今週の礼拝メッセージ
思い違いをしていませんか?   1998.6.21(SUN)

新城教会牧師 上條 実

<今週のメッセージの御言葉>
ガラテヤ人への手紙6章7節
思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。

 ハレルヤ!今日、礼拝で奉仕することができることを心から感謝します。先週は皆さんにお祈りしていただき、兵庫県の能勢川教会の礼拝で御奉仕をさせていただきました。今回礼拝と共に、午後から子どもの伝道会をして欲しいと言われました。感謝なことに守られて、とても祝福された時を持つことができました。また、来週は下條先生の教会の礼拝に行きますのでお祈りください。朝八時四十分からの子ども集会。その後礼拝。また午後からも聖会があり三回の奉仕があるので、ぜひお祈りください。では今から御言葉を学んでいきましょう。先ほど読んでいただきましたガラテヤ6章7節に、

『思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。』

という御言葉があります。種を蒔けば刈り取りもする。これは自然の法則で当たり前のことです。我が家に一坪ほどの畑があります。今年は時間もなく、連作しているので、今年は畑を休ませようかと思っていましたが、最近家内が場所を変えたりして、色々な苗を植えていました。去年は苗を植え、伸びてきたと思ったら途中で害虫にやられてしまい、途中で折れて枯れてしまいました。でも毎年美味しい野菜ができて楽しんでいます。今日学ぶのは畑の野菜のことではなく、毎日の生活の中で種を蒔き、成長し、刈り取るます。様々な種を蒔いています。しかしこの御言葉の前半に「思い違いをしてはいけない」と書かれています。今日はこのみことばに注目したいと思います。私たちは人生の中で様々な種を蒔き、それが成長して実を結ぶ時が来ます。自分は良い種だと思っていても、それが悪い種だったら大変です。私たちが信じている神様は素晴らしい生きておられる方です。「神にとって不可能なことは一つもない。」と書かれています。神様は私たちに素晴らしい祝福をくださいます。神様は私たちを必ず祝福してくださると、みことばの中で約束してくださっています。聖書のローマ人への手紙八章二十八節に、

『神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。』

とあります。どんなことがあったとしても益になる。神様を信じていけば、今がどんな状態であろうと、良い方に、益に導いてくださるという約束です。しかし、日本の文化の思想は、ある面で仏教が私たちの考えの根底にあります。一冊の本の中に仏教とキリスト教の違いについて書かれてありました。その中に日本人はすぐに駄目だと考えてしまう。一生懸命努力しても、駄目だとあきらめてしまう。それが日本人だと書かれていました。しかしキリスト教を土台としているアメリカの人達は全ての面で肯定的に考える。大丈夫だと考えるのがアメリカというか、キリスト教を土台にしている人達だそうです。プロ野球の選手が入団する時の会見を見てもそのことが良く分かります。日本の選手は「精一杯頑張ります。」「自分をアピールしたいと思います。」などと言います。しかしアメリカの大リーガーから来る人たちは、「私はこのチームを優勝させるために来ました。私は何でもできます。」と自分を最高にアピールします。結果が出ないですぐに帰ってしまう人もいますが、そんな人でも、外国から来られる人たちは自分を高くアピールして、自分は大丈夫だ。自分はできるとアピールします。しかし、日本人はなかなかそこまでアピールできません。「もし駄目だったらどうしよう。自分は大丈夫だろうか・・・」と心配します。その本の中に仕事で八十パーセントくらい軌道に乗ってきた時、日本人は「まあまあ」だと言います。しかし、アメリカ人は八十パーセントくらい軌道に乗ってきたら「エクセレント・最高」だと言います。六十パーセントになると日本人は、「母屋に火がついたようだ。大事なところに火がついた」というそうです。しかしアメリカの人は「ベリーグッド・非常に良い」と言います。また、四十パーセントになると日本人は「もう駄目だ」とあきらめの境地に追い込まれます。しかし、アメリカ人は「グッド・良い」と言います。そして二十パーセントになると日本人は「どこで首をつろうか」と言うというのです。首をつって死んでしまいたいような境地になるそうです。しかし、アメリカの人は二十パーセントにもかかわらず「ファイン・良い」と言うそうです。私たち日本人は仏教の思想の中にあり、仏教の起源は、釈迦が木の下で考えたあげく「こんなに一生懸命考えてもわからない。あきらめてしまえ。」あきらめが仏教の起源です。そのあきらめが仏教の思想の根底にあるので、私たち日本人の生活の中にも、あきらめがあるのです。殆どの日本人の人は「自分は駄目だ」と考えてしまいがちです。クリスチャンになり、自分の信仰生活をおくっていく中でも「あきらめの生活」が入ってしまっています。六月九日の火曜日に、私は午後から自宅でゆっくりと休んでいました。すると四時頃、長男の麻輝から電話がかかってきました。「今病院にいるんだけど、また病気が悪化したので入院しなさいと言われて・・・」と言いました。その時、今まで皆さんに祈ってもらっているし、私も信仰を持って祈っているにも関わらず、それに反した言葉「悪くなり、また入院」ということを聞いた時に、私は電話口で悲しくなってしまいました。「何ということか、また入院しなければいけない。どうして・・・」と不信仰に陥りました。恵みによって長男は、先週金曜日まで十日間程入院しましたが、今日この礼拝に出席できています。感謝ですが入院と聞いたとき、「なぜ、自分の家庭だけこのような病気があるのだろうか。牧師として皆さんの病気のために祈る立場にある私なのに、なぜ自分の家庭に病人がいるのだろうか。祈るにも祈り辛いのではないか・・・。」と考え込んでしまいました。また、私も十二年程前になりますが、原因不明の病気で苦しんだことがあります。なぜ私の長男も私もこんな病気で苦しまなくてはならないのだろうか。ある意味で、なにか家庭に束縛があるのでは、と思ってしまう時があります。長男と同じ年の子どもたちを見ると、学校に通って、楽しくクラブ活動をしているのにも関わらず、長男は病院にいる。どうしてだろうか。なぜ自分の家庭は順調にいかないのか。それも私は原因不明の病気、長男は潰瘍性大腸炎という難病。今の医学ではむずかしいと言われる難病指定を受けている病気。どうして・・・とある意味で悲しい思いを持ちました。そんな時に神様が御言葉を与えてくださいました。

『思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。』

聖書にはまた、

『信仰は望んでいる事柄を保証し、目に見えないものを確信させるものです。』

と書かれています。私たちは目の前の状況は何も変わず、問題があるかもしれません。その時私たちは、「駄目だ。自分は駄目だ・・・」とすぐに暗い方を見てしまいます。しかし、アメリカの人たちは、「自分は大丈夫だ。エクセレントだ。」と言います。暗闇ではなく、明るい方を見て、イエス様が助けてくれるということを信じるからこそ、大丈夫だと見ることができると教えられました。自分の家庭はどうしてだろうかと思いましたが、「思い違いをしてはいけない。これで終わることはない。全てを益に変えてくださる」と教えてくださいました。神様は信仰の種を蒔いたのであれば、必ず信仰の収穫をすることができる。私がここで思い違いをして、苦しんでいたら、駄目だ。駄目だという、不信仰の種を蒔いてしまったら、そのとうりのことを収穫してしまう。「お前を必ず祝福してあげる。すべてのことを益としてあげる。」と言われる神様に、目を向け、今現状がどのようであろうと「神様あなたの信仰の種を蒔かせてください。必ず良くしてくださることを私は信じます。」と神様から教えられ、その時から気持ちを入れ替えました。それまでの自分は辛くて、心が重たくて重荷を背負って、暗い思いで一杯でした。しかし神様に任せた時、神様は素晴らしい祝福を私にくださいました。第二コリント十一章三節に、

『しかし、蛇が悪巧みによってエバを欺いたように、万一にもあなたがたの思いが汚されて、キリストに対する真実と貞潔を失うことがあってはと、私は心配しています。』

と書かれています。悪魔は生きていて、私たちに欺きをかけてきます。思い違いをさせてきます。そして色々な問題を私たちに見させ、悲しみや病気を見せて欺いてきます。聖書は神様を信じたら必ず素晴らしい祝福が来るという約束にも関わらず、悪魔は問題を見つめさせて、「おい、大きな問題だぞ。大変だぞ。これから大丈夫か・・・。」と私たちに欺いてきます。現状を見せて、私たちに心配させて不信仰を起こさせるのが悪魔の仕事です。エペソ六章十一節に、

『悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。』

と書かれています。私たちは悪魔に策略をかけられ、欺かれ、色々な出来事に、自分は駄目だと思わされてしまいます。今日覚えてください。悪魔は必ず偽りを言ってきます。悪魔はお前はダメだと言ってきます。しかし今日あなたが信仰の種を蒔いたならば、必ず信仰のごとく収穫をすることができます。思い違いをしていませんか?思い違いをしないで信仰を持って種を蒔きなさいと教えています。悪魔は私たちの祝福を妬み、攻撃をかけて来ます。問題として私たちに見させ、悲しみ、苦しみで心を満たし、神様が入る余地がないまでに暗いところを見せるのです。しかし悪魔が働いてくるところは逆に、神様の素晴らしい祝福が隠されています。私が最近教えられていることは、悪魔は逆手を取って来ます。祝福を見せないように必死になって、「大きな問題だ。大変だぞ・・・。」と言って一生懸命に欺いて、色々な策略を設けます。「大変だ。祈ってもダメだぞ。祈るより自分で何とかしなくては・・。」と不信仰を抱かせます。しかし、今日覚えてください。だまされないでください。そのような問題こそ、あなたに栄光を現わすために、神様から与えてくださったプレゼントであり、神様から祝福を受けることができる原因だということを覚えてください。私たちは問題や悲しみしか見えません。しかしその後ろにおられる、私たちの救い主、神様に目を留めなければいけません。ひとりの方が素晴らしい詩を書いています。不治の病の患者さんが書いた詩です。

「大事を成そうとして、力を与えて欲しいと神に求めたのに慎み深く従順であるようにと、弱さを授かった。より偉大な事ができるようにと、健康を求めたのによりよき事ができるようにと、病弱を与えられた。幸せになろうとして、富を求めたのに賢明であるようにと、貧困を授かった。世の人々の称賛を得ようとして、権力を求めたのに神の前にひざまずくようにと、弱さを授かった。人生を享楽しようと、あらゆるものを求めたのにあらゆる事を喜べるようにと、命を授かった。求めたものは、一つとして与えられなかったが願いは全て聞き届けられた。神の意にそわぬ者であるにも関わらず心の中の言い表せない祈りは、全てかなえられた。私はあらゆる人の中で最も豊かに祝福されたのだ。」

病気の人が神様に求めているのに何もかなえられず、癒されなかった。しかし、神様の素晴らしい祝福をいただくことができたという詩です。私たちはリバイバルを求め、癒しについて信じています。また、必ず病が癒され、問題が解決されることも信じています。しかし、その中で私たちがいつも、どのように神様に期待しているかということです。今日覚えていただきたいことは、悪魔に欺かれ、策略に引っかかってしまい、あきらめないでください。いつも礼拝後の祈りの時に、前に出て来て、祈ってもらってはいるけれど、根底の中にあきらめがあり、自分は駄目だと考えてしまう。こんなに大きな問題がある。人と比べてしまい、あの人は祝福されているけれど、自分は駄目ではないかと思っている方はおられませんか。「思い違いをしないでください。」
 お年寄りの方は、自分も将来年をとっていく中で、本当に寂しいとイメージを感じます。今まで一生懸命、日本を立て上げるために仕事をして来てくださいました。一生懸命にやって来られたのに、若い人が出てくると、自分の仕事は忘れられ、自分がやってきた方法よりも新しい方法を入れてしまい、邪魔者になってしまう。家庭の中でも、子どもや嫁、孫たちに気に入られるように、自分の考えを押し殺してでも、若い者にあわせていかなくてはならない。このまま自分はボケてしまわないだろうか。また仕事も何もしていない、食べさせてもらっているという引け目があり、老年になって行けば行くほど、祝福どころか逆の面に満たされてしまう時があると思います。今日も来られていますが、伊庭姉妹とともに来られている鈴木とめさんという九十何歳かのおばあさんが、「私はイエス様を信じる前は、生けるシカバネでした。」と言われました。本当に自分は生きているようだけれど死んでいるかのようだと言われました。何も生きる資格も値打ちもないような者だと思っていたと言われました。しかし、イエス様を信じた時に希望が与えられたというのです。詩篇九十二篇十四節に、

『彼らは年老いてもなお、実を実らせ、みずみずしく、おい茂っていましょう。』

と書かれています。この御言葉は白井兄弟が私の家の新築祝いに書いてくださり、私の家に飾ってある御言葉です。イエス様を信じた時に決して年老いてしぼんで行くものではありません。「年老いてもなお、実を実らせ、みずみずしく、おい茂っていましょう。」と書かれています。年寄りになればなるほどクリスチャンはもっと祝福を神様が与えてくださる。実を実らせていくことができる。だから駄目ではない。お年寄りは教会の宝であり、もっと実を実らせるために頑張って神様に祈っていただきたい。特別お年寄りには素晴らしい祝福を神様が用意してくださっている。特別お年寄りは神様に愛されている。特別お年寄りの祈りは答えられるのです。この御言葉は、お年寄りの方に神様が直接語っておられる御言葉ですから信仰を持ってください。駄目ではありません。必ずあなたによって人々が潤され、祝福され、実を実らせることができることを覚えてください。また詩篇七十二篇十八節には、

『年老いて、しらがになっていても、神よ、私を捨てないでください。私はなおも、あなたの力を次の世代に、あなたの大能のわざを、後に来るすべての者に告げ知らせます。』

と書かれています。年をとった方を、教会は邪魔者だとかは思いません。教会の宝です。神様がこの御言葉の中で次の世代に、あなたの大能のわざを後の世代に告げ知らせると書かれています。お年寄りの方々が、今まで信仰生活を守っていく中で、神様からたくさんの生きた証しを頂いてきたと思います。それを次の世代の人々に伝えていくのです。私は子どもたちに、また中高生に、こんな素晴らしい神様がいる。こんな素晴らしい事をして下さったと、証しする時を持っていただきたいと思っています。この御言葉で言われるように「生けるシカバネ」とか、もう駄目だというのではなく、年をとればとるほど天国に近づき、生ける永遠の都、死や悲しみ、苦しみがない都に近づいている信じて、喜ばなくてはなりません。私たちクリスチャンはもっと輝いて、最高の祝福を神様が下さる。特にお年寄りの兄弟姉妹に最高の祝福を下さるということを信仰を持っていくべきです。
 また、病気について考える時に、すぐに自分の病気は癒されないと考えてしまいます。バチが当たったのだろうか?罪があるのだろうか?私は悪いことをしたから、こんな病気になったのだろうかと思ってしまいます。神様の癒しを信じて祈ってはいます。しかし、なかなか癒されない。私は神様に愛されていないのではないか、後から救われた方が祈った時に、癒されていく。自分はおいてきぼりのような気がし、自分はまだ信仰的に低い者なのだろうかと考えます。自分の体は人にはわかりません。本当に辛い痛みや苦しみがあります。悪魔は策略の中で「駄目だぞ。苦しいぞ。大変だぞ」という言葉を語りかけ、その言葉を聞いてしまい「自分は病気です。自分は駄目だ。」と告白してしまうのです。しかし私が十二年前に病気したときに与えられた御言葉ですが、詩篇一一九篇七十一節から七十二節に、

『苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。あなたの御口のおしえは、私にとって幾千の金銀にまさるものです。』

と書かれています。「思い違いをしないでください。」今病気を持っていても自分は駄目だと思ってはいけません。この病気は神様からの大きなプレゼントだと信じてください。その病気を通してあなたに御言葉を教えようとしています。祝福を与えようと思っています。私たち足らないところを教えようとして神様はプレゼントして病気を与えてくださっています。私も十二年程前に病気をしましたが、その時素晴らしい祝福とみことば、真理を神様から教えてもらいました。特別教えられた事は感謝することを教えられました。感謝することによって病いが癒されました。また自分で生きており、自分で大きくなっているかのように思っていましたが、神様に生かされているという事を御言葉の中で教えられました。私は健康の時には、健康が当たり前と考えてしまっていました。病気をとうして健康がどんな祝福なのかと分からせていただきました。また人の痛みや苦しみ、今までは「祈っていますよ」と簡単に私たちは言ってしまいますが、自分が経験したからこそ、その人の痛みや苦しみもわかり、祈ることができます。よく私は病院に訪問する時に、今までは「ゆっくりと休んで直してください」というのが親切な言葉だと思っていました。しかしそうではないと分かりました。病気になったら「ゆっくりと休んでいたくない。一日でも早く元気になり、働きたい。」というのが病人の心です。痛みがわからないからこそ、安易な言葉で、人を傷つけてしまっています。私たちは今日人の痛みや苦しみを、病気があるからこそ神様に分からせていただくことができた。また御言葉の中で本物の慰めを与えてくださいます。また健康な人では絶対に味わうことができない、病いの癒しを体験できる。暗い方を見ないで、光である神を見るとき、病いが神からのプレゼント、祝福と変わるのです。また、私の息子のためにも皆さんが祈ってくださって感謝いたします。皆さんが覚えて、神様にとりなして下さる。息子のため、我が家のために祈っていただくことができる。こんな感謝はありません。色々なところで「息子さんのために祈っていますよ。」と言っていただきます。祈られていることは素晴らしい祝福だと思います。また、病気の中で私の家族も祈り始めました。家族バラバラなことを考えていますが、長男の病気のために祈ることで一つになることができます。また家族が病気をとうして、会話が与えられ、愛し合うことができます。そのようなことを考える時に苦しい、痛い、悲しい病気かもしれませんが、神様がどんなに素晴らしい祝福を与えてくださっているか測り知れません。
 また皆さんが抱えきることができないような問題。ある人は対人関係、経営問題など色々な問題を背負っているかもしれません。そのような中で私たちは目先だけですぐに動いてしまい、また世間体を考えて人の前では偽りを言って自分は幸せです。クリスチャンで喜びがありますと言っていますが、内面はズタズタなのです。御言葉を信じて祈っているにも関わらず、解決しない。どうしてだろうかと考えていく中で、悪魔の策略、欺きの中で問題を更に大きく考えてしまいます。そして信仰生活が行き詰まり、前に進むことができなくなってしまいます。しかし、今日覚えてください、神様の約束は、「すべて疲れている人、重荷を負っている人はわたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」また、「あなたがたは心を騒がせてはいけません。神を信じ、また私を信じなさい。」問題は神様のプレゼント。祝福なのです。私たちは必ず神様が慰めてくださる。勝利を与えてくださる。圧倒的な祝福を与えてくださるのです。私たちは問題を見て、不信仰になってしまいますが、その問題を見る時に私たちは気がつきます。問題があるからこそイエス様によく祈るようになったと思います。私は何も問題がなかったら、神様にひざをかがめて祈ることは足らなかったし、神に頼ることを忘れてしまう。しかし、問題があるからこそ祈っている。そう思うと神様に近づくことができる。これは素晴らしい祝福だと思います。また、家族も問題に対して祈り始めます。また、家族が愛し合うことができます。また、祈りの友ができます。色々なことを考えていく時、神様の祝福を伴っています。
 また、リバイバルを考えていく時に、東京ミッション。大きなことをやるけれども難しいのではないか。時間がかかるし、お金もかかり、労力もかかり、大変だ。また一生懸命今まで祈ってきたのに何も起こらないのだから、そう簡単に起きるはずはない。と目の前に問題だけを持ってきます。しかし、神様は必ずこの日本にリバイバルを与えてくださいます。今まで日本の教会はバラバラでした。しかしリバイバルを求めて、日本のために祈る教会がたくさん与えられました。今まで決起大会も、六百回以上、七百回近くまで行われてきました。未だかつて日本の救いのために全国で祈っていくということがそんなに、なかったかもしれません。しかし、リバイバルを求めて、日本の教会が一致して祈り始めたのです。目に見えるものは変わらず、進んでいないと思うかもしれません。しかし教会が求めて祈り続けています。皆が一つになり、熱く燃やされてきています。私たちは、色々な問題を抱えて大変だと考えているかもしれません。しかし問題、悲しみ、病気、色々と私たちが考えていること、駄目だと思っていることは神様の約束で、それを通してあなたに祝福を与えてくださるものです。どれくらいの祝福でしょうか。どれぐらいイエス様はあなたを愛して下さっているでしょうか?それはあなたが永遠のさばきから守られるように、あなたが永遠のいのちをいただくために、イエス・キリストが十字架にかかってくださいました。イエス様は十字架にかかるべき方ではありませんでした。何の罪も犯されませんでした。神の御子。素晴らしい栄光の座に座られていた方です。しかし、あなたを見て、あなたのためにこの地上に来られ、罰を受けられて十字架にかかられ、あなたが行かなくてはならない地獄に代わりに行かれ、三日目によみがえってくださいました。あなたは愛されています。あなたのいのちを救うためにイエス様は十字架にかかられました。あなたに命を懸けて下さいました。今日紹介しているイエス・キリストです。そのイエス・キリストを心から信じて、目の前にある苦しみや病気、年寄りになった・・・自分はもう駄目だと、悪魔は策略を設けてきますが、神様はあなたに最高の祝福を与えて下さる。永遠のいのち。天国に行かせて下さる。そしてこの地上でも、必ず素晴らしい祝福を与えてあげる。「わたしの目にはあなたは高価で尊い。私はあなたを愛している。」世界中の金銀を集めても足りない、もっともっと集めてでも、あなたを買い取りたいという気持ちでイエス様はあなたを愛しています。絶対にあなたを不幸にしない、問題のままで終わらせない神様。その問題も病気も重い苦しみも、それをステップにして比べることのできない最高の祝福へと導いてくださる神様。それがイエス・キリストです。今悪魔の欺き・策略に惑わされて問題だ、病気だ、年だ。駄目だぞ・・・。という策略にかかって思い違いをしてませんか。そのようなところばかりに目を向けてしまっていませんか。その病気も問題もすべてを神様が与えてくださった最高のプレゼントです。今までは色々な病気だ苦しみだと思っていた部分に神様を照らしてください。神様がそこに現れたら、問題は問題ではありません。病気は病気ではありません。神様のプレゼントだと思ったら悩むことも苦しむこともありません。問題が来たら喜ぶのです。神様に愛されているからこんな素晴らしい問題等が与えられたのです。問題というチャンネルに合わせないで、祝福というチャンネルに合わせて下さい。素晴らしい祝福なんだと信じて種を蒔いていけば必ず収穫することができます。今までは目が暗い方に向いていました。しかし、覚えてください。光のある間に、光のある神様がその問題も照らしてくださいます。辛いままで問題にしか見えなかった部分に今度は神様の祝福を見せて下さいます。今度は勝利に変わります。毎日クヨクヨ考えなくても良いのです。神様が良くしてくださる。なぜならば、いのちをかけて私たちを救ってくださった神様だからです。時にかなって美しいことをしてくださいます。一番良い時に答えを与えてくださいます。素晴らしいあなたの思いを越えた最高のものを収穫させてくださいます。覚えてください。今までは悪魔につながれて握られていました。私たちは色々な問題を見せられて、問題のロープを引きます。すると私は、問題や病気を見て大変だと思います。それ大変だと悪魔が思わせてきました。しかし種を蒔けば収穫をします。あなたが神様に信頼して導かれていくならば最高の祝福を神様が与えてくださる。問題ではなく、祝福。神様のプレゼントだと信じて今までつながれていたロープを完全に断ち切っていただきましょう。今までは「御霊のあるところに真理はあなたがたを自由にする。」と言われながら不自由でした。神を信じても癒されない、問題が解決されない、家族は救われないと不自由で引っ張られていました。しかし今日は「御霊のあるところに真理はあなたがたを自由にします。」そのみことばを告白し、今まで問題だ病気だと思っていたことをすべてを今イエス様の御名によって断ち切ると宣言してください。その時に真理はあなたがたを自由にします。神様に任せた時に最高のプレゼント。最高の祝福、勝利をいただくことができます。

『思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。』

 今日今まで問題、病いなど見つめてきた方がいらっしゃったら、大喜びして下さい。感謝です。どんな祝福が待っているでしょうか。思い違いをしないで下さい。一言お祈りします。

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