今週の礼拝メッセージ
今週の礼拝メッセージ
食事時には食事を   1999.2.28(SUN)

新城教会牧師 上條 実

<今週のメッセージの御言葉>
マタイの福音書24章44節〜46節
だから、あなたがたも用心していなさい。なぜなら、人の子は、思いがけない時に来るのですから。主人から、その家のしもべたちを任されて、食事時には彼らに食事をきちんと与えるような忠実な思慮深いしもべとは、いったいだれでしょうか。主人が帰って来たときに、そのようにしているのを見られるしもべは幸いです。

 ハレルヤ!今日ここで皆さんとともに御言葉を学ぶことができることを感謝します。祈っていただいているイスラエルリバイバルツアーは先週木曜日に明牧師からファックスが届きました。そこにはガリラヤ湖の湖畔で明牧師夫妻と西村兄姉と伊庭兄姉、伊藤兄姉と共に新城のために、日本のために祈りましたという書いてありました。明牧師の一行は一日(月)、順牧師の一行は二日(火)、そして最終は六日(土)に帰って来ることになりますのでぜひ、最後まで全員が守られるように祈ってください。では早速、御言葉を学んでいきたいと思います。今日のテーマは「食事時には食事を」というテーマで御言葉を学びます。マタイの福音書二十四章三節からに、

『イエスがオリーブ山ですわっておられると、弟子たちが、ひそかにみもとに来て言った。「お話しください。いつ、そのようなことが起こるのでしょう。あなたの来られる時や世の終わりには、どんな前兆があるのでしょう。」』

と書かれています。最近テレビ・雑誌などで、一九九九年七月はノストラダムスの預言した「天から大王が来る」ということが話題になっています。世紀末ということもあって皆が動揺しています。私たちが聖書を読んでいても世の終わりについて語られています。二十四章四節からに、

『そこで、イエスは彼らに答えて言われた。「人に惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名のる者が大ぜい現われ、『私こそキリストだ。』と言って、多くの人を惑わすでしょう。また、戦争のことや、戦争のうわさを聞くでしょうが、気をつけて、あわてないようにしなさい。これらは必ず起こることです。しかし、終わりが来たのではありません。民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、方々にききんと地震が起こります。しかし、そのようなことはみな、産みの苦しみの初めなのです。』

と書かれています。間もなくイエス様が帰って来られる。まもなく世の終わりが来るということは聖書を読んでいてわかります。しかし、いつイエス様がこの地上に来られるか、私たちを迎えに来られるかということは聖書には明記されていません。ノストラダムスは一九九九年七月と言明していますが、聖書には、日時は書いていません。しかし、聖書を読む中で終わりが近づいていると読み取ることができます。主は思いがけないときが来ると聖書を通して知っています。四十四節から四十五節に、

『だから、あなたがたも用心していなさい。なぜなら、人の子は、思いがけない時に来るのですから。主人から、その家のしもべたちを任されて、食事時には彼らに食事をきちんと与えるような忠実な思慮深いしもべとは、いったいだれでしょうか。』

と書かれています。間もなくイエス様が帰って来ようとされているこの時に、用心していなさいと言っています。そしてこの時イエス様から何を求められているのでしょうか。聖書は「彼らに食事時には食事をきちんと与えることのできる思慮深いしもべ」になるべきだと教えています。では「食事時に食事を与えるしもべ」とはいったいなんでしょうか?「食事時には食事を出しなさい。」とはお互いに食事を作って、会食することでしょうか?その他に何か意味があるのでしょうか?食事とはいったい何でしょうか。
 私は今回神の前に出て祈っていました。今日も礼拝後、皆さんのために昼食が準備されています。昼食が用意されているということで、安心して礼拝を守ることができます。主婦の方も、教会の方で用意していると言うことで安心して礼拝に出席することができます。しかし時々昼食の準備がされていると思いながら、ご飯が炊けていない時があります。私は貪欲の者ですので、お腹が空くと怒りやすくなります。甲子園ミッションの準備の時、甲子園ミッションの事務所の近くにあるレストランが、ランチタイムにパン食べ放題で、おいしいと言うことで行きました。しかし、満席だったので「少々お待ちください。」と言われ、イスに腰掛けて皆で待っていました。しかし、少々と言ったにも関わらず十分、二十分・・四十分経っても、席が空きませんでした。その時、他のスタッフたちは皆、忍耐をもって待っていたのですが、私はお腹が空いてイライラし、「まだか・・聞いて来い。」と言ってみたり、ウロウロしたり、他の店に行った方が良かったとかつぶやき放題つぶやいてしまいました。「先生。落ち着いて。」と言われながら、なぜ、こんなに待たされるのだろうかと思いました。食事時に食事がすぐできたら嬉しいのです。お腹が空いて食事を待っている学生に「はい、勉強。」と出したら学生も頭に来ると思います。今お腹が空いている、今欲しいものが欲しいのです。私たちは霊的にも同じ事が言えます。結構神様から「今これを出しなさい」と言われているにも関わらず、出さなくてはいけないものを出さないで、自分の思いのままにしていることがあります。神様の思いを出さずに別のものを出してしまうことがあります。私たちは神様の偉大さを知っています。全能なる神様ですし、私たちに素晴らしい祝福、最高の祝福、豪華な祝福を与えてくださる方であるとわかっています。しかし私たちが人々に出しているものは、あまりにも貧乏性の食事を出してしまっている時があります。しかし自分のためには豪華な食事を求めています。しかし聖書は「受けるよりも与えるほうが幸いです」と書かれています。また、「あなたがたも用心していなさい」と書かれていますが、この世の終わりの時に私たちは自分を守り、自分はきよめられているのだろうか、いつイエス様が帰って来られても大丈夫だろうかと自分に対して目を向けてしまい、自分が受けることばかりを考えています。しかし四十五節に、

『主人から、その家のしもべたちを任されて、食事時には彼らに食事をきちんと与えるような忠実な思慮深いしもべとは、いったいだれでしょうか。』

と書かれています。自分のために食事を作るのではなく、しもべなる私たちがしもべ・人のために食事を出してあげなさいとあります。世の終わりの時にするべきことは、受けるのではなく、与えていくことです。私たちは犠牲を持ってだれかのために食事を整えることを覚えましょう。
 ではどのような食事を出すべきでしょうか。私たちは神様を知った者として、素晴らしい祝福を持っています。それは祈ることです。第一番目の食事は「祈り」を人々に提供していくべきだと思います。毎週のように礼拝後にいやしの祈りをします。牧師たちが祈ることも素晴らしい祝福ですが、マルコの福音書十六章には、「信じてバプテスマを受ける者は救われます。信じる者には次のようなしるしが伴います。」と書かれており、バプテスマを受けた人、すなわちここにおられる兄弟姉妹に対して「病人に手を置けば病人はいやされます。」と書かれています。いやしについて、私たちは牧師先生のところに行って祈ってもらうことは祝福ですが、今度は人々のために、祈ってあげる必要があると思います。私たちにはそれぞれの職場、家庭、学校があり、私たち牧師が入り込むことができないところで皆さんは生活しています。それぞれの場所で、色々なことを必要としている人がいます。会社の中に病気の人がいます。その人をかわいそうに思ったらいやしの祈りをしなくてはなりません。病気の人に、「今度また教会に来て、牧師先生に祈ってもらいましょう。」と言います。そして教会につれて来て、牧師先生が祈ることも素晴らしいことですが、今日学ぶ「食事時に食事を与える」ということは、その場であなたが祈ってあげなさいということです。あなたに神の権威があるのです。バプテスマを受けたあなたが「病人に手をおけばいやされる」これが御言葉です。その人が苦しみ、痛んでいるときに、その場所であなたが祈るのです。その時主の祝福である「食事」を出すことができるのです。皆さんは心の中で「このことのために祈らなくてはいけない」と思う時があると思います。また、この人のために祈ってあげたいと思うことがあると思います。それは聖霊様があなたに今祈りなさいと言う信号だと気づいてください。私は数年前韓国に行ったことがあります。その時何人かの兄弟と共にホームステイをしました。そのホストファミリーの娘さんが病気でした。韓国はキムチなどの辛い物を食べますが、その子は絶対に辛い物を食べてはいけないと医者から止められていました。ある朝その子が涙を流して母親に訴えていました。そして母親に怒られて泣いていました。私は韓国語がわかりませんでしたので、後からお母さんに「なぜ、あの子は泣いていたのですか。」と聞きました。すると辛い物が食べたいというのです。辛い物が好きで食べたいけれど我慢させたというのです。食事制限があるのです。その時私の心に「この子どものために祈ってあげなさい。」と神様が示されました。しかし、まだ牧師ではなく、スタッフでしたので、「牧師でない者が手を置いて祈って大丈夫かなあとか、韓国語がわからないのに手を置いて祈ってもとか、出しゃ張りすぎてはないだろうかとか、リバイバルの国に来ているのにリバイバルの来ていない日本人が祈っても・・・。」など思い巡らせ、祈りたいと思いながらも自分を押さえ、やめてしまいました。祈らなかったのです。しかしその後神様から責められました。「食事時に食事をきちんと与えるしもべ」と書かれています。神様は日々の生活の中で信号を出しています。「この人のために祈りなさい。」いやしのことだけに関わらず、様々なことで祈りなさいと語られます。「あの人の家庭のために」また、ある方はテレビのニュースで遠い国の事件を見たときに「その国のために」「その人のために・・」色々なときにあなたに、「とりなしの祈りをしなさい。祈りなさい。」と神様が語りかけています。しかし私は信徒だからとか、自分が祈っても無理だとか一生懸命聖霊の声をふせてしまい祈らないのです。結局祈ることは自分の家のこと、自分の体のこと、自分の身内のこと、自分の受けることばかりを私たちは求めてしまっています。しかし、今日しもべとして食事時に彼らに食事をきちんと与えるような忠実な思慮深い一人一人になっていきたいと思います。祈りなさいと聖霊様に心の中で語られたなら、素直に祈りましょう。心のうちにこの事のために祈りが必要だと思ったなら、それが神の時。食事時です。あなたが祈るのです。
 また、食事時の食事の第二番目はクリスチャンとして伝道して行かなくてはなりません。しかし「伝道」と言われても自分は伝道ができない。苦手だと言われる人もいるかも知れません。これは賜物ですのでタイミング良く、上手に伝道できる人もいるかも知れませんが、話すことが苦手な人、勇気のない人がいてもおかしくありません。教会は各器官です。しかし、私たちは伝道というと何か構えてしまい、聖書を開いて個人伝道を・・・・と考えてしまいますが、今日は私たちの舌について考えてたいと思います。私は昨日聖書を学ぶ中で舌のことについて書かれているところを読みました。船も小さなカジ一つで大きな船の向きを変えることができる、私たちもこの舌で悪い言葉を語り、また賛美している。簡単に語った言葉で、人を殺してしまったり、傷つけてしまう。またいやし、救うことができる。だから語っている言葉に気を付けなくてはならないということを教えられ、「悪い言葉を語らないように私の唇をイエス様によってきよめ、支配してください。」と祈りました。私たちは職場や学校、近所などで色々な人と会話します。私たちはクリスチャンですのであまり汚れた言葉は出さないように気を付けていると思います。今日私たちの言葉が食事になるということを覚えてください。世の中には色々な人がいます。私たちは恵まれていますが、色々な苦しんでいる人、悩んでいる人がいます。そんな人たちに私たちはどのようなことばを語っているでしょうか。慰めの言葉が欲しいと思っている人に私たちは慰めの言葉を語ってあげているでしょうか。また、ともに喜んであげなければならない人に、逆にいやみを言ったり、私たちが親切にしてあげなくてはいけないと思っていても人目を気にして、なかなか親切な言葉を出してあげられない時があります。「祈ってますから・・。」と短い言葉でもその人の心を和らげてあげるような言葉が出れば良いにも関わらず、なかなかその言葉すら出てきません。また、構えて言えないだけではなく、そのようなことも忘れてしまい、会話の中で言ってはいけないことを話し、気が付くと人の批判や色々な悪口ばかり、人を傷つけてしまうことがあります。人が自分のことを言うとなぜあの人はあのようなことを言うのだろうかと気づきます。しかし自分の語っている言葉を気にしないのです。イエス・キリストは愛のある神様です。イエス・キリストは十字架にかかっている時でさえ「父よ。彼らを赦してください。彼らは何をしているのかわからないのです。」と優しい言葉を語っておられます。私たちは神様によって語らなくてはいけないときに語らないいます。今日舌を血潮できよめていただきましょう。聖霊様に支配していただきましょう。あなたも友だちや近所の方から「ねえ、教会に行っているのでしょう。教会ってどんなところ?」「イエス様はどんな人?」と質問される時があると思います。しかし、そのような時にこそ神様から力をいただいて語らなくてはならないにも関わらず語れない時があります。四十四節に、

『あなたがたも用心していなさい。』

と書かれています。私たちは蓄えがありません。伝道しようと思っても語るべき力も、語る言葉もなくてどのように神様を紹介して良いのかわからない。証して良いのかわからない時があります。今日食事時に食事をきちんと与えることができるようにこの唇をきよめていただき、また食事を与えることができるように、イエス様が十字架にかかられ三日目によみがえってくださったこの十字架を紹介しましょう。聖書を開いて言わなくても、あなたが救われてこんな喜びがあった、こんなに変わったという体験談を語ることができるように用意していかなくてはならないと思います。
 また、食事時の食事である第三番目は、戦いです。色々な戦いがあります。霊的な戦いの中で大変なことがありますが、結構私たちは戦うべき時に戦っていないことがあります。食事時に食事を出せていない時があると思います。戦わなくてはいけないときに戦わず、敗北しているのです。いや敗北しているにも関わらず、傷ついているにも関わらず、それすら知らずにクリスチャン生活をのんきに送っている人がいます。私は子ども会を担当をさせていただいています。昨日もこどもたちと素晴らしい集会を一日かけて行うことができました。その子どもたちの語っている言葉、話題となっているテレビ番組、テレビゲームのことで良く子どもたちと学ぶときがあります。去年子どもたちのテレビの中に「ポッケットモンスター」というアニメが大流行しました。子どもたちがとても好きで、その番組を見ていました。私はそれがどんなものか知らずにいましたが、子どもたちにどんな内容なものか尋ねてみました。すると子どもたちは「一つのものが進化して・・・。」と教えてくれました。聞いていると何だか霊的に良くないようなテレビでした。ですから、私はその次のほさなクラブで「ポケモンや人殺し、いやらしいテレビ番組は見るのをやめよう」と話しました。何の気なしに見ていても知らないうちに種が心に入ってしまい大きくなり、簡単に人を殺してしまうことも話しました。だからテレビをとうして悪魔が戦いを仕掛けてくるから気を付けなくてはならないことを話しました。悪いテレビ番組を見るのをやめるように言いました。その後でちょうど皆さんご存じの「ポケットモンスター」の事件が起こりました。多くの子どもたちが倒れました。あれは光線の具合だという人もいるかも知れませんが、ある面で霊的なものもあると思います。私たちは身近でこれだったら大丈夫だ。テレビを見せておけば家事がはかどるから、子ども番組だから、アニメだからと思っていませんか?悪魔は気持ちの中で自分がリラックスし、油断している時こそ戦いを仕掛けてくるのです。自分が休みモードに入っていても、悪魔には休みはありません。そういう時こそ危ないのです。私たちが神の武具を持って、御言葉の剣を構えているとき、悪魔はそう簡単には戦ってきません。しかし、私たちが戦いを忘れてのんびりとしているときにこそ知らず知らずのうちに私たちは悪魔にやられてしまうことを覚えていただきたいです。私たちは戦うべき時を知ることができるように祈らなくてはなりません。戦い時に戦うのです。今テレビ番組の中で簡単に人を殺してしまったり、性的罪を放映しています。子ども番組にも頻繁に出てきます。種を蒔けばその刈り取りをします。今その結果として子どもや中高校生がいとも簡単に殺人事件を起こしています。性的罪を行っています。それが悪いことだとわからなくなってしまっています。殺人が罪だとはっきりと打ち出された番組。罪を放映しない日本であれば今の世の中はこんな汚れた世の中ではないと思います。子どもたちはそれを見て育っています。戦いを知らせなければなりません。子どもたちはコンピューターゲームなどでゲームが終わってしまう事を「死んじゃった」と言います。「死ぬ」、「殺す」という言葉に何も抵抗がないのが今の現実です。雑誌やテレビなど有名だからとか、流行だからと言って私たちが手を出してしまい、戦いを意識せずにそのようなものを見たり聞いたりしていますが、悪魔はそのようなところを通しても戦いを挑んで来ることを覚えてください。ですから、私たちはいつも戦いを感じとることができるようにしっかりと食事時に食事を与えることのできるようなクリスチャンにならなくてはなりません。
 また私たちはキリストが頭で兄姉は各器官です。聖書は教会は人のからだのようだと語っています。「一つが部分が苦しむ時にからだ全体が苦しみ、一つの部分が喜べばともに喜ぶ。」と聖書に書かれています。しかし、私たちが苦しんだ時に苦しむということを体がわかっていないのです。食事時に食事がさっと出せなくて兄弟姉妹が苦しんでいるにも関わらず私たちは何も知らないで通り過ぎてしまっている。それを見てかわいそうだと思いながらも自分の苦しみとして考えないで通り過ぎてしまう。良きサマリヤ人に出ている祭司やレビ人と同じように、自分が食事時なのに見ていない振りをするのです。食事を出さなくてはいけないのに食事を出せないクリスチャンではないでしょうか。私は最近そのように教えられています。兄姉が苦しんでいるのに、悩んでいるのに、痛んでいるのに感じているだろうか?自分の体がわかっていないのでは教えられています。食事時に食事が用意できていない。飢えた人が目の前にいるのに飢え死にさせているどころか、その人を私が殺してしまっている事に気づきました。イエス様の方では私たちを見たときに「何をしているのだろうか。こんなチャンスを与えてあげているのではないか。こんなに信号を出してあげているのではないか。」と逆に怒っていらだっているかも知れません。今日食事時に食事をさっと出すことができるクリスチャンになっていきたいと思います。マタイ二十四章四十七節に、

『まことに、あなたがたに告げます。その主人は彼に自分の全財産を任せるようになります。』

と書かれています。これは、食事時に食事を出した人について語っている言葉です。食事時に食事を出すしもべ、その人に全財産を任せると書かれています。私たちはリバイバルを求めています。いやし、解放、戦いの勝利を求めています。日本は愛されていないのでしょうか。私たち新城教会は愛されていないのでしょうか?なぜ日本に、新城にリバイバルが起きないのでしょうか?どうしてですか・・と祈るときがあります。まだ日本の時ではないですかと訴える時があります。しかし、今日覚えてください。食事時に食事を出せば全財産を任せると書かれています。リバイバルを妨げ、遅くしているのは自分であることを覚えてください。食事時に食事を与えたならば、全財産を与えると書かれています。今日あなたも全財産をいただくために食事時に食事を与えるクリスチャンになっていただきたいと思います。食事時に食事を与えない者は厳しいことが書かれています。二十四章五十一節に、

『そして、彼をきびしく罰して、その報いを偽善者たちと同じにするに違いありません。しもべはそこで泣いて歯ぎしりするのです。』

と書かれています。泣いて歯ぎしりすると言っています。私たちはひとりひとりが恵みによってクリスチャンになりました。イエス様によって救われました。今度は人々に受けるよりも与えるほうが幸いである。人々のためにどんどん神様から受けたことを人々に分け与えて行かなくてはなりません。そのためにも私たちは食事時に食事をさっと出すことができるクリスチャンにならなくてはなりません。しかし、「私は鈍感です。何もできません。食事時に食事を出すことのできるようなものではありません。」と言われる方もおられるかと思います。しかし食事は、聖書の中に、

『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。』

と書かれています。
 私たちがまず食事を知るべきです。何を私たちがその人に食事時に出してあげるべきなのでしょうか。そのためにまず自分の食事が必要です。そのために私たちは御言葉を読むことが大切です。聖書を毎日読んでください。毎日私たちは朝昼晩食事をします。お腹は毎食ごとに空いて、何があっても忘れずに食事を取ります。しかし、霊的な食べ物は鈍感になっています。聖書は日曜日だけ、また家庭集会の時だけ開いて、あとは何も読まないような状態かも知れません。しかし、食事時に食事を与えることができるのは聖書です。聖書を毎日読み、神第一に私たちは生きなくてはなりません。一番良い時間に聖書を読んでください。一番集中できる時間に読んでください。霊的食べ物です。その中で神様が必要なことをあなたに語ってくださいます。「この時に、このようにしなさい。」と御言葉で語ってくださいます。
 私はある大学の聖書研究会にメッセージに来てくださいと言われた時がありました。しかし、私の思いの中でとても頭の良い大学でしたので「私のような者がそんなところには行けれない」と思っていました。その日の夜に電話がかかってくることになっており、返事をしなくてはなりませんでした。「絶対に断ろう」と思っていました。しかし、聖書を読んだ時、「彼らの顔を恐れてはいけない。」「行って御言葉を語りなさい」という御言葉をいただきました。しかし、自分には知恵もないから語ることはできないと思っていました。しかし、その日何と嵐で電話が不通になり電話がかかってきませんでした。その夜丁度神は私に御言葉をとうして語ってくださいました。「行きなさい。」そして次の朝電話がかかってきました。私は、夜中その御言葉を思い出させれ、寝れませんでした。「自分にはできない。しかし自分が語るのではないイエス様だ。私のように何もできない者でも、使ってくださるならば行かせていただきます。」と祈っていました。そしてその大学に行ってメッセージしました。御言葉に従ったときに神様は素晴らしい祝福を与えてくださいました。聖書研究会で、新入生を入部させるために集会を開催したのです。私は神様に語るように言われたことを語りました。恵まれました。後日そこの学生から手紙が来ました。「ありがとうございました。あの聖書研究会で二十〜三十名の新しい人が来ていましたが、次の週からほとんどの方が聖書を学びたいと言って来てくれました。」という感謝の手紙が来ました。御言葉に従って良かったと思いました。私たちクリスチャンは御言葉が土台です。経験ではありません。人生の土台は学問・この世の常識でもありません。聖書です。御言葉です。神の言葉です。だから御言葉を蓄えたときに私たちは食事時に食事を出すことができます。あなたも食事時に食事を出すしもべ・はしためとなりましょう。一言お祈りします。

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