今週の礼拝メッセージ
今週の礼拝メッセージ
聖霊のバプテスマを受けよう   1999.2.14(SUN)

新城教会牧師 滝元 順

<今週のメッセージの御言葉>
使徒の働き1章3節〜5節
イエスは苦しみを受けた後、四十日の間、彼らに現われて、神の国のことを語り、数多くの確かな証拠をもって、ご自分が生きていることを使徒たちに示された。彼らといっしょにいるとき、イエスは彼らにこう命じられた。「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。ヨハネは水でバプテスマを授けたが、もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマを受けるからです。」

 ハレルヤ!礼拝で奉仕できる恵みを感謝します。今回は「聖霊のバプテスマを受けよう」というタイトルで話したいと思います。
 昨日は二月十三日でしたが、私は一九九二年二月十三日に、聖霊様に強烈に触れていただくという、素晴らしい体験をさせていただきました。私はその時から変えられました。クリスチャンは救われて終わりではなく、次の段階があります。知識だけの信仰ではなく、強烈に神様と出会うという体験が必要であると思います。弟子達も聖霊のバプテスマを受けてから人生が変えられました。パウロは先々で人々に聖霊を受けるように勧めました。彼がエペソの教会に訪問したときのあいさつは、「こんにちは」ではなく、「信じたときに聖霊を受けましたか」から始まりました。聖霊に触れていただくという体験は、何よりも素晴らしいことです。生ける神の臨在に触れていただくという体験は、人間にとって最高です。
 十九世紀のアメリカでリバイバルを導いたチャールズ・フィニーという伝道者も又、聖霊を受けました。彼はその時のことを語っています。
 「聖霊は私の肉体と魂を貫くように下ってきた。その印象はまるで電気の波のように幾度も私を超えていった。まるで愛の波が幾重にも押し寄せてきたかのようであった。他にどのように表現すれば良いのかわからなかった。それはまさに神御自身の息のようだった。」
 私たちの神は生きておられる方で、ご自分の息を人に吹き付けられるのです。人は神の息を受けるときに生き返ります。今日、もう一度神の息吹によって素晴らしい体験をいただかなくてはなりません。聖書中、用いられた人物は、初めはただの人でしたが、神の息に触れたときに変えられました。
 旧約聖書で聖霊を受けたのは、特定の人たちでした。ある時は預言者であったり、王様であったり、時の指導者のような特定な人物に聖霊が注がれました。しかし、新約の時代になってからは、すべての人に神の霊が注がれる祝福へと広がっていきました。今は新約の時代であり、使徒の働きの時代であり、終わりの時代です。そして聖書は、「終わりの日にわたしの霊をすべての人に注ぐ」と約束しています。人が自分の霊だけで生きて行くのは辛いことです。しかし神の息が私たちの内に入るときに生き返ります。今、日本が大きな問題に直面していますが、日本が生き返るために必要なことは、神の霊に触れることです。神の霊が日本に吹き付けて、日本を変えていただかなくてはなりません。今日は、神の霊に触れるために学びたいと思います。
 旧約聖書中、神の霊によって変えられた人物の一人に、初代のイスラエルの王になった「サウル」がいます。彼が聖霊によって捕らえられた記事が第一サムエル記十章に書かれています。十章三節から六節に、

『あなたがそこからなお進んで、タボルの樫の木のところまで来ると、そこでベテルの神のもとに上って行く三人の人に会います。ひとりは子やぎ三頭を持ち、ひとりは丸型のパン三つを持ち、ひとりはぶどう酒の皮袋一つを持っています。彼らはあなたに安否を尋ね、あなたにパンを二つくれます。あなたは彼らの手から受け取りなさい。その後、ペリシテ人の守備隊のいる神のギブアに着きます。あなたがその町にはいるとき、琴、タンバリン、笛、立琴を鳴らす者を先頭に、高き所から降りて来る預言者の一団に出会います。彼らは預言をしていますが、主の霊があなたの上に激しく下ると、あなたも彼らといっしょに預言して、あなたは新しい人に変えられます。』

 この箇所は、サウルが預言者サムエルによって語られた預言の言葉です。この預言は、「その日に実現した」と書かれています。それで彼は聖霊を受け、新しい人に変えられました。
 生まれながらの人間はそのままです。しかし神の霊を受け、宿すときに新しい人に変えられます。この中に面白い預言が語られています。神のもとに上っていく人たちが、「パンを三つ」持っているというのです。その二つをくれるから、二つのパンをまず受け取りなさい。次に神の預言者たちに出会う、すると、あなたに神の霊が下るというものです。

 パンを二つもらって、次に聖霊が降るというのはどのような意味でしょうか。
 イエス様が聖霊について語られた箇所で、ルカの福音書十一章五節、

『また、イエスはこう言われた。「あなたがたのうち、だれかに友だちがいるとして、真夜中にその人のところに行き、『君。パンを三つ貸してくれ。友人が旅の途中、私のうちへ来たのだが、出してやるものがないのだ。』と言ったとします。すると、彼は家の中からこう答えます。『めんどうをかけないでくれ。もう戸締まりもしてしまったし、子どもたちも私も寝ている。起きて、何かをやることはできない。』あなたがたに言いますが、彼は友だちだからということで起きて何かを与えることはしないにしても、あくまで頼み続けるなら、そのためには起き上がって、必要な物を与えるでしょう。わたしは、あなたがたに言います。求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであっても、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。あなたがたの中で、子どもが魚を下さいと言うときに、魚の代わりに蛇を与えるような父親が、いったいいるでしょうか。卵を下さいと言うのに、だれが、さそりを与えるでしょう。してみると、あなたがたも、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。」』

 この箇所は、始め、「三つのパン」を求めています。その中で、聖霊について語られています。サウルの箇所では「二つのパン、プラス、預言者に触れるとき」に聖霊を受ける、即ち、合計三つです。これはどのような意味でしょうか。
 キリスト教には三つの大きな理解が必要です。この三つが一つになるときに人生に新しいことが起こるのです。
 今日も礼拝が終わってから洗礼式があります。水の中に浸ります。父なる神、子なるイエス様、聖霊様の名によってバプテスマを受けます。私たちが信じている神様は三位一体です。これはなかなか、解り難いことです。父なる神様と子なるイエス様と聖霊様が一つだというのです。1+1+1は三なのに、「一」だというのです。1x1x1が一であるように、神御自身は「三位一体」です。
 イエス様が天に帰られる前、弟子たちに向かって、

『それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。』

と語られました。「父と子と聖霊の名によってバプテスマを授けなさい」と語られました。教会の目的の一つは、父と子と聖霊の名を伝え、バプテスマを授けることです。この三つの理解は重要です。
 第一に、「父なる神のバプテスマ」の必要性を教えています。イエス様が来られる前に、ヨハネという人物が水のバプテスマを授けていました。これについて、ルカの福音書七章二十九節に

『ヨハネの教えを聞いたすべての民は、取税人たちさえ、ヨハネのバプテスマを受けて、神の正しいことを認めたのです。』

と記されています。ある意味で、ヨハネが授けたバプテスマは、「父なる神様に対するバプテスマ」でした。これは、「神はただ一人です」という宣言です。
 私たちが理解しなくてはならないキリスト教の基本は、「神はただ、お一人」ということです。日本では八百万の神々を語りますが、神はただ一人だけ、天地宇宙を造られた創造者は一人である、ということです。多神教ではいけません。神様がただ一人であることをまず認めなさい、という意味です。
 一九七五年にエリザベス女王夫妻が来日しました。日本政府はご夫妻を色々なところに案内し、伊勢神宮にまで連れていきました。その時、内宮の前まで行くと宮司がもったいぶって、「ここからは聖なる場所です。ここからは総理大臣も入ることができない。入ることができるのは皇族だけだ。」と言いました。するとエジンバラ公が宮司に、「大工さんは入らなかったのですか。」と聞いたそうです。
 神様とは、限られたところに住んでおられる方ではありません。天地宇宙を造られた方です。伊勢神宮の内宮に入らなくてはおられない方ではありません。天地宇宙を造り、支配しておられる方が神様だと言うのです。日本人は頭が良いですが、少し悪いところもあります。多くの日本人は、天地宇宙を造った神様というよりも、自分の手で作った「物」を神だと信じているのです。石や木を神だと信じています。石や木が神になるはずがありません。日本で多く見かけるような、石仏や木で作ったような仏などは神ではありません。
 平安時代に大寒波が襲ったそうです。人々は暖房のための薪を集めるのに必死だったそうです。しかし、あまりにも寒くて、暖房用の薪がついになくなってしまったそうです。ある禅寺で、和尚さんが寒くて、近くにあった木でできた仏像を燃やして暖をとっていたそうです。丁度その時、運悪く、信者さんに見つかってしまったそうです。「和尚さん。何をしているのです。仏様を燃やしてしまって。」と驚いて言ったそうです。和尚さんは、「これは困った」と思ったけれど、仏教では釈迦の骨に重要な意味があるそうですが、「今、私は仏様を焼いて聖なる骨をとり出そうとしているのです。」と説明したそうです。すると信者が、「そんなバカな、そんな木の仏像を燃やして骨が取れるはずがない。」と言ったそうです。すると和尚さんは、「骨をとることができないような仏は仏ではない。これは木だ。」と言ったそうです。燃やしたら灰になってしまうようなものは神ではありません。
 父なる神様のバプテスマは、「神様はお一人だ」と言うことを理解するものです。
 第二に、「子なる神のバプテスマ」です。これは、「救い主はイエス様以外にありません」ということです。この地上にイエス様以外に救い主はないのです。
 私は牧師の息子として生まれました。気が付いたら教会に生まれていました。牧師の息子がクリスチャンで、なおかつ、牧師をやっていたら、「キリスト教は本物だ」と信じる方が良いです。私は教会の内側も外側も上からも下からも見た者です。それでも、「イエス様が救い主だ」と断言しています。私は始め教会を冷ややかな目で見ていました。なぜこんな所に生まれてしまったのだろうかと思っていました。私の父母は牧師で、人のためにいつも一生懸命にしていました。牧師は変な職業だと思っていました。しかしそのような中で、私はイエス様が救い主であることを発見しました。私のような冷ややかな者をもイエス様は救ってくださいました。「天下にイエス・キリスト以外に救いはありません。」本当に人類を、あなたを救ってくださるのは、イエス・キリストです。信じますか。「アーメン。」
 今日は二月十四日、バレンタイン・デーです。バレンタイン・デーは女性が男性に愛を告白する日だそうです。チョコレートを贈るそうです。チョコレートを贈ることとバレンタインデーとは、何も関係ありません。あれは、チョコレート会社の陰謀だそうです。チョコレート会社は二月までに年間の六割を売ってしまうそうです。バレンタインデーの起源には色々な説がありますが、一つにはキリスト教的な意味です。インターネットで調べたところによると、紀元三世紀に、バレンタインというイエス・キリストを信じる若者がおりました。彼には、一人の美しい恋人がおり、彼女と結婚しようと楽しみにしていたそうです。すると、折しもローマ皇帝が、「クリスチャンは全員反逆罪により、違法市民と見なす」という、おふれを出したのです。そして、多くのクリスチャンが逮捕されました。そのような中で、「シーザーこそ主である」と告白したら許されたそうです。そんな時代があったのです。しかし、クリスチャンは、「イエスこそ主である」と告白しました。「イエスこそ主である」と告白することは、すなわち死を意味しました。バレンタインも捕えられました。彼には婚約者がいたのです。そして、「おまえはイエスは主である、と言うのか、それともシーザーが主であると言うのか。」と裁判にかけられました。しかし、バレンタインは、「イエスは主です。」と大胆に告白しました。そして彼も処刑されることになりました。ローマ皇帝は、コロシアムという競技場で、クリスチャンとライオンとを戦わせて、クリスチャンを殺していました。バレンタインも牢獄に入れられ、競技場に引き出される順番を待っていました。そのようなときに、牢獄の中で彼は自分の恋人に宛ててラブレターを書きました。永久に変わらぬ愛を綴りました。そして、西暦二六九年二月十四日、若きバレンタインは処刑され、イエス・キリストのための殉教者となったのです。バレンタインの最愛の人は、「イエス・キリストであった」ということでした。この心境を理解できるでしょうか。イエス様は目に見えないです。しかも、婚約者がいるのにイエス様のために命を懸けて従っていく。これは実際にイエス・キリストと出会ってなかったら絶対に出来ません。現在、世界の人口の三分の一がクリスチャンだと言われます。なぜそんなに多くの人々がイエス・キリストに従うのでしょう。そこには何かがあるのです。「わたしは道であり、真理であり、いのちです。」とイエス様は言われました。このような言葉を語れるのは、「神様か、それとも、少し頭がおかしくなった人かのどちらか」です。イエス様は救い主なのです。
 子なる神、イエス・キリストのバプテスマの意味は、「イエス・キリストは救い主」ということです。
 第三に、「聖霊のバプテスマ」です。多くの場合、神様はただ一人、そして、イエス様は救い主というところで止まってしまします。しかし、これではいけません。神様は三位一体なる方です。もう一つ、「聖霊によるバプテスマ」、即ち、聖霊様に支配されるということが、しっかり確立されなければなりません。
 ある時、ある人が山道を軽トラックで走っていました。すると、山道をおばあさんが重そうな荷物を担いで歩いていました。軽トラックの運転手は親切に車を止めて、「おばあちゃん、後ろに乗りなよ。」と言いました。するとおばあさんは、「本当に良いですか。」と感謝して荷台に乗りました。しばらくしてバックミラーを見ると、おばあさんは依然として荷物を背負ったまま座っていたそうです。運転手は、すぐに車を止めて、「おばあちゃん、おばあちゃん、もう車に乗っているのだから荷物を下ろしなさい。」と言いました。すると、「車に乗せてもらって荷物まで下ろしたら申し訳ない。」と答えたそうです。車は動いており、荷物も一緒に運ばれています。だから、おばあちゃんが荷物を背負っていても、下ろしても何も変わりません。
 クリスチャンでも同じような方がおられます。「イエス様によって救われただけで充分です。自分でこの重荷を負っていきます。」と重い荷物を背負いながら、救いの汽車に乗っている人がいます。聖霊様は、助け主です。私たちを助けてくださる方です。私たちの重荷をとってくださる方です。「重荷をすべて下ろしなさい。」と言われます。神様はひとり子イエス様を与えられました。この方を信じるなら救われます。しかし、これだけで終わっていません。イエス様を遣わしたばかりか、聖霊様を助け主として遣わされました。今日ここにおられます。聖霊のバプテスマは、「助け主、聖霊御自身に満たされる」のです。今日ここにおられるすべての方が、聖霊様によって触れていただくならば、重荷も取り去っていただくことができるのです。父なる神様、子なるイエス様、聖霊なる神様の三つに浸されることが大切です。「三つのパン」とは、そのような意味があります。「二つのパン」だけ受け取って終わってはいけません。サウルと同じように、次に、「神の霊を受け取る」ことが必要です。
 今日、皆さんの中にも、「私はまだ聖霊様に触れられていない」と感じておられる方は、聖霊様に触れていただきましょう。神様について、頭だけで、心だけで理解するのではなく、全身全霊で生ける神様を体験することが大切です。
 一九六五年にインドネシアのチモール島でリバイバルが起こりました。イスラムの島でしたが、リバイバルが起きて多くの人たちがイエス・キリストを信じました。その時に、彼らは次々と、聖霊に触れられ、聖霊のバプテスマを受けました。それで変えられ、地の果てにまで証人となるとイエス様が言われたように、彼らは多くの島々を廻って福音を伝えたのです。聖霊を受けると、福音を恥じることなく、伝える者になります。
 その指導者、メルキオ・タリが聖霊のバプテスマを受ける秘訣について書いています。これを実行し、神の霊に触れていただく体験をしましょう。
 まず第一は二つのパンを食べることです。「神はお一人、そして、イエス様は救い主」です。イエス様を信じるならば、内側に聖霊様が住まわれます。しかしそれで充分ではありません。
 私の家に「ガス湯沸かし器」がありますが、コックをひねると、お湯が出ます。しかし冷たい水しか出ず、お湯にならない時があります。「今日は寒いからか」と思いますが、あまりにも長いので湯沸かし器を調べると、種火が付いてないのです。種火に着火しないとコックをひねってもお湯は出ません。同様に、イエス・キリストを信じないと私たちの内側に種火がつきません。しかし、種火だけだと、一時間たってもお湯は沸きません。しかし、コックをひねるときに、火がつきお湯が沸くように、聖霊様に触れられるとは、もう一度、コックをひねってもらうことです。しかし一番大事なことは、「イエス様を救い主として信じる」ことです。今日イエス様を信じてください。救い主として信じるのです。そうすると神の霊の種火が付くのです。
 そして第二に、罪があったら聖霊様に触れていただくことはできません。「罪を告白して悔い改め」なくてはなりません。イエス様がこの地上に来てくださったのは、私たちの罪の身代わりとなって、死ぬために来てくださいました。イエス様の十字架の血で、すべての罪がきよめられるのです。
 第三に、インドネシア・リバイバルの中で聖霊を受ける秘訣として神が教えた事柄は、「悪霊との関係を断つ」ということでした。これは、人生の中で悪霊と結んだ関係を断つということです。偶像礼拝は悪霊礼拝です。偶像を拝むときに悪霊との関係ができるのです。偶像礼拝はただ、悔い改めるだけではいけません。悪霊との関係を断ち切り、悪魔の力を拒否する祈りが必要です。これは人々を解放します。コックリや占い、手相なども悪霊との関係ができます。「神様、偶像礼拝の罪を赦してください」の祈りだけではなく、「悪魔との関係を断ち切ります」と祈ることです。その時に解放されて自由になることができます。日本人は先祖代々、悪霊の束縛の中にあります。日本人でなくても、大体人間はそのような束縛の中にあります。聖書は、「偶像礼拝は三、四代に至る呪い」と語っています。先祖が偶像礼拝をすると、その家系に呪いが入るのです。呪われたような家系があります。それは、偶像礼拝、悪魔との関わりのゆえ、家系に悪魔の力が入り込んでしまうのです。ですから、家系中の悪霊とのつながりを断ち切ることが大切です。
 第四に聖霊のバプテスマは神様の約束ですから、「求める」ことです。ルカの十一章十三節に、

『・・・天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。」』

と書かれています。私たちが聖霊を求めたら、必ず与えてくださるのです。このことを信じましょう。まだ聖霊様に触れられた、はっきりとした体験がないと言われる方はぜひ、求めてください。「二つのパン」だけではいけません。「三つのパン」です。神様は三位一体なる方です。「聖霊のバプテスマ」を受けるときに、新しいことが始まります。イエス様の弟子たちも聖霊を受けたときに新しく変えられました。新しい力を受けました。今日、すべての方が、聖霊のバプテスマを受けて新しい力をいただきましょう。そして、常に満たされることが必要です。私もそれを願っています。今日、主の前に出て聖霊の力を求めて祈りましょう。
 その前に主を信じ、罪を赦しを願い、また、悪魔との関係を全部断ち切ります、聖霊によって満たしてくださいと祈りましょう。一人一人、体験は異なりますが、神が生きておられ、神の息吹に触れるときが必要です。一言お祈りします。

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