今週の礼拝メッセージ
今週の礼拝メッセージ
いやし   1999.1.31(SUN)

新城教会牧師 滝元 順

<今週のメッセージの御言葉>
ヤコブの手紙5章13節〜18節
あなたがたのうちに苦しんでいる人がいますか。その人は祈りなさい。喜んでいる人がいますか。その人は賛美しなさい。あなたがたのうちに病気の人がいますか。その人は教会の長老たちを招き、主の御名によってオリーブ油を塗って祈ってもらいなさい。信仰による祈りは、病む人を回復させます。主はその人を立たせてくださいます。また、もしその人が罪を犯していたなら、その罪は赦されます。ですから、あなたがたは、互いに罪を言い表わし、互いのために祈りなさい。いやされるためです。義人の祈りは働くと、大きな力があります。エリヤは、私たちと同じような人でしたが、雨が降らないように祈ると、三年六か月の間、地に雨が降りませんでした。そして、再び祈ると、天は雨を降らせ、地はその実を実らせました。

 ハレルヤ!今日、共に御言葉を学べますことを、心から感謝します。メッセージの時間は、今週、神が語ってくださる言葉であると同時に、教会の宣言でもあります。神様と人との前、そして、暗やみの支配者の前にも宣言が行われることです。御言葉をイエス様の御名によって宣言することです。
 今日はいやしについて学びます。これが皆さんにとってもいやしの時となり、神のいやしの川が今日からこの場所に開かれる宣言となりますように。
 年頭にヤコブの手紙から学びました。それは「更なる恵み」を与えてくださるというタイトルで話しました。その時には、「高ぶるものを退け、へりくだるものを高くされる」と学びました。また、「悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔は逃げ去る。」、「神様に近づけば神様も近づいてくださる」と学びました。その文脈にそって読み進んで行くと出てくる箇所が「いやし」です。ということは、「いやし」とは、「更なる恵みの一貫」として、主が私達に与えてくださるものです。
 前回、エゼキエル書の四十七章から、「聖霊の川の流れ」について語りました。その流れの中に、いやしが起こってくることを話しました。エゼキエル書四十七章九節に、

『この川が流れて行くところはどこでも、そこに群がるあらゆる生物は生き、非常に多くの魚がいるようになる。この水がはいると、そこの水が良くなるからである。この水のはいる所では、すべてのものが生きる。』

と書かれています。「そこの水が良くなる」と書かれていますが、「良くなる」という言葉は、「治療される」、「病気が治る」、「修理される」という意味があると話しました。神の国の現われは聖霊様の流れです。聖霊様の流れがある所に色々な業が起こってきます。その中にいやしも含まれますが、いやしが起こる領域は、川が深く広くなった両岸に木が茂り、その葉は薬となるとエゼキエルが預言しました。また、黙示録二十二章二節には、

『川の両岸には、いのちの木があって、十二種の実がなり、毎月、実ができた。また、その木の葉は諸国の民をいやした。』

と書かれています。いやしの恵みは聖霊様の流れが広く深くなった領域に起こるのです。ですから、リバイバルの中で、神がいやしの扉を開いてくださる時期は、ある意味で川幅が広く深くなったときです。今年は、そのような扉を開いていただきたいと願います。
 病院に行くと、どこに車を止めて良いのか、かわからないくらいに混み合っています。リタイヤしたおじさんたちが、真剣に車を導いていますが、教会が病院以上にいやしの場所にならなくてはと、行く度に祈らされます。
 聖書は、神によるいやしがあることをはっきりと宣言しています。それを信じ、教会の宣言とし、神のみ業が現されるために、御言葉を学びたいと思います。
 マルコの福音書十六章十七節には、

『信じてバプテスマを受ける者には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばを語り、蛇をもつかみ、たとい毒を飲んでも害を受けず、また、病人に手を置けば病人はいやされます。』

 これは宣教に伴うしるしとして、神が私たちに与えてくださるしるしです。
 昨年のリーダスダイジェストに、一つの論文が出ていました。それは、「祈りは病のいやしに効果がある」というものでした。アメリカのある病院で、同じ病でも、よく祈る人と全く祈らない人を比較したそうです。すると祈っている人のほうが、早く直ったそうです。そのデータも出ていました。これは当然のことです。なぜならば、祈りと共に神様が働いてくださるからです。神様は私たちを造られた方ですので、私たちの病をいやすことができるのです。たとえば、車が壊れたらその車を作った会社に持っていけば直ります。それを作ったので修理することができるのです。同様に、私たち一人一人を作られた神様は、私たちの体をも含め、全ての領域でいやすことができます。
 聖書は色々な領域のいやしを約束しています。詩篇だけでも、たくさんの約束があります。詩篇六篇に、

『主よ。私をいやしてください。私の骨は恐れおののいています。』

とあります。私たちにとって「恐れ」という領域は大きなものです。恐れに縛られ、束縛されている人がいます。しかし、神様は、「恐れ」という領域から解放し、いやしてくださるのです。
 また、詩篇四十一篇四節には、

『「主よ。あわれんでください。私のたましいをいやしてください。私はあなたに罪を犯したからです。」』

とあります。神様は私たちの魂をいやす方です。魂、心が傷つくのは、多くの場合、罪を犯したときです。罪はその時点では甘いですが、後に腹にくだって苦くなると聖書は教えています。罪は楽しそうに見えますが、やがて腹にくだって苦くなり、その人を苦しめます。ダビデも同じ経験をしました。しかし、神様は罪によって傷ついた心をも癒すことがでます。
 エレミヤ三十三篇六節には、

『見よ。わたしはこの町の傷をいやして直し、彼らをいやして彼らに平安と真実を豊かに示す。』

 「町」はそれぞれの傷を持っています。数年前に神戸で大地震が起きましたが、神戸には大地震に伴い受けた特有の傷があります。それは表面的な建物の崩れではなく、内側の崩れです。またこの近辺を見ても、それぞれの町にはそれぞれの傷があります。新城市はかつて大きな戦いを経験し、町が傷つけられたという側面があります。神様はその傷をも癒すことができる方です。
 詩篇六十篇二節には、

『あなたは地をゆるがせ、それを引き裂かれました。その裂け目を、いやしてください。地がぐらついているのです。』

とあります。
 「地」とはヘブル語で「エレツ」で、「国」とも訳すことができます。「あなたは国を揺るがせ、それを引き裂かれました。その裂け目をいやしてください。」と訳せます。又、「裂け目」とは「傷」とも訳せます。「その傷をいやしてください。国がぐらついているのです。」と訳すことができます。
 日本が今ぐらついています。これからどうしたら良いのか・・、しかし、神は国を癒すことができる方です。
 世界の歴史を見ると、国と国との争いの中で双方が深く傷ついています。国の傷は永遠に癒されないのではないかと感じます。その傷は歴史書にしっかりと記されて、永遠に残るかも知れません。しかし、神様は国の傷をも癒すことができます。
 日本はかつてアジア諸国を傷つけてしまいました。韓国、中国、フィリピン、台湾など、東南アジアの諸国を多く傷つけました。どのように償ったら良いのでしょうか。しかし、神様はその傷を癒すことができる方です。いやしとは、病だけに留まらずに、幅広い領域に渡っています。
 さて、旧約聖書の中にはないけれど、新約時代になって初めて起こったいやしもあります。イエス様が現れたことによって与えられたいやしです。それは、「悪霊からのいやし」です。
 ルカの福音書七章二十一節を見ると、

『イエスは、多くの人々を病気と苦しみと悪霊からいやし、また多くの盲人を見えるようにされた。』

と書かれています。旧約聖書には悪霊から人が解放されたという記事はほとんど見当たりません。一ヶ所、サウル王様が悪霊によって苦しめられたときに、ダビデが竪琴を弾くと悪霊が去ったと記されています。しかし、悪霊はしばらくすると、また戻って来るという繰り返しでした。しかし、イエス様が来られたときに、悪魔の権威が制せられ、悪霊が出て行くようになりました。悪霊からの解放は、新約時代になって初めてイエス様によって可能になったことです。まさしく、イエス様がこの地上に来られたのは、悪魔の力を打ち砕くためでした。
 現代も多くの人々が悪霊の力に苦しめられています。姿は見せませんが、背後で人々を傷つけています。「悪霊からいやされる」という、素晴らしいいやしをイエス様は私たちに与えてくださいました。
 イエス様は地上で病や煩いを癒されましたが、その多くが、悪霊との関連の中で病を癒されました。これは旧約聖書の中にない、特別な出来事でした。
 同時にイエス様は律法の束縛からも解放し、いやすために地上に来てくださいました。イエス様があるときに宮に入られました。その日は安息日でした。その宮に手が不自由な人がいました。すると皆の目がイエス様の行動に注がれました。なぜならば、イエス様は何をするのだろうか。安息日は働いてはいけないが、手の不自由な人をいやすのだろうかと関心を持ちました。イエス様は安息日でしたが、その人をいやしました。するとパリサイ人たちは、「イエス様。あなたは安息日がどのような日か知っているでしょう。働いて良いのは六日間だけで、安息日は働いてはいけません。」と言いました。その時イエス様は、「安息日に良いことしてなぜ悪い。安息日の主はわたしだ」と言われました。
 時々、私たちも律法が先行して束縛されてしまいます。しかし、イエス様はその様な束縛を砕くために来てくださったのです。
 全ての領域でのいやしを聖霊様の流れの中で受け取りたいものです。
 さて、ヤコブによって語られたいやしの箇所は、ある意味で「いやしのマニュアル」です。私はよく、聖書は神が人に与えた生きるマニュアルだと教えています。前回は、「更なる恵みを受けるためのクイックマニュアル」という学びをしましたが、今日はヤコブ書五章から、ヤコブの教えた「いやしのマニュアル」を学びましょう。聖書から学び、実践する者でありたいと願います。
 第一にヤコブ五章十三節に、

『あなたがたのうちに苦しんでいる人がいますか。その人は祈りなさい。喜んでいる人がいますか。その人は賛美しなさい。』

と書かれています。
 人間は苦しみがないと、なかなか神の前に出て祈らないものです。あなたの人生の中で一番祈った時期はいつでしたか。それは苦しみの時であったと思います。神は、「わたしを呼べ。そうしたらわたしはあなたに答える」と語られています。神様はすべてをご存じですが、祈りは霊的な法則なのです。私たちの叫びに応じて神は答えてくださいます。苦しんでいる方がおられますか。「その人は祈りなさい」と書かれています。苦しみの中におられる方は祈ってください。これは聖書が命じていることです。喜んでいる人は神様を忘れてはいけません。この時にこそ、神を賛美しなさいというのです。悩みがなかったら神を心から賛美すべきです。この世ではなく、神ご自身を賛美すべきです。
 詩篇は賛美と祈りか表裏一体になっています。祈りと賛美は表裏一体です。鳥でいうなら両翼のようなものです。祈りと賛美によって飛び立つことができます。

『あなたがたのうちに病気の人がいますか。その人は教会の長老たちを招き、主の御名によってオリーブ油を塗って祈ってもらいなさい。』

 まず第一に、病気になったら、教会の長老たちを招きなさいと書かれています。長老とは当時の教会の責任者でした。今で言うならば、牧師、伝道者、スタッフです。神様のためにすべてをささげて働いている者たちのことです。
 第一コリント十二章二十八節に、
『そして、神は教会の人々を次のように任命されました。すなわち、第一に使徒、次に預言者、次に教師、それから奇蹟を行なう者、それからいやしの賜物を持つ者。助ける者。治める者。異言を語る者などです。』

とあります。いやしの祈りをする人を特別だとは絶対にとらないでください。教会は全て役割分担です。役割分担の中で、いやしの賜物を持つ者に祈ってもらいなさいということです。病の方々のために祈る役割があるのです。ですから、病気になったら私たちのところに来てください。私はいやすことはできませんが、祈ることはできます。聞いてくださるのはイエス様です。聖書に書かれていますので遠慮せずに、教会の牧師や伝道師のところに来て祈ってもらってください。これは聖書的なことです。
 次には、「オリーブ油を塗って祈ってもらいなさい。」と書かれています。今はイタリアン・ブームで、オリーブ油がよく売れています。健康のためにオリーブ湯を飲んだり、塗りなさいというのではありません。これは、「聖霊の油注ぎによって祈ってもらいなさい」という象徴的なことです。聖霊の油注ぎを受けることは素晴らしいことです。今日も午後から油の注ぎ祈祷会がありますが、油注ぎとは不思議なもので、今ま不可能なことが可能になります。なぜならば、「油そそぎがくびきを砕く」とイザヤ書にあるからです。油注ぎの祈りはとても大切です。
 先週、私は、新潟地区に東京ミッション・フォローアップ集会の為に行きました。その集会の中には戦いがありました。集会を行う予定だった教会の先生が、突然、心筋梗塞で亡くなられたりと大変なこともありませした。しかしながら、私と共に今まで以上に聖霊様が働いてくださっている事をも感じました。
 新潟に行く前の聖日、礼拝メッセージで語った、エゼキエル書四十七章から「御霊の川が全国に流れていく」という約束を信じて、出かけましたが、今回はいやしも多く起こされました。
 私を新潟で最初に迎えてくださった先生は、いつも元気よく手をあげて「ハレルヤ」と挨拶されるのに、今回は何となく元気なく、「ハレルヤ」と言いながら、片手があまり上がっていませんでした。「どうしたのですか。」と聞くと、「五十肩でこれ以上右手が上がらないのですよ。」と言われました。運転しながら、「痛い。痛い。」と言っておられました。しかし、集会の最後の祈りの時に、「肩が直りますように。」と祈りました。すると完全に直ってしまったそうです。翌日、先生は、何と、餅つきをしていました。完全に直ったのです。その時に目の悪い人も直りました。目の中に光る輪のようなものがあったけれど一瞬にして消えたそうです。また歩くと足がカクカクと鳴るのも直ったそうです。
 もう一つの教会に行きました。雪深いところで、一メートル近く積もっている寂しいところでした。教会に着くと先生が、「順先生。今から私と一緒に家庭訪問をしてください。」と言われました。その家庭は母一人子一人のさみしい家庭でした。家に入ってあいさつしましたが、誰も出てきませんでした。何回も呼ぶと青白い顔をした息子が出てきました。「今日は祈りに来ましたよ。」と言うと、家の中に入れてくれました。その方は病気でした。すると先生が、「お母さん。お母さん。お母さんも息子さんと一緒に祈ってもらわなくては・・・。」と呼びました。しかし、なかなか出てきませんでした。少し待っていると、ヨボヨボとおばあさんが這うように出てきました。その方は戦後、アメリカ兵と結婚してアメリカに渡りましたが、ご主人を亡くされ息子さんと一緒に帰国して以来、寂しく暮らしている方でした。部屋には嫌々入ってきました。その時私は、聖霊の油注ぎを感じました。家系を支配している悪霊と戦って祈らなくてはと思いました。また悪霊の臨在を感じたので、「イエス様の名によって、古くから支配している悪霊よ出て行け。」と祈りました。すると、おばあさんはガタガタと震えだしました。ちょっと手をおいて祈ったら倒れてしまい、動かなくなってしまいました。おばあさんは心臓が悪いと聞いていましたので、心臓が止まってしまったかと心配しました。しかし、しばらくすると起きあがり、「気もちがイイ」と言いました。すると、突然、「直った。直った。足が直った。」と言って立ち上がって、私たちが帰るときには、縁側で足を振り上げていました。これは聖霊様の油注ぎのゆえです。「これからイエス様を信じて教会に行きなさい」と言いました。「わかりました」と言っていましたが、いやしを体験したからには、きっと教会に行かれると思います。
 三番目にヤコブが教えられている祈りは、「信仰による祈りは病む人を回復させます」とありますが、「信仰による祈り」です。「信じること」は神から人に任されている分野です。「信仰による祈りは病む人を回復させます。」信じましょう。
 聖書の中には、信じていやされた人々の記事が幾つか記されています。十二年間長血を煩っていた女性は、「イエス様の衣に触れたらいやされる」と信じて触れていやされました。また、十人のらい病人がいやされときに、「あなたの信仰があなたを直した。」と記されています。新改訳聖書では、信仰と関わりがあるところは「救い」という言葉を「いやし」と訳してあります。信じるならば、信仰を持つならば、救われるのです。これは信仰による祈りの領域です。
 第四に、「ですから、あなたがたは互いに罪を言い表し・・・」と書かれています。いやしのために「悔い改めの祈り」が必要だと教えています。イザヤ書五十九章一節に、

『見よ。主の御手が短くて救えないのではない。その耳が遠くて、聞こえないのではない。あなたの咎が、あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ。』

と書かれています。私たちがいやしを受けるために必要なのが、「悔い改めの祈り」です。神様はきよい方ですので、罪があるままで私達はみ前に出ることができません。罪が赦されるためには、イエス様の十字架の血潮を受けなければなりません。十字架の血潮により、きよくしていただいて、神の前に出るのです。まず、悔い改めの祈りを持って主の前に出たいと思います。
 次に、「互いに罪を言い表し、互いのために祈りなさい。」と書かれています。「互いのために祈る」とは、「とりなしの祈り」です。互いのために祈るときにいやしの力が働きます。互いに祈り合うことは大切であり、力ある祈りです。
 昨日、インターナショナル伝道集会が行われました。とても恵まれた集会で、百三十人以上の人々が集まっていました。そこにブラジル人の小学生の女の子が来て、元気よく遊んでいました。その子を見て私はとても嬉しく思いました。
 昨年の十月くらいだったと思いますが、私のところに一つの連絡が入りました。ブラジル人の女の子が交通事故に会ったということでした。「今、病院に運ばれたから行って祈ってあげてください」と言うことでした。話を聞くと、足を骨折したけれど、命には別状がないから大丈夫だ言っていました。
 一週間後、「順先生。すぐに病院に行ってください。その子どもが今、危篤です」と言われました。突然、耳から血を出して、痙攣を起こし、意識もなくなってもう駄目だと言われたそうです。それはひどい状態だと思いました。ちょうど私は神学校の講義中で、すぐに行かれなかったのですが、少し遅れて駆けつけました。正直言って、私は教会でお葬式の準備をしなければと思いながら、反面、信仰を持って祈りに行きました。病室に行くと、新城教会のブラジル人の兄弟姉妹が集まっていました。「親戚ですか?」と聞くと、「いいえ、教会で知り合いになったから」というのです。大勢のクリスチャンが集まって真剣にその女の子のために祈っていました。それを見て素晴らしいと思いました。私もその輪に入り、真剣に祈りました。「神様。いやしてあげてください。」と祈りました。お母さんは泣きながら、「助けてください。」と懇願されましたが、そう言われても何もできません。医者も「助かるかどうか何とも言えない」と言いました。
 しかし、不思議なことに、しばらくすると意識が回復したのです。そして、ほとんど後遺症もなく、完全に直り、今は退院して学校にも行けるようになったのです。体育だけはできないけれど、後は普通にやっているそうです。
 これはとりなしの祈りによって起こされた奇跡です。一人の祈りによるのではなく、皆が愛を持ってとりなし祈ったとき、このような奇跡が起こりました。お互いにとりなして祈ると神様が動かれます。さて、最後に、

  『義人の祈りは働くと、大きな力があります。』

と書かれています。「義人の祈り」とは、「正しい人の祈り」という意味です。正しい人の祈りは働くと大きな力があるというのです。
 ヤコブは、例題としてエリヤを義人として語っています。エリヤという預言者の祈りは力あるものでした。彼が祈ったときに、イスラエルに三年六ヶ月もの間、雨が降りませんでした。それ程、彼の祈りには力がありました。そして、「私がもう一度祈らない限り、この国に雨は降らない」と言いました。その時、バアルの予言者とエリヤとの間に戦いが起こり、エリヤは一人で勝利しました。
 当時、イスラエルは偶像礼拝によって汚されていました。しかし、エリヤの祈りによって、国家が改革されたのです。エリヤの祈りは国を改革するほどの力ある祈りでした。それが「義人の祈り」だと言うのです。そんなエリヤのような人物にはなれないと思います。
 しかし、ヤコブはエリヤについて、「エリヤは私たちと同じような人でしたが・・・」と記しています。
 なぜ、私たちも「義人の祈り」ができるのでしょうか。それは、イエス様の十字架の血潮があるからです。イエス様の十字架の血潮があるときに罪が赦され、「義人の祈り」を行うことができるのです。
 ヤコブは病のいやしに始まり、罪の赦し、互いのいやし、国のいやしにまでいやしの領域を拡大しています。「いやし」という領域が、ただ病や個人だけに留まらず、互いの間に、また、町に、国にもたらされるのです。
 ヤコブが教えるいやしのマニュアルは、「長老たちの祈り」、「油注ぎの祈り」、「信仰による祈り」、「悔い改めの祈り」、「とりなしの祈り」、「義人の祈り」の六つです。これを実行しましょう。これは「更なる恵み」として与えられる賜物です。
 今日、この御言葉を私たちはこの教会に宣言します。また、神と人との前に、宣言したいと思います。また暗やみに対しても宣言します。今日から主がこのことを成してくださることを宣言します。今日から新しい御業が成されますように。
 今日皆さんの中に病の方がおられたら、いやされますように。また家族の中に傷があったらそれもいやされますように。また町に傷があったらいやされますように。また、この国がいやされる「義人の祈り、エリヤの祈り」をささげることができますように。どのような領域の傷であっても神はいやしてくださいます。今日この信仰持ちたいと思います。
 これから聖餐式がありますが、これは、神と人との間の壁を崩すものです。私たちの罪が全部砕かれますように。国の罪も赦していただけますように。今日は、いやされずに帰る人が一人もないように。インフルエンザで苦しんでいる人もいやされますように。内面的な傷を持っている方もいやされますように。神の不思議な力が働きますよう、お祈りします。

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