今週の礼拝メッセージ
回復の時   1998.12.13(SUN)

新城教会牧師 滝元 明

<今週のメッセージの御言葉>
新約聖書 使徒の働き3章1節〜10節
ペテロとヨハネは午後三時の祈りの時間に宮に上って行った。すると、生まれつき足のきかない男が運ばれて来た。この男は、宮にはいる人たちから施しを求めるために、毎日「美しの門」という名の宮の門に置いてもらっていた。彼は、ペテロとヨハネが宮にはいろうとするのを見て、施しを求めた。ペテロは、ヨハネとともに、その男を見つめて、「私たちを見なさい。」と言った。男は何かもらえると思って、ふたりに目を注いだ。すると、ペテロは、「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい。」と言って、彼の右手を取って立たせた。するとたちまち、彼の足とくるぶしが強くなり、おどり上がってまっすぐに立ち、歩きだした。そして歩いたり、はねたりしながら、神を賛美しつつ、ふたりといっしょに宮にはいって行った。人々はみな、彼が歩きながら、神を賛美しているのを見た。そして、これが、施しを求めるために宮の「美しの門」にすわっていた男だとわかると、この人の身に起こったことに驚き、あきれた。
使徒の働き3章20節
それは、主の御前から回復の時が来て、あなたがたのためにメシヤと定められたイエスを、主が遣わしてくださるためなのです。しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。

 ハレルヤ!長い間私のためにお祈りくださり、無事に帰ってくることができて心から感謝します。和歌山県から北海道に行き、北海道で長く奉仕させていただきました。北海道はとても寒く、朝は氷点下十七度という気温の時がありました。
 さて今朝は、使徒の働き三章二十節から「回復の時」というタイトルで学びます。文語体の聖書は、「回復の時」という言葉を「慰めの時」と訳しています。また新共同訳聖書では、「こうして主のもとから慰めの時が訪れ、主はあなたがたのために前もって決めておられたメシヤであるイエスを遣わしてくださるためなのです。」と訳されています。新改訳聖書では「回復の時」、そして文語体、新共同訳聖書では、「慰めの時」と訳されています。
 今日本で求められているのは、景気の回復です。また銀行の信用が落ちていますので信用の回復、また、信頼関係の回復など、色々な回復が必要です。しかし、聖書では神様から回復の時が来ると語っています。

『それは、主の御前から回復の時が来て、あなたがたのためにメシヤと定められたイエスを、主が遣わしてくださるためなのです。しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。』

 「回復の時」という聖書の言葉は、救い主・イエス様が来られたということです。聖書に、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも、あなたの家族も救われます。」と書かれていることは、崩壊しつつある家庭がイエス様を信じれば回復される、また、イエス様を信じたら、病気で健康を害している人も回復される、経済的に破綻していてもイエス様のところに来たら回復されるということです。イエス様が来てくださったことが、即ち、回復なのです。
 この度、東北から北海道にかけて一月五日から八日まで開かれる北海道リバイバル聖会の為の決起大会をしました。色々なところを回って嬉しかったことは東京リバイバルミッションに来られた方々がとても喜んで歓迎してくださったことでした。私が苫小牧のある教会で交わっていた時に、「先生。私は娘と一緒に東京リバイバルミッションに行きましたよ。最後の日の招きの時に、娘が招きに応じて出ていきました。娘は骨盤が悪くまた、背骨が曲がっていましたが、何とかして祝福を頂きたいと思って前に出て行きました。そして祈り終わって席に戻ると、『お母さん。直った。』と瞬間的に骨盤が癒されました。」と言いました。また、家に帰って娘が背中をかいてと言うのでかくと、背骨が真っ直ぐになっていたそうです。この人は健康が回復しました。
 旭川の教会で決起集会した時に一人の奥さんが、「先生ありがとうございました。」と言って私のところに来ました。彼女は東京リバイバルミッションの時にガンが癒されたのです。乳ガンから肺に転移していたそうですが、医者に行ったらガンが完全になくなっていたそうです。とても喜んでいました。これは、神の訪れによるものです。イエス様は、この地に神と人間との関係を回復するために来られました。最初の人間アダムとエバが罪を犯したことにより、神と人間の間に罪という壁できました。聖書によると、「ひとりの人によって罪がこの世に入り、ひとりの人によってすべての人に死が入った」と書かれていますが、ひとりの人が罪を犯したために人間はサタンの支配に入れられ、のろいを受けました。その結果、病気や争い、そして死がのろいとして人間に入りました。しかし、救い主が来たことにより、病気、悪霊の力、のろいから回復されるようになりました。
 新約聖書にはイエス様が成された素晴らしい奇蹟がたくさん書かれています。イエス様によって痛みが癒され、悪霊から解放され、中風の人が癒されています。足なえが癒されたのは、「主の御前から回復の時が来た」ということです。らい病人がイエス様のところに来て、「イエス様、御心でしたら私をきよめることができるのですが。」と言った時に、イエス様が手を伸ばされ、「わたしの心だ聖くなれ。」と言ってきよめられたことが書かれています。病が癒されたことは、神様からの回復、慰め、神の愛の手が人間に伸ばされたという証拠です。これは病気が癒されたことが中心ではなく、それよりも「回復の時が来た」ということです。
 人間には目で見えない部分がたくさんあります。中風の人が四人の人に連れて来られて癒されたことが書かれています。その時、イエス様は、「子よ。しっかりしなさい。あなたの罪は赦された。」と宣言されました。その時律法学者たちは、「罪を赦すことができるのは神にしかできない」と言いました。その時イエス様は、「罪を赦すことと病を癒すことと、どちらが優しいか。床を取って立ち上がって家に帰りなさい。」と言われました。そうしたら癒され、立ち上がりました。罪が赦されることは、目に見えません。しかし、赦されたことが癒されたことに現わされるのです。回復の時が来たことは現実的に見えませんが、癒されたことにより、回復の時が来たということです。
 ヨハネの福音書九章に生まれつきの盲人が癒されたことが書かれています。弟子たちがイエス様に、「先生。この人が生まれつき目が見えないことはどういうことですか。親の罪ですか。本人の罪ですか。」と尋ねました。するとイエス様は本人の罪でもなく、両親の罪でもない、神の栄光が現れるためだ。」と言われ、つばきを地面にはき、泥を作って目に塗り、「シロアムの池に行って洗いなさい。」と言われて洗うと癒されました。また、使徒の働き三章の生まれつき足なえの人が毎日美しの門に運ばれ、そこで座ってほどこしを求めていた話もあります。そこにペテロとヨハネが来て「金銀はない、私にあるものをあなたにあげよう。」と言って彼を立たせたことが書かれています。今は社会福祉が整い保障がありますが、この時代に福祉はなく、障害を持った人たちはひどい扱いを受けていました。
 第二サムエル記五章に、ダビデがシオンを攻めた時、町の人がエルサレムに来て、「あなたはこの町に来ることができない。めしいや足なえでさえ、あなたを追い出せる。」と言いました。しかし、ダビデはそこを占領しました。そして、「ダビデが憎んでいるめしいと足なえを打て。」そして、「めしいや足なえは宮の中に入ってはならない」と言いました。めしいや足なえが宮の中に入ることはできない、というのはのろいです。
 聖書において、らい病人がきよめられた箇所を見ると素晴らしいことだと思いますが、当時、らい病はのろいでした。らい病になったら隔離され、人前に出るときには、「汚れた者です。触れないでください。」と叫び、足なえたちも宮の前に座り、「だんなさんお願いします。」と門の外にいました。中には入れませんでした。しかし、イエス様が来られたときには、親の罪でもその人の罪でもないと言われ、足を癒されました。そして、「ナザレのイエスによって歩きなさい。」と言ってのろいから解放しました。イエス様が来られたことは、悪霊の力、のろいから解き放つための証明でした。ですから、イエス様が来られたということは、「回復の時、慰めの時が来た」ということです。特にアダムとエバにあって、私たちと神の間にできた一つの敵意、罪がイエス様の十字架によって排除されたということです。罪のないお方がこの地上に来てくださり、最終的には、人類の罪をイエス様が全部背負い、罪のないお方が神の怒りを受けてくださいました。
 神様は罪に対しては厳しいお方です。何もなしに罪を赦すことはできません。その罪の怒りを、神の御子が身代わりとなった故に、人間に向けられるのではなくなりました。神のひとり子であるイエス様が十字架につき、いばらの冠をかぶらされのろいを受け、苦しみを受けて下さったのです。そして死んで三日目によみがえり、救いを完成してくださいました。これは素晴らしいことです。
 イエス様がこの地上に来られたときになさった奇蹟は、らい病や中風を癒されたことが多いです。癒されたことは、神のかえりみの時です。そして天から聖霊が降った後、最初に現れた奇蹟は、足なえが癒されると言うことでした。ということは、イエス様が来られたことも回復の時であり、又、イエス様が帰られた後も聖霊の時代は回復の時代であり、今も素晴らしい回復の時であるということです。
 ですから、よく調べてみるとリバイバルのあるところには、すごい奇蹟があります。最近、アナコンディア先生が書いた「サタンよ、よく聞け。」という本を読むと、すごい奇蹟がたくさん書かれていました。精神薄弱の子どもがアナコンディア先生の出ているテレビを見ているだけで、バリバリと音を立てて顔形も変わり癒されたことが書かれています。不思議なことがたくさん書かれています。先生の働きの中で悪霊が出て行き、人々が解放されます。リバイバルの時は回復です。主の訪れの時です。
 先日盛岡の教会に行きました。その時幾つかの教会が一緒になって集会をしましたが、会場となった教会の牧師先生の奥さんが、「先生。今この教会はすごく燃えています。」と言われました。誰が燃えているかと聞くと、高校生や中学生が燃えて、東京ミッション後夢中になって伝道していると言われました。ある高校生が東京リバイバルミッションに出席して、聖歌隊に入ったそうです。聖歌隊は華々しく見えますが、そこには神の聖霊が強く臨まれていました。聖歌隊に入っている人達が、あまりにも強い臨在に触れられ、立っていることがでず、多くの人たちが解放に導かれました。その高校生も解放の部屋に行き、祈りを受けたそうです。その時にその子と共に、ある方が涙を流して一緒に祈ってくれたそうです。その後、その高校生はリバイバルされたそうです。帰ってから益々燃やされているそうです。回復の時が来たのです。
 盛岡の教会で午前中に幼稚園の子どもたちのために集会をし、「祈ってください」と言われました。その教会には、二百坪ほどの大きな幼稚園があります。前に行ったときは小さな幼稚園がありましたが、今度はきれいな幼稚園ができていました。また教会もきれいになっていました。先生ご夫妻は興奮し、「私たちがもしもリバイバルミッションと関係しなかったら、今、この教会はありません。」と言われました。私はとても嬉しかったです。
 私は甲子園ミッションの前に決起大会をしました。その時に、「皆さんの中で甲子園に来たい人は手を挙げてください。」と言いました。その奥さんは子どもが多いので、お金がないからいけないと思ったそうですが、その時私は、「金がないとか時間がないとか考えないで、行きたいという気持ちがある方は手を挙げてください。」と言いました。そして彼女はお金がないけれど行きたいと思い、手を挙げたそうです。それから数日経ってから、不思議と甲子園に行くお金が全部与えられ、来たそうです。そこで夫婦はとても恵まれましたが、中学生の女の子を一緒に連れて行ったけれど集会中にお菓子を食べたり、よそ見をして遊んでいたそうです。「この子をせっかく連れて来たのに・・・恵まれていない」と思ったけれど、最後の招きの時に彼女が十字架のステージ上に出て行ったそうです。それから、全くひっくり返ったようなことが起こったというのです。主の臨在に触れられました。それから教会の中高生がイエス様に夢中になったそうです。それまでは教会の礼拝が二十人だったけど、今は六十人以上になり、教会が建ち幼稚園が建ったと言いました。あの時がなかったら教会もなかったと言われます。主の訪れの時です。今日本にポツリポツリですが、素晴らしい奇跡が起こされていますが、やがて大雨が降ります。今、素晴らしい奇蹟が始まっていることはかえりみの時、慰めの時が来ているのです。しかし、基本はイエス様です。罪のない神の御子が犠牲となって十字架上で神の前に血潮をささげられました。羊の血でもなく、雄牛でもなく、神様の子ご自身の血を父なる神様の前にささげました。御子が犠牲になって死んでくださったことにより、父なる神様が人間に対する怒りを静められました。「自分の子が人類の身代わりになって死んだ。では息子の故に人類の罪を赦してあげよう。」イエス様の十字架の贖いによって、私たちは赦されます。今日皆さんの罪は赦されていますか。
 先日東京リバイバルミッションで有賀先生がメッセージされた中に、「皆さんイエス様を信じたら罪が赦されます。子よ。しっかりしなさい。あなたの罪は赦されました、という言葉は法律用語です。」と話されました。法律用語は、裁判官が最後に、「あなたは無罪です。」「あなたは懲役何年」と判決を下すことです。「あなたは今まで色々なことがありましたが、あなたは無罪であると宣言します。」
 今日、私たちに回復の時が来たと言うことは、イエス様が来られたことによって、「あなたの罪はイエス様のよって赦されました。」と宣言されているのです。信じた人は赦されているのです。「嬉しい、赦された」と思っているけれど、二、三日経ったら、また喜びがなくなり、裁判官のところに行き、「裁判官、先日私のことを何と言われましたか。赦されたと言われましたが本当ですか。」と言ったら、どうでしょうか。そして、一ヶ月経ってから、「また本当に赦されて良いのだろうか」と思い、また裁判官のところに行き、「先日、赦されたと宣言されたけれど、あれは本当ですか。」と言います。「一度判決で無罪と宣言されたら無罪です。」
 今日聖書の中には、ローマ人への手紙五章八節から十一節に、

『しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのことです。そればかりでなく、私たちのために今や和解を成り立たせてくださった私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を大いに喜んでいるのです。』

と書かれています。罪人であった私のために、イエス様が死んでくださった。イエス様が私たちのために血を流され、神の怒りを受けてくださったことによって、私は神の前に義と認められました。「回復」とは、罪が赦されて罪人が神様のものになったということです。神様の子となることができた。他の言葉で言うならば、キリストの血によってあがなわれたという言葉が使われています。あがなわれたということは買い戻されたということです。悪魔の手にあったけれど血潮という代価を払い、悪魔の手から買い戻して「わたしのものになった」ということです。今日私たちは神のものです。神のものであれば、私たちは確信を持って「罪が赦された神の子」です。神様は私たちを憐れんでくだり、慰めてくださいます。回復の時が来たのです。だから、信仰を持ちましょう。
 使徒の働きで始めに足なえが癒されたこと、イエス様がおられる時だけ奇跡が起こったということではありません。今も有効です。回復の時、慰めの時が来ました。すなわち慰め主、聖霊が今も生きておられますので同じように奇蹟を現してくださることができます。この教会の中に大きな奇蹟を期待しましょう。私はこの聖書を読みながら考えました。これは「アブラハムに約束した約束が成就するためだ」と書かれています。
 私が東京からこちらに出てくる前に私を導いた穐近先生の奥さんに、「伝道に行きたい。最初に海老に行きたい。」と話した時に、「あら。良かったですね。行かれたら良いでしょう。」と言われました。しかし、良かったも何もありません。仕事も職もないのです。先生は誤解し、家も仕事も、友だちもあるから私が出て行くのだと思い違いをしていました。その言葉で私の人生は変わりました。「そうだ、仕事もあり家もあり、出て行くのは誰にでもできる。しかし、聖書の中にはアブラハムは出て行けと言われたときに、行くところを知らずして祝福を受けた。」そのことを考えたときに、アブラハムの神は私の神、アブラハム、イサク、ヤコブの神、もう一つは「明の神」、私の神、「アブラハムにできたことは私にもできないことはないから出て行こう」と思い、トランク一つを持って開拓伝道に出ました。あれから今日まで祝福してくださいました。
 今朝も私はイエス様が私のことをどう見ているだろうかと考えました。イエス様が私を愛してくれていると思いました。「明。お前は頭が良いから・・・」というのではなく、「こいつは一本気で本気になって信じているので愛しているよ。」と言ってくれたと思います。まともに聖書の言葉を信じ込んで行動したから、イエス様が喜んでくださったと思います。もしあの一歩がなかったら、今日もないと思います。しかし、あの時に信仰によって祝福されたと思うと、今日は主の回復の時が来たという言葉を同じ信仰をもって、受け取らなくてはいけないと思います。ペテロとヨハネが足なえの人を見て、「私を見なさい。」と言ったときに、「金銀は私にはない。ナザレのイエスによって立て。」と彼を立たせました。立たせたのは、彼らの信仰の深さではなく、力でもない。そこにあったのはイエス様だけです。この教会も誰というのではなく、イエス様がおられるとしたら、イエス様を信仰によって本気で信じるべきです。そうしたら、回復の時が成されます。
 ここにも偉大なる奇蹟が見える日が来ます。今日足の悪い人もいます。その人も癒されます。耳の聞こえない人も癒されます。奇蹟が必ず神様によって起こるということを信じたいと思います。必ず癒されます。ペテロにできたら私にもできないことはない。なぜならば、同じ神様だからです。ペテロの神は私の神、ヨハネの神は私の神。よみがえられたイエス様はすべての主です。今日ここにおられるすべての方にイエス様がおられますので、信仰を持って今からここに回復の時が来て、偉大なる神の恵みと奇跡が起こるように期待していきましょう。期待しますか。「アーメン」信じましょう。イエス様がおられます。回復の時、慰め主はイエス様です。
 ユダヤ人は救い主が来ると真剣に待っていました。そしてついにメシヤはイエス様でした。そして回復の時が来ました。私たちは今、既にイエス様を持っていますので、イエス様によって素晴らしい回復が成されることを信じましょう。今日信じたら奇跡が起こされます。あなたが信じるとおりになるようにと書かれていますので、これから信仰を持って祈ります。私たちの信仰の深さではありません。イエス様が問題ですので病人のために祈りますので、病気の方は信じてください。一言お祈りします。

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