今週の礼拝メッセージ
神は更に豊かな恵みを与えてくださいます   1999.1.3(SUN)

新城教会牧師 滝元 順

<今週のメッセージの御言葉>
ヤコブの手紙4章6節〜8節
しかし、神は、さらに豊かな恵みを与えてくださいます。ですから、こう言われています。「神は高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる。」ですから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがに近づいてくださいます。罪ある人たち、手を洗いきよめなさい。二心の人たち。心を清くしなさい。

 ハレルヤ!新年明けましておめでとうございます。今年も共に主を礼拝し、リバイバルのために祈れることを心から感謝します。
 今朝は、午後四時からのPPHのために、全国各地からすでに集まってくださった兄弟姉妹もおられ、神の家族として共に礼拝できることを心から感謝します。
 私が毎年楽しみにしている集会は、十二月三十一日に開かれる「越年聖会」です。なぜならば、その時、新城教会で奉仕する牧師たちがそれぞれ神様から示されている次の年に向かっての御言葉を語るからです。その前に打ち合わせはしません。一人ひとりが祈り備えて次の年に導かれる御言葉を取り次ぎます。今回も御言葉を聞き、神は同じみこころを示してくださっていることを確認することができ感謝しました。
 最初、上條実牧師がメッセージを語りました。ルカ二章から語りました。シメオンという老預言者がイエス様と宮で出会ったことについて話しました。二章二十七節に、

『彼が御霊に感じて宮にはいると、幼子イエスを連れた両親が、その子のために律法の習慣を守るために、はいって来た。』

という箇所を引用してメッセージを語りました。シメオンが御霊に感じ、「今、宮に入らなくてはならない。」と中に入ってた時、両親に連れられたイエス様が宮に入ってこられました。その時、御霊に感じなかったら、出会いの瞬間を逃してしまったのです。「来年は、御霊に感じて生きて行きましょう」ということでした。いつも私たちは「御霊の声に従う」べきです。昨年、御霊は私たちに多く語りかけてくださったかも知れません。しかし、御霊に感じなかったことにより、瞬間を捕らえることができなかったことも多くあったかも知れません。今年は御霊に感じて生きていこうということでした。
 続いて岡本信弘先生から語られた御言葉は、テモテ第二の手紙四章七節から、

『私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。』

 毎年、主は走るべき道のりを備えててくださっています。「今年はここから、ここまで走りなさい」ということです。しかし一年を走り終えた時、果たして神が備えてくださった道のりを、完全に走り終えることができただろうかということでした。もしかしたら、走り切ることが出来なかったのではないだろうか。今年神が、「この道のりを走りなさい」と備えられたら、完全に走り切ることができますように。道のりを、少なからず、多からず、完全に走り終えることができるようにというメッセージでした。
 そして、明牧師が語った御言葉は、神が与えてくださった偉大な祝福に対して感謝する、詩篇一五〇篇から

『ハレルヤ!神の聖所でほめたたえよ。』

また、新年礼拝ではヨシュア記十四章十四節から、

『そこで、ヘブロンは、ケナズ人エフネの子カレブの相続地となった。今日もそうである。それは、彼がイスラエルの神、主に従い通したからである。』

彼らがカナンの地に入ることができた理由は、神に従い通したゆえだと語りました。
 そして、私自身が導かれた御言葉は、ヤコブ書四章七節です。

『ですから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。』

 今回、四人の牧師が御言葉を語りましたが、その中に一貫して流れていたテーマの中心は、「神に従う」ということでした。今年は主が私たちに「従う」ことを要求されていると確認しました。
 特にヤコブ四章七節は「従う」という意味よりも、「服従」という意味が強い言葉です。この「服従」とは軍事用語で、兵士達が隊長の命令によって各配置につくという意味です。私たちは今年、神様の命令を受けて配置につき、任された仕事を完全にしなさい。御霊の声を聞いて、配備について主のために服従して働くべきだということです。
 「神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔は逃げ去ります。」神に従って悪魔に立ち向かう時、悪魔は逃げ去ると教えています。「逃げ去る」ということは自主的に去っていくのです。今まで悪魔が去るときには、捨て台詞を残して去って行ったことが多くあったと思います。「覚えておけよ。そのうち、おまえの所に戻って来るから・・・。」と一時だけ離れて行ったかも知れません。しかし神に服従して悪魔に立ち向かうときに、悪魔は逃げ去るのです。「あなた方から」と複数になっています。ヤコブは教会に対してこの手紙を書きましたので、この意味は「教会から悪魔が逃げ去る」ということです。悪魔の敵は、個人というよりも、明らかに教会です。エペソ三章十節に、

『これは、今、天にある支配と権威とに対して、教会を通して、神の豊かな知恵が示されるためである。』

 この、天にある支配と権威とは、天国にある支配と権威ではなく、「暗闇の天にある支配と権威」です。この言葉は、エペソ六章に対応します。教会を通して暗闇の支配と権威に対して神の知恵が宣言されるのです。ですから、悪魔は一番教会を敵視します。今年は、悪魔のいっさいの攻撃を打ち砕く教会になるべきです。そのためには、神に服従することが必要です。神様はキリストのからだを通してみこころを現してくださいます。今年は特に服従することを神が願っておられると確信しました。皆さんも今年は神に従い、服従してください。必ず主は豊かな祝福を開いてくださいます。
 私は三十一日の夜、感謝して家に帰り、もう一度、自分に与えられた御言葉を祈りつつ読んでみました。するともう一つのフレーズに引き寄せられました。それは、ヤコブ四章六節の中で、

『しかし、神は、さらに豊かな恵みを与えてくださいます。』

という部分です。神は豊かな恵みを与えくださいました。昨年一年を考えてみても、東京ミッションを始めとして、豊かな恵みの中に導いてくださいました。しかし「さらに豊かな恵みを与えてくださる」ここには、「さらに」という言葉がつけ加えられています。ギリシア語の原文を見ても「さらに」という言葉がついています。「さらに」とは、「より偉大な」、「より強い」、という意味です。「より偉大な、より強い神からの恵み」を個人のみならず、日本全体に対して与えられるのです。
 このために必要なことは何でしょうか。そのためには「神に従う、服従する」ことです。この御言葉に心を留めていくならば、今年は昨年以上に大きな恵みを開いてくださると信じます。

『ですから、こう言われています。「神は高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる。」』

 それを受け取るための条件として、「へりくだりなさい」とあります。へりくだることを学ばなくては、日本のリバイバルも進まず、この御言葉は私たちの内に実現しないでしょう。
 今年、日本に対して、主は、へりくだりを更に教えられるに違いないと思います。数年前からのバブル崩壊に始まり、徐々に日本人がへりくだってきましたが、今年は更にへりくだりを学ばさせられると思います。これは良いことです。ある意味で日本人は日本人としての基本的高ぶりがあります。その日本の高ぶりを神が崩しておられます。神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えてくださるのです。
 さてあなたは、、「へりくだり」についてどのような概念をもっておられますか。「へりくだり」とは、ただ、いつも腰を低くしている事でしょうか。「へりくだり」とは、ただ人の前で低い態度をとるだけではない事をヤコブ書全体を通して述べています。  注解書に、四章一節から十節までは、「神に敵対する欲の高ぶり」について教えているとありました。

『世の友となりたいと思ったら、その人は自分を神の敵としているのです。』

 私たちはクリスチャンなのですから、神に敵対して歩んではいないつもりです。しかし、積極的に神に対して敵対していないようでも、知らない内に神を敵にまわしていることがあります。それは、世の友となるときです。それでは、私たちが世離れして世の中とのいっさいの交わりを断つということでしょうか。その意味は、神の国の価値観と、この世の価値観とは相反するということです。私達が世の価値観によって生きることは、即ち、神に敵対していることであり、またそれが「高ぶり」であるということです。
 昨年も主が、私たちの中に、この世の価値観ではなく、神の国の価値観で生きるようにと語ってくださいましたが、今年も神の国の価値観で生きて行きましょう。神の国の価値観はこの世の価値観とは全く違ったものでした。この世は強い者に価値をつけますが、聖書はそうではありません。弱いところに神のみこころがあるのです。また、この世の中では一円でも多く得たいと願いますが、聖書は、「受けるよりも与える方が幸い」と語っています。これも神の国の価値観です。また、高ぶる者は低くされ、低い者が高められるのです。この世の中は低くなったらなかなか上ることはできません。高ぶった者が世界を支配している状況です。神の国の価値観はこの世の価値観とは違います。
 また、四章十一節から十二節には、「兄弟をさばく高ぶり」についてです。

『兄弟たち。互いに悪口を言い合ってはいけません。自分の兄弟の悪口を言い、自分の兄弟をさばく者は、律法の悪口を言い、律法をさばいているのです。あなたが、もし律法をさばくなら、律法を守るものではなくて、さばく者です。』

 イエス様がこの地上に来られたとき、十の律法を二つにまとめられました。一つは「神を愛する」、もう一つは、「人を愛する」ということです。そして、「隣人を自分自身のように愛しなさい。」これが最高の律法だと言われました。ということは、私たちが誰かの悪口を言うことは、「隣人を愛する」という、最高の律法に触れることなのです。これは一番大きな罪だというのです。これも昨年学びました。私たちが何気なく神の祝福を失っている原因に、くちびるの言葉があると学びました。今年もくちびるを神からコントロールしていただくべきです。どのようにしても自分でコントロールできないのが舌であると聖書は語っています。しかし、聖霊が下ったときに、炎のような分かれた舌がとどまったのです。聖霊様の働きは舌のコントロールです。誰もコントロールできなかった舌を聖霊様がコントロールしてくださるのです。私たちの内側から批判や悪口が聖霊様によってコントロールされますように。私たちの中から悪口や妬み憎しみが去って行くならば、どんなにか大きな祝福を受けることができるでしょうか。私たちの中から悪口を一掃しようではありませんか。誰かから悪口を聞かされると、それをつまみにして会話の花が咲きますが、それに乗らないようにしましょう。悪口を聞いたら、これが祝福をとどめるものであることを意識し、背後に働く憎しみの悪霊を打ち砕くべきです。それが私たちに対するへりくだりの一つの条件です。
 第三に、四章十三節から十七節には、「自分を過信する高ぶり」について述べています。四章十五節に、

『むしろ、あなたがたはこういうべきです。「主のみこころなら、私たちは生きていて、このことを、または、あのことをしよう。」』

 商売に対し自信過剰な人に対して、自分に過信していけないとヤコブは教えています。ある意味で、この数年、日本が自信を失っていることは聖書的です。自分に過信すること自体が高ぶりなのです。
 今朝テレビでこの二十世紀末になって価値観が変えられた、話していました。二十世紀初頭は科学万能主義により、人間の発展には限りがないと考えられていたというのです。努力すればどれだけでも報われると考えられていたというのです。しかし、二十世紀を終わるにあたり、世界は「全てに限界がある」ということに気付き始めたと言うのです。これがはっきりと新しい価値観として世界に定着しないと、世界は変わらないという話しをしていました。私達には限界があるのです。
 聖書は信仰について教えています。信じるなら何でもできる。しかし、これは一つの側面です。この信仰を間違って使うと、自分の欲のために信仰の賜物を適応してしまう危険があります。人間には自己実現という欲望がありますので、信仰の賜物を使ってまでも欲望も実現しようとしてしまう危険性があります。「信仰」の前提となるのが、「神のみこころならば」ということです。神のみこころとは神の意志ですが、「要望」とも訳すことができます。そして、意志、みこころというギリシア語の中には「リスト」という意味がありました。これは神様の作られたリストです。神様のリストの中にそれが載っていたら、私はそのことをしましょう、ということです。私たちは今年も信仰を持って進むべきですが、自分の計画していることが神のリストの中に入っていたら、私はそのことをしましょう、といつも信仰の前提に神のみこころがあるように祈りたいと思います。これは大切なことです。 
 第四に、五章一節からは「富の高ぶり」です。ヤコブはこの一節で大変強い口調で、

『聞きなさい。金持ちたち。あなたがたの上に迫って来る悲惨を思って泣き叫びなさい。』

と語っています。この言葉は今、日本に神が語っておられると思います。この日本がバブルの好景気で湧いて皆が金持ちになったけれども、金持ちの上には悲惨が必ず迫ってくる。だから泣き叫びなさい。へりくだりを学びなさいと教えています。神の御手が日本に伸ばされているということです。私たちが富に望みを置いてもそこには本当の幸せはないということです。今年は神御自身に望みを置き、富の高ぶりから守られるように祈るべきです。
 今、四つのことを学びましたが、高ぶりは色々な方向から迫ってくるものです。神は高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みを与えるのです。これが「さらに豊かな恵み」を受け取る条件となる御言葉です。
 聖書は私たちが生きていくためのマニュアルです。しかし一般にマニュアルとは読むのに苦労します。それを理解し使いこなすことは大変です。コンピューターを買うとマニュアルがとてもぶ厚いのです。それをよく読まなくては使いこなすことはできません。又、近頃は携帯電話が流行っています。こんな時代が来るとは思っていませんでしたが、今や中高生までもが携帯電話を持っている時代です。しかし携帯電話も買って使おうとしても、普通に使うだけは良いのですが、色々な機能を使おうとするとよくマニュアルを読まなくてはなりません。読むと色々機能が使えることがわかります。私はあまりマニュアルを読まないので、基本方法しか知らないことが多いです。しかし私は最近とても良い携帯電話を買いました。その携帯電話にはEメールも入ります。こんな素晴らしい機能もあったのかと驚きながらマニュアルを読んでいます。
 聖書も似たところがあります。私たちが聖書をよく読むならば、生きる上で幸せになる方法や、暗い時代を生き抜くための秘訣も見いだせます。だから、今年は聖書をよく読まなくてはなりません。特に、この暗い時代、御言葉は道の光ですから、光をもらうためにも聖書を読むべきです。しかし、なかなか聖書全体から真理を紐解くことは難しいです。
 先日買った携帯電話には、厚いマニュアルと共に、小さな「クイックマニュアル」が付いていました。私はそれが大好きです。それを一通り読めば、基本的な機能を知ることができるからです。それを読めば大体のことがわかります。
 さて、ヤコブ四章六節から八節は、さらなる恵みを頂くためのクイックマニュアルのようなものだと思います。もう一度読みます。

『しかし、神は、さらに豊かな恵みを与えてくださいます。ですから、こう言われています。「神は高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる。」ですから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがに近づいてくださいます。罪ある人たち、手を洗いきよめなさい。二心の人たち。心を清くしなさい。』

 「更に豊かな恵みを頂くため」には「へりくだる」ことです。へりくだることは「神に従う」ことです。そして、従うだけではなく、「悪魔に立ち向かう」ことです。そうすれば「悪魔は逃げ去り」ます。そして、「神に近づきなさい。そうすれば、神様も近づいてくれます」と教えています。これは短いですが、今年一年間、皆さんが更に恵みを受けるために、また自分だけではなく、日本が更に祝福されるため、リバイバルを頂くためにも身につけたいと思います。
 更に恵みを頂くためには・・・「高ぶる者は退けられ」、「へりくだる者は高くされ」、「悪魔に立ち向かえば悪魔は逃げ去る」のです。またあなたが「神に近づくと神様も近づいてくださる」のです。私たちが神様から遠ざかったら、神様もあなたから遠ざかっていきます。この四つのことです。その中心は、神に従うことです。従うには、へりくだりが要求されます。今年一年が、更なる恵みを受ける年になりますよう、祈っていきたいと思います。一言お祈りします。

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