今週の礼拝メッセージ
願い続ける信仰   1998.6.7(SUN)

新城教会牧師 岡本信弘

<今週のメッセージの御言葉>
新約聖書 ルカの福音書18章1節〜7節
いつでも祈るべきであり、失望してはならないことを教えるために、イエスは彼らに話された。「ある町に、神を恐れず、人を人とも思わない裁判官がいた。その町に、ひとりのやもめがいたが、彼のところにやって来ては、『私の相手をさばいて、私を守ってください。』と言っていた。彼は、しばらくは取り合わないでいたが、後には心ひそかに『私は神を恐れず人を人とも思わないが、どうも、このやもめは、うるさくてしかたがないから、この女のために裁判をしてやることにしよう。でないと、ひっきりなしにやって来てうるさくてしかたがない。』と言った。」主は言われた。「不正な裁判官の言っていることを聞きなさい。まして神は、夜昼神を求めている選民のためにさばきをつけないで、いつまでもそのことを放っておかれることがあるでしょうか。」

 ハレルヤ!主の御名を賛美します。皆さんのお祈りに支えられて、三週間ぶりにこの新城教会で共に礼拝を守ることができることを心から感謝します。先週、先々週と東京リバイバルミッションの決起大会で他の教会で奉仕させていただきました。
先々週は兵庫県で伝道礼拝の奉仕をさせていただきました。初めての教会で、資料も何もなく出かけて行きました。駅に着くと東京ミッションのために熱心に祈っておられる方々が迎えに来て下さっていて、教会に向かう途中「私の教会は東京ミッションについてほとんど知らない人が多いのですが、私たちが願ってこの集会が実現しました」と言われ祈って備えて下さっていたことを知りました。その日は伝道礼拝でしたが、この教会ではこの何十年の間、一度も伝道会をしたことがないということでした。プレイズ出版で刷ったチラシが配られていて、「礼拝出席はいつも十七から十八名くらい」だと言われていましたが、六十名程の人が来られ、決心する人も与えられ、教会の方々がとても喜んでおられました。集会の中で、東京ミッションのアピールをすることができたことも感謝しました。
また先週は川崎で奉仕させていただきました。私は礼拝と決起大会のメッセージと聞いていましたが、礼拝の五分前に、「今日は伝道礼拝です」と言われ、急遽メッセージを変えて奉仕をしました。その教会もとても喜んで下さり、恵まれた時を持つことができたことを心から感謝しました。時々は色々失敗をしますが、神様の哀れみの中でこの奉仕をさせていただいていること、皆さんがいつも背後でお祈り下さることにより、支えられていることを心から感謝します。
東京リバイバルミッションも日に日に近づき、特に六月一日からは整理券が発行され、具体的な準備が進められています。その働きのために毎週三、四日は東京に行っていますが、多くの方々に支えられていることも感謝しています。先週行った教会は、神奈川県ですが、多摩川を隔ててすぐ東京なので「今年、私たちの教会では、いっさい大きな集会をしないで、東京リバイバルミッションが私たちの教会の一つの伝道会として受け止め、私たちの教会でできることは何でもさせていただきます」と力強い言葉を言っていただき、共に祈り合うことできました。今そのような教会が少しずつ増えて、協力していただけることも心から感謝します。この働きがあと三ヶ月程というところまで来ましたが、益々祈っていきたいと思います。
私がよその教会でメッセージの奉仕をする時一番気になるのは、皆さんは慣れているので良いと思いますが、話すのが早いということです。初めに「私は愛知県の田舎から来て、他の所であまり話したことがないので、話すのが段々早くなってします」と断ります。やはり、お年寄りには早いようで、先週行ったところで牧師先生が、私に直接言ったのではありませんが、姉妹たちと話していました。「先生はすごいですね。私が礼拝でいつも話す三倍は話しましたね」と言っていました。「特に私はゆっくりなんですけどね」とも言っておられましたが・・・。
それでは御言葉を学んでいきます。
 お一人おひとり、色々な目標を持っていると思います。今日一日の目標、一年間の目標、十年間の目標。しかし、色々な計画を持ちながら挫折してしまうような時もあります。私は小さい頃から家族から「おまえが一番飽きっぽい、何を買っても何をやらせてもすぐに飽きる」と言われてきました。今日からこうしよう、こういう習慣を付けようと頑張ってはみるのですが、目標までたどり着いたことがほとんどありません。先日、古い日記を何冊か見つけました。懐かしいと思い広げましたが、一冊だいたい十頁くらい書いてあるだけで、その後は全部白紙です。毎年、今年こそは日記をつけようと決心し、切りのいい一月一日か四月一日から初めた覚えがあります。三日か四日くらいは毎日書いてあり、一ヶ月くらい経った頃には一週間に一度になり、そのまま白紙になっています。次の年にもそれを使えば良かったと思うのですが、新しい年には心新たに新しい日記帳を買って書こうと決心し、書き始めました。その年も一週間くらいは書いてありますが、あとは白紙。何年も同じ事の繰り返しで、一冊のノートを終わらせたということがあまりありません。ノートの半分以上は、使えるという状態です。
私たちの祈りの生活を考える時、やはり毎日継続することが難しいと感じることがあると思います。ルカの十八章一節には、

『いつでも祈るべきであり、失望してはならないことを教えるために、イエスは彼らに話された。』

と書かれています。クリスチャンになって、ある人は一年、ある人は五年、十年と、長い間祈り続けている祈りが、きっとあると思います。しかし、なかなかその祈りが応えられないのに失望して、この祈りは御心ではないもしれない、やめてしまおうか、と思っている方もいるかも知れません。しかし、私たちが祈り続け、求め続けることを教えてくれる御言葉があります。

『ある町に、神を恐れず、人を人とも思わない裁判官がいた。その町に、ひとりのやもめがいたが、彼のところにやって来ては、「私の相手を裁いて、私を守ってください。」と言っていた。』

ここを読むと、一人のやもめが裁判官の所に来て、一つの問題について解決を与えて欲しいと願っています。しかし、この裁判官は「神を恐れず、人を人とも思わない」と書かれているところをみると、自己中心で、いい加減な裁判官だったようです。このやもめが来た時に、あまり金も取れそうもないし、取り合わない方が良いだろうと思ったと思います。勿論今の時代はそんなことはなく、しっかりと話を聞いて、裁判が必要かどうかを考えてくれますが、この当時はこの裁判官一人によって自由に決められた部分がありました。

『彼は、しばらくは取り合わないでいたが、後には心ひそかに『私は神を恐れず人を人とも思わないが、どうも、このやもめは、うるさくてしかたがないから、この女のために裁判をしてやることにしよう。』

この女の人は、毎日毎日何回も何回も来て、何とかしてください願ったと思います。裁判官は、初めのうちは取り合わないでいましたが、このまま毎日、何回も来られたのでは、断るのだけでも時間がかかって仕方がない。うるさくて仕方がないからと思い、結果的に裁判をしてやることに決めたのです。やもめの熱心が、このいい加減な裁判官の心を動かし、やもめが願ったとおりになったことが書かれています。たぶんこのやもめも、何回か「もうあきらめようか、こんないい加減な裁判官に言っても仕方がない」と思ったかも知れません。しかし、このやもめがなぜ、ずっと願い続けることができたのでしょう。皆さんも時々、挫折してしまうようなこともあると思いますが、一方ではよく続いたなあ、と思うことがあると思います。自分の好きなことであったら続けることができます。自分の得意なこと、人よりも秀でたことを続けることは可能だと思います。そして、人に喜ばれたり、称賛されたりすることは続け易いのです。また自分ではしたくない、自分では絶対に続かないと思うことでも、誰か特定の人のためにしてあげたいと思うことは、できるものだと思います。もう一つ私たちが続けられる要因は、このやもめのように、人生がかかっている、この問題が解決されなければ前に進めない。そんな切羽詰まった状態の時、継続できるのではないでしょうか。このやもめは、どうしてもという願いをもって毎日のように裁判官のもとに通い、願いがかなえられたのです。私はなぜこのたとえの中に、やもめと裁判官が出てくるのかと考えました。他の人でも友人でも家族でも良かったと思います。
私は若い頃、裁判所に何度か行ったことがあります。交通違反のためでした。一回目は未成年の時、スピード違反で母親同と共に行きました。私は気が小さいので、ドキドキしながら豊橋の裁判所へ行きました。何を言われるかととても心配していましたが、裁判官が「あなたは運が悪かったですね。仕方がないです。ここにサインして下さい。お母さんにもこれからはなるべく迷惑をかけないようにね。免停になるかも知れませんが・・・。罰金はこれだけです」と言われました。いとも簡単に終わり、こんなことだったらこんなに苦しむのではなかったと思いました。その時、裁判官が不当なことを言ったなら、文句を言うことができます。しかし「あなたは罰金何万円です。こういう規定なっていますので」と言われた時に、なぜ、あなたに命令されなくてはならないのだ」とは言いません。もし言ったのならば問題になります。もっと大きな罪に問われるかも知れません。その時にはいつも大きなことを言っている私も「すみません。わかりました。すぐ納めます」という感じで帰って来たのです。同じ人間でも裁判官には特別な権限が与えられています。ですから法に従って私を裁き、また私も「あなたはこういうことを犯したのでこうです」と言われたことを素直に認め、「はい。わかりました」とサインをします。このたとえで、このやもめの訴えに対して裁判をするかしないか、また有罪か無罪か、この裁判官に権限が与えられており、心一つでどのようにでもなりました。それと同じように、私たちの人生すべてを握っておられる真の神様がおられます。神様は私たちがどう思おうと、「本当はこうなるべきではないですか。あの人はこうではないですか」と言ったとしても、神様の心一つでどのようにでもなります。私たちを造られ、生かし、導かれる神様は、私たちのすべてを支配しています。神様の権限の中で、すべてが神様に委ねられています。私たちは神様の御手の中にあります。私たちに今どのような問題があり、どのような願いがあり、どのような目標を持っているのか、神様はすべてをご存知です。私たちの髪の毛一本すら忘れられていないと聖書に書かれていますが、私たちすべてを知っておられ、すべてを導いておられる神様がおられるということを覚えていただきたいと思います。裁判官が自分の自由に人を裁く権限が与えられていたように、神様はそのお心一つで何でも自由にできます。
 先週私は二泊三日で韓国に行って来ました。二泊三日と言っても、夜中に着いてその次の日一日いて、次の日にはもう飛行機で帰るという、実質向こうにはまる一日いただけでした。十数年ぶりでした。私は勿論英語はできませんが、少しくらいの単語は知っています。韓国でも日本語か英語が通じるかと思って行きましたが、タクシーに乗ったらタクシーの運転手さんは、英語も日本語もわからないという状態で困った時もありました。 今回は観光ではなく、プレイズ出版が四月に出版した『カイロス』という雑誌の第二号に、韓国のリバイバリスト、申賢均先生の特集を載せるため、取材に出かけたのです。インタビューの中で、先生がどれほど日本に重荷をもっておられ、日本を愛し、日本のリバイバルを願っておられるかをもう一度、教えられました。先生は色々な所から要請があるけれども、海外では日本とアメリカが一番出かけることが多く、そのアメリカと比べても、比較にならないほど日本に来て下さっているそうです。そして一番願っていることは、日本のリバイバルだと言われました。日本を本当に愛しておられます。自分の国以外で一番日本を愛しているそうです。そして「日本がリバイバルの一番期待のかかる可能性のある所だ。だから年間十回以上日本に奉仕に行っている」と言われていました。色々話を聞きましたが、やはりリバイバルのためには「祈り」がどうしてもなくてはならないものです。韓国のクリスチャンが熱心に祈り続けたことによって、韓国にリバイバルが起きました。一九七六年、ヨイド広場に二百万人近くの人が集められました。その時には多くの反対者があったそうです。しかし、韓国のクリスチャンが心を一つにして祈り続け、断食をし、徹夜で祈り続けたことによって、あの大集会が行われ、リバイバルが起こされたのです。それまで日本が抱える教団教派、またたくさんの問題が韓国でも壁なっていたそうですが、その壁が取り除かれ、皆が一つになって祈ることができた。「祈りこそがリバイバルの大きな要因だ」と熱く申先生が語っておられました。祈りなくしてリバイバルは起きない。そして、これはただ単なる一時的な思いや単発的な祈りではなく、私たちがどうしも祈り続けなければならない祈りの課題なのです。
私たちは色々な国のリバイバルの話を聞きますが、日本とは違う、あそこはそういうリバイバルの土壌があったからだと思ったりします。しかし聞いてみると、韓国は昔からたくさんのクリスチャンがいたかというと、そうではなく、ほんの一握りしかいなかったそうです。そのわずかな人たちが本気で祈り、立ち上がったことによって、今、人口の約三〇パーセントがクリスチャンになったと言われています。クリスチャンがそれだけ多くなると、政治においても大きな影響を及ぼしているということを見ることができました。
取材を終えて帰える日、申先生はアメリカに行く予定で私より先に飛び立っているはずでした。しかし、事務をやっている先生が飛行機の時間を間違えたということで、私が空港に行った時にまだ先生がおられました。申先生は、飛行機会社の理事になっているそうで、違う飛行機のチケットをすぐに発行してくれるから、ということで旅行会社が持ってくるのを待っていると言われました。先生はビジネスクラスで私はエコノミーなので、飛行機の中では会いませんでしたが、結果的に先生は私と同じ飛行機で、韓国から関空まで来られ、空港で少し休まれて、その同じ飛行機で日本を経由してアメリカに行かれました。申先生は、向こうから頼まれて理事になっているので、こういう時にもすぐにチケットを交換できるのです。他にも、いくつかの理事を頼まれいるようでした。韓国のリバイバルの結果とも言えるでしょう。
祈り続けることは非常に大切です。使徒の働き十二章にペテロが投獄されたことが書かれています。五節に、

『こうしてペテロは牢に閉じ込められていた。教会は彼のために、神に熱心に祈り続けていた。』

ペテロが投獄された時から、教会はずっと徹夜し、時間をささげて祈り続けていました。結果、そこからは簡単に出られるはずはないという状況の中で、神様が祈りに応えてそこに御手を現され、

『御使いはペテロのわき腹をたたいて彼を起こし、「急いで立ち上がりなさい」と言った。すると、鎖が彼の手から落ちた。』

と書かれています。第一の衛所、第二の衛所、第三の衛所を通って出て行った時に、

『町に通じる鉄の門まで来ると、門がひとりでに開いた。そこで彼らは外に出て、ある通りを進んで行くと、御使いは、たちまち彼を離れた。』

とあります。これは超自然的な業だと思います。なぜこのようなことが起きたのでしょう。これはペテロがそう願ったのではなく、教会の人が祈り続けたことによってこの業が現されました。
リバイバルの働きの中で、滝元先生始め、多くの先生方が色々な所に出て行きメッセージをし、奉仕します。人はメッセージが素晴らしかったと言います。勿論私たち一人ひとりがメッセージを通して整えられることは必要です。しかし、メッセンジャーがリバイバルを起こすわけではありません。その背後にどれだけ祈りが積まれていくか、祈り続けられていくかということがリバイバルを現していただく一番のポイントになります。私たちが一分、一時間祈って何がどのように変わるかはわかりません。しかしその祈りは必ず積まれており、必ず主の業が現されるのです。これからもリバイバルのためにぜひ、祈り続けて下さい。目に見える形で現されることはないかも知れません。また周りの状況もすぐには変わらないかも知れない。しかし、祈りが積まれて続け、継続されていくことが大きな力であることを覚えて下さい。
ルカの十一章には、ある人が真夜中に友だちの所にパンを三つ貸してくれと頼みに行ったが、友だちは「もう私は寝ているし、面倒をかけないでくれ。もう起きてパンを貸してあげることはできない」と言いました。八節から十節には次のように書かれています。

『あなたがたに言いますが、彼は友だちだからということで起きて何かを与えることはしないにしても、あくまで頼み続けるなら、そのためには起き上がって、必要な物を与えるでしょう。わたしはあなたがたに言います。「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであっても、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。』

ここは私たちが聖霊を求めていく時、このように求める姿勢が必要だと教えていますが、これはすべてにおいて必要です。先に出てきた裁判官も、この友だちも、きっとめんどくさいことはしたくなかったと思います。しかし、あくまでもやもめや友だちが頼み続けたことによって、願いを勝ち得たのです。私たちを愛し、私たちを生かし、導いて下さり、私たちに祝福を与えようとしている神様だったら、まして私たちが祈り続けたならば、必ず私たちの願いに応えて下さるのです。そのことをぜひ忘れないで下さい。
私たちに今必要なことは継続することです。継続して祈り続け、願い続け、求め続けることが、必ず、リバイバルの扉を開ける大きな鍵になることを覚えて下さい。また、祈り続けると同時に、教会において奉仕し続けることも大切です。どんなに小さな奉仕であっても皆さんが今まで奉仕したことは、神様の前に一つも忘れられていません。少しでも主の前に喜ばれること、神様が願われることをやったことに関しては神様の前に忘れられてはいません。掃除をしてくれたり、ある人は花を飾ってくれたり、私たちの見えないところで色々な奉仕をして下さっている。誰かが称賛するわけではなく、誰にも知られない働きでも、神様は知っていて下さいます。だんだん年をとると私がやらなくても若い人がやってくれる、私は必要ないと思ってしまうことがあります。しかし、どんなに年をとっても祈ることはできますから、教会を愛し、祈りの奉仕をささげて下さい。また、献金も大切です。私たちの教会では管理上、封筒に名前が書かれています。しかし、誰がどれだけささげているという報告があるわけではありません。来週の日曜日は報告会があります。全体でどれだけささげられたという報告があり、皆さんに報告する義務があります。しかし、皆さん個人個人がどれだけささげたか、月定や伝道献金だけではなく、他の所でも、無記名でささげたものも、すべてが報告されるわけではありません。しかし、神様はクリスチャンになってからどれだけ神様の前にささげたか、全部、知っておられるのです。メッセージによって恵まれ、教えられて、今実行していることがあるという人もいると思います。これだけ聖書を読もう、これだけ祈ろう、奉仕しようと決めて一週間続いている人、一ヶ月続いている人。時には疲れて、決めたことをできなくなっているかも知れません。しかし、今までしてきたこと、積み上げてきたこと、継続してきたことを神様は忘れられてはいないことをもう一度、心にとめて下さい。
私たちは家族の救いのために祈っています。ある人はもう三十年も祈り続けているのに、どうして主人が救われないのでしょうか。と言われる人がいます。しかし、私たちがどれだけ祈ったら救われるとか、いつになったら答えが出るとか、どのように祈るのが正しいということではなく、すべては神様の御手の中にあるので、私たちが主を信じ、祈り求め、願い続けていく時に、神様が一番ちょうど良い時に、主の業を現し、祈りに応えて下さるのです。救われて欲しい家族や友人のこと、まだ結婚していない兄弟姉妹にとっては結婚について祈っておられるかも知れません。また、東京ミッションのことも祈っておられるでしょう。甲子園ミッション以来、ずっと祈り続けています。
甲子園ミッションを行うと決まる前には「守る」ということはあったとしても、「戦う」という言葉を使うこともなければ「戦う」という意識さえなかったと思います。自分の信仰を守り続けていくという認識は持っていましたが、戦い続けていくということは甲子園の時に与えられた神様からの啓示です。これは、誰か一人が戦えば良いというものではなく、皆が戦いのために立ち上がり、皆が戦い続けて、前進し続けていくことによって大きな力を現すことができます。よく人から「先生疲れませんか?」と聞かれます。時々は疲れます。また「大変ですね。嫌になりませんか?」と言われます。嫌になる時もたまにはあります。少しは休みたいと思う時もあります。しかし、この戦いを私たちに与えて下さったのは神様です。主が与えて下さった戦いならば、必ず勝利を勝ち取ることができると信じています。ですからこの戦いをやめるわけにはいかないのです。
継続して何かを行う時、結果が伴わなかったらどこかで挫折してしまいます。一年頑張ろうとして、一年後目標を達成できなかったら、もう一年延ばすこともありますが、何年も頑張っても達成できなかったら疲れてしまいます。もうやめようと思うこともあります。しかし、私たちのリバイバルへの願い、親族の救いに対する祈りの応えは、確実に進んでいると思います。一人ひとりが恵まれ、祝福され、確かに昔とは違う、あの時にはあんな風だったけど、今ここまで神様が業を行ってくださっているという足跡を見ることができます。ここまで前進してきたと感じておられると思います。そして、私たちのゴールは間近です。
マラソン選手が四二・一九五キロを走るのは大変なことです。三十五キロくらいが一番つらいそうですが、なぜそうまで苦しい思いをして走ることができるのかと思います。しかし、四二・一九五キロ走った後に、栄冠のゴールが待っている。だからこそあの苦しい三十五キロ地点を頑張り続け、三十六キロ、三十七キロと走り続けていけるのです。四二・一九五キロやっと走ってきた人に「すみませんがあと二十キロ走って下さい」と言ったら誰もがそこで挫折してしまいます。目標があるから、目的があるから、ゴールがあるから走り続けることができます。このリバイバルの働きも、決してゴールのない戦いではありません。それぞれゴールの見え方は違うかも知れません。しかし、必ず皆が勝ち取ることのできるゴールです。神様は主の業を現して下さる。日本にリバイバルを起こして下さる。申先生は言われていました。「私だけでなく、多くの指導者たちが日本のリバイバルはもうすぐだと言っている。それは単なる願望ではなく、神様がそれぞれの指導者に確かに語っておられ、賜物としてもうすぐ日本にリバイバルが必ず与えられる」と。私たちも信仰を持って進んでいきましょう。皆さんが今願っている家族の救いや、問題や病気のために祈っている祈りに、必ず神様が応えて下さいます。
時々、私たち人間は、自分の力だけで頑張ろうとします。しかし、人間の力だけではどうしても継続し続けることは難しいです。一週間二週間してくると段々と疲れてきてしまう。持続していくためにも祈りが必要です。聖霊の力なくして祈り続け、戦い続けることはできません。今これを継続していこう、小さなことでも主のために奉仕していこうと決め、実行していることがあるならば、それが人間的な力だけで疲れてしまい、負けてしまわないように、体力的にも、精神的にもそれを継続していけるように聖霊の力を神様からいただき、前進し続けることができるように祈っていきたいと思います。ですから、これができますように、あれができますようにと祈るだけではなく、まずこれからもずっと祈り続けていける、そのための祈る力を与えて下さいと祈っていただきたいと思います。そうすれば必ず神様はそれに応えて下さり、祈りのゴールを見せて下さり、大いなる祝福を与えて下さいます。これからもリバイバルのために、家族の祝福のために、病の癒しのために共に祈り合い、神様が私たちを愛し続けてくださったように共に愛し合い、主の業、御国建設のために頑張っていきたいと思います。一言お祈りします。

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