今週の礼拝メッセージ
主の息のみが人を生かす   1998.10.11(SUN)

新城教会牧師 滝元 順

<今週のメッセージの御言葉>
旧約聖書 創世記2章7節
その後、神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった。

 ハレルヤ!今日、このようにして皆さんと共に礼拝できることを感謝します。東京リバイバルミッションも皆様のご協力と祈りにより、素晴らしい集会を持つことができ感謝します。特に、新城教会の皆さんには、二年間に渡り、私たちが決起大会で全国を走り回っている間も、色々とご不便をおかけしましたが、共に戦ってくださったことを、心より御礼申し上げます。神様が今、日本でリバイバルを進めてくださっていることを心から感謝します。
 今日は皆さんと共に、「神の息のみが人を生かす」というテーマで学んでいきたいと思います。今日、読んで頂いた御言葉は、天地創造と、人類の創造についての記述です。天地宇宙を創られたのは神です。その天地宇宙の創造について、創世記一章一節から四節に、

『初めに、神が天と地を創造した。地は形がなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあり、神の霊は水の上を動いていた。そのとき、神が「光よ。あれ。」と仰せられた。すると光ができた。神はその光をよしと見られた。そして神はこの光とやみとを区別された。』

と記されています。神は最初に「光あれ。」という言葉を発せられました。それで光が照り輝きました。光が照り輝いた目的は、一章の四節に、「そして神はその光と闇とを区別された。」とあります。神が光を投げ込まれた目的は、「光と闇との区別」でした。これは聖書における神の最終的な目的を預言的に現しています。目的は、闇から光へ、サタンの支配から神の支配に区別することであり、魂の救いにつながります。
 現在私たちはイエス・キリストを信じてから、暗闇から光へ区別されています。即ち、サタンの支配から神の支配に区別されているということです。これは素晴らしいことです。区別とは、「取り分ける」という言葉にも訳すことができます。暗闇の支配から光の支配へと、「取り分けて」くださったということです。今日ここにおられるすべての方々が、イエス・キリストを信じたことにより、暗闇の世界から光の世界に、取り分けられたのです。
 ひとりがイエス・キリストを信じ、暗闇の世界から光の世界に区別されるとは大きなことです。それは後々にも渡って、大きな祝福を人生にもたらします。
 先週読んだ本の中に次のようなことが書かれていました。十八世紀、ニューヨーク州に二人の男が住んでいました。それは、マックス・ジュークスと、ジョナサン・エドワーズと言いました。マックス・ジュークスは、神様の働きに敵対しました。イエス・キリストを信じても何の徳もないと反発しました。それで、彼は同じような考えを持った人と結婚しました。それで十八世紀から今世紀に至るまで、彼の子孫が増えていきました。どの時点での統計か知りませんが、マックス・ジュークスを通して、千二十六人の子孫が生まれました。それらを調べてみると、家系の中で三百人が早死にし、不幸な死を遂げたそうです。そして、百人が平均十三年刑務所で生活を送ったそうです。また、百九十人が売春婦となり、また百人がアル中だったそうです。マックス・ジュークスの家系の中で、社会的に貢献した人は見あたらなかったと書かれていました。
 一方、ジョナサン・エドワーズは主に従い、大リバイバルを導いた人でした。彼の子孫から七百二十九人が生まれ出ました。その子孫を調べてみると、内、三百人が伝道者や宣教師になって主に仕え、六十五人が大学教授となり、十三人が大学の学長になり、六十人が素晴らしい作家になったそうです。また三人が国会議員になり、その内のひとりが副大統領にまでなったそうです。ひとりの人が暗闇から光に区別された時、後々、子孫が祝福されたと記されていました。
 私たちは、神様によって、暗闇から光にサタンの支配から神の支配に変えられました。これはただひとりの救いのみならず、後々の子孫まで祝福を与えるものです。神は千代に至る祝福をあなたに与えてくださるのです。信仰を持つとは責任が伴うことです。その人だけではなく、後々の子孫にまで影響を及ぼすということです。ですから、戦いがあっても信仰を守り通すべきです。決してマックス・ジュークスのような神に反抗する生活をしてはいけません。神に仕えていくならば、神様は後々に渡って「区別」してくださいます。
 光が闇の中に輝き、区別が起こる前に、その源となる一つの種が蒔かれていました。それは、創世記一章二節にあります。「地は形がなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあり・・・。」と書かれています。始めどこまで天がで、どこまでが水かがわからないような真っ暗な状態でした。その時に、「神の霊は水の上を動いていた」と書かれています。真っ暗闇の上に神の霊が覆い、動き始めました。その時に、続いて「光あれ。」ということばがありました。光の種となったのは、「神の霊が動き始めた」ということです。この出来事は後に、光と闇を区別する大きな働きへとつながっていきました。「神の霊が動き始める」とは、聖書中の大切な要素であることがわかります。そして、今日読んで頂いた二章七節には、

『その後、神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった。』

と書かれています。神の霊は、天地創造だけではなく、人間の創造にも関わっていたということです。「いのちの息」とは「神の霊」です。神の霊が土地のちりで造られた人の体の中に吹き込まれた時に、人は生き物となったのです。人類を創造する時、神の息吹・神の霊が関わっていたことがわかります。
 人間は土地のちりで造られたと記されています。私たちは死んで地に葬られる時に、からだはみな土に帰っていきます。私たちの人生は寂しいものです。八十年、九十年と生きても、やがて死に土に帰ってしまいます。なぜならば人間が土地のちりで造られているからです。土地の「ちり」という言葉をヘブル語で調べてみると、「土地のがらくた」と訳すことができます。神様は土地にあるがらくたで人間を造ったというのです。何とも寂しい訳だと思いました。しかし、そこにいのちの息が吹き込まれた時に、がらくたではなく、生き物になったのです。
 今日はコンピューター社会で、私たちの身の回りにはコンピューターがたくさんあります。しかし、コンピューターの中に、コンピューターを動かす人間の知恵であるプログラムが組み込まれていなかったら、コンピューターはただの箱であり、家に置いてあっても何の役にもなりません。しかしその中に、プログラムが導入され、実行される時にコンピューターは偉大な働きをします。私たちも同じです。ただの土の箱であり、がらくたですが、神の知恵である、「神の霊」が注がれる時に、偉大な働きをします。
 コンピューターも、どのようなプログラムが入るかによってそのコンピューターの表情が変わってきます。何年か前にマイクロソフトという会社が、ウィンドウズ95というプログラムを発売しました。それが日本でも大きな話題になり、夜中から列を作って人々は買い求めました。なぜ、そんなものを買いに行くのだろうかとコンピューターの知らない人は思ったかも知れません。なぜ、ウィンドウズ95を買いに行ったかというと、今まで持っていたコンピューターにウィンドウズ95を入れると、全くコンピューターの表情が変わり、今まで出来なかったような仕事も、簡単にできるようになるからです。今年は、95よりももう少し性能が高いと言われる、「ウィンドウズ98」が出ました。しかし95ほど話題になりませんでした。しかし、新製品なので、何らかの特徴があります。私もコンピューターを使っているので、ぜひ欲しいと思いました。最近、友人がウインドウズ98を提供してくれたので、バージョンアップしてみました。期待して、スイッチを入れると、前と全く表情が違いました。以前はすぐに起動したのが、なかなか起動しませんでした。私はウィンドウズ95の方が良いと思いました。どのようなプログラムが入るかどうかによって全く変わってしまいます。
 私たちは土の器ですが、中に入るものによって全く変えられてしまいます。神の霊が私たちの中に宿る時に、偉大な御業が起こってきます。聖書は、土地のがらくたのような人間に、神の霊が宿る時にどのような業が起こるかの記録です。そのような視点で聖書を一度読んでみてください。それは、元々は大したことはなかった人物に、神の霊が注がれ偉大に用いられたという記録です。旧約聖書から新約聖書の終わりまで、その記録で満ちています。
 旧約聖書の中に、イスラエルをエジプトの圧制から救い出したモーセという偉大な指導者について記されています。モーセがいなかったら、イエス様も生まれませんでした。私たちも救われませんでした。それほど、モーセという人物が生まれ育ったことは、偉大な出来事でした。彼はヘブル人でした。当時エジプトにおいて、ヘブル人の男が生まれたら殺せという命令がありました。モーセが生まれた時、男の子だったので、お母さんは彼を隠して育てましたが、あまりにも大きくなったので、最終的に彼を箱に入れてナイル川に流しました。それを、ちょうど水浴びに来ていたパロの娘が見つけて拾いました。幸運なことに、モーセは王宮に連れて行かれ、そこで育てられました。しかし彼の身の上は孤児でした。お母さんからも、「あなたはナイル川で拾われた子だ」と言われたのか、自分のことがわかっていました。私も兄弟が多かったので、私は拾われたかも知れないと思ったことがありましたが、彼はヘブル人として自覚し、エジプトの王宮の中で育ちました。人間の中で、その人を決定づけのは民族意識だと思います。私たちの教会には色々な国から人々が集っています。多国籍軍のようなものです。ここは神の国です。しかし、国際社会に生きる者として、そんな中で注意しなくてはならないことがあります。それは、お互いの国の悪口を言わないことです。日本で生活するにはあまり意識はありませんが、海外に行って日本の悪口を言われると憤慨します。人間は民族意識が強いのです。日本もかつて民族意識のゆえに、日本が最高だという高ぶった思いでアジアを侵略し、アジアの諸国に多大な迷惑をかけました。しかし五十数年経って、日本も変わってきました。
 先週は日本の歴史の中で、大きな一コマであったと思います。それは、韓国の大統領が来日し、その時、小淵首相によって、公式に日本が韓国に犯した罪を悔い改めました。日本が公式に韓国に対して謝罪したのです。日本はかつて韓国を侵略しておきながら、色々と理由を付けて謝罪しなかったのは、日本の高ぶりのゆえでした。しかし、今回、謝罪が行われたのは、霊的な世界において大きな出来事であったと思います。これはリバイバルの一つのサインです。神は祈りに答えてくださいました。日本は経済的に落ちて、高ぶりが砕かれました。バブルの最盛期だったら、絶対に謝らなかったと思います。日本のおかげでアジアが生きていると高ぶっていました。しかし、今は日本のおかげで世界恐慌になりそうだ、と世界から言われています。そのようなへりくだりが国に来たことを心から感謝すべきです。
 モーセを苦しめたのは悪い意味での民族意識でした。彼が外に出て見たのは、同胞であるヘブル人がエジプト人にいじめられている姿でした。彼はカッとしました。「なぜ私の同胞をいじめるのだ」とエジプト人に飛びかかり、殺して砂の中に隠しました。しかし、その結果、何と同国人にも拒否され、パロからも追われ、四十年もの間、荒野の生活を強いられました。日本も高ぶりの結果、戦争に負けて、荒野の生活を強いられたところがあります。また、近頃もバブルの時代で高ぶった結果として、これから日本は荒野の生活かも知れません。自分たちが最高だ、自分たちよりも偉大な国民はないと高ぶると、神はやがて国を滅びに向かわせます。
 モーセにも四十年の辛い荒野の生活がありました。しかし四十年目に、砂漠の中で柴が燃えているのを見ました。彼が見に行くと柴は燃え尽きませんでした。それは神からの聖霊の火でした。彼はその時、聖霊の火に触れられました。神はモーセに、「さあ、あなたの育ったエジプトに帰りなさい」と言いました。圧制を受けているヘブル人を解放するために帰りなさい、と言いました。しかし彼は普通の方法では帰りませんでした。
 傷を受ければ憎しみとなり、国を追われるならば一般的にはゲリラになります。先日もアフリカでアメリカ大使館が二ヶ所、同時に爆破されましたが、それもアフガニスタンのイスラム指導者がアメリカに対して憎しみを持ち、ゲリラを組織してゲリラ戦を行ったものでした。それが国に対して憎しみを持った者の常です。
 モーセも一度は荒野に退きましたが、ゲリラの親分としてエジプトに戻ったのではありませんでした。何と、神の霊によってパロの王宮に入り、神の業を現しました。誰が見ても神の指だという業を現しました。やがてイスラエルはエジプトから脱出しましたが、結果的に、彼らは追い出されたのではありません。聖書を見ると、「彼らはエジプトから好意を受けて出て行った」と書かれています。彼は全く別の方法で勝利しました。神の霊が人に臨む時、神は全く別の方法で戦いに勝利する秘訣を与えてくださるのです。モーセがそうであったように、私たちも神の霊に満たされるならば、考えてみなかったような方法を与えてくださいます。それは、神の御業が人を通して現される方法です。
 続いて、士師記を見ると、ギデオンについて書かれています。ギデオンという人は、三百人を率いて十三万五千人のミデヤンの大軍を打ち破る偉大な働きをした人です。ギデオンは勇士の中の勇士です。しかしギデオンも、神の勇士とされる前はミデヤンから逃れて、酒ブネの中で小麦を打っていた人物でした。ミデヤン人はイスラエルが収穫時期になると必ず攻めて来ました。ギデオンは毎年、ミデヤンが収穫物をかっさらいに来ることを知っていました。それで、イスラエルの酒ぶねは岩をくり貫いたものですが、岩のくぼみに隠れて自分の食べる小麦をこなしていました。ギデオンという男は全くの自己中心的な男でした。人のことなど考えない、自分さえ助かればいい、自分の食物だけは確保しようと穀物をこなしていました。そんなところに神様が現れました。この自己中心的な男に神の霊が注がれて、何と、自分の国のことを考えるように変えられました。大軍ミデヤン人に対して勇敢にも、三百人の勇士と共に戦い、勝利しました。まさに神の霊が人を生かすということです。
 先日、士師記のギデオンの勇士の箇所を読んで感動しました。彼らは三百人で戦いに勝利しました。三百人の勇士でミデヤンの十二万の軍を打ち滅ぼしました。士師記の八章にそのことが書かれています。一晩で、十三万五千人の内十二万人を打ち滅ぼしました。これは大勝利でした。しかしギデオンを始めとして、三百人の勇士は、十二万人をやつけて満足しなかったのです。士師記八章四節に、

『それからギデオンは、彼に従う三百人の人々とヨルダン川を渡った。彼らは疲れていたが、追撃を続けた。』

と書かれています。十二万人もやつけたのだから良いではないか、と思いますが、彼らは追撃を続けたのです。
 今回、私たちは「東京リバイバルミッション」で祝福されましたが、ある面で疲れたところもありました。「ここまで祝福され、経済的にも満たされたので、これで良いではないか」と。しかし、それではいけないということです。ギデオンの勇士はなおも残党を追撃したのです。私たちもある一つの成功で満足していてはいけません。そのあと、もう一歩、疲れていても追撃できるかで決まってきます。
 この疲れは、「肩が凝った」というような疲れではなく、ヘブル語で見ると、「のどがカラカラに渇いて気絶するほど」の状態だそうです。そのような疲れの中で彼らはミデヤンの残党を追撃したというのです。ここに勝利があったのです。私たちも日本のリバイバルのために、神様が良しと言われるまで、国が全部福音化するまで、疲れても追撃すべきです。なぜこのようなことが出来たのでしょうか。それは、ギデオンに神からの霊が注がれたからです。神の霊が臨む時、勇士ギデオンと同じようにされるのです。それは私たちにとっての大きな希望です。
 士師時代に続き、イスラエルは王政になりました。初代の王様はサウルでした。二代目は有名なダビデでした。ダビデが選ばれたときの状況を知っておられますか。Tサムエル記に書かれていますが、神は、預言者サムエルにエッサイの家に行って、その息子に油を注ぎなさいと語られたのです。彼はエッサイの家に行き、七人の息子に出会いました。最初に出会った人は、エリアブでした。彼を見たときにサムエルは感動しました。「この人こそ、王になる人物だ」と思いました。体格がよく、ハンサムで素晴らしい人でした。そこで油を注ごうとしました。すると神様が「その人ではない。」と言われました。第一サムエルの十六章七節。「人はうわべを見るが、主は心を見る」と神様は言われました。次の人、次の人・・・、神は誰にも油を注ぎなさいと言われませんでした。「これで全員ですか。」と言うと、エッサイは「末の息子が野原で羊の番をしているけれど・・・」と言いました。するとサムエルは「その人を連れてきなさい」と言いました。その人がダビデでした。ダビデは全く外れていました。しかし、神様はそのダビデを選ばれ、油を注がれました。その時に、「神の霊がダビデを激しく覆った」と書かれています。それで彼は、聖書の中で最も大きな影響を与える人物のひとりになりました。彼に神の霊が注がれなかったら、ずっとイスラエルの荒野で羊飼いをしていたでしょう。
 ひとりの人に油が注がれるときに偉大な御業が起こります。旧約聖書の預言者たちも同様でした。イエス様でさえそうでした。イエス様の誕生はセンセーショナルでしたが、それから三十年間はほとんど聖書の中に記述がありません。何をやっていたのか。お父さんの大工の手伝いをしておられたようです。しかし、イエス様がヨルダン川でバプテスマを受けたときに、天が開かれて御霊が鳩のように下りました。その時にイエス様の公生涯が始まりました。イエス様は神様でしたが、この地上では完全な人間でした。だからこの地上では聖霊に満たされる必要がありました。私たちも同じです。ひとりひとりが生きた器となって働くためには、神の霊がその人を生かすので、神の霊に満たされることが重要です。第一コリントの三章十八節には、

『私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。』

と書かれています。私たちに主の霊が注がれるときに、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられるという約束があります。これはよく勉強したからとか、よく努力したからではありません。聖霊ご自身が人に臨むときにです。他の条件はありません。「顔の覆いが取り除かれて」これは光と闇との「区別」です。聖霊が注がれるとは、「取り分けられる、区別される」という意味です。「栄光を反映させながら」とは自分の力ではありません。月が自分で光るのではなく、太陽の光を反射すると同じように、イエス様の光を反射しながら、「主と同じ姿に変えられる」と言うのは、「生き写しになる」という意味です。コピーをしたら全く同じような姿になります。私たちも、同じように、聖霊を受けるとイエス様と同じようになるというのです。そして御霊に満たされるときに、その結果が現されます。ガラテヤ人への手紙五章二十二節から二十三節に、

『しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。』

と書かれています。聖霊に満たされると「実を結ぶ」と書かれています。ここには九つの実について書かれています。私も御霊の実を結びたいと思います。この中でいくつ、実を結んでいるだろうかと考えます。しかし、ギリシア語では、「フルーツ」という複数ではありません。「フルート」即ち、単数です。これは決して九つの実ではなく、「一つの実」です。聖霊が注がれるときに、九つは全部その中に含まれているということです。私たちが神の霊を受けるときに、そこから神様のみこころが現されます。人間の霊が人間を支配するように、神の霊が、神の世界を支配します。ということは神の霊が人に臨むときに、その人の人生を支配し、偉大な人生へと変えます。
 ジョナサン・エドワーズは神の霊を受けました。彼の人生は祝福され、リバイバルのために用いられました。また同時に彼の子孫も祝福されました。「神の霊のみが、がらくた、土くれのを生かす」ことをしっかりと覚えましょう。
 ひとりひとりが神の霊に満たされて、聖書に出てくる人物のように、用いられますように。その時に神様の御業が進んでいくことを信じます。一言お祈りします。

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