今週の礼拝メッセージ
新しい歩み   1998.9.20(SUN)

新城教会牧師 上條 実

<今週のメッセージの御言葉>
ローマ人への手紙6章4節
私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。

 東京リバイバルミッションが始まり、本日で三日目です。昨日、一昨日の両日共、四千五百名程の方が参加されています。初日十八日の(金)の夜は有賀喜一先生がメッセージをされました。また昨日は田中政男先生がメッセージを語って下さいました。メッセージ後毎日決心者を招きます。感謝なことに多くの方々が恵みの座である講壇の前に進み出て、涙をながしながら決心の祈りをしておりました。更に多くの方々か集い、決心者が大勢与えられるように是非お祈り下さい。またスタッフたちも結構疲れ気味なところもあります。初めペースがつかめず、人も大勢いて大変なところがあります。神様が守ってくださると信じますが、スタッフのために祈ってください。新城教会の多くの方々が九段会館というホテルに泊まっています。昨日の朝方「ホイ。○○兄姉の部屋はどこだん?」という声で起こされました。どこかで聞いたことがある言葉だと思ったら新城教会の方が私の部屋の前で話していました。こちらから行かれた兄姉も、元気で楽しく参加されております。しかし楽しい中にも、霊的戦いがありますので祈ってください。これから行かれる方も、行かれない方もぜひ祈って下さい。あなたの祈りが一番の助けです。色々な地域から、色々な教会、色々な国から集まってくださっています。昨日午後からはインターナショナルの集会があり、台湾、インドネシア、フィリピン、ブラジル・・・など賛美のために集われました。今回海外からも多くの方々が集って下さり、私たち日本のリバイバルのために熱く祈って下さっています。私もこれからまた東京に行きますので祈ってください。本来ならば今日の礼拝は、順牧師が帰って御用をするはずでした。しかし今日の夜コンサートタイムにて急きょグロリアシンガーズが出演することになりました。突然グロリアシンガーズが賛美することとなり、ずっと何もしていなかったメンバーたち(順牧師・望兄・開兄)が急に先週くらいから練習し始めました。リハーサルがあるので代わりに新城に行って欲しいと言われました。今日、夜六時頃からグロリアシンガーズが賛美しますので祈ってください。とにかくすべてが守られるように祈っていただきたいと思います。今まですべて主の祝福があったことを心から感謝しています。
 では、早速御言葉を学んでいきます。今お読みしたローマ書四章には「バプテスマ」という言葉が書かれています。「信じてバプテスマを受けるものは救われます」とあります。私たちはイエス様を信じて救われた者です。今回東京リバイバルミッションで素晴らしい賛美とメッセージを聞いて感動しています。特に決心者が涙を流されてイエス様を信じる祈りをしている時に感動します。それと同時に、新しい方々に招待券を配りました。どのくらいの方がその招待券で来られるのか楽しみでした。感謝なことに昨日は招待券等で来られた方が約八百人ほどでした。新しい方々が大勢福音に耳を傾けている姿を見て、心から感謝しております。特に新しい方々がイエスキリストを救い主として決心できたことは最大の祝福です。感動です。喜びで心が一杯になり、心が躍ります。その最大の祝福であるイエス様を私もあなたも救い主として信じることができたのは感謝です。今日救われているということがどんなに祝福か、大きな事か、感動することか、幸せ者であるかということを覚えていただきたいのです。なぜバプテスマをするのでしょうか。それは聖書に書かれているからこそバプテスマを皆受けるのです。バプテスマは、罪を持った人が、新しい人間としてよみがえる時です。イエス・キリストが私たちの罪のために十字架にかかられ、死んで葬られ、三日目によみがえってくださったことにより、私たちの罪は完全に赦され永遠の命に預かるのです。イエスさまを救い主と信じてバプテスマを受けることができたことは、最高の祝福です。私たちは死んでも、永遠の都、天国に行くことができます。
 特に私はクリスチャンホーム、それも牧師の子どもとして育ちました。素晴らしい環境の中でイエスキリストを自分の救い主として信じました。また、ここにおられる方々皆が色々な方法でイエス様の元に導かれて、信じたと思います。あなたがイエス・キリストを信じたという事は素晴らしい財産です。私はこのようなことを語る時、天に召された新城教会のメンバーのことを思い出します。私は冠婚葬祭を担当していますので亡くなる寸前を見届けることもあります。色々な経験をさせていただいています。「クリスチャンは素晴らしい。福音は素晴らしい。神様は素晴らしい。」と語ることは簡単です。しかし、ひとりの方が亡くなっていく姿を見る時、確かにイエスキリストは生きている。この福音は本物だと固く信じることができます。私は冠婚葬祭を担当させていただき、多くの方々のお葬式の手伝いをさせていただきました。クリスチャンが死を迎える時、確かに永遠のいのちを持っており、天国に行けるという確信と言うより、姿を実際に見ることができます。私たちはイエス様が救い主であり、自分の罪のために死んで、よみがえってくださったことを信じています。実際死に直面している人を見る時、サッと言葉で福音を語ることができ、私たちの外側は何も変わらないために、クリスチャンでない方々は、わからないかも知れません。しかしこの福音が、ひとりの人をどんなにか大きく変化させているか、イエス様の救いがどんなに確かであるかということがはっきりと見ることができます。私のおばあさん(斉藤栄子)の事は良く御証しさせていただいていますが、亡くなる前よく訪問しました。おばあさんに祈ってほしいことがあるかと聞くと、「何もない、心配ない。」といつも喜びを持って語っていました。そして「私のことは心配いらないからお前のために祈ってあげる。」と言って祈ってもらったくらいでした。そして、最後には、「勝利は我がもの。ハレルヤ!」と言って安らかに天に帰って行きました。また、先日亡くなられた長谷川姉や多くの方々を思い出します。皆特別強い人ではなかったかも知れません。ある人はいつも問題を見て、思い悩んでいた人もいます。しかしそういう方でも、死を迎えるにあたって、輝いて天国に行けるという確信を持って亡くなっていきます。最後の死に対して勝利し、イエス様に会えるという喜びの思いで天国に凱旋していく姿を見る時、その死に顔の中にハッキリとこのイエスキリストに救いがあるとわかります。素晴らしい救いです。このローマ書六章四節に、

『私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。』

と書かれています。私たちはイエス様を信じて救われました。バプテスマを受けました。バプテスマは葬るという意味があります。私たちはイエス様とともに葬られました。今までは古い人間であり、主の顔に泥を塗ったような、大悪人、罪人でした。当然さばきの場所、地獄に行かなくてはならない者でした。しかしイエス様を信じたことによって、私たちはキリストともに葬られたというのです。キリストとともに死んだのです。私たちが今ここにあるのは古い人ではなく、新しい人として甦ったのです。更に「イエスキリストは私たちのかしらであって、私たちは各器官です。」という御言葉があります。私たちはキリストの体です。ですからキリストが十字架で死んで下さった時、私も死んだのです。そして三日目に甦ってくださったことの上に私たちも甦ったのです。ですから私たちは生きています。キリストと共に私たちは生きています。キリストの体の一部として、生きています。しかし生きていなければいけないのに、私たちの中で死んだ部分があるのではないでしょうか。私は先ほどもお話ししたように、多くの方が召されるのを見ました。死んでしまったならば、その人は絶対に動きません。すべての機能が止まっているからです。死んだ人の目だけが動いているということはありません。体は全て動かなくなってしまいます。ある時韓国などの証で、亡くなった人が数時間後に神様から地上に返されたという話を聞きます。葬式の準備をしている時、死人が急に生き返ったらどんなにビックリするだろうと考えたことがあります。しかし、死んだ人は動くことは絶対にありません。また、逆に生きている人の器官の一部が死ぬ病気があります。それは、今ではハンセン病と言いますが、聖書ではらい病と書かれています。ハンセン病とはその部分が腐ってしまう病気。鼻がその病気にかかったら鼻が腐って落ちてしまったり、指が落ちてしまったり・・・その機能、細胞が死んでしまう病気です。その病気にかかると体は生きていますが、死んでしまった所がでてきます。不自由です。服を着る時ボタンをはめる事は指があるのを当たり前のように考えます。しかしもし指がなかったら大変なことになります。今日私たちはイエス様によって生かされて永遠のいのちをいただき、今私たちはクリスチャンになっています。ではクリスチャンであるあなたは生きているのでしょうか。新しい人として生かされています。神のからだの一つにされています。あなたは生きているでしょうか?死んでしまっていませんか?あなたが今日死んでしまっていたなら、体は大きなハンディーを負ってしまうことを覚えて下さい。私たちは各器官です。器官は全てなくてはならないものです。すべての器官が順調に動く時、大きな働きをすることができます。バランスが取れるのです。私なんか何もできないとか、私は今回東京リバイバルミッションに行けないからとか・・・色々なことを思い煩うことがあるかも知れません。しかし神様がそのような環境を与えてくださっています。すべてのことがイエス様の赦しの中で与えてくださっています。ですから死んでしまうのではなく、あなたは生きた者として精一杯神様の為に働いてほしいのです。自分は何もできないと言ってストップしてしまっているのならば、その器官は死んでしまい、体は働きができなくなってしまいます。イエス様がいつも思われることは日本・新城の魂、愛する家族が救われるようにと願っています。リバイバルを望んでいます。しかし自分は駄目だと、ひとりでもイエス様のために働かずに死んでしまっていたならば、そのひとりのためにイエス様の働きがストップしてしまうことを覚えていただきたいと思います。六節から七節には、

『私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。死んでしまった者は、罪から解放されているのです。』

と書かれています。
 クリスチャンが生かされているという証拠として一つは罪から勝利するということです。私たちは罪をもっているために地獄に行くはずでした。しかし、イエス様が十字架にかかって死んでくださったことによって今私たちはクリスチャンとして今日ここで礼拝をささげています。罪の奴隷から解放されると書かれていますが、罪から解放され、生かされると書かれています。今日私たちは生きた者となるために、罪をしっかりと断ち切り、罪から勝利し、悪習慣から完全に勝利して行く必要があります。もしあなたに罪が示されていたならば、今日悔い改めてなくてはいけません。また私たちは完全ではありませんので、知らず知らずの内に私たちは罪を犯してしまいます。今日十字架で流して下さった十字架の血潮を仰いで頂きたいのです。いつも点検し、十字架の血潮で聖めて頂きましょう。悪習間のためやめなければならないと思っている部分があるならば、サタンは必死になってそこを握っていますので、イエスの御名の権威の中でその罪を断ち切ってくださいと祈り、解放されることを願っていくべきです。罪がある時に、絶対にその器官は死んでしまっています。また聖書の中に「罪がある時、祈りは答えられない」と書かれています。ですから、私たちは日本のリバイバルのために祈るとき、特に東京リバイバルミッションのために祈る時、あなたが東京に行かない、関係ないからという甘い考えの中で罪を隠し持ってしまっていたら、その一人のために主は祝福を与えられないことを覚えてください。イスラエルがエジプトを出て出エジプトした時に、エリコの町を一日一周、七日目には七周回り、最後に時の声を上げました。すると崩れるはずのないエリコの城壁が崩れました。そして戦ってイスラエルが圧倒的勝利を取りました。その後アイという小さな町にも戦いをいどみました。しかし、イスラエルは無惨にも負けてしまいました。本当に惨めな負け方でした。その原因はアカンという人がエリコの戦いにおいて聖絶しなければならない物を「自分一人くらいは良いだろう」と思い、黙って隠し取ったのです。その一人。アカンの罪のためにアイの町は惨敗してしまいました。その後イスラエルは悔い改めて、へりくだり、戦って勝利しました。悔い改めて後アイの町を勝ち取りました。今日軽く考えて罪を隠し持っている方がいるならば悔い改めて下さい。徹底的に罪を悔い改めましょう。日本のリバイバル。東京リバイバルミッションの祝福のために、罪を完璧にきよめていただき、罪の誘惑からも守っていただき、圧倒的な勝利をいただけるように祈るべきです。また十三節には、

『また、あなたがたの手足を不義の器として罪にささげてはいけません。むしろ、死者の中から生かされた者として、あなたがた自身とその手足を義の器として神にささげなさい。』

と書かれています。私たちは罪からきよめられなくてはなりません。手足を罪のために使ってはいけない、また、あなた方自身と手足を義の器として神に献げなさいと書かれています。神様が与えてくださった体です。だからこの体を神様のために、義の器として聖よめられ、十字架の血潮で聖められて神様のために使っていくべきです。「手」は祈りを意味します。私たちは今日、二時から宣教大会があることを知っています。多くの方が救われることが神様の望みであることを知っています。ですから是非お祈りして下さい。多くの方が救われるように。メッセンジャーの滝元明牧師のためにお祈りして下さい。私たちは忙しくて、二時になっても祈らずして過ぎてしまうことがあるかも知れません。今週は毎日宣教大会があります。魂の救いのために祈りの手をあげましょう。義の器として手を神様に使っていただきましょう。必ず主はあなたの祈りを聞いてくださいます。ぜひ、あなたの祈りが必要です。ぜひ祈ってください。また足と書かれています。「足」は伝道です。よくこの教会に来られる方に「教会の印象は?」と聞くと、ほとんどの人が「教会の人は優しいですね」と口々に言われます。普通は自分のことだけで精一杯ですが、クリスチャンは他の人のために愛し、祈ることができます。人のために愛をかけてあげる。優しくしてあげる。言葉をかけて上げることを心がけましょう。それも伝道です。一言葉、一つの行ないがその人の心を変えます。この中でも教会に来て「あの人がこんなことを言ってくれたから、嬉しかった。祈ってましたよ・・・など奇策に話しかけて下さったから嬉しかった。優しかった。」とか言葉なり、愛の行動をとうして救われたと言う方がいらっしゃると思います。今日神の前に悔い改めて生きた足とさせていただきたいと思います。愛の行ないができる者としてください。そして主のために、今週は東京に行っても行かなくてもその持ち場で働かせてくださいと祈りましょう。東京で路傍伝道等で大胆に語る、また牧師のように福音を伝える等、それによって救われる人もいますがあなたの一つの行ない、語った言葉が、働きでイエス様を紹介、伝道することができるということを覚えてください。十三節にあるようにあなたがた自身と・・ささげなさい。」と書かれているように、自分を神様にささげていきたいと思います。また十八節から十九節に、

『罪から解放されて、義の奴隷となったのです。あなたがたにある肉の弱さのために、私は人間的な言い方をしています。あなたがたは、以前は自分の手足を汚れと不法の奴隷としてささげて、不法に進みましたが、今は、その手足を義の奴隷としてささげて、聖潔に進みなさい。』

と書かれています。聖潔。きよらかさをもって進むべきだと書かれています。私たちは一生懸命に気を張って良いことを言おうとしても結局は疲れてしまいます。人前で何かをしても、一日経ったらすぐに不平が出てしまいます。私たちは主の前にきよさをいただき、進んでいくときにその中に神様が見えるということをぜひ、覚えてください。そして、二十二節に、

『しかし今は、罪から解放されて神の奴隷となり、聖潔に至る実を得たのです。その行き着く所は永遠のいのちです。』

と書かれています。ここに聖潔にいたる実を得たのです。と書かれています。実を結んでいくことです。私たちはきよさの実を結んでいきたいと思います。私たちの汚れていた部分をもう一度神様に照らしていただき、自分が一生懸命クリスチャンとしてやってきたと思います。しかし、失敗してしまった、また、怒らなくても良いようなところで怒ってしまった・・・とか罪の中にあって愛の行ないができずに良心の呵責に悩まされて、自分は駄目だと思います。その時に悪魔は「お前は駄目だ。」と追い風を送ります。今日はイエス様に聖潔の実を結ばせてくださいと祈りましょう。自分の罪を悔い改めて、実を結ばせてくださいと祈りましょう。神様は必ず私たちの祈りに答えてくださいます。そしてこの聖潔の実を結んだ時に永遠のいのちを得ると書かれています。私たちは天国に行くことができます。本当に喜んで天の御国に入り、イエス様と顔と顔を合わせることができます。それと同時に私たちだけではない、私たちが聖められ、私たちが神によって死んだところが、生かされて自分が聖潔の実を結んでいくならば、そのことによって神様が私たちに現れてくださいます。聖潔な実、私たちがきよらかな言葉を話します。また、私たちは親切な行ないができるようになります。また私たちは祈ることができるようになります。また神様は私たちを生かしてくださって、永遠の命を自分だけではなく、多くの人たちに紹介することができます。私たちはリバイバルを求めています。私たちひとりひとりが神様によって、きよめられ、義の器として整えられて、手と足を使って神様のために働きましょう。イエス様がかしらで私たちはからだです。だからイエス様の一つの器官として聖潔の実を結んで行きましょう。その時大きな働きをしてくださることを覚えてください。今日この礼拝で十字架の血潮をもう一度覚えましょう。悪かったところは徹底的に悔い改めて、イエス様に祈りましょう。聖潔な実を結ばせてくださいと祈りましょう。自分の与えられている一つの器官を精一杯働かせてくださいと祈りましょう。東京に行けなくても祈りましょう。神様のために働くことがリバイバルのために働くことだということを覚えてください。最後にお祈りします。

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