今週の礼拝メッセージ
主の道を用意せよ   1999.1.10(SUN)

新城教会牧師 滝元 明

<今週のメッセージの御言葉>
旧約聖書 イザヤ書40章1節〜5節
「慰めよ。慰めよ。わたしの民を。」とあなたがたの神は仰せられる。「エルサレムに優しく語りかけよ。これに呼びかけよ。その労苦は終わり、その咎は償われた。そのすべての罪に引き替え、二倍のものを主の手から受けたと。」荒野に呼ばわる者の声がする。「主の道を整えよ。荒地で、私たちの神のために、大路を平らにせよ。すべての谷は埋め立てられ、すべての山や丘は低くなる。盛り上がった地は平地に、険しい地は平野となる。このようにして 、主の栄光が現わされると、すべての者が共にこれを見る。主の口が語られたからだ。」

 ハレルヤ!今日このように健康でここに立つことができ感謝します。先週皆さんにお祈りしていただき、北海道リバイバル聖会に行くことができて感謝します。北海道は第十九回目のリバイバル聖会でした。十九年続いたということです。また、今週は第十九回目の九州でのリバイバル聖会です。
 北海道リバイバル聖会はとても恵まれました。会場は登別温泉で行われましたが、こちらからは白井兄が一緒に行きました。朝は早天祈祷会がありました。とても寒いところで朝五時半からは、地獄谷の山の中の雪が三十センチほど積もっているところで皆で叫んでお祈りしました。大体十人から二十人の勇士たちが共に祈り叫びました。そこで祈っていると、六時頃に夜が明けかかりその裏の森にはからすの巣があり、からすが飛び立って行きます。千羽以上だと思いますが、グループに分かれて何百羽と一日の働きへと出て行きます。素晴らしい景色です。聖書の中に、鳴くからすの子に餌を与えるのは誰か。空の鳥一羽も忘れていないと神様は言われます。そのような光景を見ながら北海道・日本のリバイバルのために祈ってきました。今週は九州のリバイバル聖会がありますが九州の志賀島で行われます。
 今から皆さんと共にイザヤ書四十章一節から五節まで「主の道を用意せよ」というタイトルで学んでいきます。一節に、

『「慰めよ。慰めよ。わたしの民を。」とあなたがたの神は仰せられる。』

 これは、イスラエル民族が罪を犯し、世界中に散らされ苦しみがあったけれど神によってもう一度帰って赦されるということです。ですから、苦労したけれど慰めてあげなさいというところです。私たちの信じているイエス様は素晴らしい方であり、私たちを慰めてくださる方です。人生の中で疲れたり、失敗することもありますが、神は駄目だと怒られるだけではなく、へりくだったらまた慰めて立たせてくださる愛の神様です。第二コリント一章三節から六節に、

『私たちの主イエス・キリストの父なる神、慈愛の父、すべての慰めの神がほめたたえられますように。神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。こうして、私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです。それは、私たちにキリストの苦難があふれているように、慰めもまたキリストによってあふれているからです。』

と書かれています。慈愛の神・・・。私たちの信じている神様は慈愛。情け深い神様です。そして「すべての慰めの神が誉め称えられますように。」慰めてくださる神様です。私たちは時々、色々な苦しみに遭いますが、神様は慰めてくださいます。時々なぜ私がこのようなところを通らなくてはならないか。またなぜこんな苦しみに遭うのだろうかと思うような時があります。しかし、それらのことを通して私たちが慰めを受け、慰めによって人々を慰めることができるようになるということです。私の人生でも今までのことを振り返ると、通りたくないと思うところをたくさん通ってきました。
 私には八人の子どもがあり、その中に「ますみ」という女の子がありました。しかしその子は三ヶ月で亡くなりました。私の人生の中に、これほどの悲しみはありませんでした。正しい生活しているのに、子どもが召されるなどとは考えられないことです。隣の子どもが疫病にかかったので祈って帰ってきたら、今度は私の子が一日少しだけ病み、急に天に召されました。あの時の悲しみは、口で言い表すことのできないものでした。あの日私はおいおいと声をあげて泣きました。「イエス様。どうしてますみを召されたのですか。」悲しくて泣きました。その悲しみの中で、オーケ・レナンデルという先生が豊川におられ、私の子どもが召されたのを聞いて、すぐに駆けつけてくれました。そして私を抱きしめて、一緒に涙をながして泣いてくれました。「先生。悲しかったね。」と言われました。そして、その次に岡崎で伝道会をやった時にも、「先生悲しかったでしょう。」と言って涙を流して泣いてくれました。不思議と私はあの先生の涙で心が癒されました。とても不思議です。オーケ・レナンデルという先生にも子どもがたくさんあり、その中の一人の男の子は生まれてからずっと、歩いたことも言葉を話したこともありませんでした。身体障害者です。三歳になっても四歳になっても「ウー」とか「アー」しか言えませんでした。私が行くといつでも奥さんがその子を抱いて、「先生。これは私の家の宝よ。」と言って彼を愛していました。先生は痛み苦しみを経験していました。痛みそのものがある意味で私に慰めを与えました。
 ある時独身女性の先生に、「子どもが召されました」と言うと、「あらそう。良かったわね。もう安全なところに行っているから大丈夫よ。」というのです。私はその時ガッカリしました。しかし、痛みを知った人は慰めることができます。
 私はそのことによって性格が変えられたと思います。慰めることができる立場になったと思います。以前私が北海道に行ったときに、五百頭くらい牛を飼っている人がいて、その方は無神論者でした。大きな牧場をやっていたので非常に高慢でした。しかしその人の奥さんがクリスチャンになりました。私が子どもが召されたという話をすると、一人の人が連れて来られ、「先生。この奥さんも赤ちゃんを亡くされました。」どうして亡くなったかを聞くと、子どもを置いて買い物に行って帰ってきたら、子どもがおらず、一生懸命捜し、もしやと思い便所に行くと、子どもが便所の中に落ちて手だけ見えていたそうです。引き上げたときにはもう死んでいたそうです。その奥さんはとても悲しんでいました。その時私はその方に話しました。「私も子どもを亡くしました。だけど天国に行っているから望みを持ちなさい。」と話すと、彼女はその言葉で慰められ、家に帰ると御主人に、「あなた、赤ちゃんを亡くした先生が来たよ。」というと、ご主人は「家に呼んでくれ。」と言い、私は招かれて家庭集会をしました。後から話を聞くと、私のメッセージを何回も繰り返して聞いているというのです。私が受けた苦しみが慰めを与えました。
 一九七〇何年に、私は初めて今の天皇夫妻、当時は皇太子夫妻でした。軽井沢で美智子様が私に、「お子さんを亡くされたことがあるのですね。」と言われ、「はい。悲しい経験でしたが、人の苦しみが少しはわかるようになりました。」と言いました。美智子様は私の「われ土方なれど」を読まれて、「あのわれ土方なれどを読ませていただきました。その中に赤ちゃんが召されたことが書かれており、その中に天国の花園に可愛いつぼみも必要だったと書いてありましたね。あの言葉で私も慰められました。」と涙を流されて言われました。私も共に涙を流しました。そのころ、色々な問題があり美智子様は赤ちゃんを流産したことがありました。そのことにも「天国の花園に可愛いつぼみも必要だった」という言葉で慰められたというのです。時々私たちの人生の中にも苦しいときがあります。しかし、神様は必ず私たちを慰めてくださる方であるということを覚えるべきです。今上條牧師もヘルニアで腰を痛めています。しかし、この教会にも何人かヘルニアをされた方があり、「先生。私もヘルニアやりました。痛かった。」というと慰められます。私たちクリスチャンは時々苦しみに遭いますが、互いに慰め合い助け合っていくのがクリスチャンです。ですから聖書の中には神様は私たちを慰めてくださると書かれているのです。二節に、

『「エルサレムに優しく語りかけよ。これに呼びかけよ。その労苦は終わり、その咎は償われた。そのすべての罪に引き替え、二倍のものを主の手から受けたと。』

と書かれています。イスラエル民族が神様に背き、罪を犯し、罪のために神様から懲らしめを受けました。しかし、罪の二倍くらいの懲らしめを受けたけれど、神様は赦してあげるからいつまでも悲しんでいないで立ち上がりなさいという意味です。神様は素晴らしい方です。罪に対しては厳しい方です。しかし、本気になって悔い改めたら立たせて、慰めてくださる神様です。イエス様を信じる者の土台は、イエス様を信じたことにより罪が赦されたことです。このようにして一緒に集まっていますが、イエス様の十字架によって私たちのような罪人が赦されて救われたことです。「再びあなたの罪を思い出さない」と聖書に書いてありますが、罪は赦されているとわかった人は主を愛します。私は完璧で赦されることはないと言ったら救われませんが、私は罪人私のためにイエス様が十字架にかかって死んでくださった。そのことによって私の罪は赦されたと信じることです。罪が多く赦された人ほど多く愛すると書かれています。使徒パウロは、「私は罪人のかしらだった」と言っています。罪人のかしらというのは彼が殺人強盗など、ありとあらゆることをしたということではありません。律法について彼はほとんど欠点がないほどに正しい生活をしましたが、私は罪人のかしらだったという言葉を使っています。これは、絶対者、本当にきよらかな真の光なる神様にお会いしたらわかります。暗やみの中にいると服が汚れていてもそれ程わかりません。しかし、本当に明るみに出たら汚れているとわかります。
 今日から相撲が始まります。時々孫たちが、「おじいちゃん相撲しよう」と言っても簡単にひっくり返しますが、実際の力士とやったら私は簡単に負かされてしまいます。強い者にぶつかったら、自分が弱いとわかるように絶対者なる真の神様の前に立ったときに、「ああ、私は何と汚れた罪人なのだろうか。」とわかります。聖書には、「人を憎む者は人殺しだ。」と書かれおり、また、「情欲を持って女性を見るだけでも姦淫だ。」と書かれています。そのような基準から見たら、私は罪人だと思います。しかし、神様は罪を犯した人に対して、あなたの罪を赦すと慰めを与えてくださるということです。
 ルカの福音書七章に、あるパリサイ人が自分の家にイエス様を招待しました。そして御馳走を食べていました。するとそこに一人の女が来て泣きながらイエス様の足に涙を落として涙でイエス様の足を洗いました。そして彼女の髪の毛で足の涙をぬぐい、足に口づけし、持ってきた香油を塗りました。そうすると、そこにいたパリサイ人が、「この人は預言者か。もし預言者だったら、この女がどんなに罪深い女かわかるはずだ。」
 日本の常識とは違い、イスラエルでは食事をするときに寝て、方ひじを付き片手で食べます。そこでこの女性はイエス様の足を洗い、香油を塗ってあげました。すると、「この人が預言者だったらこの女がどんなに罪深いかわかるはずだ。」という心をイエス様は読まれ、質問しました。「シモン、お前に一つの質問をしたい。ある二人の人が金を借りていた。一人は五十デナリ、一人は五百デナリ。二人とも払うことができないので金貸しがかわいそうに思い、二人とも許してあげました。そこでお前はどう思うか。ふたりのうちどちらが許してくれた人を深く愛すると思いますか。」と質問しました。するとシモンは、「先生。それは、五百デナリ許された人のほうがきっとたくさん愛すると思います。」と言いました。すると、「お前の言うとおりだ。この女は、入ったときに涙で私の足を洗ってくれた。お前はこの家に入ったときに足を洗う水も出してくれなかった。」ユダヤの国では尊敬する人の足を洗ってあげる習慣がありました。また口づけもしてくれなかったし、油も塗ってくれませんでした。だけどこの女性を見たか。この女性は、入ったときから涙で足を洗い口づけし、髪の毛でぬぐい、そして油を注いでくれた。なぜならばこの女の罪は多く赦されているから多く愛しているのだ。と言われました。多く赦されているから多く愛する。とイエス様が言われました。そして女に向かって「あなたの罪は赦された。」と言われました。彼女は心の中でこの罪を赦す権威を持っている人は一体誰だろうと。実は彼は救い主で、神の御子です。私たちの罪を赦す権威を持っておられる方は神の御子イエス様です。
 皆さんはどうですか。イエス様を信じて罪が赦されたという確信を持っておられますか。「アーメン」「わからない、赦されているか赦されていないかわからない」ではありません。赦されているのです。
 時々私もどうしてこのような者がイエス様を信じたのかと思います。小さい時を考えると偶像を拝み汚い生活をし、聖書から見ると本当に汚い罪人です。真の神を知らないで嘘は言うし、泥棒はするし、色々な悪いことをした人間です。しかし、こんな人間をイエス様が選んで救ってくださった。赦しただけではなく、慰めてくださり素晴らしい祝福の中に人生を今日まで送らせてくださったと考えると感謝します。罪を赦してくださったイエス様感謝です。というのが信仰の土台です。ですから私たちも罪が赦されたということをよく信じて行くべきです。だから、益々、これからイエス様を信じて従っていきましょう。三節からに、

『荒野に呼ばわる者の声がする。「主の道を整えよ。荒地で、私たちの神のために、大路を平らにせよ。すべての谷は埋め立てられ、すべての山や丘は低くなる。盛り上がった地は平地に、険しい地は平野となる。このようにして、主の栄光が現わされると、すべての者が共にこれを見る。主の口が語られたからだ。」』

と書かれています。
 「主の道を整えよ。」これをルカの福音書三章で見ると「主の道を用意せよ。」と書かれています。わかりやすく言うと、今年は、一九九九年です。二十世紀の終わりです。来年が二十世紀の終わりになります。この年はどのような年かわかりませんが、今私たちクリスチャンが考えるべきことは何でしょうか。ノストラダムスの大予言は一九九九年七月に恐怖の大王が来るということで一般社会が関心を持っています。しかし、これは信じるべきことではありません。信じべきことは、いつかわかりませんが必ずイエス様が再臨されることです。イエス様が来られたときに、いつでも神の前に出る準備ができていることです。イエス様が来られるときに、イエス様が通られる道を準備することです。「主の道を備えよ」と書かれています。
 何年か後に静岡で国体があり、第二東名が作られています。色々なところでトンネルを掘ったりしています。この近くも第二東名ができます。これはとても便利になります。制限速度百二十キロですので、浜松から来られる方はここまで二十分くらいで来れるようになるかも知れません。その仕事をされている方が先日ここに来られて、「先生。新城まではなかなか来ませんが、浜松までは早く来るでしょう。国体がありますから。」と言われました。国体があると天皇が来ます。そのために道を早く作ります。大体どこかの元首が来たり、大統領が来たりするときには、道をきれいに掃除して迎えます。丁度同じように間もなく、王の王なるイエス様が帰って来られます。その時に迎える準備をすべきです。まず、イエス様の前にいつイエス様が来られても良いように準備をすることです。何が一番大きな準備かというと、イエス様を信じ罪が赦され、いつイエス様が来られても天国に行ける準備をすることです。もし今年イエス様が来られたらどうしますか。イエス様が来られた時に、イエス様のところに連れて行ってもらうことができるか。これを考えるべきです。主の道を備えよということは主が来られるから、そのための準備をしなければならないということです。その時に、

『荒地で、私たちの神のために、大路を平らにせよ。すべての谷は埋め立てられ、すべての山や丘は低くなる。盛り上がった地は平地に、険しい地は平野となる。』

と書かれています。高い山は低くされ、谷は上げられ、曲がった道が真っ直ぐにされるということですが、イエス様を私たちが迎えるためには高い山は低くされるということは、高ぶった人は低くされなさいということです。主にお会いするために、神の前に己を低くされなさい。また、谷のように低い人、劣等感で悩んだり、俺は駄目だと思う人はそれから解放され、主を迎える準備しなさい。なかなか神の御言葉を受け取ることができない人は、素直な気持ちで真っ直ぐな道を備えなくてはならないというのです。イエス様がいつ来られても良いように主を迎える準備をしなさいということです。
 昨日東京から私に電話がありました。来年、全日本リバイバルミッションは何をするかということで祈っていましたが、今年のテーマは四十七都道府県で伝道集会をしたいということです。というよりも聖会PPHや祈り会を今計画しています。どのようなタイトルでどのような御言葉かということで、順牧師が提案し、「全てが生きる四十七」というタイトルをつけました。聖所から水が流れ出て、くるぶし、膝まで、腰まで、そして泳げるようになり、川の中に魚がたくさんいて、全てのものが生きるということが書かれています。これはエゼキエル書の四十七章に書かれています。だから四十七は、エゼキエル四十七章です。そして来年紀元二千年ということで考えていることは、祈っていただきたいことですが、東京で四十日間の集会をしたいというのが一つの夢です。「あの大きな町ニネベで叫べ。」そして来年、十一月には大阪でも東京ミッションのような集会を計画しています。どのような言葉が良いだろうか。私のところに連絡が来たので私は、

『主の道を整えよ。荒地で、私たちの神のために、大路を平らにせよ。すべての谷は埋め立てられ、すべての山や丘は低くなる。盛り上がった地は平地に、険しい地は平野となる。』

とこの御言葉を出しました。二十一世紀に向けての道を備え、イエス様がいつ来られても良いように準備しましょう。今朝私は賛美しながら考えました。この賛美している時に急にイエス様が来られたら素晴らしいです。昔私の家内が良く子どもたちを寝かすときに聖書の話をしました。「イエス様が間もなく来るよ。」と話していました。そのうちに家内のほうが眠くなり、ウトウトしながら寝てしまうと、その晩夢を見たそうです。私が家内と暗い道を賛美歌を持って伝道に出かけました。すると急に太陽よりももっとすごい光が射し、真昼のような明るさが来たそうです。その時に大きなラッパの声が鳴り響きました。その時に私の家内は、再臨だイエス様が来られたとわかりました。聖書には、ラッパの音と共に御使いの号令と共にイエス様が来られ、再臨されるというのです。再臨したときにはまず、死んだ死人が復活すると書かれています。そして生きていてイエス様を信じた人は、このからだのままで栄化され、空中でイエス様にお会いすると書かれています。私の家内の体も取り上げられ、見たら私も後をついて上がってきたそうです。そして途中で目がさめたというのです。そんな夢を見たことがあるそうです。私たちが今このように伝道していますが、イエス様が再臨されたときで終わりです。戸が閉められます。伝道集会や救われる機会はイエス様が来られる時までです。イエス様が来られたときには終わります。信じない人は残されると書かれています。信じた人は天国、信じなかった人は滅びてしまいます。今は主の道を用意しなさい、あなたの罪は赦される、どのような失敗しても赦される、心配しなくても良い、慰めてあげる、だから安心して信じなさい。これからイエス様を信じなさいと語られています。
 イエス様が間もなく帰って来られます。その時あなたも天国に入らなくてはなりません。今日はイエス様をしっかりと信じてください。まだ自分が過去に失敗したことを駄目だといつまでも思わなくても良いです。サタンは欺きます。一回失敗するとお前は駄目だと言います。これは罠です。悔い改めたら赦されます。サタンの策略はお前は地獄に行くと言われます。イエス様を信じたら天国に行けます。そして傷ついた人を慰めて幸せにしてあげるというのがイエス様です。一言お祈りします。

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