今週の礼拝メッセージ
主イエスのために生きよう   1998.11.15(SUN)

新城教会牧師 滝元 明

<今週のメッセージの御言葉>
旧約聖書 エレミヤ書20章7節〜12節
主よ。あなたが私を惑わしたので、私はあなたに惑わされました。あなたは私をつかみ、私を思いのままにしました。私は一日中、物笑いとなり、みなが私をあざけります。私は、語るごとに、わめき、「暴虐だ。暴行だ。」と叫ばなければなりません。私への主のみことばが、一日中、そしりとなり、笑いぐさとなるのです。私は、「主のことばを宣べ伝えまい。もう主の名で語るまい。」と思いましたが、主のみことばは私の心のうちで、骨の中に閉じ込められて、燃えさかる火のようになり、私はうちにしまっておくのに疲れて耐えられません。私が多くの人のささやきを聞いたからです。「恐れが回りにあるぞ。訴えよ。われわれもあいつを訴えよう。」私の親しい者もみな、私のつまずくのを待ちもうけています。「たぶん、彼は惑わされるから、われわれが彼に勝って、復讐してやろう。」と。しかし、主は私とともにあって、横暴な勇士のようです。ですから、私を追う者たちは、つまずいて、勝つことはできません。彼らは成功しないので、大いに恥をかき、それが忘れられない永久の恥となりましょう。正しい者を調べ、思いと心を見ておられる万軍の主よ。あなたが彼らに復讐されるのを私に見せてください。あなたに私の訴えを打ち明けたのですから。

 ハレルヤ!今朝このように、皆さんとともに御言葉を学ぶことができることを感謝します。私も、皆さんのお祈りによって今日まで健康で奉仕でき、心から感謝します。私は先月の終わりに台湾に聖会に行き、帰ってからしばらく休みをとってグァム島に行きました。私と家内と娘の道子と一緒に旅行し、久しぶりに休みの時を過ごしました。その時、初めて潜水艦に乗りました。海底五十メートルくらいのところに行き、サンゴや魚を見ました。また、かつて元日本兵の横井庄一さんが隠れていた家を見ました。それはジャングルの中にありました。滝があり川が流れ、竹薮に隠れ家を作っていました。竹薮は穴を掘っても土が落ちて来ないそうです。彼は二十八年間隠れていました。戦争が終わったこともわからなかったかも知れません。彼はずっと自分の命を守りました。十年程四人で暮らしていたそうです。しばらくするとそのうち二人はどこかに逃げてしまい、またしばらくすると一人が死んでしまい、やがて一人で十年間過ごしたそうです。一人だけで十年間もよく耐えたと思います。川に魚がいたりするので、それをとって食べて暮らしていたそうです。私はそれを見て、彼は大した根性だと思いました。自分の命を守るために二十八年間も暮らしていたのです。彼は、帰って来た時皆の前で、「恥ずかしながら帰って来ました。」と挨拶しました。
 さて、今から私たちが学ぶ御言葉はエレミヤ書です。この御言葉は私がグァムで休みを終えて帰りの飛行機の中で読んで感動を受けた御言葉です。エレミヤは、ヨブと同じような苦しみを通った人です。二十章十四節からに、

『わたしの生まれた日は、のろわれよ。母が私を産んだその日は、祝福されるな。私の父に、「あなたに男の子が生まれた。」と言って伝え、彼を大いに喜ばせた人は、のろわれよ。その人は、主がくつがえして悔いない町々のようになれ。朝には彼に叫びを聞かせ、真昼にはときの声を聞かせよ。彼は、私が胎内にいるとき、私を殺さず、私の母を私の墓とせず、彼女の胎を、永久にみごもったままにしておかなかったのだから。なぜ、私は苦労と苦悩に会うために胎を出たのか。私の一生は恥のうちに終わるのか。』

 エレミヤは涙の預言者と言われました。彼はとても苦しいところを通りました。そこで彼は苦しみのあまり、「なぜ、私は母の胎で死ななかったのか。なぜ、私は生まれてきたのか。」と生まれた日をのろっています。彼は非常に苦しい中を過ごしました。「私は預言者だけれども、神様が語れと言われる事を語るのが嫌だ。しかし、私の骨の中に火が燃えていて、押さえるのに疲れて語らないではおれない。」と語っています。彼は苦しい中で神の御言葉を伝えました。今、私たちは平和のうちに礼拝を守れることはとても感謝なことです。日本でも鎖国時代や明治時代には、クリスチャンは隠れて礼拝をしていました。しかし、戦後五十年経った今は、信教の自由が保証されています。今私たちが自由に礼拝できることは素晴らしいことです。私は朝起きたらすぐにひざまずき、「イエス様。あなたを愛します。今日私に健康を与えてくださったことを感謝します。」と祈ります。感謝すべきことはたくさんあります。あまりきれいな話ではありませんが、便所に行って通じがあると、「感謝だ」と思います。今日も健康だと思います。私は時々独り言を言います。言葉は通じませんが、腸に、「腸さん感謝ですね。」とか、腎臓も丈夫なので「腎ちゃんありがとう」など・・・色々な器官が健康なので神様に感謝しています。今朝、私たちが自由に礼拝することができるのは素晴らしい恵みです。恵みの中にあると恵みがわかりません。しかし、今日は恵みです。私の手元にあるリバイバル新聞には、「今日は迫害されている教会のための祈りの日」と書かれています。現在、世界で迫害を受けているクリスチャン人口は三億人です。北朝鮮は共産国なので声を出して歌うことはできません。今日私たちは大声で賛美しました。ある人は、騒がしいと思ったかも知れませんが、これはとても感謝なことです。中国も同じです。ミャンマーやイスラム国などは迫害が大きいのです。しかしそのような中でも礼拝を守っています。
 エレミヤは、「なぜ私は生まれたのだろうか」という苦しみがありました。彼が生きた時代、イスラエルは分裂し、イスラエル王国とユダ王国に分かれていました。彼らは神様の律法に背いて偶像礼拝に走りました。彼らがあまりに言うことを聞かないので、神は怒られ、彼らの国をバビロンとアッシリアに渡しました。あまりにも罪深いので敵を送り国を滅ぼしました。その時にエレミヤが預言者として立ちました。彼は神様からの言葉をはっきりと伝えました。「皆さん、悔い改めないとバビロンの町に連れて行かれます。この国は滅びます。」と叫びました。彼の言うことは「この国が滅びる」しかし、偽預言者は、「大丈夫。大丈夫。何をしても大丈夫」と言いました。しかし、彼は本当のことを語ったので皆から迫害され、苦しめられました。ある時には、泥の中に沈められたり、ひどく苦しみました。だから、彼には「神の言葉を語りたくない」という思いがありました。しかし、骨の中が燃えていて語らざるを得ない状況でした。どんなに迫害を受けても彼は伝道しました。なぜならば、彼は神様からの召命を受けていたからです。預言者として選ばれていたからです。「私は神によって選ばれたものだ。神によって私は預言者として立てられた。」という使命感の中に、神様からの語りかけを押さえることができませんでした。同時に彼は心から自分の国、ユダを愛していました。「皆さん。悔い改めてください。」と一生懸命に話しました。偽預言者は皆の機嫌をとり、「大丈夫」と語りましたが、結局彼が言った通り、民はバビロンに連れて行かれました。彼は真実な伝道をし、涙の預言者と言われました。いつも涙を流して自分の国のことを考え、真実を伝えました。
 私たちもこのような素晴らしい時代に、与えられている自由を感謝しましょう。日本国家にも感謝するべきです。それは信教の自由、表現の自由です。今は変わったとは思いますが、何年か前に台湾の教会でメッセージをすると、「先生、気をつけてくださいよ。警察が入っていますから・・・。」と言われました。外国に行ったらその国の悪口を言ってはいけません。また言う必要もありません。国によっては監視が厳しいです。しかし、日本は本当に自由です。ある意味日本は、天皇の悪口を言っても逮捕されることはありません。昔は、少しの悪口で逮捕されました。「不敬罪」で逮捕です。今私たちが自由に礼拝できることは主の恵みです。このような時に信仰を持ち、使命感をはっきりと持つべきです。人生の中で使命感をしっかりと持つ人は素晴らしい人生を送ることができます。私たちは、ただ生まれたついでに生きているのではなく、朝起きてご飯を食べて一日働くだけではなく、はっきりとした神様の使命感を持つことは、非常に大切なことです。エレミヤ書一章四節に、

『次のような主のことばが私にあった。「わたしは、あなたを胎内に形造る前から、あなたを知り、あなたが腹から出る前から、あなたを聖別し、あなたを国々への預言者と定めていた。」』

と書かれています。若いエレミヤに対して神様が言われました。

『そこで、私は言った。「ああ、神、主よ。ご覧のとおり、私はまだ若くて、どう語っていいかわかりません。」すると、主は私に仰せられた。「まだ、若い、と言うな。わたしがあなたを遣わすどんな所へでも行き、わたしがあなたに命じるすべての事を語れ。彼らの顔を恐れるな。わたしはあなたとともにいて、あなたを救い出すからだ。主の御告げ。」』

と書かれています。彼は若い時に神様から召されました。彼は若い時に神様から召されたという召命感がありました。私は神様から召されたのだと。今日、皆さんは召命感を持っていますか。ヨハネの十五章十六節に、

『あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。』

と書かれています。神様は私たちを選んでくださっています。時々考えると、どうして私のような人間が選ばれ今ここにあるのかと、不思議に思います。皆さんもそうだと思います。私の好きな言葉に、「神は反抗する民に、終日、愛の手を差し伸べていた」とあります。
 日本は反抗の連続です。フランシスコ・ザビエルが一生懸命伝道したけれど徳川時代にはキリスト教を弾圧しました。キリスト教徒を皆殺しにしようと反逆しました。明治時代になって少し開かれましたが、神道の台頭により神社を拝まない人は捕らえられ、天皇を拝めと強制しました。日本は反抗ばかりしていました。しかし戦争が終わってからは自由になりました。ある意味で先輩たちの犠牲によって自由があると思います。聖書には、「反抗する民に終日愛の手を差し伸べ」と書かれていますが、私も十九歳までイエス様の話を聞いたことがなく何の知識もなく、キリスト教と聞くと戦争中宣教師はスパイだ、キリスト教はスパイだと聞いていました。アメリカ人や宣教師は人の肝をとってしまうなどと、恐ろしいことを言っていました。終戦直後は私も無神論的な考えを持っていましたので、「宗教はアヘンだ。アメリカの占領政策」などと生意気なことを言っていました。こんな私が「お前の顔は牧師に似合いそうな顔をしている」と言われ、教会に行ってイエス様を信じ、今は救われていることはすごいことです。反抗しても神様は私たちに愛の手を差し伸べています。聖書は、「あなたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたを選んだ。」と皆さんを選ばれました。教会に来ている人は神によって選ばれています。
 エレミヤの場合は神様から「生まれる前から計画し、知っている、若い時から預言者だ」と記されています。
 私たちは時々選挙します。選挙の場合、この地方では何人当選すると決まっています。たとえば愛知県では三人当選と言います。しかし、イエス様の前には、「主の御名を呼ぶものは皆、救われる。」と書かれていますので、主の前には、十人が立候補したら、三人だけ当選という選び方はされません。十人がイエス様を信じたいと言ったら、十人が全員選ばれます。人は誰でも救われるのです。しかし信じない人は救われません。という意味で今日ここに来て、「私も罪人だ、イエス様を信じたい」と願う人は選ばれた人です。「選ばれた」ということはすごいことです。イエス様を信じるか信じないかで、永遠の命か永遠の滅びかが決まります。天国か地獄かが決まります。それでやがて復活し、神の御国の世継ぎになるのです。三十年、四十年・・・ではなく、永遠です。やがて来るべき永遠の世界において生きることができる、素晴らしい祝福を神が用意されています。信じるだけです。だからあなたは選ばれています。このことを確信するべきです。
 クリスチャンになって使命感を持つことが大切です。正直言って私はクリスチャンになって使命感を持っています。イエス様を信じ救われて一ヶ月で、「これだ。私が求めていた道はここにあった」と思いました。山の中から東京に勉強に行き、三年目にイエス様を信じました。それまではむなしくて朝起きて、ご飯を食べて働いて夜が来て、農業をしていましたので、なぜ草を刈るのか・・・と考えました。勉強してもいつかは死んでしまう。むなしい。命をかけて働く仕事はないだろうかと考えている時に、イエス様にお会いしました。その時、「ああ。私が探していた道はここにあった。私のために、命をかけて死んでくださったイエス様のために生涯を費やそう。」私がある意味において、イエス様のために人生を生きていく、即ち、神のみこころがはっきりとわかれば人生は幸せです。エレミヤはこの苦しみの中で何があったかというと、神が第一だったのです。苦しくて、「もうやめたい、話したくない。話したら迫害ばかりだ」と言いながら、火が燃えていて神様の言うことを語らなくてはならないとは、「神様のために生きる」という、彼には「使命感」がありました。あなたにとっても人生を幸せに生きる為にも、はっきりとした使命感を持つことです。どのような働きをしていても、人生に使命感を持つことは、非常に大切なことです。
 東京ミッションの前は目が回るほど忙しかったです。家にいる時間がないほど忙しい時を過ごしました。時々、「大変ですね。忙しいですね」と言われましたが、大変だとは思いませんでした。「一番好きな仕事のために働けるとは何と幸せだろう」と思いました。
 私は鉱山で三年程働きました。その時はとても苦痛でした。木馬を担いで山に行き、鉱石を一トン程積み込み、木馬で引き下ろしました。その繰り返しでした。夏は特に暑かったので、時々心臓が破裂しないだろうかと思いました。ある時は下敷きになって死にそうな時もありました。とても重労働でした。ある時家に帰ったら、家内は私の姿を見て泣いてしまいました。泣いて、「イエス様。早く主人をこの鉱山から出してください。」と祈ってくれました。泣いて祈って聖書を開くと、詩篇三十七篇に、「人の歩みは主によって定められる。主。その行く道を喜び給えばなり。」と書かれていました。私はとても驚きました。「人の歩みを主が定められ、主がその道を喜ばれる。」私は、涙を拭き、この鉱山で働いていることをイエス様が喜ばれるなら、「一生涯この鉱山で働け」とイエス様が言われたら、私は一生鉱山で働こうと思いました。その時、私に平安が来ました。次の日から同じ仕事でしたが、仕事が苦になりませんでした。仕事を嫌々やっている時は苦しいです。しかし、主の御心は喜びです。鉱山には女性が四人いましたが、そのうち三人がイエス様を信じました。男性も私を含めて三人いましたが、一人がイエス様を信じました。昼になると、いっしょに集まって賛美歌を歌い、本当に喜んでくれました。私は鉱山に入って良かったと思いました。しばらくして聖書を読むと、「あなたの肩から重荷を除き、あなたの手から手かごを除いた。」と書かれていました。これは詩篇八十篇に書かれています。
 私はいつも木馬を担いでいました。「あなたの肩から重荷を除く。」と言われました。また、「手かご」とは、石を入れるかごのようなものです。私の肩に重荷があり、手にはかごを持っているけれど、「それを除いてあげた」と言われたから、いつかそのような日が来るだろうと思っていました。その時私は祈りました。「イエス様。毎日イエス様のために伝道できたらうれしいです。」鉱山で一生懸命働き、日曜日には日曜学校に行き、清崎に行く時には疲れて、自転車を引きながら眠りそうになり、一度で良いからゆっくりと寝たいと思いました。ある時、「イエス様。私はイエス様のために一日中働けれたらうれしいです。」と祈った祈りを今は聞いてくださっています。ですから、私が今忙しくても、「あの時のことを考えると感謝だ。私にイエス様のことを伝えさせてくれる。こんな幸せはない。」と思います。時々、「トランクをもって重たいでしょう」と聞かれますが、石よりも軽いと思います。これは使命感です。「このために命を失っても構わない」という喜びがあります。イエス様のために生きることは最高です。私の使命です。同じ仕事をしても、神様のために生きる人と自分のために生きる人がいますが、皆さんも使命感を持つべきです。
 最近はあまり良いニュースがありませんが、最近の良いニュースは、宇宙に行ったグレンさんという七十七歳の人から、「地球を見て、神を信じないことは、私にとっては不可能なことです。」という宇宙からのメッセージがありました。最初に宇宙に飛び立った人はソビエトのガガーリンという人でした。彼は宇宙を見て、「神は見えなかった」と書きました。しかしグレンさんは、地球が空間にかけられているのを見て、「神を信じないことは私にとって不可能だ。」と言いました。彼は仕事の中に使命感を持っているのです。ですから私たちも使命感を持つべきです。パウロは、彼の人生の中でコリント第一の手紙九章十六節で、

『というのは、私が福音を宣べ伝えても、それは私の誇りにはなりません。そのことは、私がどうしても、しなければならないことだからです。もし、福音を宣べ伝えなかったら、私はわざわいに会います。』

と書かれています。使徒パウロは、苦しみを受けた人でした。第二コリント十一章二十三節から二十七節に、

『彼らはキリストのしもべですか。私は狂気したように言いますが、私は彼ら以上にそうなのです。私の労苦は彼らよりも多く、牢に入れられたことも多く、また、むち打たれたことは数えきれず、死に直面したこともしばしばでした。ユダヤ人から三十九のむちを受けたことが五度、むちで打たれたことが三度、石で打たれたことが一度、難船したことが三度あり、一昼夜、海上を漂った事もあります。幾度も旅をし、川の難、盗賊の難、同国民から受ける難、異邦人から受ける難、都市の難、荒野の難、海上の難、にせ兄弟の難に会い、労し苦しみ、たびたび眠られぬ夜を過ごし、飢え渇き、しばしば、食べ物もなく、寒さに凍え、裸でいたこともありました。』

と書かれています。彼はこんな苦しみを通りながらピリピ三章七節から八節に、

『しかし、私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。』

と書かれています。パウロはかつてはキリストに反対していましたが、キリストにお会いしました。「サウロ、サウロ、どうしてあなたはわたしを迫害するのか。トゲあるムチを蹴るのは難しい。トゲあるムチを蹴れば傷を負うだけだ。」と語られ、彼は驚き、「主よ。あなたは誰ですか。」とたずねると、「あなたが迫害するナザレのイエスだ」「主よ、何をすべきでしょうか。」「さあこれからダマスコに行きなさい。そうすれば、あなたのするべき仕事はそこにて告げ知らせる。」と言われました。彼は神からの使命を受けました。彼は最高教育を受けて素晴らしい働きをしていましたが、キリストに出会い、すべてのものを捨てました。それらのものは「ちりあくた」と書かれていますが、昔は糞土という言葉を使いました。牛の糞のようなものです。「今まで大切に思っていたこの世の名誉や地位、金、権力。キリストに出会い、これらのものが糞土と同じことだ。キリストを得たことは私にとって最高のことだ。」と言っています。イエス様を信じることほど最高なことはありません。今世界で迫害の中にイエス様を信じている三億の人は、素晴らしい救い主がわかったからです。平和の時に私たちはイエス様を信じていますが、私たちもこの平和の時にイエス様を知ったことを感謝しましょう。そして、どうしてもイエス様のために生きてください。神第一が祝福です。
 先週私は鈴木留蔵さんの祝賀会に行きました。その祝賀会は、三つの祝賀会でした。一つは、ダイヤモンド婚でした。ダイヤモンド婚は結婚六十年の祝いです。また、米寿の祝い・八十八歳です。また、本を出版したという三つの祝いでした。この会に招待されていきました。二百四十名ほどが集まりました。あの方は素晴らしい方です。事業家です。彼は、一九六二年にヨーロッパを視察した時に、土曜日の午後からはデパートが休み、どこに行っても日曜日は休みです。その時代、日本は盆か正月しか休みがありませんでした。留蔵さんのところも月に二回しか休みがありませんでした。彼は考えました。「ヨーロッパ先進国の人は一週間に二回休んでも生きている」と。それで彼は帰ってから、日曜日休みにしようということを同業者に言いました。すると、仲間は、「とんでもない食べていけない」と言いました。しかし彼は、自分のところは日曜日休みとしました。彼の人生で祝福されたことは、礼拝をしっかりと守ったこと、神第一にしたことです。「これが私が祝福されたことだ」と彼自身が語っていました。今日これから献金の時がありますが、彼は献金の十分の一は必ず神様のものだと言います。十分の一ですが、十分の二くらいしていたそうです。彼が山形県にいた時に、「わたしが高額納税者のトップになれるように」と祈ったそうです。神様がそうしてくださったそうです。十分の一でも十万円受けたときに一万円出せても、百万円収入があったら、十万円出すのはなかなかもったいないような気がします。一千万円毎月入ったら、百万円出すくらいだったらこれを事業に回した方が良いという誘惑が来ます。しかし彼は、絶対に十分の一は神様に献げました。「私の事業は主のためにやっています。」と語っていました。あの方を見ているとすごいです。オイルショックやドルショックなどでも影響がなかったそうです。ずっと世界の競争を見て、「今このときはこうするべきだ。今は不景気だけど必ず景気がくる。」と対処しています。神様がいつも助けてくださると思っています。あの方は武道館でも証されました。「天国に行って、地上に財産があっても天国には関係ないから、地上に帰って献げ直してきなさいと言われて帰って来た」と。あの方の本の中に「やっぱりそう言われてみると、やはり私も献げなくてはならないのに献げないところがある。聖書刊行会の聖書翻訳のために五千万円献金すると約束したことを、まだしていなかった。また、どこどこの団体に五千万円献金する予定がまだしていなかった。やっぱり神はそのために返してくださったのだ。」と書かれていました。五千万など途方もない金です。ミッションの時に「皆さん。私は毎日一万円ずつ献金しようと思いましたが、神は私におっしゃいました。毎日十万円ずつしなさいと言われますから今日は百万円の小切手を持ってきました。」と言われました。あの方は神のために捧げています。彼は神様のために生きています。世が中心ではありません。ですから、皆さんも日曜日に働いたら儲かるかも知れないではありません。礼拝は守ります。神様に従います。私の人生の使命は神のために生きるのだと決めるべきです。どんなに迫害されて殺されたとしても、神の国のために生きていくことこれが祝福です。一言お祈りします。

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