今週の礼拝メッセージ
霊の世界でまず勝利を!   1998.11.8(SUN)

新城教会牧師 滝元 順

<今週のメッセージの御言葉>
ダニエル書10章12節〜14節
彼は私に言った。「恐れるな。ダニエル。あなたが心を定めて悟ろうとし、あなたの前でへりくだろうと決めたその初めの日から、あなたのことばは聞かれているからだ。私が来たのは、あなたのことばのためだ。ペルシヤの国の君が二十一日間、私に向かって立っていたが、そこに、第一の君のひとり、ミカエルが私を助けに来てくれたので、私は彼をペルシヤの王たちのところに残しておき、終わりの日にあなたの民に起こることを悟らせるために来たのだ。なお、その日についての幻があるのだが。」

 ハレルヤ!今から神の御言葉を学んでいきます。さて教会とはどのようなところでしょうか。一般的な見方をすれば、クリスチャン以外は教会で何が行われ、何が語られ、どんな救いがあるのか分かりません。永遠のいのちがあるなどとは、なかなか理解ができません。ですから、一般から教会を見るならば、イエス・キリストが好きで集まった、イエス・キリスト同好会くらいにしか思われないかも知れません。この世の中にはたくさんのグループやサークルがあります。皆さんも何かのグループに属していた方もおられるかも知れません。人々は一つの目的、一つの趣味の元に集められます。もしも、私たちが教会を同様なとらえ方をしているならば、何ら世の中のグループやクラブ活動と変わりありません。
 私たちは、知らない内にこの世の中の価値観に生きています。その影響で、教会も一般的なグループ活動として、習慣として捕らえないようにすべきです。聖書は、「教会は目に見えないキリストのからだ」であると語っています。ということは、教会とは、目に見える建物や人々ではなく、その中に形成されているキリストのからだなのです。 教会の活動は多方面に渡っています。教会は赤ちゃんが産まれるところから墓場まで、人生における全ての領域を含んでいます。その中には、目に見える領域にもたくさんあります。
 先週教会では運動会が行われました。楽しいひとときでした。私は、はりきり過ぎて一〇〇〇メートル競走にも出ました。それにはなかなかついて行くことができませんでした。それで先週、私は、足が痛くて大変でした。家内が、「あんた、年相応に考えなくては駄目。」と言われました。
 教会は目に見える活動もたくさんあり、楽しいこともたくさんあります。今日ここに初めて来られた方も、教会にぜひ来てください。この世の中のクラブ活動よりも楽しいことがたくさんあります。特に、年末年始は楽しいプランがたくさんあります。クリスマスのプランが発表されましたが、どこの世界でも、こんなに多くのクリスマス集会はありません。ですから、ぜひ、楽しんでいただきたいと思います。
 しかし、教会の本質は、地上の目に見える姿にではなく、目に見えないのが教会だというのです。なかなかこれは理解し難いものです。それで聖書は、優先順位として、目に見えない領域に目を留めるべきだと教えています。第二コリント四章十八節には、

『私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。』

とあります。教会に来て、目に見える領域だけに目を向けているならば、この世の中のクラブ活動や一般的なサークル活動とあまり変わりません。しかし、見えない領域に目を留める時に、新しいことが起こってきます。
 人間にとって見える領域は物理的にも数パーセントだけです。可視光線は、赤から紫までの七つのスペクトルで構成されています。赤より先は見えません。それを赤外線と言います。だから赤外線センサーは、泥棒避けに使われます。見えたら泥棒は避けることができます。見えないので引っかかるのです。また、紫外線も見えません。見えないので日焼けしてしまうのです。先日私も、休暇を取り、太陽が燦々と照るところに行きました。そこで、そう大したことはないと思い、ほんの一時間くらい裸で外にいました。そうしたら、体中真っ赤になり、痛いの、かゆいので大変でした。今でも皮膚がむけています。なぜならば、見えない紫外線の世界があるからです。要するに、見える世界は少しだけです。人には見えない霊的世界も広がっています。私たちが、現実の可視光線の世界だけではなく、目に見えない、霊の世界に目を留めないと、教会に来ても何も変わり映えのない、世の中のクラブ活動やサークル活動と似たものになってしまうのです。
 今日読んでいただいたところは、目に見えない霊的な世界を教えています。ここにダニエルという一人の預言者について書かれています。預言者とは、神様の声を聞き分ける人です。神の声が聞けたらすごいです。神様の声は霊の声なので普通の人間はなかなか聞こえません。しかし、ダニエルは祈ると神の声を聞くことができる人物でした。
 ある時彼は真剣に神の前に出ました。一つのことをどうしても教えてほしくて、神の前に出ました。それも断食して神の前に出ました。しかし、何も神の声が聞こえませんでした。三週間も断食して祈ったのにも関わらず、神の声を聞くことができなかったのです。しかし、やっと三週間目に神の声が聞こえました。その時の言葉が今日読んだ御言葉です。天から神の使いが来て、十二節に、

『彼は私に言った。「恐れるな。ダニエル。あなたが心を定めて悟ろうとし、あなたの前でへりくだろうと決めたその初めの日から、あなたのことばは聞かれているからだ。私が来たのは、あなたのことばのためだ。』

彼が祈り始めた時、祈りは聞かれていました。しかし、答えが来たのは、何と、三週間後だったのです。これは霊的な世界と現実の世界に時間差があるという現実です。今、皆さんには色々な祈りの課題があると思います。祈りとは、現実の領域に属する行動ではなく、霊の世界の領域に属するものです。祈りは宗教的な習慣ではありません。霊的な奉仕に属することです。これは見えない領域なので、見える領域よりも重要です。しかし、いくら祈っていても、答えが来ないけれど、どうしてだろうと思っているかも知れません。それは、ここにあるように、時に、答えが来るまでに時間差があるのです。神の言葉を聞く祈りの専門家が、何と断食して三週間後に答えを受け取ったのです。祈っても、なかなか答えを受けることができない時がありますが、忍耐強く祈っていただきたいと思います。必ず、答えは来るのです。
 祈りはいつ聞かれたのか?何と、「あなたが祈ったその日」です。答えをもらっていないとしても、祈りが聞かれていないのではありません。神様は、「あなたが祈ったその日に聞いた」というのです。しかし、答えが来ないのです。どうしてでしょうか。十三節に、

『ペルシヤの国の君が二十一日間、私に向かって立っていたが、そこに、第一の君のひとり、ミカエルが私を助けに来てくれたので、私は彼をペルシヤの王たちのところに残しておき、終わりの日にあなたの民に起こることを悟らせるために来たのだ。』

とあります。神はダニエルの祈りの言葉を即聞きました。そして即、祈りの答えを天使に渡しました。しかしその時、祈りの答えを阻む者がありました。この時はペルシャの国の君が来て答えの前に立ちはだかったというのです。
 ダニエルは国の未来について祈っていました。当時、イスラエルはバビロンに捕囚になっていました。これからどうなってしまうのだろうか。このまま、国はなくなってしまうのだろうか。「主よ、国の未来はどうなってしまうのですか」と祈っていました。その時、目に見えない暗闇の支配者である、「ペルシャの国の君」これはペルシャを治めていた悪霊ですが、未来に起こることを止めようとして立ちはだかっていたというのです。しかし、ミカエルというイスラエルの国を守っていた神の使いが来て、ペルシャの君を打ち砕いて、やっと答えを持って来ることができた、と語っています。
 私たちは霊の世界で何が起こっているのかについて知るべきです。祈りの側面は戦いです。祈りに神はすぐに答えを与えたいですが、止める力が働くのです。ダニエルがなぜ、三週間も祈らされたかというと、「ダニエルも一緒に戦いに参加していた」ということです。ダニエルの祈りによって、神が援軍を送られました。祈りは目に見えない領域に属し、これは「戦い」であることを知っていただきたいのです。
 次に、霊の領域での勝利が、現実にも勝利をもたらすという法則を、このダニエル書の中に見い出すことができます。すべてにこの法則が適用されるとは言いませんが、多くの領域において霊的な世界の投影が現実の世界に現されるということです。今日は教会に行こうか、行くまいか迷われた方もおられるかも知れません。疲れたから寝ていようかどうしようかと思ったかも知れません。しかし、「行こう」と決断したので礼拝に来たのです。「今日は教会に来たくなかったけれど、なぜか今日は教会に来てしまった」なら、聖霊様の働きですが、普通は私たちの心の中の決定が現実に出ます。この教会も、建築委員会がどのような教会を建てようかと考えた結果が現実にあります。目に見えないものが、見える世界を支配します。ということは、根底にある霊の領域で勝利があるかどうかで、現実の世界が変わってしまうということです。ダニエルが戦いの途中で弱り果てあきらめてしまったら十章後半の、これから起ころうとしている事柄についての預言はなかったと思います。これは「終わりの日について」と書かれていますから、地球がどうなってしまうかについてまで及びます。霊的な世界で勝利を取る者となるように祈ります。
 新約聖書中、一番用いられた人物はパウロです。彼は本当に大きく神に用いられた人でした。パウロが書いた手紙や行動を読むと、聖霊に満たされたカリスマ性の高いすごい人物だったのだろうと思います。しかし、私たちのイメージに反して、パウロは自分のことをこのように紹介しています。第一コリント二章三節から四節に、

『あなたがたといっしょにいたときの私は、弱く、恐れおののいていました。そして、私のことばと私の宣教とは、説得力のある知恵のことばによって行われたものではなく・・・。』

 パウロのイメージを力強くて雄弁で見かけも立派な人物だと考えますが、パウロは自分でこのように語っているのです。「私は、弱くて、恐れおののいていて、別に雄弁でも何でもなかった」と語っています。私たちは見かけが強そうで立派な人を見ると、「この人はすごい」と思いますが、人間の真の強さは見かけではないのです。彼は恐れて、おどおどしていた人物でした。あるパウロ研究者によると、パウロは目が悪かったそうで、目立たない人だったと云います。続いて彼は、

『私のことばと私の宣教とは、説得力のある知恵のことばによって行われたものではなく、御霊と御力の現われでした。』

 弱く恐れおののいていたような男を通して、行く先々で不可能と思われる病人が癒され、悪霊は出て行き、町が変わり、国が変わってしまうような奇跡が起こったのです。なぜ、彼は見かけでは弱くても現実では勝利をとることができたのでしょうか。それには、わけがあります。その理由を聖書の中に見い出すことができます。パウロは霊的な世界を理解していた人物でした。
 第一コリント十四章三十九節から四十節、

『すべての肉が同じではなく、人間の肉もあり、獣の肉もあり、鳥の肉もあり、魚の肉もあります。また、天上のからだもあり、地上のからだもあり、天上のからだの栄光と地上のからだの栄光とは異なっており、』

また、四十四節には、

『血肉のからだで蒔かれ、御霊に属するからだによみがえらされるのです。血肉のからだがあるのですから、御霊のからだもあるのです。』

 これは、やがて天の御国に入ってからの状況として記されています。今は朽ちる体ですが、二度と朽ちない体に変えられると言うのです。素晴らしいことです。人間の体はどんどん年をとっていきます。運動会はそれを気づかせる良い機会だったと思います。私の息子も言っていましたが、スタートで足がもつれてしまいました。これは年を取った証拠だと思います。人間の体は衰えていきます。しかし、私たちはやがて二度と衰えることはない、栄光の体に変えられます。これは私たちクリスチャンの望みです。神様は、色々な肉のタイプを造られました。鳥の肉、豚の肉、人間・・・、だから天のからだの肉を造ってもおかしくはない、とパウロは語っています。
 しかし、パウロの理解は、やがて来る日のことだけではありませんでした。
 先程読んだ四十四節には、「血肉の体があるのですから、御霊の体もあるのです。」と書かれています。これは何と未来形ではなく、「現在形」で書かれています。理解し難いことです。私たちのからだには、「見えるからだと見えないからだ」があるというのです。今現在、自分を見ています。これは血肉のからだです。そしてもう一つ平行して、「御霊のからだ」があるというのです。「御霊のからだ」と新改訳聖書では訳されていますが、ギリシア語や英語の聖書を調べてみると“a spiritual body ”と書かれています。人間の霊的な、もう一つのからだがあるのです。
 皆さんはもう既に、二つのからだを持っています。何と、「目に見えるからだ」と「目に見えない霊的領域のからだ」です。目に見えるからだだけて生きている人はいつも敗北です。しかし、御霊のからだ、霊的なからだがあることを理解している人は、勝利をとることができます。パウロは見かけはとても弱かったのですが、彼は霊的なからだで行動し、いつも現実の領域でも勝利を取っていたことを見ることができます。この霊的な体について、もう少し聖書から学んでみましょう。
 旧約聖書エズラ記五章に、「ヨシュア」という人物について書かれています。これはイスラエルがバビロン捕囚後にエルサレムに戻った時、用いられた人物です。エズラ記五章一節から三節に、

『さて、預言者ハガイとイドの子ゼカリヤの、ふたりの預言者は、ユダとエルサレムにいるユダヤ人に、彼らとともにおられるイスラエルの神の名によって預言した。そこで、シェアルティエルの子ゼルバベルと、エホツァダクの子ヨシュアは立ち上がり、エルサレムにある神の宮を建て始めた。神の預言者たちも彼らといっしょにいて、彼らを助けた。そのとき、川向こうの総督タテナイと、シェタル・ボズナイと、その同僚とがやって来て、こう言った。「だれがあなたに命令を下して、この宮を建て、この城壁を修復させようとしたのか。」』

 イスラエルはバビロンから自分の祖国に帰ることを許されました。預言者ハガイとゼカリヤ、ゼルバベルやヨシュア、その他も立ち上がり、崩壊したエルサレムをもう一度建て直そうとしました。この事の歴史的状況については、前後を読んでいただきたいですが、何しろ遠いバビロンから帰還して、崩壊したエルサレムにおいて、まず神の宮を建て直しました。
 すると、近くの人々がやって来て、工事を止めようとしました。三節にあるように、「だれがあなたに命令を下して、この宮を建て、この城壁を修復させようとしたのか。」と怒ってきました。
 この中に、「エホツァダクの子ヨシュア」と記されていますが、注目して下さい。神殿を建て直すときに実際的に働いた人物です。すると敵が来て、「だれの命令でこの宮、城壁を建て直すのだ。」と責めました。
 この、「ヨシュア」についてもう、一ヶ所書かれています。それはゼカリヤ書三章一節から五節、

『主は私に、主の使いの前に立っている大祭司ヨシュアと、彼を訴えようとしてその右手に立っているサタンとを見せられた。主はサタンに仰せられた。「サタンよ。主がおまえをとがめている。エルサレムを選んだ主が、おまえをとがめている。これは、火から取り出した燃えさしではないか。」ヨシュアは、よごれた服を着て、御使いの前に立っていた。御使いは、自分の前に立っている者たちに答えてこう言った。「彼のよごれた服を脱がせよ。」そして彼はヨシュアに言った。「見よ。わたしは、あなたの不義を除いた。あなたに礼服を着せよう。」私は言った。「彼の頭に、きよいターバンをかぶらせなければなりません。」すると彼らは、彼の頭にきよいターバンをかぶらせ、彼に服を着せた。そのとき、主の使いはそばに立っていた。』

ここには、「大祭司ヨシュア」と記されていますが、同一人物です。そして、エズラ記五章とは、時間的に同じ状況です。そして、エズラ記は「現実の世界」について記しています。ヨシュアが宮を建て直そうとした時、敵がやって来て「宮を建てるのはやめなさい」と言いました。
 そしてその時、もう一つ、目に見えない領域の出来事が同時進行していました。それは、「汚れた服を着たヨシュア」が、神の前に立っていたのです。そしてサタンが、ヨシュアを訴えていたのです。
 現実の世界でヨシュアは、宮を建て直そうとして、「敵に訴えられて」いました。同時に、目に見えない霊的な世界では、神の前で「サタンに訴えられて」いる状況です。
 神のみ前でヨシュアは白い衣ではなく、汚れた衣を着ていました。大祭司ヨシュアとは、イスラエルを代表する人でした。汚れた衣とは、イスラエルの犯した数々の罪でした。その汚れた衣を見て、サタンは、「イスラエルはこんなにも罪を犯したではないか。」と訴えていました。その訴えが、何と、現実の世界では敵からの妨害として現れていたのです。
 ということは、現実の世界だけの問題解決は、なかなか難しいという事です。
 霊の世界において、「この汚れた服を脱がしてあげなさい」と御使いの声がありました。また、預言者ゼカリヤが、「ヨシュアの頭にきよいターバンをかぶらせてください」と願いました。その時、エズラ記に記されているように、「その工事をだれも止めることができなかった」のです。そして敵に包囲されているような困難な状況下で、神殿が完成しました。ここに、「霊的世界の姿」と「現実の姿」を同時に見ることができます。
 悪魔は真剣に、私たちを霊の世界で訴えてきます。「この人はこんな汚い服です。この服では訴えられて当然です。何か問題があって当然です。」と言います。しかし、その時我々は、十字架によってよごれた衣がきよくされる事実を知るべきです。
 ヨシュアを助けたのはまず、天の御使いでした。同時に、預言者ゼカリヤがヨシュアにきよいターバンがかぶらせるよう、願ったのです。これは、「とりなしの祈り」です。
 誰かのためにとりなして祈る時、どのようなことでしょうか。ある人が苦しんでいるときに、他の人がその人のために祈ることは、「霊の世界において、その人と共に霊のからだで、神の前に出ること」です。ヨシュアの服がきよくされ工事が中断されなかったように、現実の世界に結果として現されるのです。
 私たちのからだには、肉体だけではなく、霊的なからだもあることを知るべきです。それが同時に存在しているのです。霊的なからだは、いつも神の前に出ます。パウロは、「私たちは既にキリストと共によみがえらされて、天の座に座っている」と言いました。すでに、天でイエス様と共に白い衣を着て座っているのです。しかし、現実の世界で、私達が罪を犯すと、その白い衣が汚れるのです。するとサタンが訴えます。そして霊的に敗北すると、現実の世界でも、敗北を目にするのです。
 今週は、霊的な世界があることを知ってください。そして、まず、霊的な勝利を取るべきです。ということは一番優先すべきことは、現実ではなく、「霊的な世界で勝利する」事です。そうでないと、現実の世界での勝利が来ないということです。これは重要なことです。霊的な世界で勝利することは、現実でも勝利することです。
 ということは、教会では色々な活動がありますが、一番優先すべき活動は、クリスマスの準備をするというよりも、「教会における霊的な領域の勝利する」ことです。この霊的な領域で教会が勝利を取らなかったら、教会の中に数々の問題が起こるのです。私たち牧師や伝道師の役割は、現実の働きもありますが、第一に現実の領域ではなく、「霊の世界で勝負する」ことです。常に、霊の世界で勝負し、勝利を取らなくては教会の中に色々な問題、災いや事故、病気が起こるのです。だから私たちのために祈ってください。私たちが、教会の霊の領域で戦って、常に勝利を取れるように祈って下さい。同時に、これは私たちだけではどうすることもできません。教会全体が、神の前に出て、「霊の世界で勝負する教会」になるのです。そうすれば、必ずリバイバルが進みます。この日本において、まず霊において勝利を取らなくてはなりません。

『私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。』

と書かれています。霊的な世界においてまず、勝利を取り、現実の世界においても勝利を取らせていただきたいと願います。
 今日皆さんの中で、霊の領域で負けていると感じている方がおられるかも知れません。ある意味で皆さんの中に起こっている問題は、霊的な世界での敗北の痕跡です。霊の世界で負けているとその投影がこの地上に現れます。目に見えるところで戦わないで、霊の世界で戦う者になりたいと思います。
 今週は二つのからだ、そして、目に見える領域と目に見えない領域があることを意識し、歩んでいただきたいと思います。必ず勝利が来ることを信じます。一言お祈りします。

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