今週の礼拝メッセージ
砕かれた心   1998.8.16(SUN)

新城教会牧師 滝元 明

<今週のメッセージの御言葉>
新約聖書 マタイの福音書9章9節〜13節
イエスは、そこを去って道を通りながら、収税所に座っているマタイをいう人をご覧になって、「わたしについて来なさい。」と言われた。すると彼は立ち上がって、イエスに従った。イエスが家で食事の席についておられるとき、見よ、取税人や罪人が大ぜい来て、イエスやその弟子たちといっしょに食卓についていた。すると、これを見たパリサイ人たちが、イエスの弟子たちに言った。「なぜ、あなたがたの先生は、取税人や罪人といっしょに食事をするのですか。」イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。『わたしは憐れみを好むが、いけにえは好まない』とはどういう意味が、行って学んで来なさい。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」

 ハレルヤ!今朝も皆さんとともに御言葉を学ぶことができるますことを感謝します。
 先週は、金曜日に東京のお茶の水学生会館で特別な祈祷会がありました。それは国際ナビゲーターという団体の先生方が集まり、そこで夜十時から朝六時までの集会がありました。私を歓迎してくださり、「先生。間もなく東京リバイバルミッションですね。土曜日と日曜日はいっぱいだそうですね。」と言われ、どこからの情報か知りませんが、まだまだなので祈ってくださいと言いましたが、今だんだんと、色々な人たちが東京ミッションに向けて参加を申込みされています。皆さんも東京ミッションに行けるように祈ってください。今日は皆さんとともに、マタイの福音書九章から学んでいきたいと思います。

『イエスは、そこを去って道を通りながら、収税所に座っているマタイをいう人をご覧になって、「わたしについて来なさい。」と言われた。すると彼は立ち上がって、イエスに従った。』

と書かれています。
 イエス様が宣教を始められる前、十二人の弟子を選びました。その時、収税所に座っていたマタイ、日本的にいうならば税務管理人ですが、この人に向かって、「わたしに従ってきなさい。」と言われました。
 当時ユダヤはローマ帝国の支配下にあり、国民からの税金を徴収し、ローマに納めることは売国者、即ち、自分の国を売る者だと言われ、一般的に取税人は嫌われていました。嫌われているマタイに向かって、イエス様は、「わたしについてきなさい。」と言われました。他の箇所を見ると、マタイをアルパヤの子レビという名前で呼んでいます。おそらく「レビ」と書かれている以上、マタイは「レビ人」であったと思います。レビ人は宮に仕え、祭司の仕事をしていました。しかし彼は、何らかの理由で悪い道に転落しました。取税人と言われる、皆から罪人呼ばわれされる職業に落ちてしまいました。彼は収税所に座っていました。ザアカイも取税人で嫌われていました。おそらくマタイは座り込んで考えたことは、「このままで良いのだろうか、私の人生はこのままでは良くない、人から嫌われ、これからどうすれば良いだろう・・・」という悩みを持ったと思います。
 今回、プレイズ出版から「光のある間に」という本が出され、何人かの先生方が書いてくださっていますが、その中で下條末紀子先生が、このように書いています。
 教会に来ている人々を調べると、色々な動機を持って来ています。「人生とは何だろう、生きるとは何か、何のために生きているのだろか。」という人生の大切な問題を持っています。そのように教会に来られた人が百人中二十名ほどあるそうです。しかし、後の八十パーセントは、そのような問題ではなく、離婚寸前とか、子どもが悪くなってどうしたら良いかとか、破産してどうするべきかなど、現実的な問題が多いそうです。
 皆さんはどのような問題で教会に来られましたか。自分のことを考えると、十九歳でしたから別に金にも困っていませんでしたし、夫婦喧嘩もないし、病気もないし、特別に問題がない、しかし、私が教会に来た時の悩みは、朝起きてご飯を食べ、一日働き、夜が来るという同じ生活を毎日している、こんなに勉強してもいつかは死ぬ、どんなに有名になっても死んだら終わりだ。生きることは何か。命をかけて働く仕事はないだろうか・・・と考えている内に、友だちから「君の顔は牧師に似合う顔をしている。」と言われて、教会に行き、イエス様を信じました。信じてから今日に至るまで四十九年程になりますが、今もイエス様を信じて良かったと思います。
 さて、このように悩んでいるマタイに向かってイエス様が言われたお言葉は、簡単で短い言葉です。「わたしについてきなさい。」でした。おそらくマタイはこのままで良いのか、という心配がありました。その時に「わたしについてきなさい。」と言われました。これは素晴らしい言葉です。
 私は一九七四年に穐近先生とアメリカを三ヶ月間ほど旅行しました。向こうで車を借りました。長い間先生はアメリカから離れていたので、何度も道を間違えては入ってはならない道に入ってしまいました。あるとき、サイレンを鳴らしてパトカーが追って来ました。それで免許書を見せました。随分取り調べられましたが、「私は日本で働いている宣教師で、久しぶりにアメリカに帰って来たので道を間違えてしまいました。」と正直に言いました。すると、警察がニコニコして「どこに行きたいのか。」と聞き、「ここに行きたい。」と言うと、「私の後についてきなさい。」と、パトカーが先導し、二十キロ程離れたところまで案内してくれました。
 「わたしについてきなさい。」という言葉は素晴らしい言葉です。人生をどのように生きるかというについて、イエス様が「わたしについてきなさい。」と言われています。今日の人々は自分の力で生きています。私の力、私の能力、しかし、行き詰まる時が来ます。どのようにしたら良いかわからないのです。日本では昨年は二万五千人ほどが自殺をしたと言いますが、優秀な人達が自殺をしています。大学を出て会社の社長だったとか、素晴らしい頭の良い人が人生に行き詰まり、生きることができないと自殺しました。男性と女性のどちらが多いかというと男性の方が多いそうです。一般的に男性は強そうに見えますが、本当は弱いのです。
 このようなマタイに対して「わたしについてきなさい。」イエス様を信じると努力してやっていくのではなく、「わたしについてきなさい」です。それで良いのです。これから毎日イエス様について行ったら人生は必ず失敗しません。成功します。
 ヨハネの福音書八章には、ある朝イエス様がエルサレムの神殿で話していると、姦淫の現場で逮捕された女性がパリサイ人たちに連れて来られました。嫌なところを捕まってしまいました。引きずられてイエス様の所に連れて来られました。「先生。この人は姦淫の現場で逮捕されました。モーセの律法によると、このような人は石で打ち殺すべきだ、と書かれていますがどうするべきでしょうか。」と尋ねました。聖書を見ると「これはイエスを訴える口実を得るためだった。」と書かれています。姦淫の現場にいた女性を連れて来た、と書かれていますが、弱い女性だけを連れて来るのではなく、本当は両方とも連れて来るべきです。しかし、イエス様は座り込んで地面に指で字を書いていました。すると益々激しく、「イエスよ。どうするか、石で打ち殺すべきか・・・。」と叫ぶので、イエス様はそっと顔を上げて、「あなたがたの中で罪のない人がまず石にて投げ打ちなさい。」と言われました。
 今日考えてください。もしここにイエス様がおられ、私たちは群衆で、イエス様が「罪のない人は石にて打ちなさい。」と言われたらどれくらいの人が出来ますか。私はできないと思います。考えてみたら学生時代に桃や柿を盗んだり、カンニングしてみたり、無賃乗車したり・・と悪いことをしました。人に言えないようなことがあります。イエス様は、罪のない人がやりなさいと言われた時に、年寄りがまず心を責められ、「私も人には言えない罪がある。」と一人去り、二人去り、最後には全員が去ってしまいました。残ったのは、その女とイエス様だけでした。するとイエス様がその女性に向かって、「婦人よ。あなたを罪に定める者はなかったのか。」と言われました。「はい。誰もありません。」するとイエス様が「わたしもあなたを罪に定めない。再び罪を犯さないようにしなさい。」と言われました。このような不倫、姦淫を犯した人に「罪を赦す、もう罪を犯さないように。」と言われました。彼女の心の中には、きっと、「ありがたい、石で打ち殺される所を助けてくださった。」と思ったことでしょう。しかし、二度と罪を犯してはいけない、と言われた時にはどうでしよう。はたして、これから罪を犯さないできよらかに生きられるか、という心配があったと思います。再び、男性に誘惑される可能性があります。再び罪を犯してはいけないと言われて、果たしてやっていくことができるだろうか、という心配があったと思います。
 その時にイエス様がヨハネの福音書の八章十二節で

『イエスはまた彼らに語って言われた。「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。』

と言われました。これはこの女性に再び罪を犯してはいけないと言われた後、言われた言葉です。素晴らしい言葉です。「あなたは弱くて罪を犯したでしょう。これからも自信がないでしょう。なくてもわたしが世の光です。わたしに従いなさい。そうすれば、決して闇の中を歩むことがなく、命の光を持つことができます。」と言われました。わかりやすくいうと、わたしが世の光だから、光の中を歩いたら心配はない。闇の中を歩まないで、これからわたしの後についておいで。そうしたら失敗しなくてもすみますよ。と言われたのです。
 今日皆さんの中で、意志が弱く時々失敗する人は、心配しなくても、「わたしは世の光だ」と言われたイエス様を信じたら、失敗せずに生きることができると教えています。そしてマタイ九章十節に、

『イエスが家で食事の席についておられるとき、見よ、取税人や罪人が大ぜい来て、イエスやその弟子たちといっしょに食卓についていた。』

と書かれています。他の聖書の箇所を見るとマタイが宴会を開いたようです。イエス様がわたしに従いなさいと言われて、マタイはイエス様を家に招待して大振る舞いしました。そうしたら大勢の人が来ました。聖書には「取税人」と書かれています。皆から嫌われている取税人、罪人たちと書かれています。一般化的に言うと、遊び人です。一般から見て汚れた女性やヤクザみたいなものです。村の悪い人ばかりが集まって、イエス様と一緒に御馳走を食べました。すると自分は正しいと思っているパリサイ人や宗教家たちが弟子たちに向かって、「お前の先生はなぜ、あんな汚れた人たちと、なぜ一緒に食事をするのか。」と言いました。するとイエス様が

『「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。『わたしは憐れみを好むが、いけにえは好まない』とはどういう意味が、行って学んで来なさい。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」』

と言われました。
 私たちはどちらに属しているでしょうか。イエス様は、罪人や取税人と一緒に食事をしました。
 もう一方は、自分を義とする人たちです。「私は正しい。どこまでも正しい。あいつらは汚い」と考えた人たちです。イエス様はどちらを愛されるでしょうか。
 「今の日本は堕落しています。」と言う人がいます。しかし、そうではない人もいます。日本人である私が悪いのです。私は日本人として罪人です、という人もいます。「社会が悪いです」という人と「私が悪いです」という人がいます。しかし、神様の前には、皆悪いのです。
 神様はどちらを愛されるでしょうか。「自分が悪い」という人を愛されます。イエス様は、「私は哀れみを好むが、いけにえは好まない」と言われます。私が正しいです、という主張より、へりくだった砕かれた心を持つ人こそ祝福されます。
 ある時、神の前にふたりの人が出ました。一人は、パリサイ人、宗教家です。もう一人は取税人、罪人でした。ふたり神の前に出て祈りました。最初にパリサイ人が、聖書を見ると、心の中で祈ったと書かれています。神様は心の中まで見られます。彼は天に目を向け、「神よ。感謝します。私は他の人のように罪人ではないことを感謝します。私は一週間の内二回は断食するし、十分の一は必ず神様の前に献金しているし、他の人、とは違いきよいことを感謝します。」と祈りました。すぐそばに取税人がいて、彼は「ことに、この取税人のような男ではないことを感謝します。」
 すると取税人が目を天に向けようともせず、胸に手を当て「神様。罪人である私を憐れんでください。きたない者です。駄目な人間です。憐れんでください。」と祈りました。聖書は、神はこの取税人を義とされたと書かれています。
 神様は、いけにえ、私はこのように正しいことをしました、というのではなく、哀れみを好むのです。神様は哀れみ深い方です。「悪かった。」と認めることです。私たちには弱点があります。しかし、神様にも弱点のようなものがあり、それは、私たちが失敗した時に心から、「ごめんなさい。悪かった。赦してください。」と悔い改めると、「この人は悔い改めたから赦してあげよう。」と砕かれた心に神様は弱い方なのです。 しかし「私は悔い改めない。私は正しい。」という頑なな心の人に対しては強い方です。私たちは今の日本を考え、神の前にへりくだることが大切です。
 新聞に、近頃、ニューヨーク市長が良くなり、街も変わってきたとありました。ニューヨークは霊的な戦いを通して良くなりました。色々な犯罪があり悪い場所でしたが、クリスチャンたちが本気でへりくだってとりなしの祈りをしました。それによって、犯罪が少なくなりました。
 私は一九七四年にニューヨークに行きましたが、ニューヨークほど怖い街はないと思いました。私がある家に泊まりました。鍵は四つかけていました。時々ノックされて、誰かと見てみると、ピストルを持った人が「金を出せ」と言って立っていることがあるような町でした。しかし、今は素晴らしい街に変わってきています。教会から百五十メートル以内は、変な劇場は作ってはいけないとか、罪深いものを作らないよう、取り決めがあるそうです。タクシーの運転手も悪い人はやめさせるとか、今の市長は正しいことに積極的だそうです。これはクリスチャンたちが神の前にへりくだったからです。「神様、この罪深いニューヨークを憐れんでください。」だから良くなりました。ですから、今私たちに必要なものは「砕けた魂、悔いた心」です。
 ダビデ王が罪を犯しました。しかし、詩篇五十一篇の中で、「神は砕けた魂を、心を決して悲しめることはしません。」と語っています。砕かれた魂。「私は罪深い人間でした。」と悔い改めた人を神様は顧みてくださいます。自分の力で正しい道を歩むことは難しいです。しかし、イエス様は「わたしについてきなさい。」と言われます。イエス様の道についていきましょう。そうすればイエス様が導いてくださいます。またイエス様は正しい人ではなく、罪人を招くために来たと言われました。今日本には失敗した人が多いです。しかし、イエス様はその人たちを招いておられます。罪人を招くために来られたと書かれていますから、自分の弱さを素直に認め、「赦してください。私は罪深いです。どうか憐れんでください。」と祈ってください。
 先週、お茶の水で祈祷会があって行きましたが、その司会をした方は、ニューヨークの銀行で六年間働いていた人でした。彼が、東京ミッションのことを話していました。今度、週刊誌に東京リバイバルミッションが案内されます。「週間新潮」に九月三日か四日に、「女性自身」という雑誌にも案内を出します。また新宿の地下道に大きなポスターを出します。四メートルと二メートル程のサイズです。どの絵を出すのですか?と言われましたので、「これです」と私が手で目を覆っているポスターを指差しました。すると、彼は、「あれはまずいですね。」と言われました。「どうしてですか?」「家内も言うけれど、神様の裁きを信じない人にはあまり良いポスターではない」というのです。すると、もう一人の先生が、「あれは良いポスターだ。今まさに自殺をしようとしている人はショックを受けて考えると思う。また、今の日本は崩壊寸前なのであれは良いと思うよ。」と言うのです。それで、あのモデルが私だと言いました。クリスチャンでも世の中におぼれてしまい、どんなに日本が罪深いかなんて考えない人がいると思います。女子高生が援助交際をするような時代です。東京の女子高生が三パーセントも売春行為をやっていて、日本が正常だと思いますか。不倫や姦淫という言葉は今死語になったと言われています。しかし、聖書を見ると姦淫と偶像礼拝の罪のために裁きが来ています。聖書をよく見ると、今は裁きの寸前です。クリスチャンでも、「裁き」とか、「神の怒り」をバカにしているところがあります。日本は今危機的な状態であり、崩壊寸前なのです。あのポスター見た時に、下條先生と有賀先生は阪神大震災を体験されているので、「あの絵はヒビが少し入っているくらいだけど、もう少しビルが倒れたような絵にした方が良い」と言われました。しかし、私は、「まだ日本は倒れる寸前だから、倒してしまってはまずい」と言いました。
 日本に必要なことは砕かれた魂です。今度の東京リバイバルミッションはある意味で、日本の攻防をかけた戦いです。日本が救われるか、裁きが来るかどちらかの選択の時です。受け入れるか、受け入れないのか。悔い改めるか、悔い改めないか、という日本の攻防をかけた戦いです。ですから、自分のためではなく、日本の救いのために参加しましょう。また個人的なことにおいても、「わたしについてきなさい。」「わたしは世の光です。わたしに従う者は暗闇を歩むことがなく、いのちの光を持ちます。」と言われるイエス様に従ったら、安全な道に歩むことができますので、まだ光の中に入っていない方は、今日、光の中には入って進んでいきましょう。
 一言お祈りします。 

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