今週の礼拝メッセージ
今週の礼拝メッセージ
クリスチャン   1999.3.14(SUN)

新城教会牧師 滝元 明

<今週のメッセージの御言葉>
新約聖書 使徒の働き11章19節〜26節
 さて、ステパノのことから起こった迫害によって散らされた人々は、フェニキヤ、キプロス、アンテオケまでも進んで行ったが、ユダヤ人以外の者にはだれにも、みことばを語らなかった。ところが、その中にキプロス人とクレネ人が幾人かいて、アンテオケに来てからはギリシヤ人にも語りかけ、主イエスのことを宣べ伝えた。そして、主の御手が彼らとともにあったので、大ぜいの人が信じて主に立ち返った。この知らせが、エルサレムにある教会に聞こえたので、彼らはバルナバをアンテオケに派遣した。彼はそこに到着したとき、神の恵みを見て喜び、みなが心を堅く保って、常に主にとどまっているようにと励ました。彼はりっぱな人物で、聖霊と信仰に満ちている人であった。こうして、大ぜいの人が主に導かれた。バルナバはサウロを捜しにタルソヘ行き、彼に会って、アンテオケに連れて来た。そして、まる一年の間、彼らは教会に集まり、大ぜいの人たちを教えた。弟子たちは、アンテオケで初めて、キリスト者と呼ばれるようになった。

 ハレルヤ!今日は素晴らしい礼拝を持つことができて感謝します。今からの時、御言葉を学びます。「クリスチャン」というテーマで学びます。今朝お読みした新改訳聖書は「キリスト者と呼ばれるようになった」と訳されていますが、尾山先生の訳された現代訳聖書には、「クリスチャンと呼ばれるようになった」と書かれています。今、全世界にクリスチャンがいますが、アメリカでもヨーロッパでも、どこででもイエス様を信じていたらクリスチャンということができます。日本では非常にクリスチャンが少ないですが、最近は日本でのクリスチャンに対する評価が高くされています。一般の人たちがクリスチャンと聞くと「立派な人」という考えがあります。マスコミではオウム真理教など、悪い宗教の報道がされましたが、キリスト教は聖域だと言われます。だから、少しくらい教会に悪いことがあっても、マスコミはそこに手を入れないという、尊敬の目を持って見ています。
 初代教会はアンテオケという場所で伝道をしていました。当時はユダヤ教からの迫害が多くあり、人々は逃れて転々と移動しながら伝道しました。そんな中で異邦人が、イエス様を信じたというのです。そのことがエルサレムに聞こえたのでエルサレムからバルナバという人がアンテオケに遣わされて伝道し、多くの人がクリスチャンになったというのです。バルナバについて、

『彼はりっぱな人物で、聖霊と信仰に満ちている人であった。こうして、大ぜいの人が主に導かれた。』

と書かれています。聖書は神様の視点で書かれています。その人物評価は、「彼は立派な人物であり、聖霊と信仰に満ちていた。」と書かれています。彼は神の霊と信仰に満たされて伝道しました。聖書にはイエス様がナタナエルを見て、「わたしはあなたがいちじくの下にいるのを見た。この人には偽りはない。まことのイスラエル人だ。」と言いました。神様は心の中まで見られる方です。今日も皆さんを見て、何と言われるでしょうか。ダニエルは神に愛されている人でした。また、ダビデ王の息子の友だちのヨナダブは非常に悪賢い男であったとも書かれています。ですから、私たちも神様の前に評価されるときに、「立派な人物であった。」と言われるようになりたいと思います。聖霊に満たされ、信仰に満たされて伝道したことによって、大勢がクリスチャンになり、アンテオケから、初めてキリスト者と呼ばれるようになったと書かれています。キリスト者はクリスチャンのことですが、キリスト者とは、「キリストのものになった」ということです。あの人はクリスチャンだと言ったら、「あの人はキリストの人」ということです。
 その地方にクリスチャンという名前が広がっていき、ある時、クリスチャンを間違えて、「クレスチャン」と言いました。その地方の言葉でクレスチャンとは「善良な人」という意味がありました。そして、「あの人は良い人だ」と言っていました。
 ほとんどの人がクリスチャンを見て、良い人だと言われます。悪い人だとはあまり聞きません。最近日本でも、日銀総裁の早見さんがクリスチャンであり、とても信頼感があります。だから、クリスチャンが悪いことをすると、「クリスチャンのくせに」と言われます。クリスチャンとは、イエス・キリストを神の御子として自分の救い主として信じている人を言います。今日ここに、「イエス・キリストは神である」そして、「この方を救い主と信じます」と言われる方は、「クリスチャン」です。
 クリスチャンになるとは、信じたらクリスチャンになります。一年、二年、神様について聞いても信じないならクリスチャンになれません。クリスチャンとは、「イエス・キリストを個人的に信じた人」のことです。
 イスラエルにピリポ・カイザリヤという所があります。私もそこに行ったことがありますが、泉が湧いて、きれいな場所です。そこにイエス様が行かれ、弟子たちに質問をしました。「人々はわたしのことを何と言っているか。」
 日本でもこのような質問をされる時があります。すると、「イエス様は西洋の神様、外国の神様、キリスト教は世界の三大宗教の一つ。」という時もあります。また、ある人は、イエスは神の子だと言うこともあります。
 イエス様が「人々はわたしのことを何と言っているか。」と質問しました。その時弟子が、「あなたのことをバプテスマのヨハネという人もいます。」と言いました。バプテスマのヨハネは非常に正しい人で、最後にはヘロデによって首を切られた人です。「バプテスマのヨハネがよみがえったという人もいるし、有名なエリヤだという人もいるし、また、涙の預言者と言われたエレミヤとも言われるし、また、預言者だとも言われている。」と答えました。
 するとイエス様が、「あなたはわたしのことを何と考えているのか。」と聞きました。その時ペテロは、「先生。あなたは生ける神の子キリストです。」と言いました。三年間イエス様と一緒に伝道したペテロが、「あなたは生ける神の子キリストです。」と言うと、イエス様は非常に喜ばれ、「シモン。あなたは幸いです。このことをあなたに明らかに示したのは、人間ではなく、天にいますわたしの父です。」と言われました。
 イエス様がこの地上に来られた時に、イエス様は人間と同じ姿で来られました。しかしペテロはずっとイエス様の生涯を見ながら、「この方は確かに神の御子に違いない」と、「あなたは生ける神の子キリストです。」と言いました。彼はキリストと認めました。
 しかし、イエス様は三十三才の時に十字架に付けられて殺されました。悪者たちが妬んで十字架に付ける計画をし、カヤパという大祭司はピラトに十字架に付けるためにイエス様を渡たしました。イエス様をムチを打ったり、いばらの冠をかぶせたり、ゴルゴダという丘にまで連れて行き、ローマの兵隊たちがイエス様を十字架に付けました。人々はイエス様を罵りました。「おい、おまえが神の子キリストだったらそこから降りて見よ。」などと色々なことを言って罵りました。しかし、イエス様ご自身が最初に言われたのは、「父よ彼らを赦してください。彼らは何をしているのかわからないのです。」そして、十字架上で、イエス様は、お母さんに、「そこにいるのはあなたの息子です。」そこにはヨハネがいました。そして、ヨハネに向かって、「その方はあなたのお母さんです。」と言いました。最後の最後までイエス様はお母さんを愛して、「ヨハネがあなたを養いますよ。」と言いました。朝九時から午後三時まで十字架に付けられました。その時百人隊長は「父よ。彼らをお赦しください。」と語られたイエス様を見て、とても驚きました。「何ということを言うのだ。」イエス様の顔を見たら、憎しみではなく、赦しの愛に満ちた顔をされていました。昼になったら、太陽が光を放たなくなり、午後三時まで暗くなりました。そして、最後に、「事が終わった。」とイエス様は大声を出しました。普通、死ぬときは、段々小さな声になりますが、イエス様は叫びました。その途端大地震が起こり、聖所の幕が上から下まで真二つに裂けました。その時に百人隊長は、「確かにこの人は神の子であった。」と言いました。神のひとり子は、私たちの罪の身代わりとなって十字架に付けられたのです。しかし、決定的な神の子であるという証拠は、イエス・キリストが死人の中から三日目によみがえった時にわかりました。ローマ人への手紙一章二節からに、

『この福音は、神がその預言者たちを通して、聖書において前から約束されたもので、御子に関することです。御子は、肉によればダビデの子孫として生まれ、聖い御霊によれば、死者の中からの復活により、大能によって公に神の御子として示された方、私たちの主イエス・キリストです。』

と書かれています。イエス様は十字架に付けられ葬られました。アリマタヤのヨセフという人物の持っていた墓に葬られました。しかし、イエス様は死んでから三日目によみがえられました。復活されました。よみがえられてから四十日の間、多くの人々に会われました。初めは、マグダラのマリヤに会い、ペテロに会われ、五百人以上の人々によみがえられた姿を現されました。そして、オリーブ山から彼らの目前で、天に帰って行かれました。これを見たときに人々は、「確かにこの方こそ、生ける神の子キリスト、救い主、メシヤだ」ということがわかりました。イエス様を信じるなら、救いを受けることができます。ヨハネの福音書一章十二節に、

『しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。』

と書かれています。イエスは神の子です。救い主です。このイエス様が、聖書の中に、「わたしは戸の外に立って戸をたたく。だれでもわたしの声を聞いて戸を開けたら中に入って住み、一緒に食事をしてあげる。」と言われます。ここに大勢の方がいますが、今、聖霊様が心の扉をたたいておられるのです。信じるか信じないかは自由意志ですが、イエス様を受け入れたら、「神の子となる特権をお与えになった」と書かれています。
 私が初めて教会に行ったのは、一九四九年二月十三日です。四人の友だちと一緒に行きました。その友だちと再び教会に行こうと言うと、「あんな芸もないところには行かない。」と言いました。くだらない所というのです。もうひとりの人は、「たいした奴はいなかった。」と言いました。彼は集会中、女の子の顔ばかり見ていました。しかし、私は初めて教会に行ったときに、「クリスチャンはきよらかだ。何と美しい目をしているのだろう。私もクリスチャンのようになりたい。」と思いました。それで、次の日曜日にまた行きました。そして、一九四九年二月二十日、ミセス穐近から、

『しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。』

という御言葉を聞きました。「イエス様を受け入れたら、神の子になります。どうですか。受け入れたら新しくなりますよ。信じませんか。」と言われました。私は二回目にイエス様を信じ受け入れました。受け入れたことによって神の子とされました。シモン・ペテロはイエス様が、「あなたはわたしをだれと思うか」と質問されたとき、「あなたは生ける神の子キリストです。」と言いました。百人隊長は、「彼は神の子だ。」と言いました。イエス様は神の子です。天地を造られた創造主なる神が遣わされた神のひとり子だと言われました。「しかし、この方イエス・キリストを受け入れた人々、信じた人は神の子となる特権をお与えになった。」と書かれています。イエス様は神の子です。信じたらイエス様と同様、「神の子」になるということです。イエス様が長男で、私たちはそれに続くものであり、イエス様と同じ身分・国籍をもらうことができます。

『この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。』

 夕方六時から七時まで、ヨーロッパからのアニメを衛星で放映しています。それを見ると、素晴らしいお城に住んでいる、お嬢様や王子様、王妃様が出てきます。ということは、人間の中に憧れがあるのです。日本でも天皇家に生まれたら天皇の子どもは皇太子です。天皇の息子です。しかし、聖書は、イエス様を信じた人は、「神の子となる特権」と書かれています。血筋ではありません。日本では時々、「私の家は○○氏族の子孫です。」とか、「うちは有名な家の末孫です。」と言われます。日本人にはプライドがあり、「私は○○学校を出ました。」と言います。しかし、それは関係ありません。イエス様を受け入れたら、「神の子」となる特権を与えてくださいます。神の子とは素晴らしい権威です。その証拠として神様は私たちに聖霊を与えてくださいます。イエス様を心開いて受け入れたら、聖霊様が私たちに宿ってくださり、神の子になった証印を押してくださるのです。ですから、今日イエス様を信じたら神の子です。公に神の子になるのは、イエス様を受け入れたときと洗礼を受けたときです。
 聖書を見るとバプテスマは教会におけるところの大きな儀式です。だから、クリスチャンになりたかったらバプテスマを受けてください。「信じてバプテスマを受けたら救われる」と書かれています。また、ローマ人への手紙六章四節から五節に、

『私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。』

と書かれています。「心で信じて義とせられ、口にてイエスを主と告白して救われる」と書かれているので、信じたことを公にすることです。まずは、「イエス様は私の罪のために死なれ、葬られ、三日目によみがえられました」と心で信じることです。それを公にするのがバプテスマです。
 聖書の中にバプテスマについて、「キリストにつぎあわされた」と書かれています。ほかには、「キリストに会うバプテスマ」と書かれています。聖書を見ると、結婚式について、「人は父と母を離れ、その妻に会って二人は一心同体となる」と書かれています。
 三月二十八日はドリア姉と山崎兄の婚約式があります。また、先日は二組の婚約式もありました。今年はたくさんの結婚式があります。結婚すると、日本では夫婦が同姓になります。私は一九五〇年六月十一日に東京で結婚しました。私の妻は斉藤清子、私の名前は滝元明です。公に、「滝元明。あなたはこの女子をめとり、貞節を守り、とこしえに愛することを誓いますか。」と聞かれ、「はい。誓います。」そして、私の家内に対して、「あなたはこの男子と結婚し、夫として愛して仕えますか。」と聞かれ、「はい。愛します。」と言います。結婚以来、私の家内は、斉藤清子が滝元清子になりました。同じ滝元の姓を継ぎました。クリスチャンは、バプテスマを受けるとキリストと一つになり、キリストのものになります。
 最近は結婚が公ではないことがたくさんあり、内縁の妻とか、同棲しているとかありますが、それでは良くありません。公ではなくてはなりません。時々、イエス様を信じていますが、「バプテスマを受けません。」というと、イエス様も認めません。公にクリスチャンになることが大切です。また、クリスチャンになるとは、継ぎあわされるということです。
 ローマ人への手紙十一章十七節に、

『もしも、枝の中のあるものが折られて、野生種のオリーブであるあなたがたがその枝に混じってつがれ、そしてオリーブの豊かな養分をともに受けているのだとしたら、』

と書かれていますが、野生のオリーブの木が切られて、良いオリーブにつながれたら素晴らしいオリーブができます。
 私は頭にオリーブ油を付けています。今から三十年程前に桐生という所に行くと、ひとりの人が、「鉱物性の油を付けると髪の毛が抜けるが、植物性の油を付けたら毛が抜けないと言われたので、私はそれから椿油を付けています。」と言われました。私は良いことを聞いたと思い、毎日椿油を付けていました。しかし、小豆島に行ったときにオリーブ油があったのでオリーブ油を付けるようになりました。朝になって、「主よ今日も油注ぎを与えてください」と祈ってオリーブ油を頭に付けています。今日も付けています。
 野生のオリーブの木はつぎ木をすると本物になります。桃栗三年、柿八年と言いますが、柿は甘柿の種を蒔き育てても、それをとって食べると渋いのです。だから、「柿八年恩知らず」と言われます。柿は必ずつぎ木します。甘柿の木をつぎ木しますとおいしい甘柿がなります。クリスチャンになるとは、「つぎ木される」ことです。今までは罪人で、悪い人でしたが、イエス様がつぎ木されると、クリスチャンになります。クリスチャンになったら、素晴らしい人になれます。過去がどうであっても、イエス様につぎ木されたらクリスチャンとしての素晴らしい歩みができます。ペテロ第一の手紙一章二節四節に、

『父なる神の予知に従い、御霊の聖めによって、イエス・キリストに従うように、またその血の注ぎかけを受けるように選ばれた人々へ。』

と書かれています。選ばれたとはどのような意味でしょうか。
 今度、東京都知事選挙があります。大勢立候補しました。その中で一人しか当選しません。立候補して当選するのは一人です。クリスチャンが選ばれることは、「皆さん、クリスチャンになりたいですか。」と言われ、「はい」と十人が手をあげると、一人だけ選んであげるというのではありません。
 大学入試があります。一生懸命勉強して良い点を採った人が大学に選ばれます。良い点数を採らないと駄目だということです。しかし、神様の選びは十人が神様の子どもになりたいと言ったら、全員神の子にされるのです。百人が決心したら百人がクリスチャンになるというのが選びです。

『選ばれた人々へ。どうか、恵みと平安が、あなたがたの上にますます豊かにされますように。私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました。また、朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにしてくださいました。これはあなたがたのために、天にたくわえられているのです。』

 私も年をとりましたが、私の家に生まれた子供たちはある意味で、気の毒なところがあります。なぜならば、私には資産がないからです。資産もすべてささげてしまいました。何もありません。普通、死んだら遺産相続があります。皆で親の財産を分けます。しかし、私の財産でとるものは何もありません。あるものはネクタイと洋服と靴くらいです。しかし、大金持ちの家に生まれたら資産を受け取ります。私の家には資産がないけれど、天国の資産を受け継ぐものになるというのです。信仰を持てますか。信じた人はこの地上では貧乏でも良いです。死んだら全部置いていきますが、天国ではすごい資産を受け継ぐことができると聖書は教えています。ペテロ第一の手紙二章九節に、

『しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。』

と書かれています。今日は選ばれた人になりましょう。王である祭司、神の子であるというのは、王様の家族です。私のお父さんは世界で最高のお父さんです。だれでしょうか。イエス様です。天国を持っておられる王の王なる神様の子どもになる、とは何と素晴らしい身分でしょうか。
 昨年、私は天皇陛下にお会いしました。私が自動車で行くと言うと向こうから電話があり、車のナンバーを教えてくださいと言われました。すると、ナンバーを知っているので県警が扉を開けました。とても広いところで四つの衛所がありました。とても厳格でした。この世の天皇には護衛があります。しかし、目には見えませんが、神様の子どもになったら、神様が私たちのために天の使いを付けて守ってくださいます。天の軍勢が守っています。
 天の使いを見たことはありますか。先日私は孫たちに聞きました。「東京リバイバルミッションの時に天使を見たか?」と聞くと、「見たよ。」と言いました。「どこで見た?」と聞くと、「おじいちゃんが説教しているときに、三人の天の軍勢が守っていた。」と言うのです。私は全然見ませんでした。そしてもうひとりの子に聞きました。すると「クワイヤーが賛美している所に、天使がいっぱい守っていた」と言いました。それがクリスチャンです。クリスチャンはプライドを持つべきです。私は王の息子です。すごい財産家の息子です。やがて天国において、私のために家が備えられています。そういう身分に預かることができるのがクリスチャンです。今日まだ洗礼を受けていない方は、洗礼を受ける決心をしてください。まだイエス様を信じていない方は、イエス様を信じてください。そして神様の素晴らしい身分をいただきましょう。お祈りします。

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