今週の礼拝メッセージ
幸福の秘訣   1998.8.9(SUN)

新城教会牧師 滝元 明

<今週のメッセージの御言葉>
新約聖書 ルカの福音書6章20節〜38節
イエスは目を上げて弟子たちを見つめながら、話しだされた。「貧しい者は幸いです。神の国はあなたがたのものですから。いま飢えている者は幸いです。あなたがたは、やがて飽くことができますから。いま泣いている者は幸いです。あなたがたは、いまに笑うようになりますから。人の子のために、人々があなたがたを憎むとき、また、あなたがたを除名し、はずかしめ、あなたがたの名をあしざまにけなすとき、あなたがたは幸いです。その日には、喜びなさい。おどり上がって喜びなさい。天ではあなたがたの報いは大きいからです。彼らの先祖も、預言者たちをそのように扱ったのです。しかし、富んでいるあなたがたは、哀れな者です。慰めを、すでに受けているからです。いま食べ飽きているあなたがたは、哀れな者です。やがて、飢えるようになるからです。いま笑っているあなたがたは、哀れな者です。やがて悲しみ泣くようになるからです。みなの人にほめられるときは、あなたがたは哀れな者です。彼らの先祖は、にせ預言者たちをそのように扱ったからです。しかし、いま聞いているあなたがたに、わたしはこう言います。あなたの敵を愛しなさい。あなたを憎む者に善を行ないなさい。あなたをのろう者を祝福しなさい。あなたを侮辱する者のために祈りなさい。あなたの片方の頬を打つ者には、ほかの頬をも向けなさい。上着を奪い取る者には、下着も拒んではいけません。すべて求める者には与えなさい。奪い取る者からは取り戻してはいけません。自分にしてもらいたいと望むとおり、人にもそのようにしなさい。自分を愛する者を愛したからといって、あなたがたに何の良いところがあるでしょう。罪人たちでさえ、自分を愛する者を愛しています。自分に良いことをしてくれる者に良いことをしたからといって、あなたがたに何の良いところがあるでしょう。罪人たちでさえ、同じことをしています。返してもらうつもりで人に貸してやったからといって、あなたがたに何の良いところがあるでしょう。貸した分を取り返すつもりなら、罪人たちでさえ、罪人たちに貸しています。ただ、自分の敵を愛しなさい。彼らによくしてやり、返してもらうことを考えずに貸しなさい。そうすれば、あなたがたの受ける報いはすばらしく、あなたがたは、いと高き方の子どもになれます。なぜなら、いと高き方は、恩知らずの悪人にも、あわれみ深いからです。あなたがたの天の父があわれみ深いように、あなたがたも、あわれみ深くしなさい。さばいてはいけません。そうすれば、自分もさばかれません。人を罪に定めてはいけません。そうすれば、自分も罪に定められません。赦しなさい。そうすれば、自分も赦されます。与えなさい。そうすれば、自分も与えられます。人々は量りをよくして、押しつけ、揺すり入れ、あふれるまでにして、ふところに入れてくれるでしょう。あなたがたは、人を量る量りで、自分も量り返してもらうからです。」

 今朝はルカの福音書六章のイエス様が語られた御言葉から学んでいきます。二十節に

『イエスは目を上げて弟子たちを見つめながら、話しだされた。「貧しい者は幸いです。神の国はあなたがたのものですから。』

と書かれています。
 皆さんがお祈りくださって、毎日忙しく色々な所を廻っていますが、今日まで健康が支えられていることを心から感謝しています。東京リバイバルミッションまであと四十日になり、今日から東京ミッションでは、全国に四十日の連鎖断食をお願いしています。一食でも二食でも断食して祈ってくださるように全国にお勧めしています。これには非常に反応が多く、「私も断食します」という声が多く届いています。それを見て、私は感謝しました。時々、「今、東京ミッションはどうですか。盛り上がっていますか?」という質問を受けますが、具体的に何について盛り上がっているかわかりませんが、ある意味で感謝なことに、私たちの知らない人たちが東京のために重荷をもってくださり、よく献金をしてくださいます。すでに報告されているように、東京ミッションの会場費は全部支払うことができ、また、今大会のための準備金が約六千万円程あることを感謝しています。同時に多くの方が祈ってくださることを見ると励まされます。「これだけの方々が祈ってくださっている。大丈夫だ。」と思います。もう一つ大会のために確信していることは、先にも触れましたように、断食して祈ってくださいということについて多くの方々が応答してくださっていることです。四十日断食カードがありますが、「朝だけ断食します。」とか、「昼だけ断食します。」とか、「夜、断食します。」と書かれています。私はそれを見て、皆が祈っていてくださるから大丈夫だと確信を持つことができました。皆さんも、ぜひ、一食でも二食でも断食して祈ってください。そうすれば、必ず、イエス様が素晴らしい答えを出してくださるに違いありません。
 先週私は、東京都東大和市の教会で礼拝を守りました。そして、午後四時から六時半まで、新宿アルタ前広場で路傍伝道を行ないました。初めてそこで路傍伝道をしました。新宿は多くの人がいます。新城ではあまり道を通る人がいません。飯田線でも昼頃に電車から降りる人は一人か二人です。しかし、新宿は何千人も、どこから人が湧いてくるのか、というくらいたくさんの人がいます。そこで路傍伝道をしました。何十人かの勇士たちと共に行いました。午後四時から六時までは歩行者天国で、自動車は通らないので多くの人が集まります。祈って賛美してトラクト配布をしました。通りを行く人々もあまり忙しすぎるとトラクトを受け取ってくれません。しかし、座っている人は取ってくれます。二千枚くらいトラクト配布をしました。そして午後六時になり、交通が解除されたのでトラックをアルタ前につけて止め、トラックの荷台の上で賛美を始め、そこから御言葉を語りました。トラックの扉が開くと同時に賛美をしましたので、とても迫力がありました。私はそこで二回の説教をしました。選挙戦のような感じでした。「皆さん。今の日本は非常に危ない時にあります。自民党は参議院において大敗しましたが、一体これは誰の責任でしょうか。橋本政権でしょうか。違います。それは日本の罪です。悔い改めなくてはいけません・・・。」と演説のようでした。通行人は私のメッセージに、非常に関心がありました。
 また次に、「道行く人たち。これから私が祝福を祈りますので祝福されたい方は、ストップして下さい!」と言いました。それから私は祝福をお祈りしました。トラクト配布している時は何となく、難しいと思いますが、上に立って話すとやはり愛する日本人だと思います。私も燃えてきました。そして良い路傍伝道ができて感謝しました。その時、トラクトを大勢受け取ってくれました。その後、東京事務所に電話が入り、年輩の男性から「私も東京ミッションに行きたいけれどどのように行ったら良いでしょうか。」とか、外国人たちも武道館に行くにはどのようにするべきか・・・と多くの反応があったそうです。現在、日本の多くの人々が飢え渇いており、救いを待っています。今は東京リバイバルミッションに向かっていますが、一番良い伝道のチャンスだと思います。

『イエスは目を上げて弟子たちを見つめながら、話しだされた。「貧しい者は幸いです。神の国はあなたがたのものですから。』

マタイの福音書五章三節には、

『心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。』

と書かれています。マタイの福音書には「心の貧しい者」と書かれています。しかし、ルカの福音書の中には「心」が入っていません。「貧しい者は幸いです。」と書かれています。「心の貧しい人は幸いです」とは、「自分の貧しさを知っている人は幸いだ」という意味です。しかし、ルカの福音書には、ただ「貧しい者」と書かれています。
 私は今から五十年程前に東京に勉強に行きました。十七歳の時でしたが、当時、日本は敗戦直後で貧しい時代でした。私が東京に行った時は街も復興しておらず、貧しい街でした。池袋や新宿は闇市場でした。その時、アメリカから来られた宣教師、穐近先生が日曜日午後、ジープの上から路傍説教をしていました。当時は、何百人という人が夢中になって御言葉に聞き入っていました。今はトラクトを配ってもなかなか受け取ってくれません。しかし当時は、ジープの上からトラクトを投げた時に、落ちる前に皆が懸命になって拾いました。飢え渇いていました。いつも「さあ、イエス様を信じたい人は前に出てきなさい。」と招きがありました。その中で救われたのが、今宮城県で伝道している大原敏夫先生や、沖縄の丸山郡司先生です。そこでは何千人という人々がイエス様を信じました。日本が本当に貧しかったからです。しかし、今日本は富んでおり、「どうぞ、お読みください」と渡しても、受け取る人が少ないのです。受け取りたくない理由もあると思います。日本には悪い人がいます。昨日トラクト配布で、私は中野区に配りに行きましたが、駅前で、変な格好した男性が女性に近づいて誘惑していました。彼らはいかがわしいパンフレットを配っており、多くの人はそれを受け取りたくありません。
 今は富んでいるからです。しかし、「貧しい者は幸いです。神の国はその人のものだからです」と書かれています。
 今日、順牧師が兵庫県の教会で集会をしており、平岡先生は神戸で、また、有賀先生は千葉県で集会をしています。ずっと決起集会を廻ってみて、一番人々が集まったのは、大阪の西成区の教会です。その教会には塀があり、門は閉められていました。先生が私を控室に連れて行き、「六時半になったら下に降りて来てください。六時に開門しますので。六時半になると会場はいっぱいだと思います」と言われました。六時半になってから下に降りて行くと、五百人から六百人が入っていました。女性はほとんどおらず、男性ばかりでした。それは一般で言う、ホームレスという人々ですが、日雇い労働者の方々です。ということは貧乏な人です。理由は分かりませんが、住まいもなく、路上で寝ます。だからその教会に入ると臭いです。しかし反応があります。
 先週は順牧師が上野公園でホームレス対象の決起集会をしました。六百人くらいが集まったそうです。最近、新城教会の中高生たちが西成の大阪救霊会館に行きました。その時もいっぱいだったそうです。貧しい人たちが真剣に主を求めているのです。あまり富んでいると、金の力で生きていると錯覚します。お金があると何か偉くなったような気がするのです。神がなくても生きられるような気がするのです。しかし本当は、貧しい者が幸いです。
 ホームレスをしている人たちの中には大学を卒業した人たちも、かつては社長であったという人もいます。しかし、ある時、何かの問題によって、財産をなくし貧しくなりました。これは神様の時です。
 「貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。」今の日本はある意味で貧しくなっています。経済的成長がストップし、マイナス成長です。失業率四・二パーセントです。失業者が二九〇万人近くだそうです。今までにこんな事はありませんでした。非常に不景気です。考えられないほど不景気です。大きな靴屋さんが倒産したり、函館の大きな水産業が倒産したり、また、中小企業が倒産したりと、深刻です。貧しくなりました。これは人間的に見ると苦しい時ですが、これが神の時です。このような時にこそ神の国を提供し、伝道するべきです。この時に大きなリバイバルが起こるように互いに祈り合っていきましょう。
 そして、「今飢えている者は幸いです。」「今泣いている者は幸いです。」「迫害されている者、悪口を言われている者は幸いです。」と書かれていますが、人生の中で悲しみや、悩みの時は神がお会いしてくださる時です。ですから、時々悩みにぶつかる時は、ある意味で幸せな時です。幸福への秘訣は、まず、貧しくなることです。聖書の中に、「あなたがたも幼子のようにならなければ神の国に入ることはできない。」と書かれています。
 ヨーロッパでは、子どもをあまり人の数に入れていません。電車に乗っても子どもたちを座らせずに大人が座ります。子どもは人間として大切ですが、それほどに数に入れていません。子どもは親からお金をもらっており、生活も自分ではできませんので、人間の数には入れられていないようです。ということは、「幼子のようになる」とは、「自分の力では生活できない、誰かの助けなくては生きることができないという人は幸いだ」ということです。自分の力で生きているという考えではなく、神様に頼らなくては生きることができない、自分の力では生きることができない、助けがなくては生きられないという人が幸いだというのです。天の御国はその人のものだと書かれています。自分の力では駄目です。あなたにお頼りしますという人が幸せになるのです。私たちも心から神様に頼っていかなければなりません。
 私は七月の初めに断食をしました。東京のために切に祈りました。切に祈ってわかった事は、人間の力では何もできないということでした。東京リバイバルミッションは大きな働きですが、人間の力では何もできません。私がいくら力んでみても人を集めることはできません。力んだからと言って献金が集まるわけではありません。ただ神を仰ぎ見るしかありません。神様に信頼する以外何もできません。そして与えられた御言葉は、

『私の助けは天地を造られた主から来る。』

これが断食の結果の御言葉でした。
 自分の力で神なしで生きられると思う人は幸せになれません。神なくては一日も生きることができない、という人が幸せになります。ですから、神を信じない人には傲慢があります。神などに頼らなくても生きられるという考えは捨てなければなりません。健康であることも神様の恵みです。これは自分の力ではありません。経済的に恵まれていることも神様の力だけです。自分の力ではなく、神様の恵みだけです。ですから、私たちが神様に信頼し、幼子のように生きるべきです。幼子がお父さんとお母さんがいなくては何もできないのと同じように、神様がなくては私たちは生きることができないのです。神に頼る事こそ、幸せになる秘訣です。
 第二に幸せになるには、二十七節に、

『しかし、いま聞いているあなたがたに、わたしはこう言います。あなたの敵を愛しなさい。あなたを憎む者に善を行ないなさい。あなたをのろう者を祝福しなさい。あなたを侮辱する者のために祈りなさい。あなたの片方の頬を打つ者には、ほかの頬をも向けなさい。上着を奪い取る者には、下着も拒んではいけません。』
と書かれています。また、三十五節に、

『ただ、自分の敵を愛しなさい。彼らによくしてやり、返してもらうことを考えずに貸しなさい。そうすれば、あなたがたの受ける報いはすばらしく、あなたがたは、いと高き方の子どもになれます。なぜなら、いと高き方は、恩知らずの悪人にも、あわれみ深いからです。』

と書かれています。
 私は先週、岡本先生と一緒に北海道を巡回しました。先週は長谷川千代子姉が天に召されました。ここで葬式がありましたが、その午後、北海道に発ちました。そして金曜日には東京へ戻り、それから昨日はトラクト配布に行きました。
 私は一昨日の朝、東京に行く前、北海道で夢を見ました。甲子園ミッションを反対された人が、黄色い顔をして私の前に立ち、「滝元先生。あの時は悪いことをした。赦してください。」と謝られた夢を見ました。私は夢の中で、「良いですよ。あなたも年とったね。」と言いました。目覚めると私はすぐにひざまずきました。「イエス様。彼を祝福してください。」また、反対された方々のためにも、「あの方々も祝福してください。」と祈りました。ルカの福音書六章は二十二節に、

『人の子のために、人々があなたがたを憎むとき、また、あなたがたを除名し、はずかしめ、あなたがたの名をあしざまにけなすとき、あなたがたは幸いです。』

と書かれています。キリスト教界の中である団体が、「今、悪霊追い出しや、病気を癒すとか言って間違った伝道をしている人がいるから彼らには気を付けなさい。こう言ってもわからないからはっきりと名前を出そう。」と言って、「大川従道、有賀喜一、滝元明」と名前を出されました。私はそれを見て嬉しくなりました。「私の行くところ、どこでも悪霊が追い出されるような力が来たら良い。今のところそれ程力がないけれど、名指しで悪口を言ってくれることは幸いだ。」と思いました。時々、悪口を言われます。団体として反対します、「東京リバイバルミッションには反対です」と声明書を出しているところもあります。なぜか私にもわかりません。新興宗教が反対するならわかりますが、キリスト教会が反対することはよく意味がわかりません。しかし、私は朝起きた時に祈りました。「主よあの反対する人たちを祝福してください。あの人たちを覚えてください。」と祝福をお祈りしました。

『あなたの敵を愛しなさい。あなたを憎む者に善を行ないなさい。あなたをのろう者を祝福しなさい。あなたを侮辱する者のために祈りなさい。』

と書かれています。これが祝福の道です。もし皆さんの中に嫌いな人がいたら、その人を祝福することです。赦すことです。私たちの戦いは血肉ではなく、悪霊との戦いです。今霊的な戦いがなされていますが、霊的な戦いはサタンとの戦いです。悪魔に勝つ道は悪魔と同じ方法では勝てません。悪魔は人間を高ぶらせます。しかし、神の道はへりくだりです。私たちが悪魔に勝つ道はへりくだることです。サタンの道は戦争させることです。クリスチャン同士が喧嘩し、悪口を言い合うこれはサタンの道です。神の道は赦すこと、侮辱する人を祝福することです。私たちはどのように悪口を言われても、批判されても喧嘩したら駄目です。終わりです。聖書の道に立つことです。これが祝福の道です。
 またもう一つ、三十七節に、

『さばいてはいけません。そうすれば、自分もさばかれません。人を罪に定めてはいけません。そうすれば、自分も罪に定められません。赦しなさい。そうすれば、自分も赦されます。与えなさい。そうすれば、自分も与えられます。人々は量りをよくして、押しつけ、揺すり入れ、あふれるまでにして、ふところに入れてくれるでしょう。あなたがたは、人を量る量りで、自分も量り返してもらうからです。』

「さばいてはいけない」と書かれています。私は甲子園ミッションの時に特別に教えられたことがあります。私たちの属していた教会は、ある意味で潔癖で罪を憎んでいました。これは良いことです。しかし、いつの間にか私たちは「きよい」という高ぶりを持つようになりました。これは良いことではありません。誰かが失敗すると「除名だ」と言いました。しかし、誰かが失敗したら、赦し、立たせなくてはなりません。「私たちの団体はきよい」と、いつの間にか裁き合ってパリサイ人のようになっていました。神様の御心は哀れみです。哀れみを神様が求めています。
 先日、東京で推進実行委員会があり、尾山先生と話しました。その中で、韓国で戦争中、多くの教会が日本の支配下で妥協しました。日本は神社を拝めと強制し、拝まないと牢屋に入れると脅しました。それで教会も妥協しました。しかし、妥協しなかった教会もありました。殺されても良いと戦った人達もいます。その人たちは牢屋に入れられましたが、戦争が終わり牢屋から出されました。
 妥協してしまった牧師は、「私たちは妥協して申し訳なかった」と謝りました。すると、命をかけて牢屋に入った牧師たちが、「一旦妥協しかけた人は牧師ではない」と言いました。しかし、彼らは「悔い改めて、また牧師になります」と言いました。ついに、「あの戦争中に偶像を拝んだ人たちを牧師にすべきではない」ということで意見が固まったそうです。
 しかし、失敗した人たちは、「失敗しました。憐れんでください。赦してください」と祈り、赦し合い、助け合って立ち上がりました。
 それから五十年が経ちました。今、どちらの団体が祝福されて、素晴らしくなっているかというと、「悔い改めた人たちの団体」が何百万人という信徒が集っています。しかし許さなかった団体は、数万くらいしかありません。
 私も、ある牧師が失敗すると、「あいつは失敗した。ものも言いたくない。」と思ったこともあります。しかし、甲子園ミッションの時にそのような方が私の所に来て、「先生、私にも協力させてください。これはわずかですが、使ってください。」と献金してくださいました。またそれとは反対に、助けてもらいたいと思ったような方々から、反対されました。どちらが私にとって、ありがたかったかというと、失敗してもへりくだった人の方が人間味があると思いました。一方はきよらかかも知れません。しかし、パリサイ人のような人はあまり魅力がありません。ですから、私たちも幸せになるためには、義に飢え渇いているべきです。砕かれた心、哀れみ深い人が祝福されます。私たちは哀れみ深い人になりましょう。そして、今生きていること、自分の力で恵まれていることも自分の力で恵まれているのではなく、神の恵みによってあることを信じましょう。「神なくしては何もできない」と頼る人を神は祝福してくださいます。一言お祈りしましょう。

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