今週の礼拝メッセージ
立ち止まって働こう   1998.8.23(SUN)

新城教会牧師 上條 実

<今週のメッセージの御言葉>
旧約聖書 箴言28章20節
忠実な人は多くの祝福を得る。しかし富を得ようとあせる者は罰を免れない。 

        ハレルヤ!今日このように皆さんとともに御言葉を学ぶことができることを感謝します。

『忠実な人は多くの祝福を得る。しかし富を得ようとあせる者は罰を免れない。』

この御言葉は、最近神様が私に語ってくださった御言葉です。特別後半部分に目が留まりました。

『しかし富を得ようとあせる者は罰を招かれない。』

と書かれています。財産を得ようと必死になっていると結局転んでしまう、祝福を失ってしまうという意味があります。しかし単なる富と言うことではなく、「富」という所を、現在の私たちの生活に置き換えて考えて見ました。
 「あせる者」と書かれています。私たちは毎日忙しさのあまり、つい、あせってしまい失敗してしまうことがあります。忙しい毎日の中、神様の前に立ち止まって神様の道を歩んでいきたいと思います。「あせる」という語は、この東三河地方だけではないかも知れませんが「慌てる」という意味でこの言葉を使います。地域によって色々な言葉・表現がありがあり、時々おもしろい言葉を聞くことがあります。昨日、全都トラクト配布が行われました。その時私は電話対応のために東京リバイバルミッションの事務所にいました。その時ある人が、ご飯を食べてから「もう、お腹がカチカチだ。」と言いました。私たちの地域では子どもがよく「お腹がポンポン」とか「お腹がいっぱい」と言います。しかしその方は、お腹が一杯の時だけでなく、車が渋滞している時にも「車がカチカチ」と言うそうです。・・・というように、「あせる」という言葉は、慌てるという表現だと思っていました。しかし辞書を調べてみると、「自分の思い通りにならずにいらだつ」、「気をもむ」と書かれていました。私は聖書を読むことにおいて、三河弁で読んでいたことに気がつき、また意味をあまり知らずに読んでいたことに気がつきました。そんな中で私たちは実際に慌てたために大変な失敗をしてしまい、恥をかいてしまったり、自分の思い通りにならないことがあります。皆さんは落ち着いて判断できると思いますが、私はドジで、結構慌ててしまうことがあります。数年前、沖縄リバイバルミッションが開かれました。その時私は講師の先生方を空港まで送迎する奉仕をさせていただきました。その時、今度の東京ミッションでも奉仕してくださる大川従道先生と北海道の三橋萬利先生ご夫妻が同じくらいの時間の飛行機で、別々に到着するということで、私は一人で迎えに車で行きました。空港では駐車場に入れれば良いのですが、お金ももったいないし、あと数分程すれば先生方が来られるから路上駐車で大丈夫だと思いました。また三橋先生は身体障害者であるので、遠くまで車椅子でお連れするのは申し訳ないと自分で納得して、路上に車を止めて待っていました。すぐ大川先生は到着されたのですが、三橋先生ご夫妻は飛行機が遅れて「三十分遅れ」と表示されていました。三橋先生ご夫妻が到着するまで、車のことを心配しながら大川先生と共に話していました。やっと三橋先生ご夫妻が到着し、車に戻ると駐車違反のシールも貼られておらず、感謝してさあ出発しようと思った時、車の窓をたたく人がいました。なんと警察官が立っていました。「路上駐車の時間を見ていたがチョット長すぎます」と言われ「免許証を見せてください」と突然言われ、慌てて免許証を捜しました。路上駐車違反が助かったと思った矢先に突然現れ、また講師の先生方をお乗せしていましたので、慌ててしまいました。いつも免許証を入れているカバンのどこに入れたのか分からなくなって、必死に慌てて捜していました。すると大川先生が隣で「落ちつけ。落ちつけ・・・。」と言われました。やっと見つけて提出すると「ここは駐車禁止です。二十分程なら大丈夫なんですが、あなたはもう一時間くらい止まっていたのを私は見ていました」と言われました。私は「身障者の方のお迎えで・・・」など色々弁解していました。しかし警察官は許すことが出来ないと言っていました。しかし三橋先生の奥様が一言、「この人は身障者よ。」と言われると、警察も「わかりました。行ってください。」と言ってくれました。助すかったのです。また私は東京ミッションの事務所に行く前日、夜教育館のスタジオに祈りに来ました。その時またしても免許証ですが、洋服の内ポケットに入れました。そしてその後、記憶がさなかではありませんでしたが、私は頭の中では免許証を東京に持って行くカバンの中に入れたと思い込んでいました。そして東京へ行き一泊して、会議の後「帰りは運転をするから」と思い、カバンの中の運転免許証を確認しました。しかし免許証がありません。どこに行ったのかとまた慌てていました。事務所の中や自分が泊まったミッションで借りているアパートなど捜しました。でも見つかりません。帰る時間が迫って来て、必死に捜していると、平岡先生が「落ちつけ、もう一度よく考えて見ろ。」と言われましたが見つかりませんでした。結局、家に帰って来たら祈りに行った時の洋服のポケットの中に入っていました。慌てる時、失敗してしまう時があります。仕事の面で順調にいっている時、大変なことがあると慌ててしまい、どうしようと思うことがあります。今日順調に来ている方ばかりだと思いますが、何か突然あった時に慌てて失敗してしまっては遅いのです。今日神の前に自分は大丈夫だろうかと点検したいと思います。「しかし富を得ようとあせる者は罰を招かれない。」と書かれています。私たちは精一杯毎日働いていますが、忙しい時、立ち止まって自分を見つめ直していただきたいのです。「あせる者」と書かれています。自分があせっていないか、神様を見失ってしまい、ある面で自分はどうしたら良いのかわらないでいる方がいらっしゃったら、今日神様の前に立ち止まって頂きたいのです。また慌てるという意味以外に、自分の思い通りに行かずいらだつ、気をもむという意味があります。今あなたは自分の思い通りにならず、いらだって気をもんでいませんか。日本は今不況です。会社も不況のあおりを受け、このまま行って大丈夫だろうか・・・・と気をもんでいませんか。聖書は「神の国と神の義をまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えてすべての者は与えられます」と書かれています。私たちはクリスチャンとして神様を第一としているのかということを、考えていただきたいと思います。東京ミッションの働きをさせていただき、あと一ヶ月を切ってしまったこの時、大丈夫かと心配し気をもんでしまいます。その時に「あせる者は罰を免れない」と聖書は教えています。その前には「忠実な人は多くの祝福を得る。」と書かれています。忠実というのは、少しの違いもなく、その通りにするという意味があります。忠実な者は多くの祝福を得るとあります。ですから今自分は神の前に忠実であるか、それとも「あせる者」であるのかを、立ち止まって点検することが必要です。では何を立ち止まって点検しなければならないでしょうか。
 第一に、御言葉です。あなたはいつも御言葉を読んでいるかと思いますが、忙しい時、なおざりになりがちです。あなたはいつも一日三章とか二章とか決めて読んでいるかも知れません。しかし量は読んでいるかも知れませんが、立ち止まって読んでいるでしょうか。またある方は忙しさのあまり自分の仕事を優先してしまい、御言葉を読まず、聖書を手にするのは家庭集会の時と、礼拝の時だけ。あとは聖書を開かない。そんな方もいるかも知れません。また全く聖書を開かない方も、もしかしたらいらっしゃるかも分かりません。今日、私たちは御言葉の中に神の道があることを覚えて下さい。先週の木曜日に子どもキャンプを行い、楽しい時を持ちました。その時、子どもたちとヨハネの福音書一章一節を学びました。

『初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。』

と書かれています。言葉つかいについて学びました。この御言葉の「ことば」とは聖書のことです。この聖書は神であったと言うのです。ですから私たちはこの御言葉に書かれていることをそのまま行なう事が、神に従うことです。ですからどんな事があっても御言葉をしっかりと読まなくてはいけません。御言葉によって教えられ、そのみことばに従うことが、神の国と神の義を第一にするという事なのです。今あなたが行っている仕事、今あなたが追い求めている夢、すべてが神様から見た時にどのように見られているでしょうか。神様が喜んでおられるでしょうか。それとも神様が悲しんでいるでしょうか。御言葉によって照らしていただきましょう。教えていただきましょう。知らず知らずのうちに自分で進むべき道を判断してしまいます。しかし御言葉を読み、その御言葉を忠実に実行する事が祝福への道です。みとこばが私達の土台です。みことばによって進むべき道を示していただきましょう。しかし自分で一日何章と決めて、その自分で決めただけ読めば、それでクリスチャンの勤めが終わりだと思い、その聖書の箇所を早く読んで終わらせたい、とみことばを読むにもあせってしまう。何も心の中に入らない。主が声を出され、あなたに今日こういうことを教えてあげるよと主が大声で語っておられるにも関わらず、聞こえない。気がつかない。大切な祝福を落として、罰を受けてしまう時があります。私たちが知らず知らずに自分があせってしまい、私たちがその声を聞けずに御言葉を受け取ることができない人になってしまっているかも知れません。今日は安息日、主の日です。ですから今日は落ち着いてあなたは聖書を開いて読んでみてください。必ず主は今あなたがするべき仕事を教えて下さいます。あなたが間違ったところに立っているならば、その御言葉を通して教えてくださることを信じます。ですから、あなたは毎日このみことばをしっかりと読んで自分自身をもう一度見つめ直すことを覚えてください。忙しければ忙しいほど、その御言葉に私たちは立つべきです。忙しいということは心が滅びると書きます。知らず知らずのうちに自分で判断してしまいます。しかし毎日御言葉に立ち返りましょう。今日も聖餐式があります。その聖餐の時には、自分を吟味してと書かれています。今日自分自身を反省し、今自分がどこに立っているのだろうか。神の御言葉にしかりと立っているかどうかについて私たちはしっかりとみことばによって、覚えて生活して行くべきだと思います。
 第二に、祈りです。私たちは忙しさの中で知らず知らずの間に祈りが不足してしまいます。私たちは祈っているようであって、結構祈っていません。だいぶ前に豊根の家庭集会で、あなたはどれくらい祈っているのかと質問しました。子どもたちに聞いてみると、「僕は五分」、「僕は三分」と言っていました。では毎日の祈りの再現をして見ようと、再現してもらい、時間を計ってみました。子どもたちが五分間と言っていた子どもは「イエス様、このご飯を祝福してください。」とか「今から学校に行きます。守ってください」などいつもの祈りを合計してみると1分も足りませんでした。私達は自分で祈っていると思っていても、祈り不足です。絶えず祈りなさい。これがみことばです。私たちには色々な困難があり、色々な山があり、色々な問題があり、私たちはこの問題に対してどうして行こうかと思います。私たちは祈りなくして、自分の判断でどんどん進んでいってしまいます。そして色々な山にぶつかり、失敗してしまい、苦しんだり、悲しんだり、痛んだりします。しかし、聖書は祈ったら祈りは必ず答えられると書かれています。忙しければ忙しいほど私たちはその時間を一番大切な時間として時間を裂いて祈るべきだと言っています。あなたの人生の優先順位がどうあろうとも私たちクリスチャンは「神の国とその義をまず第一に求めなさい。」と書かれています。どんなに忙しくてもどんなに仕事でやらなれければならないことが山のようにあっても、また家庭の中に育児や家事があったにしても祈ることです。自分で生きているような錯覚に知らず知らずになってしまいます。しかし、そうではありません。神様によって生かされています。神様によってあなたの語る言葉も行動も支配されています。あなたを神様が生かしておられます。ですから、神様に私たちが頼らない限り絶対に生きていくことができません。聖書の中には福音書や色々な箇所で「祈り」に対してたくさん教えています。神様が私たちに祈って欲しいのです。祈りがどんなにか重要であるかを示しています。祈りの中で問題を砕くことができ、祈りの中で完全に勝利することができ、祈りの中ですべてを解決できる鍵を私たちに与えていると覚えてください。私たちは色々なことをしなくてはなりませんが、それ以上に私たちはへりくだって神の前に出て祈っていくことを覚えてください。商売で、経営論などを学んで行くことも大事です。しかし商売はそれ以上に祈りが必要です。祈りの中で神に教えていただきましょう。神に解決していただきましょう。どんなに立派な学者の教えがあっても、私たちクリスチャンは、祈りの中で神様の語りかけを聞き、間違っていた時は悔い改めて、神様が喜ぶ道に立ちましょう。東京リバイバルミッションもまだまだやらねばならない仕事は山積みです。しかし仕事に取り掛かる前に、立ち止まって祈りましょう。
 第三に御言葉の「あせる者」というところで慌てて失敗するだけではなく、いらだつと書かれていました。私たちは仕事の中で、また家庭の中で忙しくやっているうちに「いらだって」いませんか。私たちはすぐにいらだって、何か誰かから言われるとカチンときて、「何それ・・」と言い返してしまいます。しかし今日、もう一度私たちはそのいらだっている心を主の前に沈めさせていただき、そのいらだっている心を、神に平安をいただきましょう。神様からの平安をいただきましょう。もう一度自分を見つめ直し、喜びの生活を進んでいきたいと思います。「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」子どものキャンプの中で話しましたが、ことばは神とともにあったということは私たちが毎日語っている言葉、その言葉を神様が全部聞いているということです。神が共にあるということですから、言葉はとても大切なことです。ですから私たちの唇をきよめていただきましょう。私たちは知らないうちにいらだってしまい、他の人にきつい言葉を語っていることがあります。主の前に唇をきよめていただきましょう。知らないうちに、私たちは命令口調になってしまいます。そして、人を見下げてしまっています。高ぶってしまうのです。すぐに上に立ってしまいます。しかし、つい最近聖書を読んでいる時に、「人を自分よりも勝った者と思いなさい。」と示されました。、自分の心を照らし直した時に、いかに自分が高ぶった心で人を命令していたか。見下げた心でいたか。口には出さなくても心の中でどれだけいらだって人を裁いていたか、示されました。今日立ち止まってください。「いらだたず」主の平安をいただきましょう。
 第四に「気をもむ」ということがありました。今、忙しさのあまりに、心配していませんか。この商売はどうしたら良いだろうか、また自分の子どものことを考えても、大丈夫だろうかと心配を負っている方はいませんか。あなたの中に色々な問題があるならば、今日神の前にそれを出そうではありませんか。聖書の中に「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしの所に来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」今日神様はあなたを愛しています。ですから今日あなたは立ち止まって、問題を神に明け渡しましょう。自分で何とかしようと思ってもそれは決してうまく行きません。しかし、私を生かし、私を愛してくださる神様に全部委ねてみてください。その時に主は必ずあなたに触れてくださり、その問題を癒してくださり、解決してくださり、勝利を与えてくださることを覚えてください。「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしの所に来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」みことばは知っています。しかしなかなか明け渡すことができません。気をもんでしまいます。神に委ねましょう。その時あなたに祝福が与えられます。
 そして次に、神に対してどんな態度を取っているでしょうか。神と人を愛しているつもりでいて、実は全く愛がないのです。隣の人が苦しんでいても、私たちは何も思わなくなってしまっています。自分の生活で精一杯なのです。他の人のことは助けてあげる、愛すると言うことができなくなってしまいます。忙しさのあまりに他の人は他の人。自分は自分。と割り切ってしまいクリスチャン生活を行っている時があるかも知れません。しかし、あなたのためにいのちをささげてくださった主が、お隣の方のためにも命をささげてくださってくださいます。私たちの神に対する態度、愛が失ってしまっていたら、それを取り戻しましょう。私たちは神に対して、奉仕しているでしょうか。神様は私達に愛をそそぎ、私達に犠牲を払って下さいました。今度私達は神の前に犠牲を払うことが必要です。奉仕しなくてはいけないと分かって這いますが、知らない間に奉仕から遠のいてしまっています。先週も東京リバイバルミッションの奉仕のためにということで、甲子園ミッションでの奉仕の証しをしてもらい、恵まれた時を持ちました。東京ミッションを控えている今、東京ミッションに行く人が頑張れば良い。私は観客で行くだけで奉仕はしなくても良いと思わないでください。これは、ミッションのためではなく、主のために奉仕するという事を覚えてください。イエス様はあなたのために命を救うために、わざわざ十字架にかかってくださいました。十字架にかからずに慰めの言葉だけををかけてくださった神様ではありません。あなたのために行動を起こしてくださり、十字架にあなたの身代わりになってかかってくださいました。苦しんでくださり罰を受けて、三日目によみがえってくださいました。神はあなたのために愛の行動を起こして下さいました。ですから私たちも、行動を通して主に奉仕して働いていきたいと思います。また、集会に参加することに対しても、犠牲を払いましょう。私たちは忙しい時、集会を出席することをやめてしまう時があります。私も反省しています。子どもの集会でも、自分の仕事が忙しいから中止してしまう時があります。しかし、それではいけません。一番大切なことは主の前に出ることです。自分の都合で集会をやめてストップしてしまうことはいけません。ですから、集会の参加も忙しければ忙しい程、どんなに時間が過ぎても構いませんのでそこに集うことが大切です。私の家庭集会でも忙しい方がいますが、最後の交わりの時にでも来て、交わりを大切にしている人がいます。それを見る時、クリスチャンの交わりに入ることがどんなに素晴らしい祝福だと思います。もう時間が過ぎてお菓子を食べている時だからと思わないでください。主との交わり、兄弟姉妹との交わりがいかに大切か、私たちは忙しいからまあ良いやと、すぐに集会や交わりを止めてしまい、自分中心の生活を作ってしまいがちですが、今日立ち止まって、集会参加を中心に考えていきましょう。また人に対しても私たちは愛をかけていきましょう。今日お隣の方がどんな問題を抱えているか、あなたはご存じでしょうか?聖書は、「イエス様がかしらで私たちは各器官である」と書かれています。新城教会の兄姉は同じからだの一部分であるのです。にも関わらず、隣の器官が痛んでいても私たちは何の不自由もなく、順調だから関係ない。自分は大丈夫だからと言って、集会を終えて帰ってしまいます。しかし今日は良きサマリヤ人のように立ち止まりましょう。介抱しましょう。隣の人と一緒に祈りましょう。助けましょう。これはとても大切なことです。お互いにその人に対して愛を持っていく時、愛の行動を持っていく時、主はあなたに祝福を下さいます。しかし、人のことは構っていられない。自分のことで精一杯だとなってしまう時に、祝福を失います。罰を免れないという御言葉を覚えてください。今日立ち止まってください。忙しいかも知れない。毎日の家事や仕事、色々なことで勉強・・忙しいかも知れません。しかし一番大切なことは神様です。立ち止まりましょう。今日すべての忙しさから切り放し、立ち止まって神の国と神の義を第一として下さい。立ち止まって、神の道から外れていたならば、今日あなたの信仰を修正しましょう。これは御言葉です。ですから私たちは御言葉にしっかりと立ち返りましょう。主の前に出て私たちがふさわしくないところはしっかりと悔い改め、主の祝福をいただくものとなっていきたいと思います。最後に今あなたは天国に行けるでしょうか。私たちは忙しく働いている時、自分の人生、命を軽く考えてしまう時があります。私も先日は長谷川姉妹の葬式があった時に奉仕させていただきながら、今日は長谷川姉妹の葬式の準備をしているが、いつか自分の葬式の準備をしてもらう時が来る。その時に神様が私に「お前は大丈夫か」と語っているような気がしました。今までに多くの兄弟姉妹が天に帰られました。お葬式の中で私たちは離別の悲しみを覚えますが、しかしクリスチャンは天国でまた会うことができる。それを思うとき慰めと勝利があります。長谷川さんのお葬式の時に、前夜式で最後の挨拶の時、長谷川辰夫兄は「ハレルヤ!」と天に送っていったという、神の勝利をお父さんは神に栄光を拝していました。また前夜式の時には、献花して前に出て行った時に「ありがとうございました」と握手をして一人一人に感謝している姿を見た時に、クリスチャンで良かった。長谷川姉妹も天国に行って良かったと思います。しかし、今日忙しくて私たちは一生懸命に生活していく中であなたは天国に行くことができますか?あなたが今、人生を主がストップさせたら、大丈夫でしょうか?確信持って「天国に入れます」とあなたは大胆に主の前に言うことができるでしょうか。子どもたちに今、自分が天国に入れるかと聞くと、誰もいませんでした。あなたが今そのように聞かれたらどうでしょうか。天国に行ける確信がありますか。何か引っかかる事、忙しさのあまりに私たちは主を中心としていなければならないにも関わらず、それを越えてしまい自分中心の生活に入り込んでしまっているならば、今日立ち止まって悔い改めましょう。あなたはイエス様によって愛されています。あなたの罪の身代わりにイエス様が十字架にかかってくださり、あなたが行かなくてはならない罰を身代わりになって下さり、三日目によみがえってくださいました。あなたがイエス・キリストは私の神である。自分の救い主がイエス様と信じることができたならば、あなたに永遠のいのちを与えて下さるという約束を神様は与えてくださっています。罪はしっかりと悔い改めなくてはなりません。ですから今日皆さんの中でもう一度自分が天国に入るかどうか。立ち止まって今日は神と一対一になって、主の前に立ち止まって祈りましょう。そして、自分を点検させていただきましょう。今日からその生活を改めて、主をに愛し、忠実に主のために働いていきましょう。神の国と神の義を第一にして行きましょう。今日立ち止まって、修正しそれから働きましょう。神に立ったらあなたに祝福を与えてくださいます。また祈りの課題も解決して下さいます。主はその行ないに応じて報ると聖書に書かれています。今日あなたが神の前に立ち止まり、見つめ直す時を持ちましょう。必ず主が祝福をくださることを覚えていきたいと思います。お祈りします。

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