今週の礼拝メッセージ
今週の礼拝メッセージ
すべてが生きる   1999.1.17(SUN)

新城教会牧師 滝元 順

<今週のメッセージの御言葉>
エゼキエル書47章9節
この川が流れて行く所はどこででも、そこに群がるあらゆる生物は生き、非常に多くの魚がいるようになる。この水がはいると、そこの水が良くなるからである。この川がはいるところでは、すべてのものが生きる。

 ハレルヤ!今日このようにして礼拝を守ることができることを感謝します。先週は栃木県の教会で奉仕しました。そこで素晴らしい証を聞きました。私たちは東京ミッションの時に色々な決起大会を持たせていただきました。その時栃木県を回らせていただきましたが、ある一人の青年が私のところに連れて来られました。その人は覚醒剤中毒、アルコールやたばこも中毒でした。暗い顔をして先生に連れて来られ、この人が中毒から解放されるように祈ってくださいと言われました。私はその時祈ってあげましたが、それからどうなったのかわかりませんでした。今回その青年が来ました。「先生、あの時から完全に中毒症状がなくなりました。その薬をやらなくて済むようになりました。」と喜んでいました。しかし、その青年は目を見たらまだ抜け出ていないような顔をしていましたので、もう一度祈ってあげました。背後にいる悪霊と戦わなくてはなりません。そこでの聖会も大変燃えてリバイバルを求めていました。
 私たちはだれもが今年どのような年になるのだろうかという複雑な思いと期待感と不安を持っています。全日本リバイバルミッションも今年は何をするべきかということで祈り求めていました。そして、去年の暮れに集まって話し合った時に、今年は四十七の都道府県でリバイバルミッションを開催しようということになりました。昨年は東京で皆が集まって集会をしました。地方の方々は大きな犠牲を持って東京に集まられましたが、この不況の日本において去年の東京リバイバルミッションは大きな経済効果をもたらしたと思います。今年は地方に私たちが出向いて行って感謝の集会をしようということになりました。そのような中で一つの全体の四十七都道府県を回る集会のネーミングを付けようということなりました。去年は決起大会のネーミングを「はなざかり決起大会」とし、ユニークなネーミングだと評判がありました。私が名前を付けました。今回も四十七都道府県のミッションを行うに連れてネーミングをすることになりました。私は困って祈りました。子どもが産まれたときに名前を付けるときのような心境になって集会のために祈りました。今年の初めに軽井沢でスノーキャンプがありました。私もそこに出席させていただきました。皆がスキーをしている間に一日祈っていました。「神様。もしもこの四十七都道府県の集会が主からのものであり、主からの御心ならばそれにふさわしい名前を与えてください。」と祈りました。東京ミッションからの恵みが日本全国に広がること、また四十七都道府県に広がっていく、それを全部含んだ名前をくださいと祈りました。全く良い名前が浮かんできませんでした。しかし、祈っているときにふと神様が私に御言葉を投げ込んでくれました。それがエゼキエル書四十七章の御言葉でした。「すべてが生きる」あれはエゼキエル書にあったと思いました。エゼキエル書の何章だったかなあと思いました。まさか四十七章ではないだろうと思いました。四十七章ならばしめたものだと思いワクワクしながら四十七章を開いてみました。何とそこにありました。そしてこの始まりは、

『彼は私を神殿の入口に連れ戻した。見ると、水が神殿の敷居の下から東の方へと流れ出ていた。』

と書かれています。この水が流れ出ていたのは神殿の敷居の下からというのです。あのイスラエルの神殿は首都エルサレムにありました。一番中心にありました。その神殿から水が流れていき全地を潤したという幻でした。そのような中で東京に起こった東京リバイバルミッションの祝福が今年は四十七都道府県全部に行って潤しすべてが生きるようになると祈りの中で示してくださいました。これは主から来たものだと確信しました。そして「すべてが生きる四十七」ということで今年は全県を回ってリバイバルミッションが開催されますがぜひ祈っていただきたいと思います。この御言葉のとおりになりますように。祈っていただきたいと思います。聖霊様の流れが全県を覆い、リバイバルにつながっていくようにという願いです。このエゼキエルの見せられた幻は、神殿の敷居の下から水が流れ、下流に行けば行くほどその川幅が広く深くなり多くの生き物が住むようになったというのです。流れ出た水は何だったのでしょうか。これは一つの預言でした。エゼキエルはイエス様が生まれる約六百年くらい前の預言者でした。彼が見せられた預言幻はやがて水が流れ出るようになるというような幻でした。その水についてイエス様も預言されましたが、ヨハネの福音書七章三十七節からに、

『さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ注がれていなかったからである。』

と書かれています。イエス様はこの宣言をエルサレムの宮でされました。「わたしを信じる者は生ける水が流れるようになる」と語られました。この時点ではまだこの水は流れ出ていなかったというのです。そして水は聖霊様の働き聖霊様の流れだったというのです。ですからエゼキエルが見せられた幻は、やがてこの地を聖霊ご自身が覆うようになるという素晴らしい幻でした。そのイエス様のされた預言がいつ実現したのでしょうか。使徒の働き二章に五旬節の日に皆が一つになって集まっていました。この宮という概念が新約聖書になると特別な人間が手で作った建物ではなく、人々が集まるところということに変えられました。弟子たちが集められて真剣に主を求めて祈っていたときに、

『すると突然、天から、激しい風が吹いてくるような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。また、炎のような分かれた舌が現われてひとりひとりの上にとどまった。すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。』

と書かれています。何と百二十人の弟子たちの上に聖霊が注がれました。これがエゼキエルが見せられた幻の成就でした。この幻が成就したと同時に今度はその幻が実行に移されていきました。その聖霊が注がれたときに、

『そこで、彼らのことばを受け入れた者は、バプテスマを受けた。その日、三千人ほどが弟子に加えられた。』

と書かれています。何とその日弟子たちが立って福音を宣べ伝えたときに三千人がイエス様を信じ、信じたばかりかバプテスマを受けたというのです。先程読んだエゼキエル書に、

『非常に多くの魚がいるようになる。』

と書かれています。神殿の下から水が流れ出たらそこに多くの魚が住むようになるというのです。聖書で水は聖霊を現しています。魚は何を現しているのでしょうか。これは滅び行く魂です。私たち一人ひとりでもあります。イエス様が網を打てと言われた時に弟子たちが網を打ったら何と引き上げることのできないほどの魚が捕れました。そして彼らに言いました。あなたがたはこれから人間を捕る漁師になりなさい。」魚は魂の象徴でした。何とその聖霊様の流れの中に余情があるというのがエゼキエル書四十七章の幻でした。リバイバルは聖霊様ご自身の働きです。そして同時にこれは魂の救い宣教というところに私たちはひかれて行かなくてはなりません。そして魂の救いに焦点が当たるべきであることがわかります。聖霊が注がれたときに魂の収穫ということと同時に、使徒の働き三章を見ると一つのことが起こっています。それは生まれつき足の利かない男がいつも宮の外に座っていました。それは施しを求めるためでした。多くの人が宮に来て祈りをささげていました。その男は誰かに運んでもらい、宮の門前で物乞いをしていました。なぜならば、宮に来る人はいつも献金を持ってきました。それを目当てにしていました。しかし、ペテロとヨハネはその男を見て、「金銀は私にはない。」と言いました。ペテロとヨハネは宮に行くときに献金を持っていなかったのか、それとも、金銀を持っていたがあげるようなお金を持っていなかったか・・・。と注解していますが、いずれにしても「金銀は私にはない。私にあるものをあげよう。ナザレのイエスの名によって歩きなさい。」と言って歩き始めました。そして彼は喜んで踊りながら宮の中に入って行ったというのです。当時のユダヤ社会では障害者に対する差別がありました。これは宮の中には生涯がある人は入ってはいけないということです。しかし、その時にそのような足が生まれつき利かないような人が癒されて宮に入ることができる差別がなくなるという聖霊様の預言的な働きでした。同時に呪いと束縛からの解放ということを教えています。リバイバルがどのようなものかということがここでわかります。リバイバルは何しろ神殿の敷居の下、宮から水が流れ出ること、そしてそれが時間が経てば経つほど広く深くなって来るというのです。そしてやがてそこに魚が住むようになるという両岸には沢山の木が生えてそしてその葉は薬となる。そこにはいやしと解放が起こって来るというのです。そして子のエゼキエル書四十七章九節に、

『この水がはいると、そこの水が良くなるからである。』

と書かれています。この水とそこの水と書かれています。「この水は聖霊様ご自身の神様の霊です。そしてそこの水は私たち自身です。私たちは霊的な存在です。しかし、人間が生まれつき持ち合わせている霊だけでは、霊・水はどんどん悪くなると言うのです。私の家にデッキがありそこに水槽がありそこで魚を飼っています。外に水槽を置くといくら水を換えてもすぐに青深泥のようなものが生えて緑色になってしまいます。そして見えなくなってしまいます。はじめは忠実に水を換えていましたが、その内あきらめてしまい全く換えなくなってしまいました。そして中身が全く見えなくなってしまいました。結構大きな魚を入れていました。初めはまだいるような雰囲気がしていましたが、そのうちにわからなくなってしまいました。去年暮れに一度くらい水を換えなくてはと思い、青深泥を出して水を出して換えました。大きな魚がいたはずでしたが、見当たりません。そこの方を探ってみたら魚のミイラが出てきました。死んでいました。そしてもう一匹はまったく変形した魚が出てきました。私たちは水というものが全く流れなくなっていると段々悪くなっていきます。池の水はそうです。上から流れてきて汚いものを押し流してくれるからこそ川は汚いものを浄化するのです。私たちも聖霊様が私たちのところに流れてこないとなかなか私たちはそこの水私たちの内側が良くなりません。エゼキエル書四十七章十一節に、

『しかし、その沢と沼とはその水が良くならないで、塩のままで残る。』

という御言葉があります。沢と沼は閉鎖された場所という意味です。閉鎖された場所があると水が入って来ないから水が良くならないでそのまま残るというのです。私たちも同じです。教会がある意味で閉鎖されていると聖霊様に対して私たちが閉鎖的な態度を持っていると水が流れてきません。段々そこの水は悪くなってしまいます。私たちもイエス様を信じて喜びに満たされても聖霊様の働きをいつも私たちが歓迎していなかったら、段々とその水が悪くなってしまいます。しかし、水が入るときにそこの水が良くなると言うのです。良くなるという意味はどのような意味かというと、治療されるとか癒される、病気が治る、修理されるという意味があります。本当に聖霊様が私たちのところに来るときに私たちの内側が治療されます。病は癒され、狂っているところが修理されるというのです。私たちは水が豊かに流れてそのような閉鎖された部分を押し流して治療していただけるように今年一年も祈り続けるべきです。今水はどこから流れ出たかというと神殿の敷居の下から流れ出たというのです。神殿は今この時代においてはひとりひとりであり、また、その主を信じた者の集合体である共同体である教会自体です。教会から聖霊の水が流れ出る。やがてその教会が用いられて全世界に御霊の水を流すことができるような存在に変えられるということをエゼキエルの預言です。イスラエルの人が補修にされ、エルサレムにあった神殿が崩壊しました。しかし、彼らがバビロンから帰ってきたときに神の宮を建て直しました。これにも預言的な意味がありました。水が流れ出たのは崩れ去った神殿ではない。これは、修理された神殿の敷居の下から水が出たというのです。私たちが聖霊に満たされるためには、そしてこの水が豊かに流れ出ていくためには壊された神殿がもう一度建て上げられ、修理されるということが大切であるということがエゼキエル書全体からわかってきます。昨年私たちは色々なことをこの教会で学びましたが、教会はキリストの花嫁であることを学びました。イエス様ご自身が花婿であるというのです。そしてエペソ人への手紙五章には、

『私たちはキリストのからだの部分だからです。「それゆえ、人はその父と母を離れ、妻と結ばれ、ふたりは一心同体となる。」この奥義は偉大です。私は、キリストと教会とをさして言っているのです。』

と書かれています。天にある契約が地上に見えているのは夫婦だというのです。地球の地面の下には地層があります。地層は土が堆積してできたものです。土の中、地球の中なので見ることができません。ある場所に行くとその地層が見えるところがあります。県民の森には何百年前の地層が地震などで隆起して見えるところがあります。同じように私たちが見ることができない天の契約イエス様とまたこの教会との契約が現されているのが教会が夫婦の中に現されているというのです。なぜならば、夫婦は一体だからです。夫婦が互いに一体でないならば、夫婦としての役割はないし、その中で現そうとされている神様のみこころが現されないのと同じように私たちもイエス様とこの教会が一体でないならば、神の宮は完成しないし、水は流れでないということです。この神の宮が修理されることはイエス様と教会とが花婿と花嫁の関係の一体になることそうすれば、このような地上の私たち弱い者のようですがあのような素晴らしいイエス様と一体になることはイエス様が私たちと共に働いてくださるような水が流れ出るようなことが起こってくるということです。神殿の敷居の下、これは基礎です。教会の基礎はイエス様です。今年私たちの中にそのような教会の敷居の下から水が流れ出るような恵みを今日私たちは現していただきたく思います。水が人々の中に入り込むことこそ救いの初めであり、いやし、解放の始まりです。私たちの教会の中に聖霊様の流れが更に深くなるならば、必ず、そこに余情ができいやしと解放が自然のことになって来るというのです。それは宮の敷居の下から水が流れ出ているということです。今神様がこの教会の中に働いてくださっていることを心から感謝します。昨年、教会がある意味で夫婦関係の中に現されるということを話しました。そして皆でお祈りしました。本当にそのことが成されるようにとそれからか私の回りに夫婦関係の解放ということがたくさん起こってきました。その中で色々な不思議な御わざが現されてきました。昨日私はインターナショナルの集会で奉仕させていただきましたが、ある一人の兄弟が私のところに来て「先生、本当に感謝します。昨年は完全に私は離婚だと思っていました。しかし、不思議にそれが回復されて今は本当に仲が良いです。そして今日は私の友だちを連れてきました。昔の私とそっくりだ。」と言っていました。今は一緒には住んでいるけれど、家庭内離婚のようなそのような友だちだけど私が体験したから彼らを連れてきたも嘘のために今週一週間ずっと祈っていたと言っていました。これは素晴らしい事です。本当に神様がそのような栄光を現してくださっています。今年も壊れかかったような家庭家族が回復されるこれは聖霊様の力以外によっては期待することはできません。私たちの中に更に主の霊を注いでいただき壊れかかったものが回復するような癒されるような修理するような一年であるように皆さんで真剣に祈って行くべきです。そしてこのことが起こされるのはただ一つだけ、水が入るときです。水が入るときにそれが成されていきますので更に水が広く深く流れるように祈るべきだと思います。先日の正月に二十四時間PPHがありました。私は夜中の十二時から二時までの一番眠たいときに奉仕しました。がんばって真剣にパワー全開でがんばって司会しました。そして集会が終わって次は八時からでした。すぐに行って少し休んで六時半くらいに起きないと声が出ないと思っていたら玄関先である夫婦に呼び止められ、「先生。私たちのために祈ってください。」と言われました。明日にしようかと思いました。しかし、明日になったら時間がないからこの際、一言祈って帰ろうと思いその方々を他の部屋に連れて行きました。そして「何を祈ったら良いですか。」と聞くと色々な話がたくさん出てきました。それを途中で切ることができなくなってしまいました。ご主人はクリスチャンではありません。奥さんはクリスチャンでしたが、最近はクリスチャンの奥さんが少し調子が悪いというのです。今精神科にかかっているというのです。病院で見てもらったら鬱病で治療が必要だと言われ、薬を飲むようにということで薬を飲んでいるけれどどうしても良くならずに悪くなる一方だと言うのです。そして声が聞こえるようになったというのです。その声は、「死んでしまえ。燃えてしまえ。」という声で怖くて仕事も行けなくなってしまったそうです。本当にそんな恐怖の中にある夫婦でした。ご主人もそれで苦しんでおられ、ご主人は一度も祈ったことがありませんでしたが、元旦の日は奥さんが最悪なのを見て思わず神様助けてくださいと祈ったそうです。しかし、その奥さんがどうしてもPPHに連れて行ってくれないかと言われその方がPPHに来られました。色々とその方の話を聞いてみました。彼女はもうイエス様を信じています。しかし、そのようになりました。そして聞いていく家にこれは単なる病気ではない、霊的なものであるということがわかりました。すべてを霊的な者にしてはいけません。精神的な病もあります。ある時には原因が本当に霊的なものということがあります。神様は絶対に「死ね」とは言いません。もし「死ね」という声を聞いたら、絶対に悪魔からの声だと思って拒否するべきです。悪魔は真剣になって私たちを死に追いやろうとします。その人はいつも死ねという声を聞いています。これは神様からの声ではありません。だから戦わなくてはいけないとご主人には説明しました。霊的な原因の時もあります。霊的なものと病的なものが混ざっていることがあるし、病気だけのものもあると言いました。特にその人はある一つの地域にだけはどうしても入ることができないというのです。そこには会社がありその地域にどうしても行くことができないというのです。会社でトラブルがあったのでもありませんが、何しろその場所に行くのが怖くて仕方がないというのです。これは霊的なものではないかと思いました。そのことをご主人に言いました。すると、「私はそういうようには信じられません。」と言っていました。そして一緒に祈り始めました。私は眠たくて半分寝たような状態で、「イエス様。この人を癒してあげてください。背後の悪霊を追い出してください。」と寝ぼけながら祈った途端、悪霊が叫び始めました。「嫌だ。俺は出て行かない。」というのです。大騒ぎになってしまいました。私は驚きました。半分寝ぼけていたのが目がさえてしまいました。すぐにその悪魔を打ち砕こうと思いましたが、これはチャンスだと思いました。なぜならば、ご主人はまだイエス様を信じておらず、ご主人がイエス様を信じないと奥さんは解放が得られない。なぜならば、夫婦は一対だからです。ご主人が本当にイエス様を信じたら奥さんも解放されます。だからご主人に言いました。「これは、霊的なものです。ご主人がイエス様を信じたら奥さんも癒されます。イエス様を信じませんか。」と言うと、「はい。信じます。信じさせてください。」と言いました。「では、祈りましょう。」と言って、「イエス様。私の救い主となってください。信じます。罪を赦してください。アーメン。」と祈りました。そしてご主人に、「イエス様を信じるだけではいけません。洗礼を受けたらもっと強くなりますから洗礼を受けなさい。」と言うと、「はい。わかりました。」と言っていました。それで祈ってイエス様の御名によって背後に働く悪霊を完全に打ち砕く祈りをしました。台座となっている罪もありましたので悔い改めてその場では本当に喜んで帰られました。それから何が起きた知りませんでしたが、私のところに手紙が来ました。それ以来声も聞こえなくなり、死にたいとは全く思わなくなり、怖くなくなり、喜んでいるそうです。薬も強い薬を飲んでいましたが、今は外出するときに予防で飲むだけになったと言っていました。ご主人が間もなくバプテスマを受ける準備をしていますが、本当に受けられるように祈ってくださいと速達で手紙が来ました。イエス様に心から感謝しました。これは夫婦の回復・解放です。「その水が流れるところはすべてのものが生きる。」と書かれていますが、眠たいのをこらえても祈ってあげて良かったと思いました。いつ水が流れ出るかわからないので私たちはそれを注意するべきです。今水が流れています。この水は聖霊様の水です。聖霊様に触れると何年も束縛されてそこから出ることができないようなところにも瞬間的に光が当てられます。この聖霊様の水意外日本の色々な問題の解決はあり得ません。更に日本に聖霊様の水が広く深く流れ出ていき、そこで多くの魚が捕れ、その魚が全部解放され、また主のために働く者となることができるように祈りましょう。この中から水が流れ出るようにお祈りしましょう。そしてまた宮は、私たち自身でもあります。だから、私たち自身から聖霊様が流れるように祈ってください。また、宮が崩れていたらそれが建て直され、強められますように。特に今年は家族家庭の中に夫婦の中に回復が来るように祈りましょう。もしも色々な問題を抱えておられる人がいたならば、そこに回復が来ますように。また全体的に回復の油注ぎが私たちの宮の中に満ち溢れるように、ぜひ、祈り続けていただきたいと思います。今日神様の御わざがこの場所に現されることを私たちは信じています。今日皆さんの中に新しい水が流れ、新しいことを神様が始めようとされています。すべてが生きる。今年すべてのものが生きるほどの神様の御わざが成されるように祈り続けていきましょう。お祈りします。 

バックナンバー
戻る
戻る