今週の礼拝メッセージ
宣教はあなたの力です   1998.6.28(SUN)

新城教会牧師 滝元 順

<今週のメッセージの御言葉>
新約聖書 ローマ人への手紙1章14節〜16節  私は、ギリシア人にも未開人にも、知識のある人にも知識のない人にも、返さなければならない負債を負っています。ですから、私としては、ローマにいるあなたがたにも、ぜひ福音を伝えたいのです。私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。

 ハレルヤ!新城教会で二ヶ月程ぶりに奉仕でき、心から感謝しています。皆さんのお祈りに支えられて東京ミッションの決起大会も祝福されていることを感謝します。皆さんが祈ってくださった時の集会はとても恵まれています。とりなしの祈りは大きな力があります。
 今日は限られた時間ですが、御言葉から学んでいきたいと思います。先ほど読んで頂いた、ローマ書一章十四節から十六節は、とても有名な御言葉です。歴史上最大の伝道者でありリバイバリストであったパウロは、福音を伝えることをどのように捕らえていたでしょうか。ローマ一章十四節に、

『私は、ギリシア人にも未開人にも、知識のある人にも知識のない人にも、返さなければならない負債を負っています。』

と記しています。ここで彼は福音宣教を「負債」と解釈しています。  私の家内には一つの癖があります。それは、請求書をトイレに貼ることです。東京ミッションの決起大会で、あまり家に帰る暇がありませんが、私が家に帰って最初に出会うのが請求書かも知れません。見る度に、「支払わなくてはならない」と思います。支払う義務があります。どうしても期日までに支払わなくてはなりません。
 同様にパウロは福音を宣べ伝えることを負債と考えていました。当時の交通事情は悪く、旅をすることは大変な事でした。しかし、エルサレムからローマにまで、海原を乗り越え福音を伝えました。彼は福音の力を知っていました。また彼は福音を伝えないと、どのような結果になるのかについてもよく知っていました。今私たちはイエス・キリストを信じています。その救いは永遠のいのちです。私たちクリスチャンには永遠のいのちがあります。今この世が終わったとしても、永遠の国・天国に行くことが保証されています。かつてクリスチャンたちがイエス様のためにいのちを投げ捨てていきました。なぜそのようなことが出来たかというと、これは彼らが永遠のいのちを実際によく理解し、つかんでいたからです。
 先日、ある本にユダヤの小話が紹介されていました。ひとりの男が摩天楼から落ちてしまいました。するとひとりの人が窓から顔を出し、落ちていく人に、「いかがですか?」と聞くと、男は「今のところ大丈夫です。」と答えた、と言うのです。
 落ちる途中は大丈夫かも知れません。しかし、やがて地面に激突し、男は死んでしまいます。イエス・キリストを信じない人生は、ビルから落ちていく途中、「今のところ大丈夫です。」と言っているようなものです。心の中に死の恐怖があることは、やがて滅びがやってくるという証拠でもあります。イエス様を信じることはとても大切なことです。今日ぜひ、イエス様を心に受け入れてください。そうすれば、必ず、永遠のいのちを受けて永遠の解決を受けることできます。また、救われている者は、パウロのように宣教を負債と感じて福音を伝えなくてはなりません。私たちも福音を伝えることが負債であるかのように捕らえるならば、必ずリバイバルが起こってきます。リバイバルは宣教に伴って起こってくるものです。
 私たちは目に見えない方を紹介しています。それは、なかなか難しい面もあります。「イエス様を信じましょう。」と言っても、「イエス様ってどこですか、私の手のひらの上に出してください。そうすれば信じます。」と言われる方もいます。
 私は最近、東京に行く機会が多くありますが、秋葉原に行くと、電気街があり、名物おじさんがいます。そこで彼は実演販売をしています。穴あき包丁やハンガー、皮むき器など、言葉巧みに実演します。そこに人が集まってきます。「さあさあ、皆さんお立ち会い、この包丁はすごいですよ。」と言ってロープや板などを切り、トマトを持ってきて、「ここに包丁を置くだけで切れますよ。」と言って実演して見せます。群衆はそれを見て感動します。話術もうまいです。人だかりになっている人は、たいていそれを買うそうです。岡本信弘先生はそこによく行って研究しているそうです。その話術をよく研究しています。でも彼は、帰る時にはその商品の紙袋をさげています。言葉巧みに売りつけられます。しかし、買ってきて見るとその包丁はなかなか切れなかったりします。
 私たちもイエス様を伝えるのですが、目に見えない方を伝えることはなかなか大変なことです。しかし、イエス様は「見えないわたしを伝えなさい」と言って天に帰られただけではありません。マルコの福音書の十六章十五節からに、

『それから、イエスは彼らにこう言われた。「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。信じてバプテスマを受ける者は、救われます。しかし、信じない者は罪に定められます。信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばを語り、蛇をもつかみ、たとい毒を飲んでも決して害を受けず、また、病人に手を置けば病人は癒されます。』

と書かれています。イエス様は福音宣教に励むように命令して天に帰られました。しかし、目に見えないイエス様を伝えるのではなく、しるしが伴うのであなたがたは心配せずに出て行きなさい、と言われました。この御言葉を捕らえるべきです。
 第一に、「わたしの名によって悪霊を追い出し」と書かれています。
 二番目には「新しい言葉を語る」というのです。これは宣教という文脈の中からの新しい言葉ですので、「外国語」です。あるアメリカの説教者がロシアに行ったそうです。彼は全くロシア語ができなかったそうです。しかし、神様は「あなたは通訳者なしで講壇に立ちなさい。」と語られたそうです。彼は「できません。」と言ったそうです。しかし、「大丈夫だから立ちなさい。」と言われました。しかし、ロシア人会衆の目の前に立った途端、彼の口から出てきたのは流ちょうなロシア語だったそうです。そして福音を語り皆が救われたそうです。そのメッセージが終わると、話せなくなったそうです。
 これからの時代、宣教師が多く送られるべきですが、ある国言葉や方言を勉強してやっと修得し、それもたどたどしい言葉で現地の人たちに福音を伝えてもなかなかうまくいきません。しかし、神が「新しい言葉を語る」という特別な能力を与えてくださるならば、末の日の宣教はすごい勢いで進んでいくと思います。
 また、「蛇をもつかみ」と書かれています。アメリカの異端に、聖書は蛇をもつかみと書かれているから本当につかめるはずだと、礼拝の時に蛇の入ったバスケットをまわす教会があるそうです。「つかんで見ろ。つかむことができるなら信仰がある。」と言うそうです。「蛇をもつかむ」とは比喩的な表現で、悪魔の力を粉砕するという意味があります。ただ追い出すだけではなく、その力を粉砕し、つかみ出してしまう力が与えられるというのです。
 また、「たとえ毒を飲んでも害を得ず」と書かれています。かつてインドネシアにリバイバルが起こりました。オクタビアヌス先生の神学校がリバイブし、生徒たちが全国に遣わされていったそうです。
 インドネシアにはたくさんの部族があり、各村は酋長が牛耳っています。その酋長は大抵占い師です。ある部族に福音を伝える時、まず、出会って、「イエス様について話したい」と言います。ある時、「私たちはその話を聞きたい。明日、村人を集めるから明日話をしてください。今日は一泊してください。」と歓待されました。そして、次の日の朝を迎えました。すると酋長が来て、「あなたたちの神様は本物の神様です。この部落の者は全員、イエス様を信じます。」と言ったそうです。「なぜですか。まだ私たちは語っていませんよ。」「いや、昨晩皆さんを試させていただきました。」「私たちは何も試された覚えがありません。」「いや昨晩、あなたがたの神様が本当の神様であるかを試したのです。」「何をしたのですか。」「あなたがたに昨日出した食事に毒を入れました。この毒を逃れたならば、あなたがたの神様は本当だということで試したのです。あなたがたはひとりも死にませんでした。」と言いました。神学生の中で信仰の弱い人は夜何回か下痢したそうです。しかし害を及ぼさなかったそうです。これは宣教に伴うことです。
 またもう一つは、「病人に手を置けば病人は癒されます。」とあります。素晴らしい奇蹟が宣教に伴って起こっていくのです。私たちがこの御言葉を信じるか信じないかは宣教に大きく関わることです。ある意味で今まで日本の教会が伸び悩んでいたのは、言葉だけに頼っていたからです。神様宣教に伴って御業を現してくださることを信じていなかったからです。しかし、最近は変わってきました。先日、東京ミッションの事務所に行きました。そこに一通の手紙がありました。これはアナコンディア先生の決起大会を通して受けた恵みについての手紙です。この証は「カイロス」に記載されます。

「わたしは大阪城東福音教会の会員の林と申します。はじめまして。実は私の長女の初穂(小学校二年生)について証をさせていただきたく、お便りいたします。東京リバイバルミッションの兄弟姉妹、スタッフにおかれましては日夜多大の犠牲のもと、日本の救霊のためにお祈りくださり、本当に感謝致します。今年の二月二十二日に教会にて平岡修治先生が来てくださり、決起大会が持たれました。その折り、平岡先生の御子息の歯並びが悪く、アナコンディア先生の按手を受けて癒されたという証をされました。その時娘の初穂は、前年の秋から反対咬合と診断され、治療するように医師から言われていました。生えてきた永久歯の噛み合わせが通常ですと前歯が下顎の上に来るのですが、その逆になっていました。割り箸を噛ませて前に押して出したりと色々な努力をしてみたのでしたが、どうしても正常にはならないで不正咬合になってしまったのです。これは私の遺伝にもよるもので私も小学校二年から中学二年まで大学病院に通い、矯正治療を受けましたので、どれだけの費用と時間と通院の手間がかかるのか身をもって知っていました。大変なことになったと思った時、平岡先生のお証とメッセージに触れ、よし、これだ。と思い、四月二十八日の西宮でのアナコンディア大会にかけました。娘を連れて講壇に上がりアナコンディア先生の按手を受けて下りてきて、主人と早速娘の歯を見ましたが、何も起こりませんでした。しかし五月二十日に何気なく娘の歯を見ると直っているのです。全く正常な噛み合わせになって癒されているのです。五月十九日は私は忙しくて娘の歯を見る余裕がありませんでしたが、十八日には確かに反対咬合で主人とどこの病院にかかろうかと話し合ったのです。その日は信じられないという気持ちでしたが、次の朝も正常なかたちになっているのを見て癒されたのだと確信しました。アナコンディア大会の朝に証拠になるべき写真を撮影していますので、その写真と五月十二日に学校の集団検診の結果で噛み合わせの異常とされている診断書を同封して送ります。」

 写真と診断書まで送られてきました。この方はアナコンディア先生の集会の時には癒されませんでした。しかし、五月二十日に見たら直っていたというのです。癒されたタイミングも抜群でした。五月十九日にその子の弟が先天性の心臓の病気があり、「入院しなければならない。」と言われたそうです。それで皆が失望して一番暗くなっていた日だったのです。しかし、次の日に娘の歯が完全に癒されていることを見たのです。神様は今も私たちの中に働いてくださいます。信じますか?「アーメン」
 私たちの教会の中にも、神様は働いてくださっています。癒される人もいるし、癒されない人もいるけれど、癒されるのを見て私たちは神が生きているということを知るべきです。皆さんの中で先週「私は癒された」という証を持っている方はおられますか?三人の方が手を挙げられています。
 先週、米田純子姉が私のところに来ました。彼女は生まれつき骨の異常で片足にしか体重がかけられず、足を痛めていました。だから片足の筋肉だけが発達していたそうです。それが辛いので祈って欲しいと言われました。昔、お母さんが救われる前に、その病について占い師のところでみてもらい、拝んでもらったことがあったそうです。そこから熱心な偶像礼拝が始まったそうです。だから、家族が集まって、まず、「占い師がかけた呪いを砕きます。」と祈りました。そして、「イエス様。今あなたが純子姉に触れて足を癒してください。」と祈ったら即座に癒されました。「両足で立つのがこんなに楽だったなんて知らなかった。」と言っていました。本当に主は生きておられます。イエス様は目に見えない方ではなく、私たちと共に生きて働いてくださる方です。

『信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばを語り、蛇をもつかみ、たとい毒を飲んでも決して害を受けず、また、病人に手を置けば病人は癒されます。主イエスは、彼らにこう話されて後、天に上げられて神の右の座に着かれた。そこで、彼らは出て行って、至る所で福音を宣べ伝えた。主は彼らとともに働き、みことばに伴うしるしをもって、みことばを確かなものとされた。』

 この言葉を聞いて、弟子たちはすぐに出て行って福音を伝えたように感じます。しかし、マルコの福音書十五章十九節と二十節の間に挿入される記事がルカの福音書二十四章四十九節に記録されています。それは、

『さあ、わたしは、わたしの父の約束してくださったものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。』

 イエス様は「あなたがたは出て行って福音を伝えなさい。」と言われましたが、その前に、「あなたがたは力を着てから出て行きなさい」と言われました。
 クリスチャンには二通りあります。一つは、聖霊様が内側に住んでおられるという、クリスチャンです。聖霊が住んでおられないクリスチャンは一人もいません。そして、もう一つは、聖霊様が住んでおられるだけではなく、満ち溢れているクリスチャンです。「力を着せられてから出て行きなさい。」というのは、聖霊が内住するというだけではなく、「着せられて」というのは「覆う」ということですから、満ち溢れていることです。イエス様を信じるなら、聖霊様は既に私たちの内側に住んでおられます。聖書に、「誰でも聖霊によらなければ、イエスは主ですと、告白することはできない。」と書かれています。今日皆さんが心から「イエスは主です。」と告白することができるならば、聖霊様が内住しておられるということです。一緒に言いましょう。「イエスは主です!」皆さんの中に聖霊様が共におられることは素晴らしいことです。
 「力を着せられてから出て行きなさい」ということは、満ち溢れてから出て行きなさいということです。それで彼らは、使徒の働き一章を見ると、皆が集まって祈りに専念していたと書かれています。祈りに専念した時、弟子達は聖霊に満ち溢れました。
 聖霊に満たされる秘訣は祈りです。祈りなくして聖霊に満ち溢れることは決してありません。
 来月、教会では「サマーフェスティバル」があり、新城の中心部にある文化会館広場に多くの人を集めて集会が持たれます。このためにも祈らなくてはなりません。来週の午後からは「山頂から見渡し祝福祈祷会」が行われます。山に登り、町を祝福して祈る祈り会です。
 先日私は、東京都東大和市に行きました。その教会の先生が「決起大会に来られたら、山頂から街のために祈ってください。」と熱心に願われました。それで山に登り町のために祈りました。なぜ山で祈るのかと聞くと、先生の奥さんが何年か前に一つの幻を見たことがきっかけだそうです。ある朝、早天祈祷会で祈っている時に、神様から一つの幻を見せられたそうです。それは山の上でその町のために祈っている幻で、その時町は真っ暗だったそうです。しかしその町のために皆で手を挙げ、「神様。この町を祝福してください。」と祈り始めたら、真っ暗いその町の中に点々と電気が灯り始めたそうです。そして電気がついた家の中から、「オギャー、オギャー」と赤ちゃんの産声が聞こえてきたそうです。その時に神様が、「あなたはこの町のために祈りなさい。祈っているうちに霊の子どもたちが生まれますよ。」と語られたそうです。当時は不思議な幻だと思っているだけで、はっきりとわからなかったそうです。しかし近年になり、私の本を読み、町のために祈ることの重要性についてわかったそうです。
 民数記には、バラムとバラクのストーリーが書かれていますが、バラクがバラムをイスラエルが見える山の上に連れて行き、彼らを呪ってくれと頼みました。しかし、バラムは呪うことができず、祝福したことが書かれています。バラクは色々な角度からイスラエルが見える場所にバラムを連れて行き、何しろイスラエルの民を呪ってもらおうとしました。
 日本にはほとんど高いところに偶像があります。これは、日本人の感覚では祝福のつもりで置いているのかも知れませんが、逆に町に対する呪いとなるのです。次週の日曜日、ぜひ、午後からの祈祷会に残って、自分の町の祝福のために祈ってください。町に霊的電気が灯り、霊的赤ちゃんが産まれるように祈っていただきたいと思います。聖霊の注ぎは、祈りから始まっていきます。
 旧約聖書は、新約聖書の影です。旧約聖書は主にイスラエルの歴史が記されています。聖書は今から二千年から四千年も昔に書かれた本で、古文書に属するような本です。「寝る前に日本書紀や古事記などの古文書を読むのが趣味です。」と言われる方は少ないです。しかし、私たちは古文書のような聖書を毎日読んでいます。それを古文書のように昔の歴史書として読んでいるのなら、むなしいことです。しかし、旧約聖書の出来事は新約聖書にも対応しており、また、今の私たちにも適応を与えているのです。
 第二列王記四章には預言者エリシャが起こした奇跡の物語があります。借金取りから追われてるようなやもめの家族を、油を増やす奇蹟によって養ったということです。これを昔起こった奇跡の記録として読んだならば、ただそれだけに終わってしまいます。
 聖書は最初に出てくる言葉が最後には何を意味しているかによって、前のストーリーも解釈が変わってくるのです。ここに「油」について書かれています。「油」は、「聖霊」ご自身を現しています。ですから、このストーリーも聖霊に満たされる秘訣と置き換えて学ぶことができるのです。第二列王記四章四十一節から、

『預言者のともがらの妻のひとりがエリシャに叫んで言った。「あなたのしもべである私の夫が死にました。ご存じのように、あなたのしもべは、主を恐れておりました。ところが、貸し主が来て、私のふたりの子どもを自分の奴隷にしようとしております。」エリシャは彼女に言った。「何をしてあげようか。あなたには、家にどんな物があるか、言いなさい。」彼女は答えた。「はしための家には何もありません。ただ、油のつぼ一つしかありません。」すると、彼は言った。「外に出て行って、隣の人みなから、器を借りて来なさい。からの器を。それも、一つ二つではいけません。家にはいったなら、あなたと子どもたちのうしろの戸を閉じなさい。そのすべての器に油をつぎなさい。いっぱいになったものはわきに置きなさい。」そこで、彼女は彼のもとから去り、子どもたちといっしょにうしろの戸を閉じ、子どもたちが次々に彼女のところに持って来る器に油をついだ。器がいっぱいになったので、彼女は子どもに言った。「もっと器を持って来なさい。」子どもが彼女に、「もう器はありません。」と言うと、油は止まった。彼女が神の人に知らせに行くと、彼は言った。「行って、その油を売り、あなたの負債を払いなさい。その残りで、あなたと子どもたちは暮らしていけます。」』

 油が増える奇跡の前に、一つの条件がありました。それはまず、外に出て行き、隣の人皆から器を借りてきなさいとエリシャは言いました。それから家の中に器を持ち込み、後ろの扉を閉めてから油を注ぎ、いっぱいになったものは脇に置くように指示されました。やもめの家族はこれを実行しました。色々なところから空の壺を借りてきて、家に入れ、後ろの扉を閉めて油をつぎ始めました。奇跡のもとなった油壺は、家の中にあったほとんど油の切れかかったものでした。しかし、それを注ぎ出したら、どんどんと増えてすべての壷が油でいっぱいになったのです。「油」というのは「聖霊様」です。「増える」ということは「聖霊に満たされる」ことです。
 「聖霊が満ち溢れる」奇跡は、聖霊様が内住しているクリスチャンから始まります。エリシャが「空の壺を借りてきなさい」と言いましたが、これは、「油の入っていない壺」すなわち、「イエス様を信じていない魂」のことです。魂をたくさん借りてくるとは、「教会に連れてくる」ということです。「後ろの扉を閉める」とは、貸し主が彼らを狙っていたのですから、「霊的な戦い」です。サタンが入り込むことがないよう「霊的戦い」をして、それから油をつぎなさいというのです。
 「もっと器を持ってきなさい。」子どもが彼女に、「もう器はありません。」と言うと、油が止まったと書かれています。私たちが福音宣教を続けて行くならば、必ず油が注がれ続けるということです。聖霊の溢れる祝福をいただくために必要なことは、空の壺を借りに行くことです。まだイエス様を信じていない人に、「教会に来ませんか」連れてくることです。そうすれば聖霊が満ち溢れるということです。四章七節に、

『彼女が神の人に知らせに行くと、彼は言った。「行って、その油を売り、あなたの負債を払いなさい。」』

「負債」という言葉が出てきますが、パウロは負債について、「宣教」と捕らえました。油を売って宣教をこなす、すなわち、「聖霊によって宣教は進んでいく」と教えています。そして、「その残りであなたとあなたの子どもたちは暮らしていけます。」と書かれています。
 ここで、私たちの生きる力となるのは、「その残り」だと書かれています。私たちが福音を伝えた、「その残りであなたがたは暮らしていける」というのです。ということは、「宣教が私たちの力である」ということです。まだ救われていない人たちを教会に誘って連れてくることが福音宣教です。その中に油が注がれていきます。そしてその残りであなたとあなたの子どもたちは暮らしていけるというのです。暮らしていけるという言葉は、「暮らす」という言葉だけではありません。これは、「回復する」、また、「リバイブする」という意味もあります。ということはリバイバルは宣教とともに進んでいくのです。
 今日、私たちは宣教について学びました。福音を伝えて行くならば、必ずしるしが伴い、聖霊の油も豊かに注がれていきます。私たちはその残りで暮らしていくことができ、回復され、リバイブされるというのです。私たちが主の前に生きる秘訣はここにあります。この御国の福音をひとりでも多くの方々に宣べ伝える者でありたいと願います。
 今朝、私たちは福音を伝える勇士となることができるように。あなたの周りには、まだイエス様を信じていない方々がいます。その人のために祈ってください。その方々を導くことができるように。今は大丈夫かも知れませんが、イエス様を信じていないならば、やがて滅びてしまうということを知り、福音を伝える勇士として歩むことができるよう祈っていきましょう。

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