今週の礼拝メッセージ
主の民の心得   1998.9.6(SUN)

新城教会牧師 滝元 順

<今週のメッセージの御言葉>
新約聖書 テサロニケ第一の手紙 5章14節〜22節
兄弟たち。あなたがたに勧告します。気ままな者を戒め、小心な者を励まし、弱い者を助け、すべての人に対して寛容でありなさい。だれも悪をもって悪に報いないように気をつけ、お互いの間で、またすべての人に対して、いつも善を行なうよう務めなさい。いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。御霊を消してはなりません。預言をないがしろにしてはいけません。すべてのことを見分けて、ほんとうに良いものを堅く守りなさい。悪はどんな悪でも避けなさい。

 ハレルヤ!二週続けて講壇に立つことができ感謝します。東京ミッションまであと十二日と迫りました。この期間を神が豊かに守られ、御業をなされるように祈っていきたいと思います。今、日本に考えられないような事件が起こっていますが、これも全て、神の御手にあり、日本のリバイバルにつながっていくように祈るべきだと思います。
 先週は神の守りについて話しましたが、守りがありましたか?主が守ってくださったことを心から感謝しましょう。
 先週、私は一つの証しをしました。私が眠っているときに、夢を見たことを話しました。それは私たちのリバイバル聖書神学校の生徒が路傍伝道に行き、事故にあって死んでしまったという電話を受け取ったという夢でした。本当に夢で良かったと思いました。それで夜中の二時頃、守りを祈ったことを話しました。その話しをしたら、路傍伝道に実際に参加した神学生が私の所に来て言いました。「先生、私たちは本当に死にそうになりました。」「エッ何があったの?」と聞きました。彼らは、東京の歌舞伎町で路傍伝道をしていたそうです。歌舞伎町は危険な所ですが、そこに入っていって路傍伝道をしたそうです。そこで恐ろしいお兄さん達に「そこでやるな」と言われたそうですが、彼らは無視して続けてやったそうです。すると何と、ナイフで刺されそうになったというのです。また、神戸から路傍伝道に参加する神学生は途中事故にあい、車が廃車になってしまい、もう少しで死人が出るところだったと言っていました。私は本当に神様に感謝しました。「私に祈りを与えてくださって感謝します。」あの時に祈らなかったら、命を失った人がいたのかも知れません。時々、「この人のために祈りなさい」と緊急の指令を与えてくださる事があります。それがどうであれ、祈りは大切なことです。先週、誰かのことが気になって祈られた方もおられたと思います。多くの祈りを神が与えてくださり、その祈りによって危険から守られたことを心から感謝しましょう。今週もお互いに祈りあい、主の前に進んでいきたいと思います。
 今日の御言葉は先週に引き続くようなメッセージです。今日お読みした箇所は非常に有名な箇所です。特に、『いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。』というところは、よく暗唱聖句になるところです。この言葉は個人的であると同時に、サロニケ教会に対して語られた言葉です。そして、テサロニケ教会にこれらを守るよう勧めています。この勧めはとりもなおさず、現代を生きる私たちに対する勧めでもあり、教会に対する勧めでもあります。「主の民の心得」というタイトルで今朝は学びますが、それがまた「教会の守り」になります。特に、五章十四節から二十二節には、教会が心得るべき基本があります。
 何でも基本はとても大切です。基本がずれていると何を積んでもうまく行きません。先週スポーツ新聞に、貴の花が若の花を批判したという記事が載っており、貴の花が、「若の花は相撲の基本がなっていない」と言ったそうですが、基本がなっていないとうまく行きません。信仰も教会も基本が大切であり、重要なことです。 
 教会という所は、日本語だと「教える」という字と「会衆の会」という字を使います。そこには、「会衆を教える」イメージがあります。教会に来て日曜日に牧師から聖書の話を教えてもらい、「良い話しだ。私の知らなかったことだ。」と納得する、勉強の場所として考えやすいです。そのような場所としての考えが定着していますが、聖書をよく調べてみると教会はそのような場所ではありません。教室というより、家族という概念があります。神の家族です。今日ここにおられるひとりひとりは、イエス様が今から二千年前に生まれなかったら、会うことができなかったのです。私たちはイエス様によって神の家族です。また、この交わりは永遠に続くものです。繋がりは、この地上で終わるのではなく、永遠に続くのです。そのような素晴らしい神の家族の中にあるのです。
 しかし、更に教会について調べていくと、旧約聖書の教会の基本になった出来事は、出エジプトを果たしたイスラエルの民たちです。彼らは、ある意味で教会を預言的に現しています。エジプトとは「古い生活」です。そこから神の手によって引き出され、カナンの地に向かっていくのです。私たちも闇の支配から光の支配に移されて、カナンの地である神の国に向かって進みます。
 イスラエルの姿は、ただ難民のように逃げ惑う民ではありませんでした。彼らはエジプトから引き出され、カナンの地を目指しながら、多くの戦いに勝利してカナンの地に入国しました。彼らは決して難民ではなく、「軍団」でした。彼らは軍隊のような存在としてカナンの地を目指していきました。
 「教会」という概念のヘブル語に「カーハール」があります。これは、「呼び出された者たちの群」という意味があります。また、ギリシア語で教会を表している言葉は「エクレーシア」です。当教会の英会話クラスの名前もエクレーシアですが、これは元々、ギリシアの「議会」を現しました。この議会の根本的な存在意義は、単なる議会ではなく、「宣戦布告や戦争に関する議決」を目的としていました。エクレーシアとカーハールをドッキングし、ヘブル語的意味合いとギリシア語的意味合いを合わせると、教会は教室でも家族でもなく、「戦いのために呼び出された者たちの群」となります。私たちは主の戦いのために呼び出された群です。そして、神の国の領土を広げていくのです。
 テサロニケ第一の五章十四節に、「兄弟たち。あなたがたに勧告します。気ままなものを戒め・・・」と記されています。「気ままなものを戒め」という用語は軍事用語だそうです。これは、「戦列から離れてしまうような者を戒めなさい」と言っているのです。ときどき私たちも神の働きの中で、戦線から外れてしまうときがありますが、「戒めなさい」、「警告しなさい」ということです。「離れると危険です。主に従っていきましょう」という励ましの言葉です。
 しかし、反面、「小心なものを励まし、弱いものを助け、すべての人に寛容でありなさい。」と記されています。教会は暗闇に対して建てられた軍隊のような存在で、強い兵士たちがそろっているような力強いイメージですが、それだけではいけないということです。イスラエルから脱出した民たちは、出エジプト記の十二章三十七節に

『イスラエル人はラメセスから、ステコに向かって旅立った。幼子を除いて、徒歩の壮年の男子は約六十万人。』

数字が示されているのは、「歩ける壮年男子六十万人」です。ということは、歩けなかった人々や、幼子も入っていた事になります。といことは戦うことができた人数が六十万人いましたが、その他、女性、老人、こどもたちなど、障害を持った人々はこの数字の中に含まれていません。エジプトから脱出したイスラエルは、色々な人々を含んだ集団だったのです。ある説によると、エジプトを脱出したイスラエルはだいたい二百万人くらいではなかったかというのです。色々な人々を含んでいるのが教会の姿です。教会は力強い戦士ばかりではありません。「小心なものを励まし、弱いものを助け、すべての人に対して寛容でありなさい。」と書かれています。教会の中に色々な方々がいて結構です。
 今、私たちは東京リバイバルミッションのために激しく働いています。しかし、ある人は、「東京と言うけれど私は東京に行ったことがないし・・・」と言われるかも知れません。別に皆が一色にならなくてもいいのです。様々な人々が含まれていていいのです。しかし、互いに励ましあうべきです。ときどき自分の立場が確立してくると、そのレベルに達していない人たちを裁くようになります。「何だ。あの人は何故できないのだ。もっとあの点を改善したら良いではないか。」と言います。しかし聖書は、「すべての人に対して寛容でありなさい」と記しています。これは「忍耐強くありなさい」「優しくありなさい」と言う意味もあります。「忍耐」は英語で「ペイシェント」と言います。これにはもう一つの意味もあります。病院の患者さんのこともペイシェントと言います。病気で寝ている人は床から起きあがりたくても起きあがることができないので忍耐を強いられます。入院された方はその辛さを知っていると思います。私たちはそのような病気の人に接するのと同じようにお互いの間で寛容な心を持っているべきだと言うのです。
 これからリバイバルの中で教会の存在が大変重要になっていきますが、私たちは教会としてのあり方の基本をしっかり身に付けなくてはなりません。そして、「互いに励ましあいなさい」というのです。もしも皆さんのまわりに落ち込んでいる方や、苦しんでいる方がいれば、その方を励ましてあげなさいと言うのです。互いに励ましあうことが大切です。聖書の個人の位置付けはこの世の中の位置付けとは違います。この世の中では強い者に価値がありますが、聖書は違います。キリストを頭とする各器官としての位置付けです。それには強い器官もあれば弱い器官もあります。お互いがお互いをサポートし、体が出来上がっているのです。私たちの教会にも色々な方々がおられますが、これが教会の姿です。寛容に互いが助け合って、イスラエルの六十万人の精鋭たちが他の百数十万の人たちを支えたように行動すべきです。ある人は歩けない人を担いだ事でしょう。ある人は手を引かなくては歩くことができず、手を引いた事と思います。六十万人の歩ける人たちがその他の人たちを助けた姿を見ることができます。
 次に、悪を持って悪に報いないということを教えています。十五節に、

『だれも悪をもって悪に報いないように気をつけ、お互いの間で、またすべての人に対して、いつも善を行なうよう務めなさい。』

と教えています。悪に対して悪で報いることは容易なことです。先週も大きな事件があり、北朝鮮からミサイルが飛んできたということで日本も慌てて制裁処置を発表していました。先日もアメリカの大使館が爆破されたことでミサイルを打ち込んだりと、悪に対しては、悪で報いるのが一般社会の常套手段です。しかし、聖書の教えは、「悪に対して悪にて報いないように」と教えています。
 もし皆さんが誰かに傷つけられたり、苦しめられたりしたら、どのように反応しますか。傷つけられたら、その人を憎むという反応が起こるでしょう。「絶対に赦さない」と言います。しかし、憎しみは恐ろしいものがあります。「憎しみ」には正統な理由があるからです。悪に報いないように気を付けなさいと教えられていますが、クリスチャンが陥りやすい罪は、憎しみです。私たちは憎しみから守られるように祈るべきであり、常に注意するべきです。憎しみは正当な理由がそこにいつも存在するからです。しかし、聖書はマタイの福音書6章十四節から十五節に、

『もし人の罪を赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの罪をお赦しになりません。』

 またコリント第二の手紙の二章十節から十一節に、

『もしあなたがたが人を赦すなら、私もその人を赦します。私が何かを赦したのなら、私の赦したことは、あなたがたのために、キリストの御前で赦したのです。これは、私たちがサタンに欺かれないためです。私たちはサタンの策略を知らないわけではありません。』

と教えています。私たちが人から傷つけれたり、憎しみを持つような状況が起きた時に知るべきことは、「サタンの策略」です。「怒っても罪を犯してはなりません。日が暮れるまで憤ったままでいてはなりません。サタンに機会を与えてはならない」というのです。ということは、私たちが誰かを赦していないとしたらその背後に必ずサタンの策略があり、サタンが侵入のきっかけを捕らえているのです。憎しみの背後には必ず霊的束縛が伴います。だから、どのような理由があっても赦すことが大切です。ということは、「悪に対して悪を報いないようにしなさい」と言う、この御言葉は大切です。
 「怒っても罪を犯してはなりません。日が暮れるまで憤ったままでいてはなりません。」神は人に怒りという性質を与えてくださいました。怒りという性格がなかったら、メリハリのない人生です。殴られてもヘラヘラ笑ってとても変です。怒りがあるのでピリッとするところもあります。しかし、一日の中ので抱いた怒りは一日で治めなさいと言うのです。今日一日の内でカッとするようなことがあっても、夜寝るまでに処理しなくてはならないのです。怒りを持ち越してはいけないのです。持ち越すと、翌日には怒りは「憎しみ」に変わり、サタンに侵入のきっかけとして取られるのです。ということは、怒りは生鮮食料品と同じだと前にも話しましたが、生鮮食料品はその日には美味しく食べることができますが、次の日には腐って食べることができません。どんなに怒るようなことがあっても一日でそれを処理しなくてはなりません。イエス様が私たちを赦してくださったように、「私も赦します」と宣言することです。教会の中に決して憎しみが入ることがないように、憎しみの現場となることがないように、私たちは憎しみから解放されなくてはなりません。
 今回、カルロス・アナコンディア先生が書いた、世界的に売れている本がプレイズ出版から翻訳出版されました。「サタンをよく聞け」というタイトルです。素晴らしい本ですので是非、買って読んでください。神の守りも私たちの守りとは問題にならないようなすごい内容です。
 ある時ひとりの少女が、あるロックスターにあこがれ、グッズを全部揃え、大きなポスターを部屋に貼ってそのスターに没頭していたそうです。彼女は、毎晩、寝るときにそのポスターに向かって話しをし、自分の身の上話までしていたそうです。するとしばらくして、ポスターから声が聞こえるようになったそうです。
 これは恐ろしいことです。人間対人間なら会話は良いのですが、架空の人物や、人形、ポスターに、あたかも人格があるかのように心を開くと危険です。悪霊が来ます。
 その人は悪霊にがんじがらめに縛られてしまい、わからないところからとんでくる声に支配されるようになったそうです。
 ある時にアナコンディア先生の聖会に行きました。するとその見えないロックスターからの声が聞こえたそうです。「あの伝道者を殺せ。」「どのように殺すのですか」と聞くと、「今から按手祈祷があるから、お前も按手を受けるふりをして前に出て行きなさい。そして按手を受けるフリをしてナイフで刺して殺してしまえ」と言ったそうです。その人はナイフを懐に入れてアナコンディア先生に近づいていきました。しかし、彼女は先生の前に行ったとたん、聖霊に打たれて倒れ、解放の部屋に運ばれ救われたという証が書かれていました。先生の家に行くと、色々なナイフや武器のコレクションがあるそうです。それは解放の部屋で手に入れたものだそうです。救われて武器を置いていったというのです。もっとすごい証がたくさんありましたが、その本の中で、人の一番大きな問題は心の中にある憎しみだとありました。特にクリスチャンが一番陥りやすい束縛は憎しみであるから、気を付けなければならないと。私も同感です。色々な教会で奉仕をしますが、最後に招きをします。「もしも今日誰かを赦せないという人がいたら手をあげてください」というと、ある教会では全員手をあげたりします。だいたい平均して、六割くらいの人々が誰かを赦すことができないと告白します。憎しみから私たちが守られるべきです。悪に対して悪で報いることがないように、そしていつも善を行いなさいとあります。これはお互いに対して、すべての人に対してと勧めています。世の中は憎しみによって塗り固められていますが、教会の中に持ち込むことがないように。教会に行ったら憎しみが解かれた、赦すことができた、福音がまさに現される場所にならなくてはなりません。これが教会に対しての勧めです。
 「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことについて感謝しなさい。」と書かれています。そしてこの十九節に、「御霊を消してはなりません。預言をないがしろにしないで良いものを見分けなさい。悪はどんな悪でも避けなさい。」と書かれています。この「いつも喜んでいなさい」から、「悪はどんな悪でも避けなさい」というフレーズの中心に位置している言葉が、「御霊を消さないように」と言う御言葉です。
 「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。感謝しなさい」と言われてもなかなか難しいことです。喜べないから喜べない、祈れないから祈れない、感謝できないから感謝しないのですから。しかしこの基本は「御霊を消してはなりません」と言うところにあります。私たちが御霊を消すならば、喜ぶこともできませんし、感謝することもできません。
 テサロニケの教会がどのような教会であったかというと、一章五節に、

『なぜなら、私たちの福音があなたがたに伝えられたのは、ことばだけによったのではなく、力と聖霊と強い確信とによったからです。また、私たちがあなたがたのところで、あなたがたのために、どのようにふるまったかは、あなたがたが知っています。あなたがたも、多くの苦難の中で、聖霊による喜びをもってみことばを受け入れ、私たちと主とにならう者になりました。』

と記されています。テサロニケ教会は、パウロの訪問を受けて、力と聖霊の強い確信によって福音を受け入れ立てられた教会であったのです。

 パウロの奉仕する先々で、神のみ力が現されました。コリント教会に行ったときにも、「私の宣教は言葉ではなく、力と聖霊による強い確信によった」と記しています。また、エペソの教会に行ったとき、最初の挨拶が、「あなたがたは信じたときに聖霊を受けましたか」でした。彼らは「そんなのがあるなんて聞きもしませんでした。」と答え、彼が信徒たちのために祈ったときに聖霊が注がれました。
 時々誤った考え方が日本の教会の中にあります。「あなたの教会には聖霊がおられません」という表現をすることがあります。私たちが神を信じている以上、そこには必ず聖霊様はおられます。しかし、聖霊様がおられますが、聖霊の働きが止まっている教会があります。私たちはそのようになってはいけないのです。天地創造の前、地を暗闇が覆っていました。しかし、神の霊が動き始めたときに、新しい創造が始まりました。同様に、私たちの上にも聖霊が動き始めなくてはなりません。聖霊の働きが止まってしまうことがないように。「御霊を消してはなりません。」いつも聖霊様が働いてくださるように、注意しなくてはならないということです。また、そこには相関関係があります。「喜んでいなさい」と言う中には、「いつも祝っていなさい」と言う意味があります。「祝いなさい」ということは「主を賛美し、礼拝しなさい」ということです。
 今日、皆さんで主を賛美しました。心から主をお祝いしました。その時に聖霊が注がれました。いつも喜んで祝うことは素晴らしいことです。このクリスチャンの喜びはどこにあるのでしょうか。テサロニケ教会にもあったように、多くの苦難の中で聖霊による喜びを持っていたと書かれています。困難の中で喜ぶことができるのがクリスチャンです。それは、聖霊による喜びがあるときに起こってくるのです。今週も聖霊による喜びが私たちを支配するように祈るべきです。教会に来て喜びを感じるのは聖霊による喜びがあるからです。どのような苦難があっても、素晴らしい喜びを与えてくださっているのです。
 私は教会の中で誰が喜んでいるのかをいつも見ています。皆さん本当に喜んでおられ、お会いすると喜びが伝わってきます。これは聖霊による喜びです。しかし新城教会の中で一番聖霊の喜びが溢れているのは、辻森くんではないかと思います。彼は非常に喜んでいます。彼が喜んでいるのを見ると私も慰められます。先日、私が九州に伝道に行っていました。その時にこの教会から祈りの電話が来ました。「今から先生たちのために祈ります。特に喜びの油がそそがれるように祈ります。そのために辻森くんに代表して祈っていただきます」と私たちは祈ってもらいました。本当に九州にいる私たちに素晴らしい喜びが来て、集会の中にも喜びの霊が解放されました。
 彼は、二十年くらいに渡って毎週近くの授産所から礼拝に来られています。ある面で、色々な困難を彼は持っていますが、彼には喜びがあります。今日も礼拝の前に彼に聞きました。「先週喜びがありましたか?」と聞くと「はいありました。」と答えました。
 先日私が車に乗っていたときに、ふと神様が私に思いを与えてくださいました。「今、辻森君は喜びがなくなっているので電話してあげなさい」最近彼は携帯電話を持っています。だから、私はよく電話をします。「今、あなたに喜びがありますか。」と聞くと、「余りありません。」と答えました。ちょうど、盆の時で、彼は三重県の実家に帰っていました。それで喜びに満たされるように祈ってあげました。すると、急に喜びが来て、お母さんに東京リバイバルミッションのことを証したそうです。私たちはお互いに対する祈りによって喜びを回復することができます。ぜひ、彼の喜んだ顔を見てから今日は帰ってください。そうすれば喜びの油注ぎをいただくことができると思います。また、お互いが喜びの霊でみたされていると、教会に喜びが来ます。そうすると、苦しんだ人や悲しんだ人が教会に来るとき、喜びに変えられます。
 そして「絶えず祈りなさい。」と書かれていますが、休憩無しで祈ることはたいへんなことです。しかし、これは教会の中に与えられている祈りです。教会が祈りから離れてしまうと、教会としての機能を果たさなくなってしまいます。教会は常に祈り続けるべきです。現在、東京ミッションのために毎夜八時からとりなしの祈り会が開かれています。また毎朝早天祈祷会があり、毎週、県民の森祈祷会があり、ほかにもこの教会には祈祷会がたくさんあり、一日足りとも祈りを休んでいません。断食して祈ってくださっている方もおられます。祈りこそが聖霊の注ぎの原動力になっていきます。そのような中ですべてのことを感謝することも容易になってきます。
 次には、「預言をないがしろにしない、よいものだけを見分けなさい」と書かれています。
 私たちクリスチャンには、「見分ける目」が必要です。「見分ける」という言葉は「ドキモス」という言葉から来ています。この言葉の意味について、初代教会当時は紙幣がなく、コインでした。コイン今のように堅いコインではなく、柔らかいもので、人々は少しずつ削って自分のものとしました。そのような目方不足のコインが多く流通していたそうです。しかし正規の流通の中で、「ドキモス」という人たちがいて、本来の目方があるコインしか受け取らないよう、見分けていたそうです。「これは削ってある、本物ではない」と。彼らは偽物のコインを発見する専門的存在で、社会からも尊敬される人達であったとある本に書かれていました。
 私たちも見分ける目を神様から与えていただかなくてはなりません。サタンは私たちの所に色々な偽物を持ってきて「これが本物だ、正規の重さだぞ」と近づいてきます。しかし神からの見分けの目をいただき、日々見分けなくてはなりません。今の社会は色々な汚れたものに満ちています。神の見分けの目をいただかなくてはその策略にはまることが多いのです。
 マルコ福音書十六章に「毒を飲んでも決して害を受けず・・」という宣教に伴うしるしについて書かれていますが、今、毒に犯されるような事件がたくさん起こっていますが、福音を伝えていく現場にも、毒で満ちて汚れています。私たちが不用心に入って行くなら、クリスチャンであっても罪に負けてしまい、毒でやられてしまうような現場です。その毒にやられることがなく、その偽物を見抜く神からの聖霊の賜物をいただけるように祈りましょう。
 また、「悪はどんな悪でも避けなさい」と書かれています。このためには見分ける目が必要です。今週一週間も私たちが悪はどんな悪でも避けることができるように見分けの目を与えられるように祈るべきです。イエス様はマタイの福音書六章十三節で、

『私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。』

と教えられました。マタイの福音書六章の悪には定冠詞が付いていて、悪の存在である、「悪魔」から守ってくださいという意味です。諸悪の根元、悪魔の力から私たちを守ってくださいと言うことです。きよさを追い求めていく、これが教会の基本です。これが私たちを守ることになります。
 是非、テサロニケの手紙をもう一度読んでくださり、私たちの教会がそのようになれますように、また主の栄光がこの日本に輝くために用いていただけるよう祈っていきたいと思います。最後にお祈りします。

バックナンバー
戻る
戻る