今週の礼拝メッセージ
流れのほとりの人   1998.5.10(SUN)

新城教会牧師 滝元 順

<今週のメッセージの御言葉>
旧約聖書 詩篇1篇 幸いなことよ。悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着かなかった、その人。まことに、その人は、主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。悪者は、それとは違い、まさしく、風が吹き飛ばすもみがらのようだ。それゆえ、悪者は、さばきの中に立ちおおせず、罪人は、正しい者のつどいに立てない。まことに、主は、正しい者の道を知っておられる。しかし、悪者の道は滅びうせる。

 ハレルヤ!皆さんとともに御言葉を学ぶことができますことを感謝します。皆さんのお祈りに支えられて、アナコンディア先生を迎えての十一日間に及ぶ「全国縦断決起大会」も、大変祝福されたことを心から感謝します。私は北海道を除く九日間、奉仕させていただきましたが、どこも素晴らしい主の栄光が現された集会でした。そのようなわけで、私は二週間、新城教会に帰ることができませんでした。二週前の日曜日には、九州の西南高校の階段入口で礼拝を守りました。また、先週は名古屋決起大会の会場となった厚生年金会館の会議室で礼拝を守りました。私たちは動く幕屋のように、各地を巡りながら集会を持ち、礼拝を守りましたが、どこでも祝福されました。多くの兄弟姉妹がその働きのために協力してくださったことを心から感謝しています。この新城教会からも大勢の兄弟姉妹がスタッフとして出かけてくださり、この働きが支えられました。しかし、その間、残された兄弟姉妹は少し寂しい思いをされたかも知れませんが、私たちの教会は、空軍基地のような教会で、戦闘機や爆撃機が各地に飛んで行き、色々霊的要塞に攻撃と爆撃を仕掛けて、また、ここに帰って来ます。これからも皆で、日本のリバイバルを祈り、サポートしていただきたいと願っています。
 今日、学ぶ詩篇の御言葉は、四年程前に学んだ覚えがあります。また、先週の水曜礼拝でも学びましたが、「流れのほとりの人」というタイトルでもう一度学んでいきたいと思います。詩篇は「詩」ですから訳も詩的な表現がなされています。新改訳聖書で、『幸いなことよ。悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着かなかった、その人。まことに、その人は、主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。』の箇所は、「その人」という言葉がキーワードとなって、つながれています。初めに出てくる「その人」が次の「その人」にかかり、次の「その人」がまた次の「その人」にかかり、最後の「その人」が全部を受けるというような詩的な表現です。詩的な表現はよく味わって読まないとわかりにくいです。この点を新共同訳聖書では、わかりやすく訳しています。一節から三節には、

『いかに幸いなことか。神に逆らう者のはからいによって歩まず、罪ある者の道にとどまらず、傲慢な者と共に座らず、主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ人。その人は流れのほとりに植えられた木、時が巡り来れば実を結び、葉もしおれることはない。その人のすることは全て繁栄をもたらす。』

 さて、ここでは「幸せな人」について教えています。「いかに幸いなことか!」は感嘆文です。それは、「神に逆らう者のはからいによって歩まない人」であるとうたっています。  「神に逆らう者」とは根本的にはサタンのことです。神の国に対抗するのはサタンの勢力です。サタンは「はからい」、即ち、「策略」を持っています。ですからこれは、「策略にはまらない人は何と幸いか」ということです。
 今回、アナコンディア先生の集会で、多くの人がサタンの策略から解放されました。クリスチャンでありながらも策略にはまっている人々が多く解放されました。解放の為にはすでに、十字架の血潮が備わっています。しかしながら、なぜ、イエス様を信じているのに、依然として束縛があるでしょうか。それは悪魔の策略にはまっているからです。悪魔の策略はたくさんありますが、その代表的なものが三つあります。
 人間は、霊と魂と肉体の三つの領域からなり、それが一つとなっています。悪魔はこの三つの領域を束縛する最も効果的な策略を持っています。それは、まず霊の領域に対するものです。この霊の領域の代表的束縛は、「偶像礼拝、占い、オカルト」です。絶対に偶像礼拝に、はまってはいけません。偶像礼拝から完全に離れなくてはなりません。偶像から離れると家や村、地域から迫害されるかもしれません。しかし、堅く立ってください。なぜならば、偶像礼拝は人を束縛する最も大きなサタンの策略だからです。
 第二に魂の領域へのサタンの策略は、「憎しみ」です。「怒っても罪を犯してはなりません。」とエペソ書に書かれています。
 怒りは人間の自然な反応です。怒りとは神が与えた感情です。しかし、「怒り」は「生鮮食料品」のようなものです。生鮮食品は、一日は食べられます。たとえば、刺身も一日目はおいしく食べられますが、二日目になると色が変わり腐ってくるように、「怒っても罪を犯してはなりません。日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません。」とあるように、怒りも一日で全て治めないと二日目は生鮮食品のように腐り出し、蝿がたかります。悪魔が近づいて来てあなたを束縛するのです。憎しみに捕らわれることは感情的問題と言うよりも、「霊的問題」です。今回、アナコンディア大会で解放された人の七割以上が、憎しみからの解放でした。憎しみは恐ろしいものです。私たちはどんなことがあっても、人を赦さなくてはなりません。これも大きな悪魔の策略です。今日、もしも皆さんの中で、赦すことができないという思いにはまっていたら、サタンの策略にはまっています。
 肉体の領域を束縛するサタンの策略は、「不品行、姦淫」です。この世の中がどんなに堕落しても、しっかりと聖さを宣言しなくてはなりません。教会は性的な罪と断固として戦わなくてはなりません。これは契約的な罪です。私たちを束縛するものです。「悪しきものの策略にはまらないことは、何と幸いなことか。」また、「罪ある道にとどまらないように」とあります。罪の中にとどまっているならば、サタンの策略にはまっているのです。
 また、「傲慢なものとともに座らず・・・」と書かれています。高ぶりは最終的に人生を砕くものです。そして、主の教えをいつも口ずさまなくてはなりません。よく聖書を読む人は幸いな人です。先週皆さんはどれくらい御言葉に親しまれましたか。よく御言葉を読んでください。あなたがよく御言葉に親しむなら、幸せになることができます。このような人は、「流れのほとりに植えられた木。時が巡ってくれば実を結ぶ。」と詩篇の記者は記しています。
 この付近には、色々な種類の植物があります。しかし、同じ種類でも、生えている場所によってその成長度が違います。一番大きな成長を遂げているのは、やはり川のほとりにある植物です。新城市は緑の多いところです。時々、豊川でバプテスマを行いますが、豊川に行くと高い木が川沿いにたくさん繁っています。川沿いの木々は、他の場所の木々とは比べものにならない成長度です。ここで詩篇の記者は、人を木に例えて教えています。我々はクリスチャンとして、日々、成長していかなくてはなりません。しかし、この成長は自然な作用です。今日も献児式が行われますが、最近教会には多くの赤ちゃんが誕生しています。嬉しいことです。赤ちゃんは自然に成長しています。乳を飲んでいれば成長します。川のそばに立っている木々も自然に成長し、時が経てば自然に実を結びます。
 今週はリバイバル神学校があります。今回は、エゼキエル書を専門的に学びます。さて、聖書を理解するためには「聖書解釈学」という学問があります。昨年、リバイバル聖書神学校でこの学びをしました。聖書も法則に従って理解しないと危険なところもあります。ある人は、朝起きて聖書をパッと開いて、ある箇所だけを適当に読む人がいますが、これは危険な面もあります。
 例えば、ある人が朝聖書を開いたら、マタイの二十七章五節に目が止まりました。そこには、「彼(ユダ)は外に出て行って首をつった。」と書かれています。しばらくして、また、別の箇所を開きました。それは、ルカの十章三十七節でした。そこには、「あなたも行って同じようにしなさい。」と書かれていました。・・・こんな読み方をしたら大変なことになります。聖書には文脈があります。文脈に従って読むべきです。全体で何を言おうとしているかを読み取ることが大切です。聖書は六十六巻ですが、同時に、一冊の本です。時に、神様は御言葉を単独的に「御言葉の剣」として私たちに使わせます。しかし、その前に御言葉を大枠でしっかりと捕らえなければ、先程のような危険が伴います。
 聖書解釈の原理の一つに、「初回言及の原理」というものがあります。それは聖書に出てくる言葉が、後に何を意味しているかを把握し全体的に聖書を理解する手法です。例えば、詩篇に「木」という言葉がありますが、調べていくと最後には「人」となっています。また、「油」は「聖霊」を現しています。ということで、最初に出た言葉が最終的に何を表しているかを知って、全体を把握する方法です。ところで、「水」、「流れ」という言葉についての言及は、ヨハネの福音書七章三十七節に、

『さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。「だれでも、渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。』

と書かれています。「水」は、「御霊」のことです。「木」は人、「水、」即ち、「流れ」とは御霊です。ということは、御霊の流れによって人は成長するということを、詩篇の記者は御霊に感じて記したわけです。聖書全体から見ると、そのことがわかります。
 エゼキエル書に、エゼキエルが見た幻について書かれています。エゼキエルは、バビロンで活躍した預言者でした。当時ユダヤ人はバビロンに捕囚され、エルサレムの神殿は破壊されてしまいました。そのような中、彼は神から幻を見せられました。それは、壊れてしまったはずの神殿が新しく建っている姿でした。彼は幻の中で新しい神殿に連れて行かれたと記しています。四十七章には、「神殿の敷居の下から水が流れているのを見た」と書かれています。また、その流れに沿って、一千キュピト下流には足首まで水深がありました。また一千キュピト下流に下り、渡ると水深はひざまであったそうです。また一千キュピト下流に下り渡ってみると腰まで水かさがあったというのです。なお、一千キュピト下流に下り渡ろうとすると、そこは渡ることのできない、大川になっていたのです。そんな幻をエゼキエルは見せられたのです。そして、

『川のほとり、その両岸には、あらゆる果樹が生長し、その葉も枯れず、実も絶えることがなく、毎月、新しい実をつける。その水が聖所から流れ出ているからである。その実は食物となり、その葉は薬となる。』

 そこでエゼキエルは、川に沿って両岸に大きな木々が茂っている幻を見ました。ここにも「木」がでできます。エゼキエルは「水」と「木」というキーワードで幻を見せられました。これは、イスラエルの再建の幻でもありますが、同時に、終わりの時代に対する幻です。
 昨日、私は東京ミッションの「ジョイフルサパー」で奉仕しましたが、今回のメッセンジャーは中川健一先生でした。先生は私も今朝、語ろうとしていた、この箇所からメッセージを語られました。そして、これは今の時代に対する預言だと語られました。
 初代教会から聖霊の流れが始まり現在に至るまでその流れは続いています。一千キュピトはメートルに直すと、約五百メートルです。五百メートル下流は足首まで水かさがあり、また五百メートル下流は、ひざまで、また五百メートル下流は腰まで、さらに五百メートル下流は泳げるほどの大川になっていたというのです。全体で二千メートルです。
 現代はイエス様がお生まれになってから約二千年を迎えますが、今ほど御霊の流れが大きくなった時代はないと言われます。キリスト教二千年の歴史の中で、現代ほど多くの人々が続々と救われている時代はありませでした。初代教会にリバイバルが起き、多くの人々がイエス様を信じましたが、しかし、今ほど爆発的に宣教が拡大している時代はないのです。
 先日、クリスチャン新聞に一つのデータが発表されていました。それはアメリカの「フロンティア・ミッション・アップデート」が発表した、昨年全世界でクリスチャンになった人数の統計です。その統計が全て正しいわけではないとは思いますが、それによると、昨年、全世界で約千五百万人がキリストのもとに導かれたというのです。そして、一位から五十位までの国別リストが発表されました。それによると、一番多く魂が救われた国は中国だそうです。中国では五百万人の人々が一年間にイエス様を信じたと言うのです。宣教困難な、共産国の中で大リバイバルが起こっているのです。そして第二位がブラジルの百八十四万人。第三位がアメリカで百万人。アジアで中国以外に多かったのが韓国で八位、三十二万人だそうです。
 ところで、日本は残念ながらこの五十位の中にも入っていません。昨年、日本での受洗者数の総計は四千人でした。日本には約八千の教会があり、一昨年は教会の礼拝出席人数の平均は三十五人でした。しかし、昨年の平均出席は三十四人でマイナス一でした。ということは、日本では約八千人が教会から去ってしまった計算です。しかし、内訳は新しく四千人が補給され、結果的に八千人減にとどまったのです。仮に、四千人が救われなかったとしたら、死亡した人も含めて、一万二千人が教会から去った計算です。古くから教会に集っていた人たち一万二千人が去り、新しく四千人が加わり、結果的に八千人の減というわけです。これは世界の流れと大きく食い違っている結果です。どうにかしなくてはなりません。
 昨日、中川先生がメッセージの中で「健康な教会へのかぎ」という本を紹介されました。それはディック・ウォレンという先生が書かれた本で、アメリカでベストセラーになった本の邦訳です。私も買って読んでいますが、そこには、教会や個人が成長する秘訣について書かれています。その中に、サーフィンをやる人は波にいかしてに乗るのかを習うのであって、決して波の立て方は習わない。そして、一度波に乗ってしまうと、次の波にも乗れるものだ。我々も、神が送ってくださる波に乗れば良い、神の送られる波に一度乗るなら、次の波にも乗ることができるとありました。
 私たちも神が送ってくださる波に乗ることが必要です。どうも、日本は波に乗っていないようです。中国の教会はあのような激しい迫害の中でも波に乗っているのです。だから一年間に五百万人もが救われました。それに比べ、日本では減少傾向というのですから悲しいことです。終わりの時代には川幅は広く深くなるのです。私たちも今、主が世界に送られている波に乗り、また、御霊の川のほとりに植えられるならば、季節が来れば実を結ぶことができるはずです。
 植物は気が付けば実を結んでいます。私の家にせんだんの木があります。毎年たくさんの実をつけます。実を結ぶ前になると、木がうめき声をあげるようなことは決してありません。音もなく知らない内に実をつけます。私たちも何か努力して実を結ぶのではなく、流れのほとりに植わっていれば自然に実を結ぶことができるというのです。
 エゼキエル書には実だけではなく、「葉」についても記されており、「その葉は薬となる」と書かれています。流れの側にいると知らない内に葉が出て、葉は「薬」となるというのです。「葉」とは、ある意味で「賜物」と理解できます。
 アナコンディア大会で四国に行きましたら、ひとりの女子高生が私の所に来て、「先生。私を覚えていますか。」と言われました。私は、多くの方々に出会っているので、なかなか覚えきれず忘れてしまいます。「ごめん。覚えていません。」とはっきり言いました。すると、「私は先生が去年、四国に来られた時に祈ってもらいました。」と言うので、どんなことを祈ったのかを聞きました。すると、「片足の神経が生まれつき麻痺していて、画びょうを踏んでも痛みを感じず、やけどをしてもなんとも感じないので祈ってくださいと頼んだ者ですが・・・」と言われました。
 去年の十一月頃、四国に行った時のことを思い出しました。その時、彼女はある牧師先生に連れられて来ました。私にも同じ年頃の娘がいますので、本当にかわいそうに思い、頭に手をおいて真剣に祈ると、彼女はその場に意識を失ったかのように倒れてしまいました。集会が終わるまで三十分くらいそのままでした。しばらくして彼女は起き上がって、「何となく、感覚が戻って来たような気がします。」と言ったのを覚えていますが、その後、どうなったのかは知りませんでした。
 しかし今回彼女が来て、「先生、完全に直りました。あの生まれつきの麻痺が直ってしまいました。痛みを感じます。感覚があります。」と言うのです。私が、「それでは画びょう踏んでみて」と言うと、「ダメ。ダメ。痛いから・・。」と言っていました。私は心から主に感謝しました。このような者の祈りにも、主が答えてくださったことを心から感謝しました。それで、「私も少しは葉が茂ったかな」とうれしく思いました。
 ふつうならば、ここでメッセージを終えたいところですが、木と水というキーワードで聖書を見て行く時、もう一つのストーリーを発見できます。それは、ダニエル書です。ダニエル書に生長した木について書かれています。ダニエルもエゼキエルと同時代にバビロンで活躍した預言者です。ダニエルもエゼキエルと同様、大きな木の幻を見ました。その木は多くの実を結んでいました。四章十一節から、

『その木は生長して強くなり、その高さは天に届いて、地の果てのどこからもそれが見えた。葉は美しく、実も豊かで、それにはすべてのものの食糧があった。その下では野の獣がいこい、その枝には空の鳥が住み、すべての肉なるものはそれによって養われた。』

と記されています。ここに、素晴らしい木がありました。生長してなんと天まで届いているような大きな木でした。それは誰からも、どこからも見え、実を結び、葉が茂って多くの獣たちが憩い、素晴らしい木であったというのです。しかし、続いてダニエルが見た幻は、

『私が見た幻、寝床で頭に浮かんだ幻の中に、見ると、ひとりの見張りの者、聖なる者が天から降りて来た。彼は大声で叫んで、こう言った。「その木を切り倒し、枝を切り払え。その葉を振り落とし、実を投げ散らせ。獣をその下から、鳥をその枝から追い払え。ただし、その根株を地に残し、これに鉄と青銅の鎖をかけて、野の若草の中に置き、天の露にぬれさせて、地の草を獣と分け合うようにせよ。その心を、人間の心から変えて、獣の心をそれに与え、七つの時をその上に過ごさせよ。』

 ダニエルの見た幻は、その大きな木が切り倒されるという悲惨な幻でした。それはバビロンの王、ネブカデネザルに対する幻でした。
 ダニエル書を一章から読んでいくと、ネブカデネザルは大きな偶像を広場に建て、拝むよう全国民に指示し、それを拝まなかったユダヤ人、シャデラク、メシャク、アベデネゴを捕らえて、火の中に投げ込んだことが記されています。しかし、この三人は焼かれず火の中でも生きていました。しかも、三人を火の中に投げ込んだのに、四人が火の中を歩いていたというストーリーです。あとでよく読んでみて下さい。
 それを見たネブカデネザル王は、自分が仕えていた神は偽りで、イスラエルの神が真の神であると宣言しました。それから、王は大変祝福されました。しかしながら、切り倒されるような始末になったのは、ある時、彼がそのバビロンの街を見ながら、「これらはすべて私が造ったのだ。俺の力がこの街を造った。」と高ぶったことによりました。その時に天から声が聞こえました。それが夢となってネブカデネザルに見せられました。その夢の解きあかしをダニエルが行ったのです。四章十七節で、

『この宣言は見張りの者たちの布告によるもの、この決定は聖なる者たちの命令によるものだ。それは、いと高き方が人間の国を支配し、これをみこころにかなう者に与え、また人間の中の最もへりくだった者をその上に立てることを、生ける者が知るためである。』

と書かれています。私たちは流れのほとりにあれば自然と成長することができます。しかし、その後が大切であると教えています。「私は成長した。私によって素晴らしい御業が起こるようになった。」しかし、その時、主は言われます。「お前が自分で成長したのではない。わたしが成長させたのだ」と。高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みを与える主です。
 今回のアナコンディア先生の集会は祝福されました。恵まれました。皆が一生懸命に協力し、祈り、とても恵まれた集会となりました。集会は先週の火曜日の夜に全て終了しました。そして翌日、水曜日はとても疲れていましたが、勇士と共に県民の森に祈りに行きました。感謝の祈りと共に、「与えられた油の注ぎをなくさないよう祈ろう」と、意気込んでいました。そして主の前に祈り、一人ひとりが感謝の祈りをしていました。祈っていると、ある方に主が霊を注がれ、祈りが預言的な祈りに変えられて行きました。その祈りを聞いて、私も、そこにいた皆も打ちのめされ、主の前にひれ伏してしまいました。それは、「集会が祝福されたのは、お前たちが頑張ったからではなく、主が働らかれたからだ。すべての栄光を主の帰さなくてはならない。」ということでした。これは神が私たちに語っておれると強く感じました。
 私たちは神からの祝福を受けると、知らないうちに自分たちが努力し、一生懸命に祈った当然の結果だと高ぶりやすいのです。しかし、それは間違いです。すべては神がなされたことであり、主に栄光を帰さなくてはなりません。それは、「あなたがたの高ぶりを悔い改めなさい。」という神からのメッセージでした。だから、ひれ伏して「主よ赦してください。自分が栄光を取っていたことを赦してください。自分に賜物があり、油注ぎがあると思っていたことを赦してください。すべては主が成してくださった結果です。」と悔い改め、栄光をお帰ししました。
 成長することは大切ですが、その後がもっと大切です。決して切り倒されることがないよう、主に栄光をお帰しする事が最も大切です。
 我らの神は最低の所からでも最高のものを出すことができるお方です。ネブカデネザル王は野の獣と同じようになってしまいました。しかし、後に王座に戻ることができました。「野の獣が王になる・・・、これらすべては主が成さることだ」と教えられたのです。
 私たちも気をつけなくてはなりません。「この宣告は見張りの者たちの布告によるものだ。」と書かれています。これは新共同訳聖書では、「この宣告は、見張りの天使らの決定による。」と書かれています。私たちをいつも見張っている天使がいるのです。あなたはそれを信じますか。一人ひとりの所に天使が遣わされており、あなたを助け、守っています。しかし、同時にすべてを見ているのです。たぶん天使はチェックリストを持っていて、私たちの一つ一つの行動をチェックし、神様に、「今日、彼はこんな行動をとり、これだけ高ぶっていました。」と提出します。神様がそれを見て、「仕方がないな。こんなに高ぶっていては・・・。切り倒すしかないか。」と言われては困ります。決して高ぶることなく、どんなに祝福されてもへりくだって、すべての栄光を主にお帰しするならば、木は枯れることはありません。また、実を連続して結びます。今日ここにおられるすべての方が、流れのほとりに植えられ、その木がいつまでも切り倒されず存続するために、すべての栄光を主にお帰ししましょう。一言お祈りします。

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