今週の礼拝メッセージ
無精者と勤勉者   1998.7.19(SUN)

新城教会牧師 上條 実

<今週のメッセージの御言葉>
箴言12章27節
無精者は獲物を捕えない。しかし勤勉な人は多くの尊い人を捕らえる。

 ハレルヤ!今日ここで皆さんと共に礼拝を守れることを心から感謝します。先週は皆さんにお祈りいただき、東京の八王子で奉仕させていただきました。八王子は私の母が生まれ育ったところです。皆さんがお祈りくださり、素晴らしい集会を持つことができました。普段は約七十〜八十名の礼拝だそうですが、その日は約九十名の方が来られました。またその後で四時半から伝道集会がありました。どこでもそうかも知れませんが、東京では礼拝が終わってから一度家に帰ってからまた集会に出直してくることは大変難しい事だそうです。先日電話した教会は、礼拝が十二時半までというので決起大会は二時頃からが良いと思って牧師先生にお話ししましたら、そんなに時間が経ってしまったら皆帰ってしまうと言われました。そこで十二時半に礼拝が終わってから、何と一時から決起大会というようなスケジュールにしました。先週は四時半からでしたが、集まらないのかと思いましたが、四時には七十名程の方々が集まりました。伝道集会ということで中学生、高校生、またおばあさんまで、多くの方が集まられました。聖霊様が働かれ多くの方がイエス様を信じました。その八王子の教会に行き、リバイバルのために祈り皆が一つになって働いている姿を見て心から感謝しました。特別以前ここで順牧師が夢のような話をしていました。ひとりの中学生の女の子が駅前の路傍伝道で救われてました。その女の子が「イエス様を信じましょう」と言う歌を歌って路傍伝道をしたという話をしました。その女の子のいる教会です。彼女はデパートの前で路傍伝道をしていたら、デパートの店長が「何をしているのだ」と出てきて怒られました。彼女は、「イエス様が救い主で・・」と証したら店長が、気に入って店の中で行いなさいと言ってくださいました。そして更にデパートの館内アナウンスで行って、やって欲しいと言われ、放送しました。またある市の小学校に行って路傍伝道をしました。また学校の人に怒られました。しかしその学校の方に事情を説明し、証したらそれは素晴らしいということになり、是非各教室を廻って証しをして欲しいと頼まれました。また最後には校内放送で外にも聞こえるように行い、近所の方も集い、皆がとても感動したということを聞きました。私はどんな子かと思いましたが、全く目立たない子で、私はどんな証があるのかを聞きたいと思いましたが牧師先生が高ぶるといけないからと言われて、証してくれませんでした。そして今は路傍伝道をしているの?と聞いたら今はもうしていないそうです。そんなとても恵まれた教会で奉仕させていただき、心から感謝しています。ではみことばを学んでいきましょう。今日の御言葉は、箴言十二章二十七節です。

『無精者は獲物を捕えない。しかし勤勉な人は多くの尊い人を捕らえる。』

この無精者とは、「怠けがちなこと、ものぐさ、面倒くさがる、精を出さない」という意味があります。勤勉ということは、「熱心に務める、一生懸命に励む」という意味があります。私たちリバイバルを求めて、祈り、伝道し、多くの人を捕らえたいと思っています。しかし、先週聖書を読んでいる中で無精ものは獲物を捕らえないと語られ、ショックを受けました。私は怠け者で、ものぐさで、面倒くさがりで、精を出さない無精者だと示されました。皆さんはどちらに属するでしょうか。無精者でしょうか。、それとも勤勉な者でしょうか。ここにおられる方はほとんどが勤勉な者だと思います。
 私はこの教会で生まれ育ってきました。子どもの頃から兄姉がどのように神様が祝福されて来たかを見てきましたが、岡本さんのマルイチの方々は特別勤勉な方だと思います。茶臼山駅前で小さな商売をしていました。岡本さんの勤勉な働きで、現在大型店舗になりました。素晴らしい成長を遂げました。また他の兄弟姉妹も、勤勉で、初めはコツコツと働かれ、今祝福されていることを見ると、素晴らしい神様からの祝福・プレゼントだと思います。今日まで勤勉に働けたということは神様に感謝することです。健康が与えられ、守られて今あることを感謝いたします。では今私たちは何に勤勉でしょうか?ある人は商売や仕事に勤勉かも知れません。会社のために一生懸命励み、会社がいかに儲かるか。どうしたら成績を上げることができるかと日夜勤勉に働いておられると思います。またある人は、自分の家で家事をしながら、勤勉に家事をされていると思います。またある方は仕事は適当にして、趣味に対しては勤勉という方もいると思います。釣りとかゴルフに行く人は早く起きます。仕事というとなかなか早く起きれないような人が、釣り、ゴルフというと早く起き、仕度をして出かけて行きます。子どもたちは遊びに勤勉です。ファミコンはすごい集中力です。勉強しているときは集中力のない子どもたちが、ファミコンとなると一時間・二時間と集中しています。色々なところで勤勉があります。私は最近太り気味で、健康のためにこの頃万歩計を付けています。一生懸命歩いて減らそうと思っています。私は食いしんぼうですので、なかなかダイエットはできないですが、歩くことは健康にも良いので歩いています。ある方はダイエットに勤勉な方がいると思います。身を苦しめてでも、勤勉にダイエットしたりしています。私たちは色々なところで勤勉さを現しています。勤勉な者。とても勤勉な人は美しく見えます。昨日連絡してあなたのことを礼拝で言うから・・と断っておきましたが、東京事務所で色々な方が働いていますが、岡本司兄がいます。新城教会の子ども会で育ち、小さいときは決して勤勉な者とは言うことのできない子どもでした。もう少し何とかならないのかといつも彼に言っていました。先日プレイズ出版の方に電話が入り「司君電話だよ」と言われていました。正直言って大丈夫かなぁ。どんな対応をするのだろうと思っていました。すると、彼の声は営業用に変わり、「はい、岡本でございます。」と一オクターブ高くなり、立派に応対している姿を見たときに頑張っているなと感心しました。あんな子どもが努力して、勤勉に仕事を頑張っている姿を見るとき、とても嬉しく思いました。私たちは世の中の生活では一生懸命です。人に商品を売るために熱心です。その商品を必死にアピールします。人が喜んでもらえるように考えます。営業の方は、成績を上げようと、自分の時間と睡眠を削っても頑張っています。しかしイエス様の前には、どうでしょうか。一生懸命皆が商売や事業のために働いていますが、神様に対してどれだけ勤勉でしょうか。マタイの福音書六章三十三節に、

『だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。』

と書かれています。イエス様を何よりも第一にしていくべきであり、イエス様を第一にして行くとき、私たちの必要が付け加えられていく。何事にもまずイエス様のことを考えることが大切だと言われています。私たちはイエス様のことを第一に考えているでしょうか。先週の日曜日、八王子の決起大会が終わってからテレビをずっと見ていました。それは、参議院選挙があり、選挙の状況を見ていました。開票速報を見ているとき、ある意味で私たちの伝道は選挙のようなものだと思いました。選挙は最初だれが出るかと人選をし、政策、選挙作戦と考えます。街頭演説、個人演説など当選を目指して票読みをし、あらゆる手段を用いて戦います。皆が一丸となって必死で行います。私も家で朝忙しいとき、電話がかかってきて「○○候補の事務所の者ですが、今度ぜひお願いいたします」と言われ、うるさいなあと思って切ってしまったことがあります。当選を目指して、その人たちは勤勉に働いています。ひとりの政治家のために皆が一丸となってバックアップして取り組んでいます。当選するためには声をからして街頭で訴え、時間と莫大なお金をつぎ込んで、勤勉に働いています。しかし私たちは東京ミッション、また来週には新城でサマーフェスティバルがあるということを考える時、どれぐらい勤勉でしょうか?どうしても家族が救われて欲しいし、どうしても近辺の人が救われて欲しい。日本にリバイバルを起こして欲しい。と思っていながら、祈っていながら、勤勉さがないと思いました。あの選挙の人たち、商売をしている人たち、身を粉にして働いている。それなのに私たちは大きな大会があるのに、来週には新城サマーフェスティバルがあるにも関わらず、私は全く勤勉ではないと神様に責められました。神の国と神の義を第一にしなくてはならないと知っていながら、全く第一にしていない現実を覚えます。先週は一週間ずっと祈祷会がありました。その祈祷会の中で、自分に勤勉さが欲しい。と切実に祈る時を持ちました。今までは自分でボーダーラインがあり、これくらいやっていれば良いという、曖昧さがありました。本当に無精なところがありました。しかし神様の前に、リバイバルを求めているのならば、主の前にもっと勤勉になってリバイバルを求めて行くべきだと示されました。私は真剣に大声を出して祈りました。「神の国とその義を第一に求めなさい」と語られながら、第一でない自分を見るときに、主がどんなにか悲しまれていると思います。私たちはとにかく勤勉でありたいと思います。では何を勤勉にしていかなければならないでしょうか?
 一つは祈りによってです。聖書の中に絶えず祈りなさいと書かれています。私たちは、一週間これだけ祈った。一日でこれだけ祈ったから大丈夫。早天に出たからとか、県民の森祈祷会に出たからとかいうことでこれで大丈夫というような思いがないでしょうか。私は絶えず魂のことを考えて祈って求めて行かなくてはいけない。常に私たちは祈り求めて行かなくてはならないと深く神様から教えられました。ルカの福音書十一章五節からに、

『また、イエスはこう言われた。「あなたがたのうち、だれかに友だちがいるとして、真夜中にその人のところに行き『君。パンを三つ貸してくれ。友人が旅の途中、私のうちへ来たのだが、出してやるものがないのだ。』と言ったとします。すると、彼は家の中からこう答えます。『めんどうをかけないでくれ。もう戸締まりもしてしまったし、子どもたちも私も寝ている。起きて、何かをやることはできない。』あなたがたに言いますが、彼は友だちだからということで起きて何かを与えることはしないにしても、あくまで頼み続けるなら、そのためには起き上がって、必要な物を与えるでしょう。わたしはあなたがたに言います。求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。』

夜中の寝静まった頃に、友だちが来て何も出して上げることもできない。だから、友だちのところに行き、扉をたたき続けています。私はこれを読み、自分だったらどうするだろうと考えました。自分の家に友だちが来て何ももてなすものがない。そうしたら友だちの家まで行って頼み込んで食物を得るのだろうか・・・。自分でどのような行動をとるのだろうかと考えます。真夜中なので、自分だったら「もう遅いですから早く寝てください」と言ってお茶を出したぐらいで、サッサと寝かしつけてしまうかもわかりません。しかし、パンを与えるために、寝込んでしまっている人のところに言ってわざわざたたき続けています。その時にもう面倒だと断られているにも関わらず、頼み続けています。その時に寝ていた人はうるさくて仕方がないということでパンを渡しています。私たちは理性で考えてしまい、こんなに祈っても駄目だとか、神頼みのような雰囲気は駄目だと色々な言いわけをし、あきらめてしまうような私たちです。家族の救いを考えると、早く救われて欲しいと思います。私たちの一番の願いは家族の救いだと思います。にも関わらず、ある時には集中して祈るかも知れません。しかし今はどうでしょうか。家族に対してどれほど重荷を持って祈っているでしょうか。今も自分の家族が救われるようにと祈っているでしょうか。私たちは祈ることを忘れてしまっていませんか?私たちは忙しさに流されてハッと気がつき、早く救われて欲しいと思うくらいで私たちは本当に祈りの足りない勤勉さのない者だと思います。今私たちはルカの福音書のこの人のようにあくまで頼み続ける勤勉な者になっていきましょう。私たちは神の前に頼み続けて祈り続けていきたいと思います。神様は祈りに答えてくださる方です。祈りは必ず答えられます。私にも子どもがいますが、子どもが無理な注文をしてきて、何かを買って欲しいと行ってくるときがあります。時には買ってあげても良いかなと思うことがありますが、その子どもの生活態度では駄目だと思う時があります。生活をなおしたら、この様にしたらと注文をつけて、できれば買ってあげると言うと、子どもたちは私から見てかわいそうに思うくらい、必死になる時があります。頑張っている姿は親心をくすぶられます。頑張っているから買ってあげようと、現実にはまだ早い時期でも、その頑張りを見て買ってあげてしまうことがあります。神様はあなたの祈りを待っておられ、勤勉な祈りを要求されていると思います。あなたの中に勤勉で祈り続けていくならば、神は必ず祈りに答えてくださることを覚えてください。
 また、更に伝道。語ることに勤勉でなくてはなりません。私たちは今週一週間、新城のサマーフェスティバルのために友だちや家族を誘わなくてはなりません。今週の週報でも動員のアンケートがあります。私たちはどれくらいイエス様のことを宣べ伝えているでしょうか。先程も言いましたが、商売をやっている方は、商品がいかに売れるかと考えます。色々なサービスや目玉商品を考えながら、あの手この手を使って人を集め、売り出しています。しかし、私たちはどうでしょうか。新聞折り込みや、チラシ配布をしています。そして友だちを誘います。しかしどれほど勤勉になっているでしょうか?私たちには勤勉さは全くありません。無精者で誰かが誘ってくれるだろう。あの人はよく頑張ってくれるから、あの人が誘ってくれるだろう。というような状況の中で自分は無精者の上にあぐらをかいてしまっているような者であるかも知れません。今日あなたも本気になって主の前に御言葉を伝え、魂に対してどんどん伝道して行かなくてはならないということを学びましょう。私たちは口で語らなくてはいけません。伝道するべきです。しかしこの口は何を語っているかというと悪口、不平不満です。私も昨日メッセージを考えながらも、子どもたちに「何を言っているんだ。バカ!」と叫んでしまいました。すると長男が「お父さん。バカとは何だ。メッセージを考えているときに・・・・。」と言われ、しまったと思いました。詩篇一四一篇三節に、

『主よ。私の口に見張りを置き、私のくちびるの戸を守ってください。』

とあります。この言葉を思い出して祈りました。私たちの口から出てくる言葉は汚い言葉、悪口ばかり。しかしこの口で私たちは御言葉を宣べ伝えなくてはいけません。また詩篇三十九篇一節には、

『私は言った。私は自分の道に気をつけよう。私が舌で罪を犯さないために。私の口に口輪をはめておこう。悪者が私の前にいる間は』

と書かれています。もう私の口で悪口を言わないように、また罪を犯さないように口輪をしようとダビデは言っています。私たちは汚れた言葉を語る口ではなく、伝道しなくてはいけません。必死になってイエス様を紹介しなくてはならないのに出てくる言葉は汚れた言葉、罪だらけです。箴言一二章の十三節からの御言葉に、

『悪人はくちびるでそむきの罪を犯して、わなにかかる。しかし正しい者は苦しみを免れる。人はその口の実によって良いものに満ち足りる。人の手の働きはその人に報いを与える。愚か者は自分の道を正しいと思う。しかし知恵ある者は忠告を聞き入れる。愚か者は自分の怒りをすぐ現わす。利口な者ははずかしめを受けても黙っている。真実の申し立てをする人は正しいことを告げ、偽りの証人は欺き事を告げる。軽率に話して人を剣で刺すような者がいる。しかし知恵ある人の舌は人をいやす。』

と書かれています。「軽率に話して剣で人を刺すような者がいる。」と十八節に書かれています。私たちは何も考えずに人にさっと言ってしまうことがあります。相手はどのように考えているのか考えもせずに、語ってしまいます。私たちは多くの人を剣で刺してしまっていると思いました。私たちは十八節の後半に「しかし、知恵のある人の舌は人をいやす。」と書かれています。悩んでいる人、苦しんでいる人が多くいます。多くいるというよりもすべての人が問題を抱えています。そのような中で、私たちは口輪をはめ、門番を立てて神の栄光を現わす言葉を語らなくてはいけません。あなたの口で人を癒すことができるのです。私たちのこの口が勤勉で、神様に用いられるように、今日聖めていただきましょう。あなたが語らなかったら、あなたが誘わなかったらあなたの友だち、家族は教会に来ることはできません。あなたが語らなかったら人々は聞くことができません。今日このことを覚えて勤勉な者になってください。あなたが語ることによって、問題も心の病気も勝利することができます。
 もう一つ奉仕に対して勤勉でなくてはいけません。私たちは奉仕に対して無精者かも知れません。誰かが奉仕をしてくれるだろう。自分はしなくても、誰かが、スタッフがするだろう。目には付きます。あそこが汚いとか、あのようにしたら良いとか・・・批評家になっています。しかし自分は奉仕をしないのです。先日まで行われていたワールドカップのサッカーは六十何パーセントの人がテレビを見たそうです。今までサッカーを知らなかった人までもが、興味を持ってテレビを見ました。わたしも次男と共に夜中にサッカーを見ました。プロの人がサッカーをしていて、自分はサッカーがうまくないにも関わらず、あいつは駄目だとか、下手くそだとか、誰々を交替したほうが良い。などサッカー批評家になっています。自分は何にもわからないのに、自分はできないのに批評家になっているのです。教会の中でもそうかも知れません。色々な方が奉仕するのを見ながら、あのようにすれば良いのに・・・と人の奉仕を見て批評しています。自分は見ているだけ、何もやっていないのに参加しているような思いになり、批評しているのです。私たちは誰かがやると思うのではなく、ひとりひとりが勤勉に一生懸命奉仕していきましょう。主の前に頑張ってやっていきましょう。あなたのできることを奉仕して行きましょう。色々な奉仕があります。献金も祈りも奉仕です。また、フェスティバルの中で料理を作ったり、設営、警備、駐車場と色々な奉仕があります。見るだけの者ではなく、勤勉に私たちが働くべきです。また明日は二十日です。東京でトラクト配布があります。全都トラクト配布があります。ぜひあなたも参加してください。あなたが一歩踏み出して奉仕し始めるときに尊い人を捕らえることができます。
 また私たちは集会に対しても勤勉でなくてはいけません。私は色々な教会を回りましたが、新城教会程集会をしている所はありません。しかし私たちは結構集会に対しても無精者で、出席しなくても良いと考えてしまいます。皆さんのお手元に東京ミッションのアンケートが渡されていると思います。私たちはお金がかかるからとか、遠いからとか、仕事があるからと考えます。私ひとりが行かなくても体制に変わりはないからと思いますが、私たちがそこを一歩進み、勤勉な姿で参加を決め、とりなし、奉仕をするところに素晴らしい神様の祝福があります。あなたの勤勉さが多くの尊い人を捕らえることができるのです。ヘブル十章二十五節に、

『ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。』

と書かれています。世の終わりには、集会に集まることをやめてしまうという御言葉です。しかし、私たちは勤勉に集会に出席し、共に祈り、熱く交わりを持っていきたいと思います。今日の昼からも来週の集会のための、先取り祝宴会を行います。一緒にお祈りの時を持ちます。あなたが本気になって祈ったときに多くの人を捕らえることができると信じます。信仰は聞くことから始まるとあります。皆さんの信仰生活がしっかりと土台が据えられ、成長するには御言葉を聞くことです。また交わりも大切です。私たちの教会には色々な集会があり、特に家庭集会が多いのが特徴だと思います。色々なところで家庭集会があります。そして、家庭集会で真の交わりができます。家庭集会で色々な方の直接的な証を聞き、恵まれ、その会話の中でクリスチャン同士が支えられ祝福されます。今日覚えてください。勤勉なものは尊い人を多く捕らえることができます。あなたは勤勉でしょうか。私ははっきり言って無精者でした。しかし、私は本当に勤勉な者になりたいと思って祈っています。自分のできる限りのことをしたい。命をかけてくださったイエス様のために、できる限りの勤勉さを持って、神の国とその義をまず第一に求めていきたい。と願っています。皆さんの中にも同じように無精者で怠けていた人がいるならば、今立ち上がって奉仕しようではありませんか。また、神様のために働きたいと思っていながらバックしてしまっている人、神の前に出てください。一歩踏み出して神様のためにはじめてください。必ず神様はあなたを用いてくださいます。家庭の中でも職場の中でもどのようなところでも神様はあなたを用いたいと思われています。「わたしの目にはあなたが高価で尊い。私はあなたを愛している。」これが神様の約束です。ですからあなたが本気になって勤勉になったときに、尊い多くの人を捕らえることができます。日本のリバイバルのために、この地域のリバイバルのために、皆が勤勉な者となって主のために働いていきましょう。一言お祈りします。

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