今週の礼拝メッセージ
恐れるな   1998.5.3(SUN)

新城教会牧師 滝元 明

<今週のメッセージの御言葉>
旧約聖書 列王記第二6章8節〜23節
 アラムの王がイスラエルと戦っているとき、王は家来たちと相談して言った。「これこれの所に陣を敷こう。」そのとき、神の人はイスラエルの王のもとに人をやって言った。「あの場所を通らないように注意しなさい。あそこにはアラムが下って来ますから。」そこで、イスラエルの王は神の人が告げたその場所に人をやった。彼が王に警告すると、王はそこを警戒した。このようなことは一度や二度ではなかった。このことで、アラムの王の心は怒りに燃え、家来たちを呼んで言った。「われわれのうち、だれが、イスラエルの王と通じているのか、あなたがたは私に告げないのか。」すると家来のひとりが言った。「いいえ、王さま。イスラエルにいる預言者エリシャが、あなたが寝室の中で語られることばまでもイスラエルの王に告げているのです。」王は言った。「行って、彼がどこにいるかを突き止めなさい。人をやって、彼をつかまえよう。」そのうちに、「今、彼はドタンにいる。」という知らせが王にもたらされた。そこで王は馬と戦車と大軍とをそこに送った。彼らは夜のうちに来て、その町を包囲した。神の人の召使が、朝早く起きて、外に出ると、なんと、馬と戦車の軍隊がその町を包囲していた。若い者がエリシャに、「ああ、ご主人さま。どうしたらよいのでしょう。」と言った。すると彼は、「恐れるな。私たちとともにいる者は、彼らとともにいる者よりも多いのだから。」と言った。そして、エリシャは祈って主に願った。「どうぞ、彼の目を開いて、見えるようにしてください。」主がその若い者の目を開かれたので、彼が見ると、なんと、火の馬と戦車がエリシャを取り巻いて山に満ちていた。アラムがエリシャに向かって下って来たとき、彼は主に祈って言った。「どうぞ、この民を打って、盲目にしてください。」そこで主はエリシャのことばのとおり、彼らを打って、盲目にされた。エリシャは彼らに言った。「こちらの道でもない。あちらの町でもない。私について来なさい。あなたがたの捜している人のところへ連れて行ってやろう。」こうして、彼らをサマリヤへ連れて行った。彼らがサマリヤに着くと、エリシャは言った。「主よ。この者たちの目を開いて、見えるようにしてください。」主が彼らの目を開かれたので、彼らが見ると、なんと、彼らはサマリヤの真中に来ていた。イスラエルの王は彼らを見て、エリシャに言った。「私が打ちましょうか。私が打ちましょうか。わが父よ。」エリシャは言った。「打ってはなりません。あなたは自分の剣と弓でとりこにした者を打ち殺しますか。彼らにパンと水をあてがい、飲み食いさせて、彼らの主君のもとに行かせなさい。」そこで、王は彼らのために盛大なもてなしをして、彼らに飲み食いをさせて後、彼らを帰した。こうして彼らは自分たちの主君のもとに戻って行った。それからはアラムの略奪隊は、二度とイスラエルの地に侵入して来なかった。

 ハレルヤ!今朝久しぶりに新城教会で礼拝を守ることができることを感謝します。最近は東京リバイバルミッションに向けて大変忙しくありますが、いつも守られていることを感謝します。四月十九日(日)は東京のある教会で礼拝しました。夜中に帰って来て二十日から台湾に行って決起大会をし、二十三日に家に帰りました。そして、二十四日に東京に行き、アナコンディア先生を迎えました。それから共に福岡に行き、二日間のアナコンディア大会に参加し、四国に行き、それからすぐに東京に戻るというスケジュールでしたが、皆さんが背後で祈ってくださり、今日まで支えられていることを感謝します。連続の東京ミッション決起大会でアナコンディア先生も疲れておられ、あまりご飯を食べられていませんでした。先生は疲れられており、きっと体調が優れないのだろうと思いました。しかし、先生は北海道の決起大会で癒されて、大分お元気になられたようでした。昨日はまだ少し腹痛があると言われていましたので、癒されるように祈ってください。先生は五日に東京で集会をしてからすぐにアメリカで集会をする予定だったそうですが、特別にお願いをしたら、七日からの集会になったそうです。アナコンディア先生のためにも覚えてお祈りください。聖書の中に弱いときにこそ強い、と書かれています。昨日も先生は聖霊に満たされて、名古屋で素晴らしいメッセージをされていました。また素晴らしい解放の業が伴っていました。今日も新城から、大勢の方が参加されると良いと思います。今朝、既にバス一台でスタッフや神学生が現地に行っています。四十名くらいこの教会から行っているので寂しい礼拝になるかと思っていましたが、神様が色々な所から人々をこの教会に送ってくださり、空いた所を埋めてくださったことを感謝しています。初めての方もゆっくりとこれからの御言葉を学ぶ時を楽しみ、元気になってお互いに出発していきたいと思います。
 エリシャはエリヤの次に出現したイスラエルの預言者でした。エリシャは来るべきエリヤの姿だと新約聖書に書かれています。また、エリヤは来るべきバプテスマのヨハネの姿であり、同時にエリシャは来るべきイエス様の姿です。エリヤが天に昇る時に、エリヤはエリシャに向かって、「何か私に求めるものがあるか」と言うと、エリシャは、「あなたの二倍に霊をください。」と言いました。ユダヤの国はユダ王国とイスラエル王国に分かれました。イスラエル王国の王様は悪い王で、ユダ王国の王様は良い王が出ています。しかし、預言者はイスラエルから多く出ています。今朝は、アラムの王がイスラエルと戦った記事から学びます。

『「王は家来たちと相談して言った。「これこれの所に陣を敷こう。」』

 アラムの王様が作戦を練りました。しかし、エリシャは全て見破ってイスラエルの王に教えます。「王様、ここから攻めて来るから、こちらの方に陣を敷いてください。」王がその言葉を信用して進みますと、ことごとくイスラエルが勝利したので、アラムの王は怒って言いました。十一節から、

『「われわれのうち、だれが、イスラエルの王と通じているのか、あなたがたは私に告げないのか。」すると家来のひとりが言った。「いいえ、王さま。イスラエルにいる預言者エリシャが、あなたが寝室の中で語られることばまでもイスラエルの王に告げているのです。」』

 エリシャが持っていた聖霊の力はすごいものでした。アラムの王様が部屋の中で話したことも全部知っていました。彼は神の霊に満たされていたのです。またその前の記事を見ると、らい病にかかったナアマンという男が、エリシャのところに来て癒しを求めています。エリシャは彼に、「ヨルダン川に身を七回沈めなさい。」と命じました。ナアマンはたくさんの金や銀などの宝物を病を直してもらうために、エリシャの前に携えて来ました。「これらのものを全部お取りください」と言いましたが、エリシャは拒否し、「私が直すのではなく神が癒される」と言いました。すると、その側にいたゲハジは、ナアマンから宝物を受け取らないとはもったいないと、彼は癒されたナアマンを追いかけ、「エフラエムの方から神のともがらが何人か来たので、お金と着物をもらってくるよう頼まれました。だから、少しください」と言いました。それで、ゲハジはたくさんのものをもらいました。彼はそれを車に積んで隠しエリシャに会いました。すると、「おまえはどこに行っていたのか」と聞かれ、「いいえ、どこにも行っていません。」とゲハジが答えると、エリシャは、「あなたがあの金と物を受け取った時、私はあなたと一緒にいたのではないか。」と言いました。するとゲハジはらい病になりました。
 エリシャは神の霊に満たされていました。神様は全能の方です。全部見通しておられます。それで、アラムの王はエリシャを捕まえようと馬と戦車と大軍を送り、エリシャのいたドタンの地を取り巻きました。十五節に、

『「神の人の召使が、朝早く起きて、外に出ると、なんと、馬と戦車の軍隊がその町を包囲していた。若い者がエリシャに、「ああ、ご主人さま。どうしたらよいのでしょう。」と言った。』

エリシャの家来は軍隊がエリシャを取り巻いたのを見て焦っていました。しかし、エリシャは十六節を見ると

、 『すると彼は、「恐れるな。私たちとともにいる者は、彼らとともにいる者よりも多いのだから。」と言った。』

と言いました。エリシャは祈って主の前に、「どうぞ、彼の目を開いて見えるようにしてください。」と祈りました。すると神様はこの若者の目を開かれました。 『「彼が見ると、なんと、火の馬と戦車がエリシャを取り巻いて山に満ちていた。」』

と書かれています。火の戦車が取り巻いているのが見えました。この時家来にも恐れがなくなりました。
 私たちも霊的な目が開かれることが必要です。霊的な目の開かれていない人は目の先のことにとらわれます。問題を見て恐れます。しかし心の目が開かれた人は問題ではなく、神様を見て「火の戦車や天の使いが私たちを守ってくれる。」ということで、恐れから解放されます。
 この度、アナコンディア先生を迎えて集会をしていますが、先生の祈りを聞いていると、「この地域の悪しきものをイエスの御名によって縛り上げる。サタンどもよ、よく聞け。おまえたちはここから出て行け!手を放せ!」と怒鳴りつけています。祈りは、「神様、パンをください。」「私の子どもの風邪を癒してください。」と祈るだけではいけません。その程度の祈りをしている人は「この地域の悪しき力を縛り付けてください。悪魔よ、よく聞け!おまえたちはここから手を放せ!出て行け!」と叫んでいるのを聞くと、「この人は何という祈りをしているか」と思います。これは目が開かれているか開かれていないかの違いです。その祈りをしている時に、「強いものなんているか?」「地域の霊がいるだろうか」という考えます。アナコンディア先生はアルゼンチンが生んだ今世界で一番多くの人を導いた伝道者と言われていますが、心の目が開かれた人です。ですから、アルゼンチンで何万人という人が集まって集会している時に、悪霊が戦っているところが見えるそうです。「日本にいる悪しき霊よ。ここから出て行け!」と祈っています。目が開かれているのです。今、感謝なことに東京リバイバルミッションと日本のリバイバルに向けて、特別、とりなしの勇士たちがいます。この教会からも望兄たちが日本を廻り、霊的な束縛を打ち砕く祈りをしていますが、その中で、ある姉妹に「霊的に勝利したというけれど、本当に勝利したかどうか分かります」かと聞くと、「わかりますよ。」と答え、天使が悪霊と戦っている姿が見えるというのです。不思議なことだと思います。この教会に聖霊が下り、とりなしグループが出来ました。ある時、甲子園の側にある神社にとりなしの祈りに行きました。すると他の場所で祈っているとりなし手から連絡が入り、「もう少し上に行ったところに鳥居がありますのでそこで祈りなさい。」と言われました。すると、本当にそこに鳥居があるのです。またその中に、偶像を恐れている人がいます。そうすると、祈っている人にもそれがわかります。これは神様が見せているのです。
 以前、私はある神社にとりなしの祈りに行ったことがあります。当時、私の孫が保育園に行っている時でした。彼らとスタッフと共に祈りに行きました。偶像を見て私はなんとなく気持ちが悪いと思いました。中に入ってから私は立ち止まっていました。すると彼が来て、「おじいちゃん、イエス様が恐れるな!と言われたよ。」と言いました。保育園の孫がそういうのです。それで私も入ってとりなしの祈りをして勝利しました。これは目が開かれているか開かれていないかです。クリスチャンは、霊的な目が開かれなくてはなりません。目隠しされていてはいけません。特に聖書には、「この世の神が私たちの目をくらました」と書かれています。日本人は本当は頭の良い国民です。しかしなぜ、きつねやヘビを拝むのだろうかと思います。なぜ、自動車に神社の札などをつけているのかと思いです。聖霊が来るとき、「罪について、義について、さばきについて誤っていることを認めさせる。」と聖書に書かれていますが、聖霊によって心の目が開かれます。罪については、イエス様を信じないからだ、ということがわかります。義についてということは、イエス様が十字架上で救いを完成してくださったこと、さばきについては既に、この世の君が裁かれたことがわかることであると、聖書は教えられています。私たちはこの世の常識ではなく、目が開かれることが必要です。一般の見方は顔かたちを見て、金持ちそうとか、偉い人だと見ます。しかし、神様の目は、救われているか否かです。お金があっても、死んでしまったら全部地上に置いていかなくてはなりません。今日皆さんの目は開かれていますか?しかし、必ずしも全てが見えなくても良いのです。
 イエス様は甦られ弟子たちに現れました。「平安があなたがたにあるように。」と祝福されました。しかし、その時トマスはいませんでした。弟子たちは喜んで、「イエス様は甦られた」と言いました。「しっかりとこの目で見たよ。現れてくれたよ。」とトマスに言うと、「ばかなことを・・・・・。死んだ人の甦りなんて、そんなことはありえない。」と彼は信じませんでした。彼は、「私は私の前にイエス様が現れて、イエス様の十字架の傷に指を入れ、槍を刺された跡に腕でも突っ込んでみない限り信じない。」と言いました。
 それから八日の後、次の日曜日の夜、イエス様が彼に現れました。「平安があなたがたにあるように。トマス、あなたの指を出しなさい。、私の手の釘あとに指を入れなさい。あなたの腕をわたしの脇腹の槍のあとに入れてご覧。」と言われました。そして、「信じないものにならないで、信じるものになりなさい。」と言われました。「オー、我が主、我が神よ。」彼は信じました。イエス様は、「あなたはわたしを見たことによって信じたか、見ずして信じるものは幸いだ。」と言われました。エリシャのように見える人、子どものように見える人は幸いですが、それ以上に幸いなことは見ずして信じる者だと書かれています。
 今日ここにイエス様がいることを信じますか。「アーメン。」なぜわかるのですか。イエス様がおられるのが見えますか。誰も見えません。では、なぜ信じるのですか。それは御言葉です。「二、三人わたしの名によって集まるところにわたしもそこにいる。」という御言葉です。信じなくてはなりません。敵が火の戦車を見て驚いたように、私たちは御言葉によって信じるべきです。ヨハネ第一の手紙四章四節に、

『子どもたちよ。あなたがたは神から出た者です。そして彼らに勝ったのです。あなたがたのうちにおられる方が、この世のうちにいる、あの者よりも力があるからです。』

と書かれています。あなたがたの内におられるのはどなたですか。聖霊様です。イエス様を信じた人には聖霊様がおられます。信じますか。「アーメン。」このかたと悪霊とどちらが強いか、比べ物になりません。聖霊様が強いのです。あのもの、悪霊より、すごい力のある聖い聖霊様が私たちと共におられるので心配しなくても良いのです。私たちはこの聖霊様によって恐れてはなりません。
 時々、私たちは大きな問題を見ると恐れます。しかし、我が内に主がおられる。天の軍勢がおられます。アナコンディア先生は、「主よ、どうかこの中に天の軍隊を送ってください。」と祈られます。それは真実な祈りです。天の軍勢は私たちを守ることができるのです。ですから、信仰を持ちましょう。もし、本当に私たちと主がともにいると分かったら恐れることはありません。死人の中から甦られたイエス様は天においても地においても、一切の権威を持っておられます。一番偉大なる力ある方が私の内におられます。だから恐れることはありません。これは、素晴らしいことです。恐れないようにしましょう。
 これから東京ミッションに向かって進んでいきます。戦いもますます激しくなると思います。サタンも必死で働き、色々な問題を出すと思いますが、問題を見るのではなく、いつでも主が私たちとともにおられる、どんなに敵に囲まれているように見えても、私たちとともにいるものは彼らといるものよりも多いと信仰を持って前進したいと思います。また、第二歴代誌六章十八節に、

『 アラムがエリシャに向かって下って来たとき、彼は主に祈って言った。「どうぞ、この民を打って、盲目にしてください。」そこで主はエリシャのことばのとおり、彼らを打って、盲目にされた。エリシャは彼らに言った。「こちらの道でもない。あちらの町でもない。私について来なさい。あなたがたの捜している人のところへ連れて行ってやろう。」こうして、彼らをサマリヤへ連れて行った。彼らがサマリヤに着くと、エリシャは言った。「主よ。この者たちの目を開いて、見えるようにしてください。」主が彼らの目を開かれたので、彼らが見ると、なんと、彼らはサマリヤの真中に来ていた。』

と書かれています。エリシャの祈りは素晴らしかったです。兵隊たちの目は見えていたけれど見えていませんでした。逮捕されるはずのエリシャが彼らを先導しました。神様の力は不思議な力です。ついに、サマリヤに連れて行き、「彼らの目を開いてください」と祈ると目が開かれました。その時、イスラエルの王が、二十一節から、

『イスラエルの王は彼らを見て、エリシャに言った。「私が打ちましょうか。私が打ちましょうか。わが父よ。」エリシャは言った。「打ってはなりません。あなたは自分の剣と弓でとりこにした者を打ち殺しますか。彼らにパンと水をあてがい、飲み食いさせて、彼らの主君のもとに行かせなさい。」そこで、王は彼らのために盛大なもてなしをして、彼らに飲み食いをさせて後、彼らを帰した。こうして彼らは自分たちの主君のもとに戻って行った。それからはアラムの略奪隊は、二度とイスラエルの地に侵入して来なかった。」』

と書かれています。「打ってはならない。ごちそうしてあげなさい」と書かれています。私たちは敵を恐れます。しかし聖書は、敵に勝つ道について、「仇のために祈れ」「迫害するものを愛しなさい。」「飢えていたら食べさせてあげなさい。」「渇いたら飲ませてあげなさい。」とあります。これが主の道です。どんなに悪くする人があったとしても、私たちが心から祈れば恐ろしいことはありません。どんなに悪口を言われても、「あの人たちの目を眩ませてください。目を開けてください。」と私たちは神様の前に自由自在に祈ることができます。
 先日クリスチャン新聞から私に電話がかかりました。それは、「滝元先生、ある団体が全日本リバイバルミッションに関係しないように、という声明文を出したので、その団体に対しての声明書を出したらどうですか。」という話でした。特にその中には、悪霊を追い出すということで私の名前が出ていました。しかし私は、「声明文は出しません。」と答えました。甲子園ミッションの時にも悪口を言われているので慣れているかとは思いますが、正直言って、私はこのことを感謝しています。ある教団が「カリスマではない」と書いていましたが、それは差別用語になります。私はカリスマであり、ペンテコステでもあり、福音派でもあり・・・しかし、私はカリスマでも、ペンテコステでもなく、イエス様に属しています。「滝元は悪霊を追い出すから気をつけろ」と言うけれど、私はそうなりたいと願います。私が行くだけで悪霊が驚いて出て行ってしまうような力があったら何と素晴らしいことだろう思います。私は悪口を言った人のために祝福を祈っています。そしてクリスチャン新聞に一言、「全日本リバイバルミッションの主幹である滝元は、私たちの働きは宣教のための働きですから、そのことについて論争する気はありません。今そのような人のためにもお祈りしています。私たちが脱線しないよう、正しい道を歩むことができるように祈ってください。」と書きました。そうしたら、その後、私に一通の無記名の手紙が届きました。「あの記事を見て感動しました。私は思わずハレルヤ、と叫びました。」と書かれていました。
 私たちの戦いは目に見えるものではありません。どんなに反対する人たちも神様に愛されているのです。悪口を言ってはいけません。どんなに迫害してもその人たちも神に造られたのです。愛さなくてはいけません。また、赦すことです。祝福することです。これが勝利の秘訣です。どんなに敵が多くいたとしても、私たちにはイエス様がついているこをを確信し、恐れずイエス様に信頼して前進していきましょう。一言お祈りします。 

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