今週の礼拝メッセージ
今週の礼拝メッセージ
聖絶なものに手を出すな   1999.3.21(SUN)

新城教会牧師 滝元 順

<今週のメッセージの御言葉>
旧約聖書 ヨシュア記6章18節
ただ、あなたがたは、聖絶のものに手を出すな。聖絶のものにしないため、聖絶のものを取って、イスラエルの宿営を聖絶のものにし、これにわざわいをもたらさないためである。

 ハレルヤ!今朝、皆さんと共に御言葉を学ぶことができ感謝します。聖書に書かれている多くはイスラエルの歴史です。日本人がイスラエルの歴史を日曜日ごとに学んで何か得な事があるのだろうかと思います。考古学者でもあるまいし、聖書の歴史や世界観を学んで何の徳があるのでしょうか。
 聖書はイスラエルの歴史でもありますが、同時に、神が人類に介入された歴史でもあります。神が人間の世界に介入された歴史が聖書には詰まっています。そのようなわけで、聖書を学ぶことは人生の中で重要な意味をもたらします。そして、神が人類に介入された歴史は、同時に、現代も神は介入されるという、証拠でもあります。
 又、イスラエルの歴史を通して、神が私たちに語りたいメッセージがあるのです。イスラエルの歴史の中に起こった出来事は、私たちの人生にも重なるということです。
 イスラエルはエジプトを脱出してカナンの地を目指しました。やがてカナンの地に入り、最初に面したのがエリコという町でした。
 三週間ほど前、私はこのエリコに行きました。砂漠の真ん中にある町であり、その位置は何千年も前から変わっていません。一説によると一万年以上前から、町は存在すると言われます。なぜならば、砂漠の真ん中で、オアシスはそこにしかないからです。ですから、古代から町が栄えていました。
 イスラエルはその町を目の前にしました。この町は、カナン人、敵の町でした。しかし、神はエリコをイスラエルの手に渡してくださいました。神は町の周りを何度も歩いて廻るように語られました。六日間、毎日一周ずつしました。最後の七日目に、町を七周すると城壁は崩れました。そのようにして町を攻めとった様子がヨシュア記に記されています。これは、現実に起こった歴史です。
 エリコに行くと、当時の城壁が発掘されて残っています。しかし、この出来事は、現代を生きる私たちに対するメッセージをも含んでいます。
 エリコの町は、神を知らない人々の姿を現しています。エリコがイスラエルに攻めとられる前、どのような町であったかについて、六章一節に、

『エリコは、イスラエルの人の前に、城門を堅く閉ざして、だれひとり出入りする者がなかった。』

と書かれています。神を信じない人生は、ある意味で城門を堅く閉ざした、束縛された人生です。そのような魂に、神が訪れてくださいます。神の軍隊が周りを廻り始めるとは、「祈り」を現しています。イエス・キリストを信じない魂のために、クリスチャンが祈り始めます。祈りがその人の周りをぐるぐる回り始めます。時には、一日に七回まわらされたと同じように、集中的に祈りが成されます。すると、城壁が崩れ始め、エリコがイスラエルのものになったように、人が神のものとなります。
 今日、イエス・キリストを信じておられない人の為には、城壁が崩され、閉ざされたところから解放され、神のものとなるように祈るべきです。イエス・キリストを信じない方のために祈りをささげることは、救いのための重要な鍵です。
 エリコを勝ち取ったとき、神はイスラエルに一つの命令を下されました。それが今日読んだ箇所です。それは、「ただ、あなたがたは聖絶のものに手を出すな。」でした。
 旧約聖書の中で、残酷に見えるような一つの行為があります。それが「聖絶」です。これは、神が「滅ぼしなさい」と言われたものは、ことごとく滅ぼさなくてはならないという命令でした。何しろ、すべてのものを、壊し、殺すようなときもありました。これらを見ると、神様は残酷な方だと思います。しかしそれは、神が人に語りたいメッセージを含んでいるからです。今は殺されるようなことはありませんが、私たちの中から、神に喜ばれないものを、全部根絶やしにしなさいという意味です。神によって勝ち取られた後、内側に神に喜ばれないものを残してはいけません。聖絶しなければならないのです。ということは、「これくらいは良い」と言って神に喜ばれないものを置いてはいけないということです。
 エリコを攻めたときに神様は「すべてを聖絶しなさい。」と言われました。兵士たちは、神からの命令を聞いてエリコに上っていきました。しかし、一人の男がその命令を破りました。アカンという男です。神の命令を破ってそこにあった美しい着物や、金の延べ棒をとっておきました。そうしたら、それゆえに、イスラエル全体が弱くなってしまったというのです。次はアイという小さな町との戦いでしたが、負けてしまいました。なぜ負けてしまったかについて、神に伺いました。すると、「あなたがたの中に罪がある。とあなたがたの中に聖絶のものに手を出した者がいる。」と言われました。負けた原因は、アカンが聖絶のものに手を出したからでした。「あなたがたは敵に背を見せてしまった。」と言われました。喜ばれない部分を内側に持っていると、敵に勝利することができないのです。敵に背を向けることになってしまうので、あなたがたの中から、神に喜ばれないものは全部取り除きなさいというのです。そうしたら、人生は祝福されます。このような視点でも、一度、ヨシュア記六章を読んでいただきたいと思います。
 新約聖書で一番活躍し、キリスト教発展のために貢献した人物はパウロでした。彼は交通が不便な時代にあって、世界中を駆けめぐって福音を伝えた人でした。彼がエペソの町に行ったときのことが、使徒の働き十九章に記録されています。エペソは今のトルコにある町で、昔はとても大きな町でした。当時エペソはその地方の中心的都市で、偶像礼拝に満ちた町でした。そこにはダイアナという女神が奉られており、全世界からそこに拝みに来ました。しかし、使徒パウロがエペソに乗り込んだときにすごい奇跡が起こり、神の力がパウロを通して現わされました。偶像に仕えていた人々が目を見張るような奇跡が起こされました。使徒の働き十九章にそのことが書かれています。

『神はパウロの手によって驚くべき奇蹟を行なわれた。パウロの身に着けている手ぬぐいや前掛けをはずして病人に当てると、その病気は去り、悪霊は出て行った。』

 パウロが持っていた手ぬぐいを病人に当てると、病が直ってしまったというのです。前掛けを外して当てただけで、悪霊が出ていったというのです。そんな奇跡が起こりました。今まで見たことのない、大きな奇跡がこの町で起こって大評判となりました。当時、その地方を巡回していた魔術師の集団が、「最近パウロという人物がエペソに来て、すごいことを起こしているらしい。」と聞き、見に来たほどでした。特に魔術師たちが感動したのは、パウロがイエス・キリストの名によって悪霊に命じると悪霊が出ていく事でした。魔術師は、霊を払うというようなことをします。しかし、それはトリックで、力強いわざではありませんでした。しかし、パウロは見える形で人々を悪霊から解放していました。それで、魔術師たちも真似をし、パウロがイエス・キリストの名によって悪霊に命じたら悪霊が出ているから我々もやってみようと、七人の魔術師たちがイエス・キリストの名を使って悪霊につかれた男に、「パウロが宣べ伝えているイエス・キリストの名によって命じる。この男から出て行け。」と命じました。すると、悪霊につかれた男は、「私はイエスも知っているし、パウロも知っている。しかし、お前は何者だ。」と言って、七人の魔術師は一人の男に打ちのめされてしましました。人々はとても驚きました。
 悪霊が出て行くのは神に属する者の特権です。「お前は何者だ」とは、「お前はおれの仲間ではないか。仲間のくせに、おれに出て行けと命じるのか。」という事です。
 パウロにはできるのに、彼らにはできなかった。パウロの宣べ伝えている神は本物の神だと人々は言いました。それで、使徒の働き十九章十八節から十九節を見ると、

『そして、信仰に入った人たちの中から多くの者がやって来て、自分たちのしていることをさらけ出して告白した。また魔術を行なっていた多くの者が、その書物をかかえて来て、みなの前で焼き捨てた。その値段を合計してみると、銀貨五万枚になった。』

と書かれています。その時、特に吃驚したのが、今までのパウロの宣教によって先に救われた、クリスチャンたちでした。彼らはクリスチャンと言っても隠しているものがありました。「私は神を信じます。」と言いながら、隠れた行ないがありました。彼らはイエス様に仕えながら、同時に魔術もやっていたのです。それで魔術の本を全部持ってきて、燃やしてしまいました。その結果、二十節に、

『こうして、主のことばは驚くほど広まり、ますます力強くなって行った。』

と書かれています。
 彼らの中から神に喜ばれない、「聖絶のものに手を出していた」、それらを捨てたとき、益々力強くなっていったのです。私たちの中から、神に喜ばれない事柄を全部捨てなければなりません。
 なぜ、彼らは魔術の書物などを持ってきて焼いたのでしょうか。初代のクリスチャンたちは何に気づいたのでしょうか。
 これらの出来事は、パウロの身に付けている手ぬぐいや前掛けによって病がいやされ、悪霊が出ていったという文脈の中で記録されています。
 彼らが気づいたのは、まず、悪魔は神様と共通的な手法を使うということです。悪魔は神ではないので、神様のされることを真似します。
 パウロが持っていた手ぬぐいを病の人に当てたらいやされたというのです。彼の持っていた手ぬぐいは、何の魔力があったのかと思うかも知れません。そうではありません。手ぬぐいは、「祈りの象徴」でした。パウロはそこに祈りを置いたのです。「神様、この手ぬぐいを受け取る人が、いやしを受けますように。」と彼は手ぬぐいと共に、祈りを置いたのです。病人が手ぬぐいを受け取ることは、即ち、パウロの祈りを受け取ることでした。前掛けも同じことでした。
 神様が働かれるのは、祈りによって働かれるということです。手ぬぐいや前掛けに力があるのではなく、「祈りに力」があったのです。祈りとの関連性です。
 例えば、私がこのハンカチを病気の人に渡すとします。その時、「どうか、このハンカチを受け取ったときに、神の栄光が現されますように。病がいやされますように。」と祈ってハンカチを渡したら、祈りの関連性によって神様が病人に働いてくださるのです。
 しかし、悪魔も同じことをするのです。日本では、多くの神社や仏閣で「札」や「守り」を売っています。「ある人はこんな小さいものに何の力があるのか、これは気休めですよ。」と言われるかも知れませんが、これにも恐ろしい力が込められています。その物体にではなく、そこに祈りという関連性が置かれているから恐ろしいのです。それを受け取るということは、悪霊に対する祈りそのものを受け取ってしまうということです。それを持っていると、関連性の中で悪霊が働くことができるのです。
 エペソの人たちの中に、魔術という関連性の中で悪霊が働いていました。エペソのクリスチャンは、魔術の本を持っていること自体、悪霊による影響を受けていることに気づかされたのです。魔術の本は捨てなくてはならないと気づきました。それら全部を捨てました。その時、神様の力が更に現れたのです。
 今日、私たちが更に恵みを受け、力強くなるためには、内側から神に喜ばれないすべてのものを除くよう、祈らなくてはなりません。「神様。私たちの持ちものの中で、あなたに喜ばれないものは何でしょうか。それらを全部捨てます。」今日、家に帰ってから、神様と一緒に、持ち物を大捜索をしてみてください。神が喜ばれない偶像や、本、持ち物があったら全部捨ててください。エペソのクリスチャンたちが捨てたとき、神様の素晴らしいみわざが現されたのです。同様に私たちも、聖絶のものに手を出してはいけないということです。
 魔術は通常、呪文とともにあります。呪文を唱えます。その背後には悪霊に対する祈りが置かれているのです。だから、呪文を唱えることによって悪霊がそのやってくるのです。
 先週、私はある家庭集会に行きました。一人の女性が、三回家庭集会に来ただけで、今回、はっきりとイエス様を信じ、しかも偶像も全部捨てました。
 その方と初めて出会ったとき、彼女は私に、「私は毎日、般若心経を唱えることが日課となっています。」と言われました。母さんが亡くなられてから、何年もの間、毎日、唱えていたそうです。それを日課のように唱えていたそうです。しかし、般若心経は呪文です。やがて悪魔の力が引き出されてきます。
 呪文を唱え続けていたら、不思議な現象が起こるようになってしまったそうです。寝ているときに金縛りにあったり、誰もいないのに人が周りを歩いている音がしたそうです。気持ちが悪かったけれど、いつも先祖様のことを拝んでいるので、先祖が来ているのだろうと思っていたそうです。
 しかし、その人が家庭集会に来たときに不思議なことがありました。私はそのことを覚えていませんが、その人に、「今日からあなたが語っている般若心経が止まりますよ。」と語ったそうです。聖霊様がそのように語らせたと思います。
 家に帰ってから般若心経を唱えようとすると、唱えることができなかったそうです。それ以来、一度も唱えたことがないそうです。
 二度目に家庭集会に来たとき、最後に一言祈ってあげました。神様の力が現されるよう、祝福のために祈ったときに不思議なことが起こりました。イエス様の名によって祈ったときに、突然体が熱くなって驚いたそうです。イエス様は普通の方ではないとわかったそうです。そして、今回で三回目でしたが、その方は今回が最後で、移転してしまうというので、どんなメッセージを最後に語れば良いのだろうかと祈っておりました。そして、神が与えてくださったメッセージを語りました。偶像を除くこと、罪から離れることに関して語りました。
 前日の夜、引っ越してしまうので、クリスチャンの友だちと色々と深い部分を話し合ったそうです。人生の問題や、罪についても夜遅くまで語り合ったというのです。そうしたら、翌日、私がメッセージの中でそれらのことを全部語ったというのです。だから、横で聞いていた友だちは驚いて、「私が告げ口したと思われるのでは」と思ったそうです。
 それで彼女は、悔い改めてすべての偶像を捨て、悪霊との関係を全部断ち切る祈りをしました。次に移って行く地方の教会を紹介してあげましたが、見事に救われて表情も明るくなりました。
 呪文や悪霊とは決別しなくてはなりません。悪魔は恐れによって人々を縛り上げますが、神様は私たちを解放される方です。
 家内が二日後、その方に電話しました。すると、「今、先生の所に電話しようと思ったところだ。」というのです。なぜか聞くと、「今朝、私は不思議な体験をし、『エペソ』という声を聞いた。」というのです。まだ、聖書をよく読んだことがない方ですが、その声を聞いて、すぐに近くの教会に行ったそうです。「すみません。エペソという言葉は聖書の中に出てきますか。」と聞いたそうです。すると、「聖書にエペソ人への手紙がありますので、そこを読んでください。」と言われ、家に帰ってきてエペソ人への手紙を読みはじめたところでした。エペソ人への手紙には、「霊的戦い」について書かれています。「私たちの戦いは、血肉によるものではない。霊的なものである」と書かれています。
 内側から神に喜ばれないものを取り去ることは素晴らしいことです。初めの人間、アダムとエバについて創世記を読むとわかります。初めの人間アダムとエバは神様と親しい交わりができたのです。神を見ることができました。神様といつも話ができ、いつも近くにあったのです。
 神様は姿の見えないお方です。にも関わらず、アダムとエバは神様と話ができたのは、人間は元来、霊的な目や耳が開かれていたと言うことです。初めから人間の目は神の姿を見たり、感ずる機能を備えていたという事です。初めの人間、アダムとエバは、裸であったが恥ずかしいとは思わなかったと聖書は記しています。しかし、悪魔が彼らを誘惑しました。取って食べてはならないという、木の実をとって食べるように勧めました。エバが最初に木の実をとって食べました。食べたときに、目が開いたというのです。自分が裸であることがわかったというのです。それは「肉の目」が開いたのです。罪を犯したときに人に何が起こったかというと、神のことではなく、自分に目が行くようになりました。神を信じないと自分中心になってしまいます。神と近くあるときには神が中心です。しかし、罪が入ると、自分だけを見つめるようになってしまうのです。私たちは内側から神に喜ばれない罪を取り去らなければなりません。イエス様は十字架にかかって罪をあがなうために地上に来てくださいました。私たちの罪、汚れを清めていただかなくてはなりません。悪魔は何とかして、私たちに聖絶に値するものを入れたいと願うのです。ある時には、それがものであったり、考え方であったり、ある時には契約であったりと、有形無形で神に喜ばれないものを入れようとします。
 今、多くの問題が日本にはありますが、その根本的な原因は悪魔によって入れられた罪が原因です。家族、家庭、夫婦が壊れています。その原因は、罪です。多くの夫婦が離婚しています。日本でも三組に一組が離婚しているというのです。その根本的な原因が罪です。夫が浮気した、妻が浮気した・・・と色々な罪が入ることによって壊れてしまいます。私たちの家族、夫婦の間から神に喜ばれないものを全部取り除かなくてはなりません。
 今年は、この教会で多くの結婚式がありそうで嬉しく思います。今年は大勢の兄弟姉妹が結婚できるようにと、私は願っていますが、結婚式の時に読まれる聖書の箇所があります。伝道者の書四章九節から十二節に、

『ふたりはひとりよりもまさっている。ふたりが労苦すれば、良い報いがあるからだ。どちらかが倒れるとき、ひとりがその仲間を起こす。倒れても起こす者のいないひとりぼっちの人はかわいそうだ。また、ふたりがいっしょに寝ると暖かいが、ひとりでは、どうして暖かくなろう。もしひとりなら、打ち負かされても、ふたりなら立ち向かえる。三つよりの糸は簡単には切れない。』

と書かれています。結婚は素晴らしいことです。ひとりでは半人前ですが、結婚して一つになり、一人前になります。ここに一人よりも二人は優っていると書かれており、最後には「三よりの糸は簡単には切れない。」と「三」になっています。
 これは、夫婦の間にイエス様を入れてくださいという意味です。イエス様を入れたなら、三よりの糸は切れないのです。これは本当です。家庭の中にイエス様が入られたら、夫婦は壊れず、家庭は堅く立ちます。家庭にイエス様が来てくださらなかったら、今の時代を生きるのは大変です。私たちの家庭に、夫婦の間にイエス様が来てくださり、「三よりの糸」となるように祈るべきです。
 しかし、伝道者の書は、神を信じていることは前提になっています。ということは、二人、二人、二人・・・「三」というのは、別の意味があります。
 神は人間を三つの領域として造られました。それが、霊・肉・魂の領域です。これが人間です。そして、結婚とは三つの領域がつながることです。霊と肉と魂がつながることです。この世の結婚は、まず肉体だけがつながり、心が少しつながります。しばらくしたら、心が切れて肉体も切れるのです。これは三よりになっていません。神の前の結婚は肉体や心だけではなく、霊の世界でも結ばれるのです。これが三よりの糸です。そうするならば切れることはないというのです。
 日本における結婚は、神社や仏閣の前での契約です。その結婚は、霊の世界が、悪霊の前で結ばれてしまうというのです。だから、悪霊はいつでもその契約を解くことができます。その為、心も解くことができ、肉体も離れて離婚に至ります。私たちは神の前に、霊的に一つになるべきです。そして、心、体の三つの領域が一つにならなくてはならないのです。そうすれば夫婦生活はうまくいくことを教えています。
 ということは、夫婦の間からも、聖絶のものを除かなければならないのです。イエス様を信じる前に結婚された方は、偶像の前で結婚した人もいるかも知れません。これは霊の世界のおいての契約があやふやなので壊れやすいです。もう一度、つなぎ直す祈りが必要です。「今、私たちの結婚は、神の前において聖霊により、一つになっていることを宣言します。」と祈り直してください。そうすれば、霊、心、肉体が一つになり、三よりの糸は切れないのです。教会での結婚は大切なことです。神の前で契約が結ばれるので大切です。私たちは有形無形のすべての神から喜ばれない聖絶のものを除くことが祝福への秘訣です。
 今日、このメッセージを聞いて、「家に神に喜ばれない偶像がある。捨てなければならない」と示された人は捨ててください。「私は悪習慣から離れなければならない」と教えられた人は離れる決心をしてください。「私はあの部分を神にささげていない」それを神にささげてください。神様の前に神に喜ばれない、聖絶のものに手を出すことがなく、取り除くならば、あなたは更に力強く神の支配を受けて、新しい人生に入ることができます。
 イエス・キリストを信じることは、罪を聖絶していくことです。罪からきよめられ、神の支配に入ることがイエス・キリストを信じる信仰です。今日、すべての方がきよめられ、神に導かれる人生に入っていただきたいと願います。一言お祈りします。

バックナンバー
戻る
戻る