夢の中でサラはアブラハムの妻だ。絶対に手を振れてはいけない。手を振れたらこの国は滅ぼされるということまで夢の中で語られました。アビメレクはアブラハムを呼び、何ということをしてくれたのか、私に大変な罪を犯させようとしているのではないか。と言ってアブラハムに色々な物を持たせ、アビメレクの前から立ち去らせました。その後二十章十七節に、

『そこで、アブラハムは神に祈った。神はアビメレクとその妻、および、はしためたちをいやされたので、彼らはまた子を産むようになった。主が、アブラハムの妻、サラのゆえに、アビメレクの家のすべての胎を堅く閉じておかれたからである。』

と書かれています。アブラハムはアビメレクに祈っています。そして自分が一番欲しいと思っている子どもが生まれるようにということを、アビメレクに祈っています。そして神様はアビメレクに答え、子どもが与えられるようになりました。私はこれを読んだ時に反省しました。正直言って腰が痛くて辛いときがあります。そんな時、皆さんが来られて「いやしのために祈ってください」とか特に「腰が痛いので祈ってください」と言われる時があります。そんなとき自分の方が祈って欲しいと思いながら祈ります。アブラハムはアビメレクのために祈ってあげています。そして祈ってあげた時に胎が開かれて子どもが産めるようになったとあります。今日とりなしの祈りについて学んでいます。とにかく私たちは日本の魂、民族が救われるように、私たちの住んでいる地域が救われるようにと祈ると同時に、自分と同じような境遇にある人、自分もまだ解決されていないけれど、同じ境遇の中にいる人のために祈ってあげることが必要であると教えられました。そしてその後二十一章に約束されたとおりに、

『主は、約束されたとおり、サラを顧みて、仰せられたとおりに主はサラになさった。サラはみごもり、そして男の子を産んだ。』

やっと自分の今までの祈りの課題であった男の子が産まれています。この間二十五年間です。私は今までここをさっと読んでしまい、年代のことも考えずに読んでいました。二十五年間もアブラハムは待ち続けました。いや待たされたのです。神様が約束してくださり、祈りを答えてくださる、絶対に祈りを答えてあげる、と神様が言ってくださっているにも関わらず、最後にアブラハムに取らせ態度はソドムとゴモラ、対してとりなしの祈り。国を救ってください。この町を救ってくださいと祈らせていることです。それと同じような自分と同じ必要な方のためにも自分のことではなく、他人のために真剣に祈らせています。私たちは「求めなさい。そうすれば与えられる。」と信じてはいますが、自分のことばかり祈るのではなく、受けるのではなく、「受けるよりも与える方が幸いである」。まもなく神様がリバイバルを与えてくださる。間近だと言われているこの時に、私たちは自分のことばかり祈り続けていてはいけません。アブラハムはソドムとゴモラの町を助けてください。また自分と同じ問題を持っている人に祝福を与えてください。ととりなしています。祈っています。アビメレクに子どもが産まれるようになったのを見たアブラハムは何とうらやましかったかも知れません。今日自分のことばかり考えずに皆さんの愛する地域のために祈ってください。また「自分自身のことばかりではなく、他の人を自分自身のように愛しなさい。」と書かれています。ですから、同じような境遇の中にあって苦しんでいる人がたくさんいます。その人たちのために祈ってあげてください。神は最後にとりなしの祈りを求めておられます。とりなしの祈りをした結果、イサクが神様によって約束どおり生まれています。私はこれを読んだ時に、自分がいかに自己中心的な祈りばかりをしていたか、神様が求めているのは、自己中心的な祈りではなく、皆さんが住んでいる町々のために祈って欲しい、町の救い、日本のリバイバルのために祈って欲しい、また苦しんでいる人のために、愛を持って祈って欲しいと求めておられます。今日私たちは、午後からとりなしの祈りをします。アナコンディア大会が祝福されるように私たちは祈りたいと思います。私たちは新城でアナコンディア大会の集会場所は福岡です。遠く離れて福岡にどのような人が住んでいるか全くわからないかも知れません。しかしその福岡が滅ぼされないように、とりなしの祈りをささげましょう。また、あなたの住んでいる地域のために祈りましょう。最近、教会ではそのようなとりなしの祈りがなされています。決起大会や多く集会に対して祈りが積まれています。先週は礼拝の時に神様から語られた国のために祈りました。神様は最近私たちに地域に目を向けさせてくださっていると思います。今日は皆さんの思い浮かんだ地域のため、また自分の住んでいる地域のために祈りましょう。また週報をいただき決起大会のために祈っていますが、教会のためにも祈ってください。自分が関係している家庭集会のためには祈るかも知れません。しかし、自分の集会以外には結構祈りません。週報を見て各集会が祝福されるように、そこに参加する兄弟姉妹が祝福されるようにと祈っていただきたいと思います。また兄弟姉妹のためにも祈ってください。私たちは神の家族です。お互いに祈り合いましょう。自分のことを祈る前に、神の家族のことを覚えて祈ってください。色々な苦しみを持った方がおられます。「受けるよりも与える方が幸い」です。神様がアブラハムに祈り続けて二十五年目に祈りに答えてくださいました。その祈り続けていた祈りの答えをいただく寸前。それはとりなしの祈りです。間もなく神様がリバイバルを与えてくださるという約束を御言葉で確信をいただいています。今しなければならないのは「とりなしの祈り」です。あなたがとりなす時、あなたの祈り続けている答えが与えられるのです。お祈りしましょう。

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