今週の礼拝メッセージ
祈りが答えられる秘訣   1998.5.24(SUN)

新城教会牧師 上條 実

<今週のメッセージの御言葉>
ヨハネの手紙第一 3章16節〜23節
キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです。世の富を持ちながら、兄弟が困っているのを見ても、あわれみの心を閉ざすような者に、どうして神の愛がとどまっているでしょう。子どもたちよ。私たちは、ことばや口先だけで愛することをせず、行ないと真実をもって愛そうではありませんか。それによって、私たちは、自分が真理に属するものであることを知り、そして、神の御前に心を安らかにされるのです。たとい自分の心が責めてもです。なぜなら、神は私たちの心よりも大きく、そして何もかもご存じだからです。愛する者たち。もし自分の心に責められなければ、大胆に神の御前に出ることができ、また求めるものは何でも神からいただくことができます。私たちが神の命令を守り、神に喜ばれることを行なっているからです。神の命令とは、私たちが御子イエス・キリストの御名を信じ、キリストが命じられたとおりに、私たちが互いに愛し合うことです。

 ハレルヤ!今日御言葉を取り次ぐことができることを感謝します。皆さんにお祈りいただき、リバイバルミッションの働きも祝福されていることを感謝します。東京リバイバルミッションまで、あと一一七日に迫りました。決起大会も順調に行われています。本大会までに千回の決起大会をすることが目標です。感謝な事に今までで五百回以上の集会をさせていただきました。神様はこの日本に素晴らしい祝福を与えてくださっていることを感謝しています。
 早速御言葉を学んでいきましょう。先週は滝元順牧師をとうして素晴らしい御言葉が語られました。人の陰口・批判を言わない。さばかない。それが幸福になるための条件であると学びました。私も唇がきよめられるようにと、祈りつつ一週間を過ごしました。そんな中、いかに自分が人の陰口や悪口を言い、人を批判していたかということを思い知らされました。あの人はこう言っていた、あの人はこうだから・・・とすぐに人の陰口を言ってしまい、そういう事を語らないようにと意識して生活していると、何も話すことができない程でした。皆さんもそうだったと思いますが、本当に素晴らしい礼拝でした。そして先週一週間過ごす中で、神様は私に素晴らしい御言葉を教えてくださいました。ヨハネの手紙第一三章十八節に、

『子どもたちよ。私たちは、ことばや口先だけで愛することをせず、行ないと真実をもって愛そうではありませんか。』

と書かれています。唇がきよめられて、悪口、批判を言わないことは幸せになる秘訣ですが、口には出さなくても、自分の心の中では批判と悪口で満ちている状態でした。「口先だけで愛することはいけない。行ないと真実をもって愛しなさい。」と教えています。口では悪口・批判は言わなくなったとしても、心から赦し、実際のおこないの伴った愛を持たなくてはいけない。悪口・批判をやめるだけでなく、互いに愛し合うことも必要だと教えられました。二十二節から二十三節に、

『また求めるものは何でも神からいただくことができます。私たちが神の命令を守り、神に喜ばれることを行なっているからです。神の命令とは、私たちが御子イエス・キリストの御名を信じ、キリストが命じられたとおりに、私たちが互いに愛し合うことです。』

と書かれています。祈りが答えられる秘訣は、私たちがイエス様を信じることと、もう一つは互いに愛し合うことだと書かれています。 私たちは色々な祈りの課題があります。ある時には、緊急の祈りの課題があり、また昔からの祈りの課題もあります。そのような中で答えられた祈りも多くあります。大変感謝です。祈りは聞かれるという約束は信じていますが、祈り続けているにも関わらずまだ答えられない祈りがあります。日本のリバイバルのために祈り続けていますが、まだ目に見えてのリバイバルは起こっていません。祈り続けているのに、どうして答えられないでしょうか。ある本にこんなことが書かれていました。ノミをコップの中に入れると、七・八秒でコップから飛び出してしまうそうです。しかし、そのノミをもう一度コップに入れ、コップの上にハガキもしくは紙で蓋をするとノミは一生懸命跳ねますが、二十秒くらい跳ね続けて、跳ねるのをやめてしまうそうです。やめてしまったのを見計らって上のハガキを取ると、障害物はありませんのでノミは飛び出すことができるのですが、ノミはあきらめてしまい、死ぬまでコップの中にいると書かれていました。日本の文化は残念なことですが、仏教が基本になっていると言っても過言ではありません。それだけ日本は縛られています。その仏教はあきらめの宗教です。釈迦が木の下で人生について考えていた時に結局わからず、あきらめてしまったというのが始まりです。だから、日本のベースはあきらめです。そのベースの中に過ごしている日本人は、多くの面であきらめてしまっています。そのあきらめが私たちの信仰生活の中でも、あると思います。「これだけ祈り続けたが、答えられないのは・・・信仰が弱いから、神様に愛されていないから、自分の祈りは下手だから、・・」など、私たちはあきらめてしまがちです。しかし権威ある御言葉は「神にとって不可能なことは一つもない」とあります。私たちはもう一度祈り続けて行くべきです。その祈りの中で更に今日、「私たちは互いに愛し合うこと」私たちクリスチャンの中に、互いに愛し合うという、神からの愛が欠乏しているために、祈りに答えてくださらないと御言葉で教えられています。ではどんな愛に満たされて行くとき祈りは答えられるのでしょうか。十六節に、

『キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。』

と書かれています。第一にイエス様が私たちのために十字架にかかってくださったこと、どんな犠牲をもって私たちを愛してくださったのかを覚えなくては、知らなくてはいけないと言うことです。今日覚えてください。あなたのためにイエス・キリストは十字架に架かってくださいました。あなたのために命を懸けてくださった方がイエス・キリストです。イエス・キリストがこの地上に来てくださり、私たちを愛するがゆえに、私たちを愛して十字架にかかってくださいました。イエス・キリストは私たちのために罰を受けてくださいました。私はクリスチャンホームに生まれましたので、「イエス様が十字架にかかってくださった。それは私の罪のためであり、そして身代わりとなって地獄に行き三日目によみがえってくださった」というこの素晴らしい救いを素直に受け入れました。しかしクリスチャンホームの子ども達は知識では知っています。しかしもう一度イエス様を覚えてください。クリスチャンホームの方だけでなく、今日ここにいる皆さんももう一度覚えてください。「御自分のいのちをお捨てになりました。」と書かれていますが、今日イエス様があなたのために命を捨ててくださったことがどんなに大きなことか。どんなに苦しみを受けてくださったか。どんな痛みを覚え、苦しみを覚えてくださったかを覚えてください。あなたのためにムチを打たれ、くぎを打たれ、いばらの冠をかぶられ、つばきをかけられ、殴られて、苦しんで十字架にかかってくださいました。そしてあなたが行かなくてはならない地獄にイエス様が行ってくださり、三日目によみがえってくださいました。その事によって私たちは救われたのです。このイエス様をあなたが心から愛する時、祈りは答えられます。イエス様はあなたをどれだけ愛されているかをしっかりと覚えて下さい。十字架の愛、イエス様がどんな苦しみを受けてくださったか、私たちが罰を受けなければならなかったところをイエス様が代わりに罰を受けてくださいました。本当は地獄に行かなければなりませんでした。永遠のさばきの場所、地獄に行かなくてはなりませんでした。しかし、イエス様の十字架を信じるだけで、救われるのです。ラザロと金持ちの話が聖書に書かれていますが、金持ちが「水一滴でも良いのでラザロを使わして私の舌を冷やしてください。」と言いました。一滴の水もない、そんな苦しい場所に永遠に入らなければなりませんでした。しかし、私たちが自分の罪を悔い改め、私の罪のために葬られて三日目によみがえってくださったイエス様をしっかりと信じた時に、ただ恵みによって、救われたのです。この大きな神様の愛を覚えていかなくてはならないと思います。私たちは毎週聖餐式を行ないます。今日も十字架の愛を心から感謝したいと思います。昨日ほさなクラブで十字架のことを学びました。その時聖餐式の意味を子どもたちとともに考えました。聖餐式のパンとジュースはイエス様の肉と血だと話しました。本当は私たちが十字架にかかるべきなのに身代わりにイエス様がかかってくださいました。本当は私たちが血を流し、裂かれなければいけないところを、イエス様が変わりに十字架にかかり、傷ついてくださいました。今日はまず、十字架の愛を覚え、そのイエスキリストを心から愛し、従うことが大事であることを覚えて行きましょう。
 またもう一つは、十六節の後半に、

『ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです。』

と書かれています。イエス様は私たちを生かすために自分の命を捨ててくださいました。イエス様の愛は与える愛です。ですから、私たちは愛する兄弟のために愛を与えていくべきです。与える愛を持って行くべきです。十七節から十八節に、

『世の富を持ちながら、兄弟が困っているのを見ても、あわれみの心を閉ざすような者に、どうして神の愛がとどまっているでしょう。子どもたちよ。私たちは、ことばや口先だけで愛することをせず、行ないと真実をもって愛そうではありませんか。』

と書かれています。私たちは本当に兄弟を愛しているのでしょうか。口先では、自分の家族、兄弟を愛している。また、兄弟姉妹を愛していると愛していると言いながら、口先の愛で終わっていないでしょうか。私は牧師ですので、皆さんから祈ってくださいと言われます。そしてお祈りをします。祈り終わった後「引き続きお覚えて祈って下さい」と言われます。しかし祈り終わってその方から離れてしまうと忘れて祈っていないのです。売り言葉に買い言葉のような感じで、続けて祈りますと言いながら祈らない。口先の愛なのです。たまにその人の顔を見ると思い出し、「あの人はあんなことを言っていたなあ。」と思いだし心の中で祈ります。口先では、「祈りますから。」と言いながらも、自分の中に愛がないために祈っていないのです。また、兄弟姉妹の中には、多くの苦しんいる人、悲しんでいる人がいても私たちは何も思わずに、その前を通り過ぎてしまっています。それ以上に私たちは、その苦しんでいる方の傷口を、言葉や行ないによって、もっと傷つけてしまっているような者だとこの御言葉を読んで思いました。
 「互いに愛し合いなさい。」と書かれています。結婚をしている人は、覚えて下さい。夫婦愛し合っているでしょうか。私たちは神の摂理によって、夫婦とさせていただきました。素晴らしい幸せを私たちに与えてくださいました。しかし、夫婦の中に愛が冷えてしまい、相手のことを無関心になってしまい、会話もなく、愛が失われてしまっていたのならば、今日もう一度夫婦の愛を神様によって燃え立たせていただきましょう。口先で愛するのではなく、行ないによって愛して行きましょう。
 また、自分の家族、兄弟を愛しているでしょうか。顔を合わせれば兄弟喧嘩をしていないでしょうか。聖書は「兄弟をいのちをかけて愛しなさい。」と書かれています。ですから、私たちは肉なる兄弟を互いに愛し合い、良い家庭を築いていくべきです。今新聞を見る時に、家庭崩壊があり、傷ついています。しかし、私たちクリスチャンは、互いに愛し合い、一つになって主のために働いていくべきです。一昨日の新聞に新城の八名の方に、たくさんの蛍が出てきれいだという記事がありました。私が住んでいる新城の豊栄でも蛍を見ました。私は、先週金曜日祈るために夜、川に歩いて行きました。するとそこにきれいな蛍を見つけ、祈るどころではなく、蛍を一生懸命に捕まえて、家まで持って行きました。祈りに行って来ると言いながら、たった十五分ぐらいで帰って来たので、家族に驚かれ「何でこんなに早いの」と言われてしまいました。私が興奮して蛍のことを話したので、子ども達も一緒に再び出かけて行きました。子ども達も大喜びでした。暗いところで光る蛍はとてもきれいです。今日本の兄弟、夫婦家族の愛は真っ暗やみのような状態かも知れません。そんな時にこそ私たちクリスチャンの家族が愛し合い、労り合い、家族の絆を持ち続けていたならば、周りの暗やみから見れば、私たちの家族は光りに見えます。金曜日の夜、子どもを連れて蛍を見に行きましたが、河原の護岸があり危ない所にも関わらず、子どもたちは、あまりの蛍の光りの綺麗さのゆえに、護岸を勢いよく下りて行ってしまいました。見ている方がはらはらしていましたが、その蛍の光につられて追って行ったのです。蛍の光に魅力があるからです。それと同じように私たちクリスチャンの家族が愛し合う時、周りの人はその光を見て追ってくるのではと、蛍を見ながら思わされました。今日家族をもう一度建て直していただきましょう。互いに愛し合いましょう。愛は自分のためにするのではありません。利益を求める愛ではいけません。与える愛です。イエス様は命をかけて愛してくださいました。私たちを生かすためにイエス様は十字架に架かって下さいました。だから私たちも、人のために愛を注がなくてはいけません。人のために、家族のために心を尽くして愛していくべきです。
 また、あなたは主にある兄弟姉妹を愛しているでしょうか。感謝なことに新城教会には愛が満ち溢れています。いつもお互いのために祈り合い、愛し合っていることは素晴らしいと思います。神様の計画の中でこの教会の兄弟姉妹が一致して、更に愛し合うとき、新城教会の祈りの課題である、この地域の救い、リバイバルが与えられると信じます。ですから、更に兄弟姉妹がお互いに祈り合い、益々愛し合って行く時に、教会の祈りの課題であるリバイバルが起こされ、皆さんの祈り課題も答えられることを覚えてください。私の家庭のために祈ってくださることを感謝しています。特別長男の病いのために、祈って下さり感謝しています。「息子さんどうですか。祈っていますよ。」と言われる時、何とも言えない慰めと喜びを感じます。豊田から来られている長谷川兄姉の長女が時々来てくださっています。そのお姉さんも顔を見る度に「息子さんどうですか。毎朝イエス様に祈っていますよ。」と声をかけてくださいます。まだクリスチャンでもない方ですが、イエス様の名前によって祈って下さっているのです。私の家庭のために祈ってくださっている。何とも言えない感謝を覚えます。「困っている人を見ても哀れみの心を閉ざすような者にどうして神の霊が留まっているでしょう。」と書かれています。私たちは困っていたり、苦しんでいても知らない顔をして通り過ぎてしまっている、まるで良きサマリヤ人の話に出てくる、祭司やレビ人のように、目の前で苦しみ、倒れているにも関わらず、遠回りしてそこを避けてしまっているようなものではないかと思います。先週火曜日から木曜日まで三回連続して夜の家庭集会に出させていただきました。その中で水曜日に北設地区の家庭集会があり金入さんの家で家庭集会を初めておこないました。金入さんのお宅は、今アメリカに行っている後藤慎二兄の家のすぐ後ろです。何度か北設楽郡名倉地区に行ったことがありますので遠いことはよくわかっていましたが、夕方六時半に出て行き、着いたのが七時半くらいでした。行くまでに一時間かかりました。私は今回その家庭集会に行って帰って来た時、アメリカに行った後藤兄の愛の深さを感じました。今日も礼拝に来ていますが、豊川に佐藤兄が住んでいます。佐藤兄は車を持っていないということで、後藤兄が彼を愛して、送って行っていました。ある時は家庭集会に彼を出席させ、豊川に送り、その後名倉まで帰っていました。全く反対方向にも関わらず、豊川まで送っていったのです。家庭集会が終わるのは夜十時くらいです。それから豊川まで送ってから家に帰ります。ひとりの兄弟のために、自分の時間を気にせず、「その兄弟が集会に出席して、祝福を神様から受けてもらいたい。」兄弟を愛するがゆえに、そのような犠牲をよく払っていました。忙しい時間の中で、昼間だったらまだしも、夜の疲れて一日の勤めが終わって家でゆっくりしたいと思うのが普通かも知れませんが、後藤兄は佐藤兄を主にあって愛していました。実際先週その道を走ってみて、自分にはできない事だと思わされました。口先だけで、「また来てください」と言葉だけではいけません。犠牲の愛を持ちましょう。お互いに兄弟姉妹が愛し合っていったら、どんなに大きな素晴らしい神様の愛を受けることができるのだろうかと思います。今日今あなたが座っている座席の隣にいる方や前後にいる方がどのような問題を持っているかご存じでしょうか。また、週報にも色々な病いの中にある方や、お産を控えた方がいますが、どれだけあなたはそのために祈って関心を持っておられるでしょうか。先程、お産を控えた姉妹、朏姉が今週予定日だということを祈りの中で聞き、「今週だったのか」と思いました。もし自分の家内なら、いつが予定日だと覚えて祈っていますし、兄姉にも何日だからと祈りの要請をすることでしょう。「隣人を自分自身のように愛せよ。」と言われながらも、いかに無関心であるのかがわかりました。お互いがもっと交わり、兄弟姉妹がお互いに祈りあい、困っている人がいたら、それを助けて、互いに兄弟姉妹が一致していく時に、神様がそこに祈りの答えを現してくださることを覚えていただきたいと思います。ですから、お互いの兄弟姉妹のためにも、祈り合って行きたいと思います。今日そのような時間を後持ちます。人が何を悩み、苦しんでいるのかを聞いて祈りたいと思います。 またルカの福音書六章二十七節に、

『あなたの敵を愛しなさい。あなたを憎む者に善を行ないなさい。』

と書かれています。兄弟姉妹の中で会社や人間関係の中で傷つき、どうしても赦すことができない。敵だと思われるような人がおられるかも知れません。しかし、敵のために祈りなさいとは書かれていません。その人の祝福のために祈りなさいというのでもなく、「敵を愛しなさい。あなたを憎む者に善を行いなさい。」と書かれています。敵に対して私たちは口先で祈るだけではなく、善を行ない愛してあげることが大切です。敵に対して、憎しみのみが心にあり、祈ることも、愛することもできず、その人に善を行うことはできないと思っている方、今日神様から愛をいただきましょう。互いに愛し合い、敵のために愛し、善を行ってあげることが大切です。
 最後に、私たちがいただくべきものは救霊の愛です。私たちが失われていく魂のためにどれだけ愛をもって、祈り語っているでしょうか。数日前、新聞やワイドショーで大きく取り上げていた事件があります。それは人気歌手のエックスジャパンのヒデという人が自殺したということでした。その葬儀の模様をテレビで見ていました。二万五千もの人が葬儀のために行列して並んでいる姿でした。インタビューを受ける姿を見ると涙を流して、「私に愛を教えてくれたのです。」「私に生きる希望を与えてくれたのです。」など語り、ひとりの人のために徹夜で何時間も待っていました。その日はとても暑い日で、五十四人の人が救急車で運ばれ、十数人の人が入院したという報道がなされていました。私はその報道を何も思わず、見ていました。しかし、そのテレビを見ていた時に神様が「お前は、ひとりの魂の死のことでこんなに嘆き悲しんだことがあるか。」と語られた感じがしました。ひとりの魂がいのちを失い、地獄に行ってしまったことを、私は何とも思わずに見ていたのです。身内ならば多少悲しみが溢れてくるかもわかりません。しかし身も知らない人に対しては、何とも感じないのです。イエス様はすべての人のために命をささげて下さったのです。この会堂ができた直後、教会の事務所にひとりの男性が尋ねてきました。髪の毛がボサボサでたばこの臭いに満ち、見るからに疲れている人が来ました。来て開口一番、「救ってくれ。」と言われました。色々と聞いている時、その方は新城の山の方に住んでおり、その人は養子であり、私と同じ年で奥さんは二つ下で同じ境遇の人だったので友だち関係になり、親しくしていました。イエス様を信じてもう間もなく、バプテスマを受けると言った時に、村で神社の祭りがありました。その時彼は悩みきった顔をして、私のところに来ました。「私は養子だから、家の代表として祭りに出席しなくてはいけない。どうすれば良いか」という相談を受けました。その時にはっきりと、私は、「聖書にはこう書かれているから偶像礼拝はしてはいけないし、仕えてはいけない。だから断ってしっかりと立ちなさい。」と聖書から話しました。それは真理です。偶像礼拝をしてはいけません。しかしその人にとってはとても重い言葉であったのかも知れません。彼は重荷となって悩んだあげく、結局、神様を選ぶことができず、村の付き合いを取ってしまいました。彼はその祭りに出席しました。私は彼のために祈っていました。彼がもう一度教会に来ることができるように。強いクリスチャンになることができるように祈っていました。彼は一週間経っても、二週間経っても教会に来ませんでした。そんな中で「あの人の所に訪問に行ってあげなくてはいけない。」と示されました。行こうとは思っていました。しかし彼は悩みきって、教会に来た人だから、私が彼の家に行くと「聖書の教えを守れなかった」という罪責感で精神的プレッシャーを与えてしまうのではないか。病気を悪くしてしまうのではないか。訪問で精神的な圧制をかけてしまってはいけない。もう少し時が経った方が良いのではないかと考えて、彼のところに行くのを後回しになってしまいました。実際その事が良いことだと、思っていました。そんな時に、「先生。あの人を知っていますか。」と聞かれました。「知っているよ。この間まで礼拝していた人ですよ。」と言いました。「その人が自分の家の納屋で首をつって自殺しました。」と聞きました。彼には二人の子どもがあり、何とも言えない辛い、悲しい思いになりました。頭をハンマーで打たれたような気がしました。心の中で「行きなさい。あの人の所に行って励ましてあげなさい。」と示されていました。しかし自分の中で、自分を正当化する色々な理由付けをして、行きませんでした。自分は正しい事をしているかのように考えていましたが、相手は苦しみ、救いを待っていたのです。苦しんだあげく、解決できず自殺をして亡くなって行きました。その子どものことを考える時、かわいそうで仕方ありませんでした。自分が行かなかったことによってその方が亡くなってしまった。その人が地獄に行ってしまった。残された家族のことを考えるだけでも、苦しくてたまりませんでした。エックスジャパンのヒデというひとりの人のために、二万五千人の人が参列し、夜を徹して、その日は暑い日だったので、脱水症状や貧血で倒れてしまう人を見ながらも泣き叫んだ姿を見るとき、彼らの方が何十倍も愛があると思わされました。いつも愛し、祈っていた相手のためにも、一滴の涙も出ない。その魂が地獄に行ったということも何も思わない自分を、もう一度示され、「そうだ。神様に自分の家族や親族、友だちのために救霊の愛を神様からいただいて祈らせていただきたい」と思わされました。救霊の愛を神様からしっかりといただき、まずは私たちが敵をも愛して行くべきです。愛をいただいた時に、二十二節で、

『また求めるものは何でも神からいただくことができます。』

と書かれています。愛の結果何でも神様が祈りを答えてくださると書かれています。今日私は愛の足りなさを覚えています。皆さんはどうでしょうか?お互いに口先ではなく、行ないによって愛し合っていきたいと思います。「愛していますよ。祈っています。」と簡単に言うことができますが、困っている時に行ないを通して真実を持って私たちが愛を行っていく時に、神様がそこにおいて素晴らしい祝福を与えてくださいます。私たちがノミのようにコップの中に沈んでもう駄目と思ってあきらめている祈りの課題も、互いに愛し合う。神様から愛をいただくことによって、祈りを必ず答えてくださるということをもう一度覚えていきたいと思います。一言お祈りします。

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