今週の礼拝メッセージ
守り   1998.8.30(SUN)

新城教会牧師 滝元 順

<今週のメッセージの御言葉>
旧約聖書 詩篇121篇
私は山に向かって目を上げる。
私の助けは、どこから来るのだろうか。
私の助けは天地を造られた主から来る。
主はあなたの足をよろけさせず、
あなたを守る方は、まどろむこともない。
見よ。イスラエルを守る方は、
まどろむこともなく、眠ることもない。
主は、あなたを守る方。
主は、あなたの右の手をおおう陰。
昼も、日が、あなたを打つことがなく、
夜も、月が、あなたを打つことはない。
主は、すべてのわざわいから、あなたを守り、
あなたのいのちを守られる。
主は、あなたを、行くにも帰るにも、
今よりとこしえまでも守られる。

 ハレルヤ!久しぶりに新城教会で礼拝を守れますことを心から感謝します。毎日東京ミッションのために忙しく働いていますが、皆さんの祈りに支えられて、守られていることを心から感謝しています。間もなく東京ミッションが行われますが、ぜひとも大いなる期待を持って臨んでいただきたいと思います。
 世界では、先週も色々なニュースが飛び交い、だれも予想ができなかったようなことが起きていますが、日本のリバイバルの働きは甲子園ミッションに始まり、すでに十年程経っていますが、このような事態が訪れるとは誰も考えていなかったと思います。このような時代になれば誰でもリバイバルが必要だと感じていると思いますが、十年前に、どれだけ必要を感じていたでしょうか。この働きは、まさに預言的な働きであり、あの時に始められたからこそ、現在ががあるのだと思います。また今日ほど、先の読めない時代もないのではと思います。そして、これからの時代にどのようにして自分を守ってよいのかわかりません。今まで私たちが頼りにして、守りになっていたような事柄が全部崩壊しているからです。先週も株価が大暴落し、世界大恐慌になるかも知れないなどという噂も飛び交っています。今まで日本人は経済や財産が自分を守ってくれると考えていました。しかし、それももろく崩れ去っている今日この頃です。この時にこそ、本当の守りが何であるのかを考えなくてはなりません。安全神話も崩れました。真の守りはどこから来るのでしょうか。今日の御言葉はそのことに対して、はっきりとした回答を与えています。

『私は山に向かって目を上げる。私の助けは、どこから来るのだろうか。私の助けは天地を造られた主から来る。』

 私たちの助けはどこから来るのでしょうか。それは、天地を造られた主から来ると書かれています。真の助け、真の守りは神が持っておられます。また、詩篇一二七篇一節には、

『主が家を建てるのでなければ、建てる者の働きはむなしい。』

と書かれています。どんなに一生懸命に人が町を守っていても、神がその町を守っていなかったら、その守りはむなしいものだと聖書は言うのです。ということは人間が一生懸命に努力しても、そこには必ず欠陥があり、どこかから破れが生じます。今日は皆さんとともに、真の守りについて、また主を信じるものに対して神がどのように守ってくださるのかについて学び、この時代にあって神の守りを受け取りたいと思います。
 詩篇一二一篇一節から八節までを読みましたが、ここには「あなたを守る」という言葉が短い中に六回も出てきます。三節に、「あなたを守る方は・・」四節「イスラエルを守る方は・・・」五節に「あなたを守る方・・」また、七節には「すべての災いからあなたを守り・・・」と書かれています。また、同じ七節に「命を守られる」と書かれています。また、六節には「とこしえにも守られる・・・」と短い中に六回も「守る」という言葉が出てきます。
 聖書の中で、数字は時に、ある意味を持っています。そして「六」は人間を現します。神を現す数字は「七」です。そこには、人間は一生懸命努力してもどこかに欠陥があり、完全ではないという意味があります。私たちは不完全で、いくら守りを張り巡らしても神の守りなしに生きることはできないのです。ここに六回「守る」という言葉が出てきますが、ヘブル語本文でも同じですが、人間は守りが必要である、ということを暗示してかのようです。
 七節に、「すべての災いからあなたを守り」と書かれています。この言葉は我々にとって希望の言葉だと思います。「すべて」という言葉の語源となっているヘブル語は「完全」です。完全なる方は神お一人です。すべての災いから私たちを完全に守ってくださるということです。また、「守る」という言葉には、たくさんの意味があります。聖書を翻訳するにあたり、一つの意味を選ぶには、翻訳者の持っている文化的背景や世界観などが関わります。しかし、オリジナルの聖書にはもっと広い意味があります。ということは、神はみ言葉の中に広い意味を含めているのです。
 さて、「守る」という言葉に含まれる意味は、「保つ」「砦となる」「観察する」「配慮する」「保護する」「用心する」「マークする」「見守る」「関心を払う」「助ける」というような意味があります。神様は私たちを保ち、砦となり、観察してくださり、また、配慮してくださっています。このような言葉が守るという言葉の背景にあります。
 すべての「災い」から私たちを守ってくださると書かれていますが、「災い」という言葉の中にも色々な意味があります。「諸悪」「傷」「心配」「苦痛」「病気」「逆境」「悲しみ」という意味もあります。神はこれらから私たちを守ってくださるのです。それも完全に私たちを守ってくださるというのです。この時代にあって天地を造られた神の守りがなくては生き抜くことができません。このみ言葉を受け取るべきです。
 人間も社会の中で一人を守るために色々なシステムを構築しています。それは社会ルールであったり、社会保障であったりします。また、現実的にも、例えば、車で旅をする時に車に乗っている人が守られるように、道路を整備し、ガードレールを付けたり、信号を付けたり、センターラインを引いたり、車の中にエアーバックが装備されたりと、色々な安全施設が身の回りにあります。神も守りのために、システムを持っておられます。聖書の中には多くの守りを見ることが出来ますが、詩篇一二一篇には六回出てきますので、今朝は六つの守りについて学んでいきたいと思います。それを自分のものとしてください。そして、神の完璧な守りを受けることができますよう、もれなく神の守りを受け取ることができるように共に祈りたいと思います。
 第一の神様の守りのシステムは、詩篇一九一篇一〇五篇に、

『あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。』

とあるように、「神のみ言葉」です。暗い夜道を行くときに明かりがなくては歩けません。同様に、人生の光は神の御言葉です。聖書の言葉の中には、人生を生き抜くための注意事項、そして、守りについて述べられています。私たちの社会には法律があります。法律を守らなくては秩序が保たれません。人間の人生の中でも神の言葉に従わなくてはうまく歩むことができません。
 道路を、「四十キロで走ってください」というところを、百キロで飛ばしたら事故を起こします。同じように聖書も人生のスピード制限についても語っています。また、進入禁止のマークと同じように、聖書には、人生の中で立入禁止の領域についても教えています。入ってはならないところに進入し、傷を受けている人がたくさんいます。詩篇一一九篇九節から十一節に、

『どのようにして若い人は自分の道をきよく保てるでしょうか。あなたのことばに従ってそれを守ることです。私は心を尽くしてあなたを尋ね求めています。どうか私が、あなたの仰せから迷い出ないようにしてください。あなたに罪を犯さないため、私は、あなたのことばを心にたくわえました。』

と書かれています。神の言葉を蓄えることは人生の中の守りであると教えています。今日、皆さんは教会に来られて、神の御言葉を聞いています。これはあなたの人生に守りとなります。この時代において、あなたを守る素晴らしい言葉がこの聖書の中に多く含まれています。
 第二に、詩篇一二一篇の初めの二節は「私」という言葉で始まり、後半は「あなた」に変わっています。作者は、「私の助けはどこから来るのか」と述べ、続いて、「あなたを神様が守られます」と述べています。これは都上りの歌です。多分、エルサレムへの初めての旅は不安があったのでしょう。この歌は、経験深い長老たちが新しく旅立っていく若者たちの為に歌った歌かも知れません。私は人生の中で神から助けをいただいた、そして、「あなたをも守られますよ」という、この歌はある意味での宣言です。「神様はあなたを守ってくれます」という宣言の言葉を信じてエルサレムへの山道を登って行ったのだと思います。
 私たちも神の御言葉が投げかけられる時、自分のものとして受け取らなくてはなりません。その時に必要なものは「信仰」です。信仰は見ないで信じることです。信仰はあなたに大きな守りを及ぼします。
 三番目に、出エジプト記十七章を読むと、イスラエル人がアマレク人と戦った記事があります。そこで、指導者モーセが山の上で手を挙げている間はイスラエルが優勢になり、手を降ろしたらアマレクが優勢になりました。手を挙げるとは「祈り」です。モーセが祈っている時にはイスラエルが勝っていましたが、モーセが疲れて祈りがなくなった時には守りがなくなり、アマレクが勝ったというのです。それで、モーセに手を降ろしてもらっては困るので、アロンとフルがモーセの挙げている腕を支えました。それでイスラエルが勝ちました。
 この箇所から、まず第一に個人的な祈りが私たちの守りであることがわかります。同時に、支えてもらう祈りは戦いに勝つ、守りの大切な要素であるのです。皆さんは両脇から支えてくれる祈りの友をお持ちですか。あなたを支え祈ってくれる友がおられるならばあなたは守られます。教会に来て素晴らしいことは、互いに祈り合えるということです。
 私が支えられているのは祈っていただいているからです。多くの祈りによって支えられています。しかし、私は支えられているから祈らなくても良いというのではありません。自分も真剣に祈るべきです。モーセも自分で祈りました。そして支えられて戦いに勝ちました。祈りは私たちを守る大きな武器です。
 エペソ人への手紙六章十八節に、

『すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。』

と書かれています。「どんなときにも御霊によって祈りなさい。」という言葉を他の訳し方をすると、「すべての時に御霊によって祈りなさい。」ということです。すべての「時」とは、「カイロス」です。「神様の時を捕らえて御霊によって祈りなさい」ということです。私たちの中に、時々、神がとりなしの祈りを投げ込んでくれます。甲子園ミッションの時、忘れることのできないとりなしの祈りを受けました。
 ある時、大阪から帰って遅く床につきました。夜中の三時頃、私は主から起こされました。「今、あなたの息子が乗っている車のために祈りなさい」と語られました。私はすぐに起きて、「息子たちを守ってください。」と十秒くらいの祈り、また寝てしまいました。
 その頃、彼らは東京から新城に向かっている途中で大雨でした。何と、その時、彼らはもう少しで大事故に遭うところでした。前方で一台の車が事故を起こし、ライトも全部消えていたそうです。そこに突っ込んだというのです。もう駄目だと思ったそうですが、車が少しスリップして横向きになり、それて助かったというのです。息子が帰ってきて、「今日は死にそうな目にあった。危なかった。」と言いました。私は、「それは三時頃だったでしょう。」と聞くとそのとうりでした。もし祈らなかったら、ぶつかっていたかも知れません。今週、誰かの顔が浮かんで「祈りなさい」と語られるかも知れません。その時は祈らなくてはなりません。
 私は先週、一つの体験をしました。これは私の悔い改めでもありました。私は牧師としての働きと同時に、「リバイバル聖書神学校」の舎監という責任を持っています。現在、教室制の生徒だけで六十名くらい在学しており、彼らは今回の東京ミッションのために一生懸命働いています。私は舎監ですので、彼らは色々と自分たちのたてた計画について許可を取りに来られます。「先生、こういうことをしても良いですか。」と聞きに来ます。私は結構自由ですので、「どうぞやってください。」と言います。
 先日もある人が来て、「私たちはチームを作って東京で路傍伝道を行いたいのですが良いですか。」と聞きました。「東京事務所と連絡をとって行えば良いです。」と言いました。先週はファックスが来て、「今週はこれらの場所において路傍伝道をしますので祈ってください。」とありました。場所と時間が書いてありました。私は忙しいから、それらを見て、一つ一つ祈ることをしませんでした。「わかった。祝福がありますように。」と簡単に祈りました。
 その夜、私は怖い経験をしました。寝ていたら突然電話がかかってきて、「もしもし、順先生ですか。今、リバイバル聖書神学校の生徒の一人が亡くなりました。」「えっ!亡くなった。どうしてですか。」「あの、路傍伝道中に事故で亡くなりました。」「えっ!それは誰ですか。」と叫んだとき、目が覚めました。なんと、それは夢でした。しかし、私はすぐに飛び起きて「主よ、赦してください。祈ってくださいと言われたのに、簡単に済ませてしまった。彼らを守ってあげてください。誰も損なわれることがありませんように。」と祈りました。
 路傍伝道は何事もなく守られれました。私がもしその時に祈らなかったら、何か危険があったのかも知れません。時々、神がそのように祈りを要請されます。「あなたはこの人のために祈りなさい。」「なぜこの人の顔が浮かぶのだろうか」と考えます。しかし、面倒くさがらずに祈って下さい。とりなしの祈りは私たちを守るものであり、互いを支えるものです。祈りによる守りは、神が与えて下さった最も強力なシステムの一つです。
 第四に、ヘブル人への手紙十三章十七節に、

『あなたがたの指導者たちの言うことを聞き、また服従しなさい。この人々は神に弁明する者であって、あなたがたのたましいのために見張りをしているのです。ですから、この人たちが喜んでそのことをし、嘆いてすることにならないようにしなさい。そうでないと、あなたがたの益にならないからです。』

と書かれています。この箇所は、私にとって皆さんに語り難いところです。英語の聖書には「obey」と命令形で書かれています。このみ言葉は、時々、指導者が会衆を引っ張るため葉に使われてしまうのは残念な事です。ここに「従え」という言葉がありますが、ギリシア語を調べると、「従え」という意味よりも、「信頼しなさい」「確信しなさい」「信じなさい」それも、納得の上で信頼しなさい、確信しなさい、信じなさいという意味であることがわかります。
 教会の牧師や伝道者、スタッフ達はどのような役目でしょうか。それは、見張りの役目だというのです。
 イスラエルに行くと、遊牧民が住んでいます。遊牧民は多くの羊を持っています。彼らは、必ず羊を守るため一つのものをもっています。それは犬です。その犬を「牧羊犬」と言い、羊たちを羊飼いたちが行こうとする方向に追っていく働きをします。
 教会において牧師や伝道師スタッフはどのような働きでしょうか。「主は私の羊飼いであって私は乏しいことがない」と書かれています。教会の牧者は牧師ではなく、「イエス様」です。イエス様が教会の指導者であり、私たちの導き手です。ということは牧師達とは、牧羊犬のような者です。神が設定されている方向に人々を連れて行く補助の役目です。
 遊牧民の飼っている犬には一つの特徴があります。犬の耳は三角ですが、上の部分が切り取ってあります。切ってあると傷口が痛いために、犬がぐっすりと寝れないそうです。そのため、夜中に狼が襲って来ても、すぐに起きて狼に立ち向かって行きます。
 「見張る者」という意味の中には、「眠らない」「守る」「見張る」「注意深い」「優しい」「いつも用意ができている」という意味があります。私たちは、皆さんのための見張り役だと思います。だから、私たち牧羊犬が眠ってしまわないように祈っていただきたいと思います。皆さんの守りのために、私たちが霊的に眠り込むことがないように、いつも起きていてとりなすことができるように祈ってください。「いつも用意ができている」とありますが、いつも用意ができている者でありたいと願います。
 新城教会のスタッフはいつも用意ができていると思います。夜中に誰かが亡くなられたとか、何か問題があった時にはすぐに出動します。霊的にも決して眠り込むことがないように、祈っていただきたいと思います。「指導者による守り」は、神が与えておられることです。
 第五に、詩篇九十一篇十一節に、

『まことに主は、あなたのために、御使いたちに命じて、すべての道で、あなたを守るようにされる。』

                  と書かれています。これは天の軍勢による守りです。この世には霊の世界があります。そこには悪霊と光の天の軍勢が存在しています。イエス・キリストを信じる者に対しては、神様が、「真に主はあなたのために御使いたちに命じてすべての道で(完全に)あなたを守るようにされます。」というのです。これを信じてください。今日皆さんのところに天の軍勢が送られ守られますように。これは大切なことです。これを認めるか認めないかで私たちの人生、教会が変わります。主が軍勢を送ってくださっていることを知るべきです。
 ヘブル人への手紙一章十四節では、御使いは仕える霊であり、救いの相続者のために遣わされていると語っています。私たちを守るために、天の軍勢が遣わされます。今日皆さんのところに天の軍勢が遣わされますように。それも弱々しい軍勢ではなく、強い軍勢が来るように。悪魔は天の軍勢のイメージを弱くしています。一般的に、天使とは、森永キャラメルのシンボルのような、弱々しさを感じます。しかし、あれは嘘で、悪魔の策略です。本当は剣を持った力強い勇士です。彼らは、森永のマークのを見て、「私たちはこんなものではない。私たちは強いのになぜ、このような格好をさせるのだ」と怒っていると思います。彼らは我々を守るために武装した兵隊です。その軍隊があなたの所に送られているというのです。
 霊の戦いが始まり、知ったことは、天の軍勢が私たちを守るということでした。また、この教会にも軍勢を送ってくださっているということでした。教会に天の軍勢が今日も遣わされるように。傷ついた天の軍勢は帰して、新しい軍勢が送られるように祈りましょう。
 最後にもう一つの守りは詩篇一〇五篇八節からに、

『主はご自分の契約をとこしえに覚えておられる。お命じになったみことばは千代にも及ぶ。その契約はアブラハムと結んだもの、イサクへの誓い。主はヤコブのためにそれをおきてとして立て、イスラエルに対する永遠の契約とされた。そのとき主は仰せられた。「わたしはあなたがたの相続地としてあなたに、カナンの地を与える。」そのころ彼らの数は少なかった。まことにわずかで、そのうえそこでは、寄留の他国人であった。彼らは、国から国へ、一つの王国から他の民へと渡り歩いた。しかし主は、だれにも彼らをしいたげさせず、かえって、彼らのために王たちを責められた。「わたしの油そそがれた者たちに触れるな。わたしの預言者たちに危害を加えるな。』

と書かれています。この箇所も結構誤解されて使われている御言葉です。あるアメリカのテレビ伝道者が、「私は油注がれた者だ。だから私に手を出し、害を及ぼすとあなたは危ないですよ。」と言っていました。これは間違いです。このみ言葉は、神がイスラエルの為に、暗闇の世界に対して語られた言葉です。決して人が人に対して語る言葉ではありません。神様が、「この民は油注がれているのだ。だから、この民に触れることはできない」と諸国の王、即ち、暗闇の勢力に対して宣言してくださっているのです。私たちは神の民です。神の民に対して、神が暗闇に対して宣言してくださっています。「この油注がれた者たちに手を触れるな」と。そして、「主の預言者たちに害を及ぼすな」ということです。この守りは、聖霊の油注ぎの中にあります。主が私たちの中に働かれ、守ってくださっています。その油を受け取ることは大きな守りです。暗闇の勢力、悪魔の力に対して命じてくださるのです。「油注がれた者たちに手を触れるな」と。
 聖書にはまだ、多くの守りのシステムがあると思います。色々な方法を通して、神は私たちを守ろうとされています。そして神の守りこそが、完全な守りなのです。イエス・キリストを信じると、神の守りが私たちのものになるです。神様の守りをいただく時に人生が変わってきます。どのような暗闇が来たとしても、どのように敵が襲って来ても、神が私たちを守ってくださいます。今、私たちにとって、「守り」は最も必要だと思います。
 東京ミッションを前にして、主が守ってくださるように祈らなければならないと感じます。特に詩篇一〇五篇十五節の御言葉は、先週あるところで祈っていた時に与えられた言葉です。「この働きのためにあなたはこの御言葉を宣言しなさい。東京ミッションが守られるようにこの御言葉を受け取って宣言しなさい。」と教えられました。甲子園ミッションはリバイバルの兆しもないときに始まった働きです。これは預言的な働きです。今ならば日本に何か起こるだろうと予測がつきます。しかし、十年前に誰がこのような事態を予測したでしょうか。しかし、その頃から始まった働きは、預言的な働きなのです。「これに害を加えてはならない」と主が語ってくださっているので心配するなと教えられました。今日、私たちは神の完全な守りをいただきたいと思います。そして主の守りの中に導かれていきたいと願います。一言お祈りします。

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