今週の礼拝メッセージ
今週の礼拝メッセージ
試練と祝福   1999.2.7(SUN)

新城教会牧師 滝元 明

<今週のメッセージの御言葉>
ヤコブの手紙1章1節〜18節
神と主イエス・キリストのしもべヤコブが、国外に散っている十二の部族へあいさつを送ります。私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。信仰がためされると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります。あなたがたの中に知恵の欠けた人がいるなら、その人は、だれにでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる神に願いなさい。そうすればきっと与えられます。ただし、少しも疑わずに、信じて願いなさい。疑う人は、風に吹かれて揺れ動く、海の大波のようです。そういう人は、主から何かをいただけると思ってはなりません。そういうのは、二心のある人で、その歩む道のすべてに安定を欠いた人です。貧しい境遇にある兄弟は、自分の高い身分を誇りとしなさい。富んでいる人は、自分が低くされることに誇りを持ちなさい。なぜなら、富んでいる人は、草の花のように過ぎ去って行くからです。太陽が熱風を伴って上って来ると、草を枯らしてしまいます。すると、その花は落ち、美しい姿は滅びます。同じように、富んでいる人も、働きの最中に消えて行くのです。試練に耐える人は幸いです。耐え抜いて良しと認められた人は、神を愛する者に約束された、いのちの冠を受けるからです。だれでも誘惑に会ったとき、神によって誘惑された、と言ってはいけません。神は悪に誘惑されることのない方であり、ご自分でだれを誘惑なさることもありません。人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます。愛する兄弟たち。だまされないようにしなさい。すべての良い贈り物、また、すべての完全な賜物は上から来るのであって、光を造られた父から下るのです。父には移り変わりや、移り行く影はありません。父はみこころのままに、真理のことばをもって私たちをお生みになりました。私たちを、いわば被造物の初穂にするためなのです。

 ハレルヤ!今日は「試練と祝福」というテーマで御言葉を学んでいきます。ヤコブの手紙一章二節に、

『私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。』

と書かれています。ヤコブが手紙を書いたとき、おそらく迫害が始まっており、色々な苦しみに会っていた時であると思われます。そのような中でこの書簡文をクリスチャンたちに送ったのでしょう。
 試練はあまり嬉しいものではありません。今日も人生の中で試練に会っている人もいるかも知れません。聖書の中には、ヘブル人への手紙十二章に、

『信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。』

と書かれています。ある聖書には、「信仰の著者であり、これを完成するものであるイエスを見つめつつ歩もうではありませんか。」と訳されています。クリスチャンになるとイエス様が私たちを導いてくださり、私たちの信仰を完成させようとされています。ですからイエス様を信じたら、すべては祝福で良い道を歩むことができます。しかしこの祝福に預かせるために、私たちを試練に会わせる時があります。試練を通らなくてはならない時があります。時々なぜ、イエス様を信じているのに問題があるのかと考えるかも知れません。その時にはイエス様が試練を通して訓練し、良くしてくださり、神の御用に役立つ者になるようにと願っているのです。「試練」という、言葉を調べると、「試練とは純銀製の貨幣、不純物の入っていないお金のこと」と訳している人がいます。これが試練の語源だそうです。試練の目的はあらゆる不純物を追放し、自分の性質の中にある不要なものを消却する、きよめ純化させること・・・これが試練の目的であるというのです。ですから私たちイエス様を信じた者は、色々な試練を通りながら、段々良くなっていきます。時々悪いことにぶつかることも良いことです。
 今朝、リバイバル新聞を読みました。二週間程前に私も記事を書きましたが、その中に、韓国の先生も記事を書いていました。それは、「今の韓国の教会はどのような状態ですか」という質問を時々受けるそうです。
 最近は韓国の貨幣が下がり、IMFから国際的に助けてもらい、非常に国が貧乏になりました。それで韓国教会の経済も二十から三十パーセント下がったそうです。だからこのような面から見ると、なぜ、一生懸命に祈っているのに韓国に貧しさが来たのかとか、なぜ、こんなふうになってしまったのかと考えることもあると思います。しかし、この先生のレポートによると、そのことが起きたことによって、今、韓国の教会には大勢の人が来るようになったそうです。それまで祈祷院は女性が多く、男性がとても少なかったそうですが、祈祷院に男性が多く来るようになったそうです。以前、主人たちは教会に来ないで儲けることに一生懸命になっていたそうですが、不況が来て倒産したり、苦しい時代が来た為に、主人たちも目を覚まし、真剣に神を求め始めたというのです。この結果を見るとき、韓国に不況が来たことは素晴らしいと思います。
 時々、私たちの人生の中に色々な試練があります。その試練が来たときには、この上もない喜びと考えなくてはならないと書かれています。ある人にとっては今、日本は不況で経済的に困っています。ある人は真剣にリバイバルミッションの奉仕したので、病気になったりしてどうしてだろうか。これはある意味で試練です。しかし、それをどのように乗り切るかどうかが問題です。その時にどのような苦しみにあっても主を信頼し、いかに神の前に出るかということが大切なことです。試練の中で、いつでもこのようなことがあります。試練の時にどのような試練が来ても主に従うか。それとも従わないか。どのような試練が来ても信じるか信じないか。この二つです。どんな試練が来ても、たとい死んでも主に従っていきます。どのような問題があっても、私は命をかけて従います。時々私たちはお祈りの中で格好の良い祈りをするときがあります。「イエス様。甲子園ミッションのためなら、命をとっても構いません。」私も、「東京ミッションために命をかけます。」と祈ります。死んでも良いと言いますが、病気になったらどうしてこんな病気になったのかと思います。しかし、どんなに問題が起きても主は真実です。必ず良いことをしてくださいます。悪いことはありません。これを卒業すると、素晴らしい祝福が与えられます。聖書を見ると、時々色々な苦しみがあることを教えています。箴言三章十一節から十二節に、

『わが子よ。主の懲らしめをないがしろにするな。その叱責をいとうな。父がかわいがる子をしかるように、主は愛する者をしかる。』

試練は愛されているからだと聖書は教えています。ですから、私たちは信仰を持つべきです。聖書の中で一番有名な人はイエス様ですが、旧約聖書の中で一番尊敬されている人はアブラハムです。アブラハムは全世界の父、ユダヤ人の父と言われています。素晴らしい人です。この人は信仰のある人で、神様が、「わたしが示すところに出て行きなさい。」と言われた時、「行くところを知らずして出て行った」と聖書に書かれています。従順に出て行って素晴らしい祝福が与えられました。神様がされた最終的な約束は、「あなたの子孫によって地の子孫は皆祝福される。」しかし、彼には子どもがありませんでした。神様は年老いた彼に向かって、「必ずあなたの末から祝福が流れる」と言われたときに彼は信じました。そして彼が百才、奥さんが九十才の時に赤ちゃんが与えられました。これが約束の子イサクです。しかし、イサクが成長したある時に神様が、

『「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そしてわたしがあなたに示す一つの山の上で、全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい。」』

と言われました。長い間待って与えられたひとりの子イサクを神様が全焼のいけにえとしてささげなさいと言われました。全焼のいけにえは、羊をほふって殺し、火で焼きます。なぜ、神様がアブラハムを試みたかわかりませんが、ある人によると、アブラムは長いこと待って百才になってイサクをもらい、嬉しくて彼の愛が神様よりイサクにいってしまったからだと推測します。神様から見たらせっかくイサクを与えたのに、イサクを愛している、時々そのような人もいます。神様が経済的に良くしたのにお金や事業の方ばかりに夢中になって、イエス様よりも金が中心となってしまう、またイエス様が知恵を与えてくださっても、あたかも自分が知恵があるかのように錯覚することがあります。だから神様がテストしたというのです。彼が本当に神を愛しているかどうか、「あなたのひとり子イサクをささげなさい」と言われたのです。その時彼は神様に従って、三日間イサクと一緒に山に上りました。イサクは、「お父さん、たきぎは持っているけれど、ささげる子羊がないのはどういうわけですか。」と聞くと、「主が備えてくださる。」と言いました。やがて頂上に着くと、アブラハムはイサクをささげようとしました。イサクはすでに十数歳でしたので、「お父さん。何を言っているのだ。僕ではなく、自分をささげたたら良いではないか。お父さんは百才ではないか。」と言えたと思いますが、彼も従順でした。アブラハムが斧を振り上げたとき、天使が「待った。その子に手を施してはならない。」と言いました。すると、薮に雄羊がおり、それをささげました。その時神様は、とても喜んで、

『「これは主の御告げである。わたしは自分にかけて誓う。あなたが、このことをなし、あなたの子、あなたのひとり子を惜しまなかったから、わたしは確かにあなたを大いに祝福し、あなたの子孫を、空の星、海辺の砂のように数多く増し加えよう。そしてあなたの子孫は、その敵の門を勝ち取るであろう。』

と書かれています。ひとり子さえも惜しまずに神様に喜んでささげたアブラハムを見て、「この男は素晴らしい。この人の子孫から救い主を送り出そう」と言われました。
 時々試練がありますが、従順になることが必要です。また、信じることです。絶対に神は悪いことはしないということを信じることです。必ず試練の後は良いことがあります。信仰を持ちましょう。私たちクリスチャンにとっての問題は、二心です。だから聖書の中にヤコブ書一章に、

『あなたがたの中に知恵の欠けた人がいるなら、その人は、だれにでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる神に願いなさい。そうすればきっと与えられます。ただし、少しも疑わずに、信じて願いなさい。疑う人は、風に吹かれて揺れ動く、海の大波のようです。そういう人は、主から何かをいただけると思ってはなりません。そういうのは、二心のある人で、その歩む道のすべてに安定を欠いた人です。』

と書かれています。神様は二心を嫌います。良いときは信じていますが、悪いときには信じられないというのではいけません。だから、聖書の中に

『あなたがたの中に知恵の欠けた人がいるなら、その人は、だれにでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる神に願いなさい。』

と書かれていますが、学生の方は高校受験、大学受験がありますが、「知恵が欠けていたら惜しむことなく、とがめることなく、すべての人に与える神に求めなさい」と書かれていますので、遠慮せずに頭の悪いと思う方も良いと思う方もイエス様に知恵を求めてください。必ず与えられます。ただし疑わないで信じて求めることです。神の知恵を与えてくださいます。
 先日、テレビを見ていました。アイシュタインのことについてやっていました。相対性理論を発表した彼は、神を信じ、その中で一つの理論を受けました。私たちは色々な面で知恵が必要です。このようにバブルが弾けた時に、一体どうしたら良いか、自分の思いではなく、この試練をどのように乗り切ったら良いかということについても考えるべきです。しかし、神の前に出る以上は、必ず神様が良くしてくださることを信じなければいけません。二心ではいけないというのです。決めなくてはいけません。二心の者は神様に喜ばれないのです。
 時々富んでいた人たちが貧しくなる時があります。貧しい人が富める時もあります。その時にどのような心を持つかが大切です。ヤコブの手紙一章十節に、

『貧しい境遇にある兄弟は、自分の高い身分を誇りとしなさい。富んでいる人は、自分が低くされることに誇りを持ちなさい。』

と書かれています。この訳し方は色々な訳し方がありますが、もっとわかりやすいのは文語体で、

「低き兄弟は、おのが高くされたことを喜べ。」

と書かれています。「低い人が高くされたことを喜びなさい」と書かれています。貧乏の人が金持ちになったら誰でも喜びます。身分の低い人が高くなったら誰でも喜ぶことができます。

 私はイエス様のおかげでこんなに幸せになりました。北設楽郡下津具村の四軒しかない田舎から、伝道者になれたのはすごいことだと感謝しています。しかし、次には

「富める者は、おのが低くされたことを喜べ。」

と書かれています。「駄目になったときに喜べるか」と言います。しかし、高い人が低くされたときに喜べるかが問題です。
 家内が私と結婚したとき、大へん貧乏なところを通りました。私にはほとんどお金はなく、就職もなくて結婚したので貧乏で明日の食べものがない、というようなところを通りました。鉱山に三年間勤め、やがて新城に来て四ヶ月間失業したことがありました。その間、次から次へと子どもが生まれ、貧乏な子沢山でした。家内は私と結婚するまでは、豊かな生活をしていました。しかし私と結婚してから、私に貧乏神が付いていたわけではありませんが、貧乏な生活をしました。着物も家内に買ってあげることが出来ませんでした。その上、家内の持っている着物で子どものための洋服を作ったりしました。ある時、家内を見たときに、あまりにも汚い格好をしていたので、「あんた乞食みたい。」と言ったことがありました。その時私の家内は、「高いものが低くされたことを喜べと書かれているので感謝します。」と喜んでいました。「低くされたことを喜べ」と書かれていますが、本当にイエス様のしてくださったことを喜んだときに、イエス様が豊かにしてくださいました。今では、家内は色々な人から洋服をいただいたり、自分でも買ったりして、たくさん服があります。主が豊かに恵んでくださったのです。神様が使いものになるように高いところは低くされます。また、低いところは高くされます。試練に遭う時は大切です。どのような態度で神様の前に出るかは非常に大切です。ですから、心を決めるべきです。
 ダニエル書を見ると、ダニエルは心を決めています。青年たちに王の食べる物を与え、酒を飲ませ、訓練させて王の前に出させようというときに、ダニエルはシャデラク、メシャク、アベデネゴと共に、「私は偶像に出して汚された物は絶対に食べません。王様の食べ物は食べません。」と言って彼らは心を決めて係のところに行き、「お願いです。私たちは野菜だけ、豆だけ食べさせてください。」と願いました。「そんなことをして健康を害されると困ります。」「しかし、試してください。」
 聖書には彼らは心を決めたと書かれています。そうしたら神は他の者たちより十倍の知恵を与えたと書かれています。彼らの人生の中で、偶像を拝まないなら火の中に投げ込まれると言われた時にも、彼らは心を決めて絶対に拝みませんでした。彼らは火の中に投げ込まれましたが、主の守りがあり焼け焦げることはなかったのです。神様は心を決める人を祝福されます。私たちはどのようなときでも心を決めていきましょう。そして、深く信じたいことは、「神は良い方」であると言うことです。悪くはされません。ヤコブの手紙一章十七節に、

『すべての良い贈り物、また、すべての完全な賜物は上から来るのであって、光を造られた父から下るのです。父には移り変わりや、移り行く影はありません。』

と書かれています。「良い贈り物。すべての完全な贈り物は上から来る」と書かれています。試練の中でどん底であっても主を心から信じ従っていきます。必ず上からの良い贈り物が来ます。神様が用いようとすればするほど、試練を通されます。そこをパスしたら、素晴らしい祝福が来ます。ヤコブ所三章十四節からに、

『しかし、もしあなたがたの心の中に、苦いねたみと敵対心があるならば、誇ってはいけません。真理に逆らって偽ることになります。そのような知恵は、上から来たものではなく、地に属し、悪霊に属するものです。』

と書かれています。敵対心や苦いねたみは肉に属し、悪霊に属しているものだというのです。だから、敵対心を持ってはいけないのです。

『ねたみや敵対心のあるところには、秩序の乱れや、あらゆる邪悪な行ないがあるからです。』

と書かれています。ねたみや敵対心があるところに良いものはありません。だからねたみや敵対心を持ってはいけません。誰かが自分よりも成績が良くなってもねたんではいけません。しかし、十七節には、

『しかし、上からの知恵は、第一に純真であり、次に平和、寛容、温順であり、また、あわれみと良い実とに満ち、えこひいきがなく、見せかけのないものです。義の実を結ばせる種は、平和をつくる人によって平和のうちに蒔かれます。』

と書かれています。「第一は純真」と書かれています。私たちは神様に純真であるべきです。信仰も敵対心やねたみがあってはいけません。教会成長でも敵対心で、「あの教会に負けてはおれない」ではおかしいのです。神様は他をどのように祝福されても、ここにも祝福されます。ねたんではいけません。純粋な気持ちで信仰を持ったらイエス様は祝福してくださいます。また「平和」赦し合い、愛し合っていくべきです。「寛容。温順であり、また、哀れみと良い実で満ち・・・。」と書かれています。教会はいつも哀れみがあるべきです。どんなに知恵があっても高慢になったら終わりです。憐れみ深い人であるべきです。また良い実にいつでも満たされていることが上から来たものであると書かれています。だから今試練の中にあるとしても信仰を持ちましょう。今イエス様が何を考えておられるか、自分の態度について考えなくてはなりません。ヤコブ書五章十節からに、

『苦難と忍耐については、兄弟たち、主の御名によって語った預言者たちを模範にしなさい。見なさい。耐え忍んだ人たちは幸いであると、私たちは考えます。あなたがたは、ヨブの忍耐のことを聞いています。また、主が彼になさったことの結末を見たのです。主は慈愛に富み、あわれみに満ちておられる方だということです。』

と書かれています。神様は良い方です。例えば、今病気になっている人についてイエス様は、「病気になって苦しんでいる、おもしろい」とは思っておられません。貧乏で困っているときに「貧乏で困っているのでおもしろい。」とは言われません。私たちの悩んでいるときに、主も一緒に悩まれます。火の中、水の中、いつでも主は私たちを愛され、最後には必ず良いものを与えてくださいます。
 ヨブは非常に正しい人でした。主を恐れていました。こんなに素晴らしい人はいないと言われるくらいの人でした。ある時、悪魔が神の所に来ました。「お前はどこから来たのか。」「はい。地を巡ってきました。」「私のしもべヨブを見たか。あんなに素晴らしい人はないだろう。神を恐れて素晴らしいだろう。彼ほど素晴らしい人を見たことはないだろう。誇りとしている。」
 だいたい親でもそうです。自分の子どもが勉強ができたら、関係ない人にも、「家の子は一番だ。」と言います。親は子どもについて誇ります。神様は「ヨブを見たか。」と誇りました。悪魔は、「それはいたずらには神を恐れません。あなたが金を与え、財産を与え土地も与え、あんなに良くしたら、誰だって神を恐れますよ。一度財産を取ってみたらどうです。きっとあなたを呪いますよ。」神様は悪魔に言われて心を動かし、ヨブのいのちには手を付けてはいけないと言われました。試練は神様が許されたことです。その時に財産を全部取られ、七人の子は皆死にました。その時ヨブは「主は与え、主は取られたのだ。主の御名はほむべきかな。」と語り、神を呪うことはしませんでした。そこへサタンが来ましたので、「ヨブは呪いもしなかっただろう。」と言いました。すると悪魔が、「あれは自分が元気だから言っているのだ。子どもが死んだって自分が元気だから良いのです。ヨブの体でも悪くしてみなさい。そうすればきっと呪いますよ。」そして彼には全身できものができました。すごい苦しみの中でも、彼は「感謝します。」と言っていました。しかし、奥さんは、「あんた何よ。こんなに苦しみがあっても神様と恐れるなんて、神様を呪って死になさい。」と言いました。悪い奥さんです。慰めるところではなくこう勧めたのです。奥さんにとっては七人の子どもが死んだということで心がやるせなくて、ぶつけるところがないから夫にぶつけたのです。すると彼は「そんな愚かなことを言うものではない。幸いを受けたから災いも受けなければならない。」今まで良くしてくださったから、神様がくださった災いも喜んで受けましょうと言いました。そして色々なことがあって、彼は練りきよめられ、もう一度神様が彼を祝福し、今度は二倍を彼に返してくださいました。子どもも素晴らしい子どもで、ヨブの子どもほど美しい子どもはなかったとあります。「ヨブの忍耐のことを聞いたか」と書かれています。今苦しいことがあっても、どのようなことがあっても、その中でつぶやいてはいけません。感謝してください。「神様憐れんでください。」「あなたのために純粋に従うことができますように。」と祈っていきましょう。特にクリスチャンは、病気になった人のために真剣に祈り合い、また貧しい人を助けましょう。憐れみ深い人になりましょう。そして本当に祝福されて、教会が神様の前に恵まれていきましょう。
 この教会は試練を通りましたが、信じ続けましょう。「リバイバル。リバイバルと先生はいつも大きなことばかり言って、甲子園、東京に行ってもリバイバルは起こらない」というつぶやきを持たないで、「リバイバルは必ず来る」と信じましょう。信じますか。「アーメン」
 素晴らしい霊的戦いを始められた方は、必ず霊の壁を砕いてくださり、素晴らしいリバイバルを与えてくださることを心から神にかけて信じましょう。必ずリバイバルが来ます。その時にあなたを用いてくださいます。一言お祈りします。

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