今週の礼拝メッセージ
主に仕える者に与えられる祝福   1998.12.27(SUN)

新城教会牧師 滝元 順

<今週のメッセージの御言葉>
ヨハネの福音書2章1節〜11節
それから三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、そこにイエスの母がいた。イエスも、また弟子たちも、その婚礼に招かれた。ぶどう酒がなくなったとき、母がイエスに向かって「ぶどう酒がありません。」と言った。すると、イエスは母に言われた。「あなたはわたしと何の関係があるのでしょう。女の方。わたしの時はまだ来ていません。」母は手伝いの人たちに言った。「あの方が言われることを、何でもしてあげてください。」さて、そこには、ユダヤ人のきよめのしきたりによって、それぞれ八十リットルから百二十リットル入りの石の水がめが六つ置いてあった。イエスは彼らに言われた。「水がめに水を満たしなさい。」彼らは水がめを縁までいっぱいにした。イエスは彼らに言われた。「さあ、今くみなさい。そして宴会の世話役のところに持って行きなさい。」彼らは持って行った。宴会の世話役はぶどう酒になったその水を味わってみた。それがどこから来たのか、知らなかったので、・・しかし、水をくんだ手伝いの者たちは知っていた。・・彼は、花婿を呼んで、言った。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、人々が十分飲んだころになると、悪いのを出すものだが、あなたは良いぶどう酒をよくも今まで取っておきました。」イエスはこのことを最初のしるしとしてガリラヤのカナで行ない、ご自分の栄光を現わされた。それで、弟子たちはイエスを信じた。

 ハレルヤ!今年一年間大変忙しかったですが、主が支えてくださり、今日を迎えることができ、心から感謝します。本日、メッセージを語らせていただく為に主の前に出てお祈りしました。もしもイエス様が今年最後の礼拝に新城教会に来てメッセージして下さるとしたら、何を語ってくださるだろうかと考え、「主よあなたがここに来られたら何を語られますか。教えてください」と祈っていました。それで感じたことは、「皆さん。今年はわたしのためによく仕えてくれました。ありがとう。」と言われのではないかと。「わたしの代わりに、あなたが皆に礼を言ってくれないか」と語られたような気がして、嬉しく思いました。今年は大きな犠牲を払って、東京リバイバルミッションを始めとして、影に日向に支えてくださったことを、心から皆様に感謝します。主も又、「良くやった忠実なしもべ達よ」と語ってくださっていると信じます。しかし、私達はこれに満足せず、更に主のために働いていきたいと願います。
 何年か前にインドネシアに行ったことがあります。スラバヤという街に行きました。ある人が私たちを大きなお屋敷に連れて行ってくださいました。何とも大きなお屋敷で、旗が立っていました。ここは博物館かと思いました。すると荷物を降ろすように言われ、何とそこが私たちの泊まるところでした。博物館でもなければホテルでもなく、一人の中国人華僑が持っているお屋敷でした。そこには召使いだけで十数人、車も八台ありました。とてもすごいお屋敷でした。何と朝御飯から専属シェフが中国料理、何でも好きなもの作って食べさせてくれました。何か欲しいものを注文すればすぐに届きます。バナナが食べたいというと、大きなバナナの束が届きました。本当のお金持ちでした。そこには三人の娘がおりました。長女は五才くらいでした。三人とも一日三回お召し替えし、それもお揃いの服で出てくるのです。これには驚きました。私は三歳の女の子の部屋に泊めてもらいました。子ども部屋と言っても大理石の部屋で、すべての家具がピンクで統一され、ベットはキングサイズのピンクのダブルベットでした。そこに約一週間、アーサー・ホーランド師と一緒に泊まりました。この屋敷のご主人は偉い方だと皆から見られていました。
 私たちも何とかそのような生活に近づこうとし、また偉くなりたいという気持ちを持って働きます。しかしそれは、聖書の中の「偉い人」とは概念が異なります。
 弟子たちはイエス様と共に歩んでいるならば、きっといつか偉くなれると信じていた事でしょう。イエス様の行かれる所は、どこにおいても奇蹟が伴いました。五つのパンと二匹の魚で五千人を養い、病人は癒され、悪霊は出て行くのです。「いつか必ずこの人は王様になるから、我々もいずれ偉くなれる」と考えていたと思います。そんな野心を持ちつつ弟子たちはイエス様につき従っていた事でしょう。「網を捨ててイエス様について行った」と、かっこよく書かれていますが、彼らにはいろいろ野心があったと思います。その証拠に、イエス様がエルサレムに上る途中、彼らが話し合っていた事柄の記録を見ると分かります。イエス様はエルサレムに十字架にかかるために上って行きましたが、弟子達はイエス様はエルサレムで王様になると勘違いしたのです。その時、イエス様はすごい気迫でした。なぜならば、十字架につく為にエルサレムに上る途中だったからです。しかし弟子達は全く勘違いし、何とヤコブとヨハネはお母さんまで連れてきてコネを遣い、「イエス様あなたが王様になったら、私の息子達を右大臣、左大臣にしてくださいませんか。」と頼みました。そのような弟子たちの心をイエス様は知り、弟子たちを集めて、

『そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、言われた。「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者たちは彼らを支配し、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。あなたがたの間では、そうではありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。』

と言われました。「世の中の権力者は人の上に立って権力を振るうものだ。しかし、あなたがたの中で偉くなりたいと思うならば、皆に仕えなさい。」と言われました。
 神の国の価値観は、この世の価値観とは全く逆の側面を持っています。私達は、少しでも多くの人を使って上に立って権力を振るうことが最高の幸せだと考えますが、イエス様はそのように言われませんでした。一番偉い人はどのような者なのか、それは人のために仕える人が偉い人であり、あなたがたもそのようになりなさい、とイエス様は言われました。「偉くなりたいと思ったら、人に仕える者になりなさい」と言われました。完全に、この世の中の価値観とは反対のことをイエス様は語られました。この世の中で、「高い」と思われるものは「低い」もので、「低い」と見えるものが本当は「高い」ものだと言われました。聖書の価値観の中での大切なのは、王様よりも仕える人であるということです。
 今年皆さんが主に仕えられたことは、尊いことであり、偉大なことであるのです。
 ヨハネによる福音書二章一節から十一節は、水がぶどう酒に変えられた有名な奇跡の箇所です。この中で一番重要な出来事は、もちろんイエス様が最初の奇蹟をカナで行われたということです。しかし、考えてみれば、イエス様はもともと不思議なお方です。「不思議な助言者」と先週学びましたが、イエス様が不思議な奇跡を行ったとしても、決して不思議なことではありません。教会の中で不思議なわざが起こされて、私たちは時々驚きます。「そんな病が癒されたの。すごいね。」と言います。しかし本当は不思議なことではありません。不思議なお方が教会の中におられるのなら、不思議なことが起こっても当然です。不思議なことが起こらない方が不思議なことです。ということは、イエス様の奇蹟をすごいと思いますが、これはある意味で当然なことです。
 このストーリーを先程の視点で読むとどのようになるのでしょうか。どのような人が一番重要な人だとイエス様は言われたのでしょう。
 ここには多くの人物が登場します。婚礼の場面ですので、婚礼では花嫁花婿が主人公です。また多くの招待者が来ていました。その中には、イエス様もマリヤも弟子たちもいました。そして、その宴会を仕切る世話役もいました。同時にその世話役の命令を聞いて、そのために働く、「手伝いの人」たちもいました。それを新共同訳聖書には「召使いたち」と訳しています。この中で一番重要な人はだれでしょう。花嫁花婿、奇跡を行われたイエス様でもありますが、聖書の価値観から見るならば、そこで働いた「召使いたち」が一番大切な存在であったといえます。神はこのストーリーを通して、重要な存在は仕えるものであり、仕える者の姿を教えたいのだと思います。
 先週の日曜日に文化会館の「はなのき広場」でクリスマス集会がありましたが、私たちは現場で早朝礼拝を行いました。それは、朝早くから準備して働く人達のためでした。私はその方たちに何を語るべきかと祈りました。すると、この御言葉が与えられました。イエス様が最初の奇蹟をカナで行われましたが、この最初の奇蹟を支えたのは誰であったのか。イエス様は誰と会話しながらこの奇蹟を行われたのか。それは花嫁花婿ではなく、母のマリヤでもなく、弟子たちでもなく、「召使いたち」でした。そこで働いた一番身分の低いと思われた、召使いたちと奇跡を行われました。「見えないところで奉仕する人たちに主は目に留めておられる」ということを語るように教えられました。
 私たちはイエス様の御声を聞きたいと願います。「イエス様。私に語ってください。私にあなたの御声を聞かせてください。」と祈ります。その御声はどこで聞くことが出来るのでしょう。静まっているときに来るのでしょうか。また激しく祈っているときに来るのでしょうか。主と深い交わりの中に来るのでしょうか。すべて当たっています。
しかし、イエス様がこの奇蹟の中で御声をかけられたのは、何と、労働の中でした。犠牲を払って働く人々の中に主が語られたのです。主のために仕えていく中で声をかけてくださるのです。
 今年私たちは、「東京ミッション」を始めとして、イエス様のために働きました。そんな中、ある時は静まって主からの声を聞く事が出来なかったかも知れません。しかし、主のために働く中、主が多くのことを私たちに教え、また語ってくださったことを感謝すべきです。
 イエス様は召使いたちに辛いことを命じられました。まずは、「井戸から水を汲んできなさい」と言われました。そして「壺を水で満たしなさい」と言われました。そこにはしきたりに従って、六つの壺が置いてありました。八十リットルから百二十リットル程の大きさの違う壺でした。それを淵まで一杯に満たすように言われました。召使いたちは何も文句を言わずにそれを行いました。これはどれくらいの水の量か考えたことがありますか。平均百リットルとして、一壺百リットル分です。それが六個ですから、何と六百リットルです。水一リットルは約一キロですから、六百キロの水と言うことになります。それだけの水を召使い達はせっせと汲んで来て、淵までいっぱいにしました。それは相当の労力であったと思います。しかし、彼らは忠実に従いました。その中で最初の奇跡が行われたのです。
 「仕える者」とはギリシア語では「ディアコノス」という言葉です。語源的には「使いに走る」という意味から来ています。そのように仕える者が聖書の世界においては一番重要であり、神様の目においては偉大な働きだというのです。
 今年、リバイバルのために走り回って仕えてくださった方が多くおられますが、「ディアコノス」とは、召使いという意味もありますが、他に「牧師」という意味もあります。私たちは権力を振るって「私は牧師だ・・・」と言っていては勤まりません。「仕える者」として働きたいと願います。「誰かの命令を実行する人」というのが召使いの意味です。今年主の前に、召使いとして働けたことを感謝したいと思いますし、来年は更に深く主に仕える者として一年を送りたいと願います。
 主に仕えていくときに、神は皆さんにみ言葉を語ってくださいます。それも一番重要な働きのための言葉を語ってくださるのです。主が、この日本に持っておられる御心のために仕える中で語ってくださることを忘れてはならないのです。
 水を汲んで世話役の所に持って行くと、何とそれがぶどう酒に変えられていました。宴会の世話役は驚きました。招待者達も驚きました。「なぜ、こんな良いぶどう酒が今までとってあったのか」と言いました。彼らには、それがどこから来たのかわかりませんでした。しかし、聖書には、「水を汲んだ者たちは知っていた」と書かれています。水を汲んだ召使いたちは知っていたのです。この水がどのようにしてぶどう酒に変えられたのか召使いにはわかっていたのです。
 やがて主が、日本に偉大なリバイバルを与えてくださると信じます。リバイバルが起こってからは、リバイバルがどこから来たのかわからないかも知れません。リバイバルの中で救われる人たちにはわかりません。しかし、水を汲んだ召使い達には分かります。私たちが本当に神様の前に仕えていくときに、水がぶどう酒に変わる瞬間を見ることができると信じます。それまで働き続けなくてはなりません。
 召使い達が六百リットル、六百キロもの水を深い井戸から汲み上げ、それを六つの壺に満たしました。それは重労働でした。ある意味で日本のリバイバルのことを考えても、それは重労働だと思います。そう簡単に水を壺に満たすことができないという側面もあると思います。しかし、私たちは、つぶやかずに働かなくてはなりません。主に仕えることが一番、主の目に尊いことであることを忘れてはならないのです。
 「召使い」とは、ある意味で自発的要素を含んだ言葉です。自発的に主に仕えていくことが非常に大切です。しかし、更に「完全に仕える」ということを表現する言葉は日本語で「服従する」という言葉です。
 年輩の方々の中では軍隊経験をされた方がおられますが、今の時代、五十数年前のこととして、風化しています。当時の様子を聞くと、「その時代に生まれていなくて良かった」と思います。軍隊においては「仕える」というレベルを超えています。上官の命令には「絶対服従」という厳しさを含んでいます。戦争においては、命に関わる問題なので、命令に従わなくてはなりません。
 私たちは今、霊的な戦いの中にあります。サタンとの戦いの中にあります。目には見えませんが、日本を支配する悪霊との戦いの中にあるのです。このサタンと戦うためにどのようにしたら良いでしょうか。ヤコブ書の四章七節には、

『ですから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。』

と書かれています。新共同訳聖書では、「だから、神に服従し、悪魔に反抗しなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げていきます。」と書かれています。ここに霊的な戦いの「勝利の秘訣」が書かれています。そこには二つの側面があります。一つは、「神様に服従する」ということです。同時に「悪魔に対抗する」ということです。私たちが神様に完全に服従しないで戦いに出ていくときに、多くの場合失敗しを敗北します。まず戦いに勝利するために「神に服従しなさい」と言うのです。服従というのは、仕えるということよりも更に完璧さを要求されます。私たちはこれから、「神に服従し、悪魔と戦っていく」ということを教えていただかなくてはなりません。これは決して、人に服従するということではありません。誤解しないでください。これは「神ご自身の御心に完全に服従する」ということです。そうでないと悪魔に勝利することができないのです。「服従」と「対抗」とは、ぺアになっています。私たちが完全に神様に服従するとき、深い戦いの領域が現されます。そうすれば悪魔が「逃げ去る」というのです。これはただ「去る」というのではなく、「逃げる」という言葉が入っています。「逃げる」とは自ら進んで去ることです。今までは、「覚えていろ、そのうち帰って来るからナ。」と言いながら悪魔が去っていったかも知れません。しかし、「逃げ去る」とはそうではありません。「もう、こんなところにはいたくない」と悪魔が逃げていくのです。そのためには、「神に服従し悪魔に反抗しなさい」というのです。
 ギリシア語の「服従」という言葉は、軍隊用語です。その意味は、闇雲にある人物について行くということではありません。これは、「上官の命令によって決められた配置につく」ということです。神様が一人一人に命令をくだして、「ここに配置につきなさい。」と場所を示されます。それは神の御心です。それに私たちは従わなくてはならないということです。
 今年初めに主からいただいた御言葉があります。それは、第一歴代誌二十八章十一節から、

『ダビデはその子ソロモンに、玄関広間、その神殿、宝物室、屋上の間、内部屋、贖いの間などの仕様書を授けた。御霊により彼が示されていたすべてのものの仕様書であった。』

 ダビデは神の宮の仕様書を御霊により受け取りました。私は少し建設業に携わったことがあります。仕様書とは設計図よりも細かいものです。そして神様はダビデに、「ソロモンにその仕様書を渡しなさい。ソロモンが宮を建てるのだ」と言われました。ソロモンは父ダビデからそれを受け取り、細かい仕様書に従って宮を建てました。そこには細かい寸法が記されていました。働くレビ人たちの組織まで書かれていました。宮に置く調度品のデザインから何から何まで細かく記されていました。聖霊様がダビデに授けたのです。それをソロモンが実行しました。やがてその仕様書通りの宮を奉献することができました。奉献式の様子が、第二歴代誌五章十三節に記されています。

『ラッパを吹き鳴らす者、歌うたいたちが、まるでひとりででもあうかのように一致して歌声を響かせ、主を賛美し、ほめたたえた。そして、ラッパとシンバルとさまざまの楽器をかなでて声をあげ、「主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで。」と主に向かって賛美した。そのとき、その宮、すなわち主の宮は雲で満ちた。』

 何と奉献式のとき、彼らが宮で賛美したときに宮が雲で満ち、主の栄光が現されました。ここを読むと、一致して賛美するときに主の宮に栄光の雲が満ち溢れると理解します。それも事実です。しかし、この状況においてはそれよりも深い意味がありました。それは、彼らが受け取った仕様書通りに宮を作った証拠として、栄光の雲が満ち溢れたのです。
 ソロモンが仕様書を職人に渡し、「このようなものをこ作ってください」と頼んでも、その各パートの職人が、「ソロモン王様がそう言ったけれども、手が込んでいて難しそうで大変だ」と言って適当に寸法を変えて、メチャクチャに作ったら、このような神の栄光は現れなかったはずです。仕様書通りのものを作ったからこそ、神が、「わたしが言った通りのものを作ってくれてありがとう」と栄光の雲が満ち溢れたのです。
 これは人々が神に服従した結果です。ひとりひとりが神から任された配置について、そのことを成し遂げたという結果です。
 これから日本のリバイバルを目前にし、私たちが行うべき事柄は、神に服従することです。「服従する」とは、神様が言われる「配置につく」ことです。主から言われることを完璧に成し遂げることです。その時、主の栄光が現されます。その服従が完成するとき、悪魔が逃げ去っていきます。悪魔に抵抗するときに悪魔が逃げ去っていきます。
 今年主に仕えてきました。しかし、来年は更に神の前に「服従」させていただき、悪魔に立ち向かって行きましょう。「悪魔は逃げ去ります」という御言葉が実現するようにしていただきたいと願います。
 今日は私たちの中に、主が、「よく仕えてくださいました。ありがとう。」と語っていてくださるような気がします。しかし私たちはそのことだけで終わることがないように、更に深く主に服従し、主が私たちひとりひとりに持っておられる通りの位置に着くことができるように祈りたいと思います。教会に関してもそのように祈ってください。新城教会が、主の持っておられる戦略の中で、主が持っておられる御心通りの所に収まりますように、主の御心に完全服従して、主に仕えることができるように、またその中の兄弟姉妹が、各配置について主の御心を実行することができますように。その時、水がぶどう酒になるような大きな奇蹟を目で見ることができると信じます。
 この一年間、与えてくださった恵みに心から感謝すると同時に、更に深い服従の気持ちを持って働くことができるようお祈りしましょう。

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