今週の礼拝メッセージ
町を攻め取るためには   1998.11.29(SUN)

新城教会牧師 滝元 順

<今週のメッセージの御言葉>
ヨシュア記6章1節〜5節
エリコは、イスラエル人の前に、城門を堅く閉ざして、だれひとり出入りする者がなかった。主はヨシュアに仰せられた。「見よ。わたしはエリコとその王、および勇士たちを、あなたの手に渡した。あなたがた戦士はすべて、町のまわりを回れ。町の周囲を一度回り、六日、そのようにせよ。七人の祭司たちが、七つの雄羊のの角笛を持って、箱の前に行き、七日目には、七度町を回り、祭司たちは角笛を吹き鳴らさなければならない。祭司たちが雄羊の角笛を長く吹き鳴らし、あなたがたがその角笛の音を聞いたなら、民はみな、大声でときの声をあげなければならない。町の城壁がくずれ落ちたなら、民はおのおのまっすぐ上って行かなければならない。

 ハレルヤ!今日皆さんとともに御言葉を学ぶことができ、心から感謝します。クリスマスが近づいたこの時、どのように福音を伝えて行くべきかについて学んでいきたいと思います。今朝のタイトル、「町を攻め取る」とは「霊的に魂を勝ち取る」という意味です。さて日本人は年間三度宗教が変わると言われます。十二月二十五日までは、皆クリスチャンのようになり、クリスマス一色になります。しかし、十二月二十六日になると今まで高価であったクリスマスケーキも急に値下がりし、今度は正月気分になり、皆、神道になります。そして八千万人以上の人々が神社に行くというおかしな行動をとります。また、八月を過ぎると、皆、仏教徒になり盆に参加します。三度も宗旨替えをし、「日本人は何を考えているかわからない、あれは無宗教ではないか」と世界から言われます。
 しかしそんな中、十二月は全国民がイエス・キリストに心を向ける機会でもあります。このような時期にあって、私たちは福音を伝える大きなチャンスを迎えています。新城教会でも多くのクリスマス集会が計画されていますが、そこで多くの方々が真の神、イエス・キリストを知るように祈りましょう。
 今日お読みした旧約聖書の箇所は、イスラエルに起こった歴史を記しています。旧約聖書は全般において、イスラエルの歴史を語っていますが、イスラエルの歴史だけを学んでも、私たちに日本人にとってあまり関係ない事かも知れません。しかし旧約聖書中に記されている、歴史的に起こってきた物語は、同時に、「霊的な世界を現実に現わす出来事」でもあるのです。ということは、歴史的に起こった出来事を通して、今の時代にあっては霊的な世界の情報を提供しているのです。
 今日読んでいただいた箇所は、イスラエルがカナンの地に入国し、最初の敵との遭遇を描いています。この戦いの中で神は不思議な方法をとってイスラエルに勝利を与えました。戦いとは、通常、敵と相対して武器を持って戦います。しかしこのエリコを攻め取るために、神はその町に攻め込んですぐに戦うというのではなく、まず黙って町を回るという方法を与えました。六日間に渡って、戦士と祭司たちが契約の箱と共に、角笛だけを吹き鳴らして町を回ったのです。こんなことで、町を勝ち取ることができるのだろうかとイスラエルの人たちは感じたかも知れません。しかし、神の言われる通り最後の日には七回その町を回り、ときの声を上げたときに城壁が崩れ去ったというのです。又、崩れさったばかりか、戦いにも勝利することができたのです。これは歴史的な事実です。
 来年二月に私たちはイスラエルツアーを行います。この教会からも多く行かれると良いと思うのですが、エリコに行くとヨシュア時代の城壁の発掘現場に行くことができます。神がエリコに介入されてイスラエルに勝利をもたらされた歴史を見ることができます。
 ヨシュア記六章を読むと、町の周りを回り城壁が崩されて勝利したように考えます。これを霊的な世界の適応として、私たちも同様に、住んでいる町を巡って祈ります。これは祈りという側面を現していることも事実です。しかし、このエリコの戦いをよく調べてみると、そのタイミングも神が備えられた「神の時」であったことが良くわかります。
 例えば、軍隊がその町を回り、最後に城壁が崩れたとしても、中で構えていたエリコの軍隊が、戦う気力十分で準備していたなら、壁が崩れた途端、彼らは町から攻め出てきて、イスラエルと戦ってイスラエルを打ちのめしたかも知れません。しかし神はこの戦いの為に町の人たちに準備を与えました。それは、ヨシュア記二章を見ると、イスラエルがエリコの町を偵察したとき、神は町の人たちの心の中を明らかにしました。二章八節からに、

『ふたりの人がまだ寝ないうちに、彼女は屋上の彼らのところに上って来て、その人たちに言った。「主がこの地をあなたがたに与えておられること、私たちはあなたがたのことで恐怖に襲われており、この地の住民もみな、あなたがたのことで震えおののいていることを、私は知っています。あなたがたがエジプトから出て来られたとき、主があなたがたの前で、葦の海の水をからされたこと、また、あなたがたがヨルダン川の向こう側にいたエモリ人のふたりの王シホンとオグにされたこと、彼らを聖絶したことを、私たちは聞いているからです。私たちは、それを聞いたとき、あなたがたのために、心がしなえて、もうだれにも、勇気がなくなってしまいました。あなたがたの神、主は、上は天、下は地において神で神であられるからです。』

 何とエリコの人たちは、イスラエルがカナンに入る前、すでにそのうわさを聞いていました。イスラエルがエジプトを脱出して荒野を巡り、難民のように放浪していたのではない、ということを彼らは聞いていました。イスラエルが当時付近を治めていた王たちを滅ぼしたことや、神の奇跡が伴っていたことなど、力強いイスラエルの姿について聞いていました。それでイスラエルの軍隊がエリコの町に向かっていると聞いたとき、すでに彼らの心がしなえて、「戦う気力がなくなっていた」というのです。
 「心がしなえた」とありますが、それは「心が溶けてしまった」という意味もあります。彼らの心の中に、すでに戦う気力がなくなっていた、そんなときにイスラエルが町を回りはじめたのです。そして、超自然的な方法で城壁が崩され、イスラエルはなんなくエリコに勝利することができたのです。彼らの心がくじかれてなかったら、城壁が崩れただけでは決して勝利はなかったと思います。
 このように見ると、町がどこにあるのかがわかります。私たちは今日新城市にいます。また、外国からも新城に来られた方がおられますが、皆さんの「町」はどこにあるのでしょうか。実は、町は物理的な場所ではなく、私たちの内側にあるということです。新城市はどこにあるかというと、この場所というよりも、新城市民の心の中にあるということです。東京出身の方もおられますが、東京出身の方はいくら新城に住んでいても東京が内側にあるということです。ということは、町を攻め取る為には、私たちの内側から始めるべきです。日本という国は、どこにありますか。この場所というよりも私たち日本人の内側にあるということです。外国から来られている方の国はどこにありますか。それは遠い海の彼方ではなく、あなたの心の中に「国」があるのです。ということは、個人の救いは、その町、地域、国とも関係があるのです。この理解は、これからのリバイバルの大きな方向性を示すものであると信じます。私たちの福音宣教が、ただ個人にとどまらず、町に国に世界に広げられて行く鍵が、内側にあるのです。
 人々の心がしなえたとき、既に神はエリコの戦いにおいて勝利を得ておられました。そして、城壁が崩れたときに、現実的にも町を攻め取ることができました。
 「心が溶けたとき」、それが町を攻め取るチャンスであるということです。私たちは今、クリスマスの時期に来ています。十二月はある意味で、日本人の内側が溶けるときです。それは今までの古い神道、仏教的な習慣が崩れ、イエス・キリストを意識する絶好の機会ということです。エリコの戦いが神の方法により、勝利がもたらされたのと同じように、この十二月、人々の内が溶けるときにこそ、福音を宣べ伝える絶好の機会なのです。十二月に和尚さんが托鉢にまわってもあまり効果がないと思います。十二月、多くのクリスマス集会が計画されていますが、ぜひこの機会、イエス様のことを宣べ伝え、教会に連れて来ることが大切だと思います。これらは内側にある地域に対する戦いです。
 同時に、エリコの戦い時に、彼らは黙って毎日町を回っていました。それは霊的には「祈りの方法」を教えています。今週はクリスマス集会のために、特別な祈祷プログラムを持っています。五日間連続祈祷会を行います。これは外側の町、地域に対してとりなし祈るときです。明日はスペシャル県民の祈祷会においてクリスマスの集会のために祈ります。また、十二月一日は家庭集会を中心として、その家の付近を巡って祈り、又、新城市の出入口を通る人々の祝福を祈ります。二日はクリスマス会が行われる場所に行って祈り、三日には、新城を取り囲む山の上から町のために祈ります。四日には、それぞれの行政区に出て行って、祝福を祈ります。これらの行動は、イスラエルの軍隊が毎日町の周りを回って祈ったのと同じだと思います。しかし、このようなことだけでは町は崩れないということです。同時に、私たちが「内側の地域」に対しても働きかけていくべきです。今日は午後に、ポスターを貼ったりと色々な準備がありますが、ポスターを貼ることはある意味で市民の内側の壁を崩すことになります。クリスマス集会のために、意識を向ける重要な働きです。内側と外側の領域をしっかりと見据え、ひとりでも多くの魂を勝ち取るために働かなくてはなりません。教会の存在目的は滅び行く魂が救われ、暗やみから光に、サタンの支配から神の支配に人々が勝ち取られることです。
 さて、イスラエルの人たちがエリコの町を毎日回ったのは、「とりなしの祈り」という意味も考えられますが、もう一つの意味があるように思います。それは、「イスラエルの軍隊がどれくらい強そうか」ということを「エリコの町の人たちに見せつける」という意味でした。毎朝、角笛の音が聞こえてくると、黙ってイスラエルの軍隊がエリコの町を回りました。エリコの人たちはその状況を城壁の上から見ていたことでしょう。「今日も回ってきた。すごい軍隊だ」と、見ることにより彼らの心が更にくじかれたのです。
 このことは、何を意味しているでしょうか。この教会は暗やみに合い対する神の軍隊です。私たちの戦いは血肉の戦いではなく、霊的な戦いであると教えています。
 先週ジョー先生が来られて開かれた御言葉の中にエペソ三章十、十一節がありました。

『これは、今、天にある支配と権威とに対して、教会を通して、神の豊かな知恵が示されるためであって、私たちの主キリスト・イエスにおいて実現された神の永遠のご計画に沿ったことです。』

 霊的権威は教会を通して現わされます。教会は軍隊です。イスラエルがエリコの町を回り、軍隊の規模を町の人たちに見せつけたのと同じように、教会はその地域や国にもたらされている暗やみの支配、権威に対して存在をアピールするべきです。
 私たちの教会が暗やみの支配者から見て、「あれは恐ろしい軍隊だ。あの軍隊が来たらどうすることもできない。」と言われるような存在かどうかです。私たちが町に対してとりなし祈る時、教会自体の存在が暗やみの支配や権威に対して何ら恐れに足らない存在であったら、町を攻め取ることはできません。私たちが教会として、暗やみの支配、権威に対して、しっかりとした神の権威を示す存在になるべきです。リバイバルの中で「教会」が形成されることが大切な要素です。
 さて、「リバイバル」ということばは、ヘブル語で「ハイ」という言葉です。いのち、回復、リバイバルというような意味があります。しかしこの言葉の中に、おもしろい意味が含まれています。それは「共同体」という意味です。リバイバルと共同体とに何の関連があるのかと思います。しかし、リバイバルのために、必要不可欠なのは、「共同体」、即ち、「キリストのからだ」の役割がしっかり組立てられる必要性を示しています。
 先週はアメリカからジョー先生ご一行が来られました。特に新城教会にて、「霊的戦い」について、へりくだって学ぶために来てくださいました。それで私達は、彼らのために三日間ほどセミナーを行いました。そのような中で、日本人が受け取るアプローチと、西洋人の受け取るアプローチが違い、私たちが投げかけるアプローチでは、彼らにとって霊的戦いについての理解が難しい部分がありました。それは「共同体」という理解が、なかなか日本人と同じようにいかないということでした。先週、ジョー先生が、「日本は共同体について学ぶことが容易な国だ」と言われました。日本は一つのグループ、横のつながりを重んじる国です。田舎に住んでいたら、「何しろお隣さんと違うことをしてはいけない、同じことをしなくてはならない」という考えが日本人の中にはあります。このような意識は、ある意味では神がその国に与えた特色であり、賜物だと思います。神は日本に「共同体」という素晴らしい一つの賜物を与えていると思います。しかし、悪魔もそのことをよく知っており、その賜物を横取りしたようです。第二次世界大戦の時には、国という共同体挙げてアジヤの諸国を侵略する、恐ろしい働きにまで発展しました。
 その反面、西洋の国々では、一般に共同体意識が低く感じられ、個人的な側面が強いのです。アメリカは西部の開拓時に、そのような文化が生まれたかとは思いますが、個人的な考え方が強いのです。そのような中では、「共同体に結び合わされて一つになる」という概念を受け取るのに難しい面があります。しかし、私はその中で、両者に神が素晴らしい賜物を与えておられる事に気づかされました。
 私たち日本人は共同体的意識は強いのですが、反面、「個人を尊ぶ」意識には欠けます。日本の多くの若者がアメリカに行きます。そしてアメリカの自由さにほれ込みます。それは個人主義を個人が尊ばれるというよりも、自分勝手に生きることのように勘違いするのです。聖書の中に、「私たちは各器官である」とありますが、「器官が尊ばれる」のが欧米の文化であり、個人主義の基本だと思います。教会を形成するには両者の賜物の一致が大切だと思いました。個人主義的な中で、個々の器官を尊び認めると同時に、それが共同体として結び合わされる時に、敵の前に揺るぐことがない強い軍隊が形成されると信じます。
 今日ここにおられる方々の中に、不必要な人はひとりもいないのです。時々少し弱く見える人たちを卑下してしまったり、そのような人たちを排除してしまうことがあると思います。特に日本人は、進化論の中に育っていますので、自然淘汰により強い者が生き残り、弱い者は滅びていくというような考え方が根底にあります。それで弱い者を価値のない存在に捕らえがちです。しかし私たちは各器官にあって、全員がなくてはならない存在です。私たちが敵に対して権威を主張するためには、お互いに互いを尊重し合わなくてはなりません。また共同体としてキリストのからだに結び合わされ、ひとつからだを形成し、各器官が結び合わされていくところにも目を向けて行くべきです。
 今日ここにおられる一人一人は、神様が与えられた各器官です。そして、聖書は比較的弱いと見られる器官が、かえってなくてはならないと教えています。今日弱く見えるような器官ほど、キリストのからだの中でまた、神の軍隊の中で尊いものです。今日弱さを感じている方がおられたら、その弱さは神の軍隊中では強いものであるということです。福音宣教は共同体として強くなければ勝利を得ることができないのです。
 最後に教会の中で、また霊的な戦いの中で大切なことについて考えます。教会というところは共同体であると話しましたが、教会について聖書は、エペソ人への手紙五章二十二節から、夫と妻という夫婦関係の中で説明しています。二十五節から、

『夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、あなたがたも自分の妻を愛しなさい。キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会をご自身の前に立たせるためです。このように、夫も自分の妻を自分のからだのように愛さなけらばなりません。自分の妻を愛する者は自分を愛しているのです。』

と書かれています。また三十節には、

『私たちはキリストのからだの部分だからです。』

と書かれています。ここでイエスキリストと私たちの関係を夫婦の関係として教えています。教会の強さのバロメーターとして、私たちが考えても見なかった中に鍵があります。敵の前に権威を主張する為に、徹夜で祈ったり、真剣に伝道したりと、そのような事柄を全力で実行するならば強い教会として悪魔は認めるのでしょうか。暗やみの勢力が、「恐ろしい軍隊だ」と恐れるのでしょうか。もちろん、そのような側面もありますが、ここではもっと深い真理を教えています。三十節に、

『私たちはキリストのからだの部分だからです。「それゆえ、人はその父と母を離れ、妻と結ばれ、ふたりは一心同体となる。」この奥義は偉大です。私は、キリストと教会とをさして言っているのです。それはそうとして、あなたがたもおのおの自分の妻を自分と同様に愛しなさい。妻もまた自分の夫を敬いなさい。』

 教会とイエス様との関係は一つであり、教会はキリストのからだの部分であると教えています。これは霊的な世界でのことです。霊的な世界で教会はイエス様にあってからだの一部であり、一体である教えています。教会として、目に見えない天の霊的法則が、現実の世界に現されているのはただ一ヶ所、それは「夫婦関係」です。

『「それゆえ、人はその父と母を離れ、妻と結ばれ、ふたりは一心同体となる。」

これは、よく結婚式の時に読まれる御言葉ですが 、結婚は一心同体になる契約だと教えています。神の目から見ると、結婚したら二人ではなく一人です。結婚とは二つを一つにする契約なのです。しかし同時にそれは、教会の奥義であり、教会が夫婦関係の中に現わされているというのです。ということは、「夫婦の一致を除いて教会の一致を見ることはできない」と云えます。ある人は、「どういうわけか結婚してしまった」と簡単に考えているかも知れませんが、この奥義は偉大で、キリストと教会とを指しているのです。
 夫婦が愛し合って一致することは教会を強くし、敵の前に権威を主張する重要な共同体としての要素なのです。夫婦の一致は教会の一致につながり、同時に、この契約はイエス様と教会の契約が地上に現されているモデルです。ゆえに、地上において夫婦の絆を強くするときに、霊的な世界においてもイエス様と教会との絆が強くなるのです。
 今日はクリスチャン夫妻として教会に来られている方が多くおられますが、もし夫婦間に問題があり一致ができないならば、敵の物笑いになってしまいます。今日もう一度私たちの夫婦関係について考えましょう。
 社会には多くの問題があります。しかし多くの問題の根源は家庭から発生しています。夫婦が一つになっていないがゆえに、その傷が子どもにコピーされ、社会に国に広がっていきます。夫婦が一つになることは子どもたちの祝福にもなります。まだ結婚されていない方も将来のために、夫婦は神の前に教会の奥義を現す、「重要な鍵」であることを知っていただきたいと思います。
 今日は、特に「夫婦の一致」のために祈りたいと思います。もし問題があったらその問題が打ち砕かれますように。問題が解決するときに教会が強くされます。これは町を攻め取るための重要な鍵です。もう一度考えてみてください。「夫婦の一致が教会を強め、暗やみの世界に権威を主張し、町を攻め取る鍵となる」のです。
 今日、主の前に出て正しい関係にされたいと思います。一致が少し崩れていたならば、一つにしていただきましょう。また、ご主人が救われていない、奥さんが救われていない方がおられたら、そのために真剣に祈ってください。まだ救われていないとしても、片方が救われていることにより、すでに聖められていると聖書は教えていますので、救いを信じ祈り続けてください。一言お祈りします。

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