今週の礼拝メッセージ
今週の礼拝メッセージ
契約   1999.3.28(SUN)

新城教会牧師 滝元 明

<今週のメッセージの御言葉>
新約聖書 ルカの福音書22章19節〜22節
それから、パンを取り、感謝をささげてから、裂いて、弟子たちに与えて言われた。「これは、あなたがたのために与える、わたしのからだです。わたしを覚えてこれを行ないなさい。」食事の後、杯も同じようにして言われた。「この杯は、あなたがたのために流されるわたしの血による新しい契約です。しかし、見なさい。わたしを裏切る者の手が、わたしとともに食卓にあります。人の子は、定められたとおりに去って行きます。しかし、人の子を裏切るような人間はのろわれます。」

 ハレルヤ!これから皆さんとともに聖書を学びます。教会では毎週集まって神様の前に賛美をささげます。今ささげた賛美は神様の前にささげた賛美です。そして、聖餐式があります。教会での大きな儀式の一つは礼拝であり、又、バプテスマや聖餐式があります。聖餐式は、教会ではどこででも守っていることです。「聖餐」とはイエス様が十字架につけられる前に、パンを取って裂き、『これはわたしの杯です。』また杯を取って『これはわたしの新しい契約です。これを記念として行いなさい。』と言われました。教会ではイエス・キリストが神の御子であり、私の罪のために十字架にかかられ死んでくださり、また血を流され、肉体を裂いてくださったことを記念とし、聖餐式を行っています。聖餐式はバプテスマを受けた人たちが行いますが、イエス様ご自身が命じられた聖餐式についての意味を学びたいと思います。初めての方は今からの御言葉を一つでも心に留められたら幸せになることができると信じます。
 今お読みしたルカの福音書二十二章はイエス様が十字架につけられる少し前のことです。イエス様が逮捕される寸前に弟子たちを集めて過越の祭りの時、

『それから、パンを取り、感謝をささげてから、裂いて、弟子たちに与えて言われた。「これは、あなたがたのために与える、わたしのからだです。わたしを覚えてこれを行ないなさい。」食事の後、杯も同じようにして言われた。「この杯は、あなたがたのために流されるわたしの血による新しい契約です。しかし、見なさい。わたしを裏切る者の手が、わたしとともに食卓にあります。人の子は、定められたとおりに去って行きます。しかし、人の子を裏切るような人間はのろわれます。』

と言われました。イエス様は神様のひとり子で、今から二千年前にこの地上に生まれ、三十才から三年半ほどユダヤ中を巡って神の国のことを伝えました。最後には十字架につけられて殺されました。なぜ、十字架で殺されたかというと、『あなたがたのために与えるわたしのからだである。』と書かれているように、罪のない神の御子が私たちの罪の身代わりとなって死んでくださったのです。私たちの罪を赦してくださるために、イエス様は汚れのない血を流してくださいました。

『この杯は、あなたがたのために流されるわたしの血による新しい契約です。』

と書かれています。今から二千年前、聖書は羊皮紙に書かれていました。一巻が非常に厚いものでした。だから皆が聖書を持つことができませんでした。今なら、世界中どこででも聖書を手にして読むことができますが、イエス様は、まだ文字があまり発達していない時代でしたから、十字架の上で身代わりとなって血を流され、肉を裂かれたということが皆にわかるように、聖餐式を制定されました。
 イエス様がパンを取り、『これがあなたがたのためのからだです。』杯を取って、『これは新しい契約の血です。わたしを覚えるためにこのことを記念として行いなさい。』と言われました。ですから、二千年の間、世界の教会ではこれを大切な儀式として行っています。今日も聖餐式を守ることによって、私たちは「イエスは神の御子であった。この方が私たち人類の罪の身代わりとなって十字架上で肉体を裂いてくださった。イエス様が私のために血を流してくださった救い主である。」と、もう一度確認するのです。
 ヨハネの福音書六章四十八節、

『わたしはいのちのパンです。』

とイエス様が言われました。また六章五十一節には、

『わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。またわたしが与えようとするパンは、世のいのちのための、わたしの肉です。』

と語られました。人間なら、だれでも考えることは、永遠のいのちがあったら素晴らしいということです。死の恐怖から救われたい、という考えを誰もが持っています。イエス様は、『わたしは天から下ってきた生けるパンです。』と言われました。誰でもこのパンを食べるなら、永遠に生きると言われます。イエス様を信じるということは、「このパンを食べる、イエス様を食べる、そうすると永遠に生きる」のです。イエス様は、自分の肉を与えるからわたしの肉を食べなさいと言われました。それは、「やがて十字架上で、人間の罪のあがないとして身代わりとなる。これを信じたら罪が赦されて、だれでも永遠のいのちを持つことができる」という意味です。
 また、ヨハネの福音書の六章五十三節に、

『イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。人の子の肉を食べ、またその血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。』

 これをユダヤ人たちが聞いたとき、ショックを受けました。永遠のいのちを受けるために必要なことは、イエス・キリストの肉と血を飲まなければ、それを持つことはできないというのです。
 クリスチャンとは、このことをそのまま信じた人です。イエスは神の子で、私たちの罪の身代わりとなって、十字架で肉を裂かれました。それは罪の赦しのためであったことを信じ、救い主として受け入れたのがクリスチャンです。永遠のいのちを持っています。イエス様を信じるとは、教会の礼拝に来て心の傷がいやされ、平安をいただくというだけではなく、死の恐怖から救われ、過去の罪が赦されて永遠のいのちを持つことができ、神様の子になってやがてイエス・キリストが再臨される時には、『わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます』と書かれていますので、イエス様が復活したように、よみがえることができるのです。

『わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物だからです。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしも彼のうちにとどまります。』

 私たちはイエス様の十字架のあがないを信じただけで、永遠のいのちを受けることができると聖書は教えています。
 マタイの福音書二十六章に、

『これは、わたしの契約の血です。罪を赦すために多くの人のために流されるものです。』

と書かれています。イエス様が十字架の上で流された血は、「契約の血」だということです。人間と神様の間の契約です。イエス・キリストが十字架で身代わりになって死んでくださったこと、代わりに肉を裂かれ、血を流してくださったことを本気で信じたら誰でも、どのような罪でも赦してあげよう、そして、このことを信じただけで、永遠のいのちを与えるという契約です。これを信じる人は永遠のいのちを持ちます。信じるだけで天国に入ることができるという、契約の血です。
 聖書の神様は素晴らしい神様です。唯一の神様です。日本は多神教で八百万の神で、八百八十万くらいの神々があると言われていますが、それらは皆人間が作った神様です。しかし、本当の神様は、太陽が世界に一つしかないのと同じように、唯一です。私たちは一つの地球に一緒に住んでいますが、聖書に書かれている神様は、「初めに神は天と地を創造した。」という神様です。ですから、神は唯一なる神様です。
 旧約聖書はヘブル語で書かれています。旧約聖書を見ると、神様が御自分の性質や性格を現すために、色々な表現を使っています。旧約聖書の中では「エル」「エロヒム」「エホバ」「アドナイ」という言葉で神について表現されています。特に、「エル」という言葉は、「非常に力強い」という意味があります。旧約聖書の中で一番たくさん使われている言葉は「エロヒム」という言葉です。その次には「エホバ」という言葉があります。ユダヤ人たちは、エホバ、(ヤハウェ)という言葉を神聖な言葉として、使いませんでした。私たちが持っている聖書は大きな字で「主」と訳しています。そして、「アドナイ」ということばも出ています。一番多い言葉は「エロヒム」という言葉で、旧約聖書で二千五百回くらい出てきます。「エル」という言葉は力強いということです。これは天地を造った偉大なる神様です。そして、「ヒム」という言葉は、「誓う」とか、「誓いにより契約する」という意味があります。ですから「エロヒム」という言葉は、「神は強い方で、契約されたご自身の言葉を決して変えられない方」とう意味です。
 神様は契約の神様です。契約したら絶対に変えることのない方です。神様には偽りはありません。エロヒムな神様です。旧約聖書には、神様の契約が書かれています。最初の人間アダムとエバが罪を犯したときに、やがて女の末から救い主を与えてあげるという一つの約束をしました。それから、そのことを成就するため、特別、ユダヤ人を選びました。そのユダヤ人の先祖がアブラハムです。神様は彼を選び、神様はアブラハムと契約を結びました。これは創世記の十七章一節から二節を見ると、

『アブラムが九十九歳になったとき主はアブラムに現われ、こう仰せられた。「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ。わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に立てる。わたしは、あなたをおびただしくふやそう。」』

と書かれています。これは神様がアブラハムと結んだ契約です。ですから、新約聖書の始めには、

『アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリストの系図。』

と書かれています。神様がアブラムに立てた契約を守られ、実現されました。神が確かに、あなたとこの契約を結んだ。やがて契約を成就するために、一つのことを約束しよう、ということで創世記十七章九節から十一節に、

『ついで、神はアブラハムに仰せられた。「あなたは、あなたの後のあなたの子孫とともに、代々にわたり、わたしの契約を守らなければならない。次のことが、わたしとあなたがたと、またあなたの後のあなたの子孫との間で、あなたがたが守るべきわたしの契約である。あなたがたの中のすべての男子は割礼を受けなさい。あなたがたは、あなたがたの包皮の肉を切り捨てなさい。それが、わたしとあなたがたの間の契約のしるしである。』

と言われました。契約を守らせるために、神がユダヤ人に語った言葉が、『わたしはあなたと契約を結んだ。契約のしるしとしてあなたがたは割礼を受けなさい。』でした。
 差別用語というのがありますが、イスラエルでは、「皮切り」ということばはあまり使わない方が良いそうです。ユダヤ人は抵抗を感じるそうです。なぜなら、彼らには、割礼という、神聖な儀式があるからです。「割礼」とは、生まれた八日目に、男性の性器の皮を切り取ることです。ユダヤ人男性は必ず、生まれて八日目にこのことを行います。ユダヤ人は、自分たちが割礼を受けているので、神様は約束を守られ、自分たちの中から、救い主を与えてくださるということを確認しました。世界には色々な民族がいますが、神は特別にユダヤ人を選び、割礼という儀式を与えました。私はユダヤ人ではないので割礼は受けていませんが、イエス様を信じた私たちは、心の割礼を受けたと書かれています。神様が私たちの汚れを切り取ってくださると書かれています。この割礼は「契約」です。
 ユダヤ人の祭りの中にもう一つ、「過ぎ越しの祭り」という儀式があります。私は二月二十二日から八日間、イスラエルに行きました。イスラエルでは、土曜日が安息日で「シャバット」と言いますが、この安息日には、何の仕事もしてはならないのです。
 イスラエルには、イスラム教、キリスト教、ユダヤ教もあります。イスラム教の人たちの礼拝は金曜日です。ユダヤ教は土曜日に礼拝をします。クリスチャンは、よみがえられたイエス様を礼拝しているので日曜日です。
 安息日にユダヤ人は何の仕事もしません。ホテルでエレベーターに乗るときに、ボタンを押すという作業も仕事になるそうです。ユダヤ人が乗るエレベーターは自然に開くようになっています。私が泊まった部屋は二十二階でしたが、本来ならばすぐに部屋に着くものですが、一階ごとに止まります。それにはユダヤ人が乗ります。それに乗ったら時間がかかってしまいます。だから私たちは異邦人が乗るエレベーターに乗ります。
 ユダヤ人はある意味で旧約聖書を守っています。守っている中でユダヤ人が大切にしているのが、「過越の祭り」です。これは、神様がアブラハムに『後の子孫にこの地を与える』と言われ、今のパレスチナの地について約束されました。しかし、「あなたの子孫は別の国に行って奴隷とされ、この地が罪で満ちたとき、神がこの地に連れ帰り、この地をあなたに与える」と言われました。アブラハムの子はイサク、イサクの子はヤコブとエサウですが、ヤコブの子どもたちは食べ物がなく、エジプトに下り、そこで増え広がり、彼らは奴隷となりました。イスラエルは四百三十年間、エジプトで奴隷生活をしました。パロという王様が彼らを奴隷として酷使しました。そこでユダヤ人は苦しさを覚え、「神様。救ってください。」と祈りました。その時、神は一人の預言者を送りました。それがモーセでした。そしてユダヤ人を奴隷から解放しました。その時、十の奇跡を行いましたが、どんな奇跡もエジプトの王パロは信じませんでした。「私たちを解放し、国に帰してください。」と言いました。神は最後に、奴隷から解放するために、「一の月の十日に一頭の雄の子羊を取りなさい。子やぎか傷のない子羊を取りなさい。十四日間、自分の家につないでおきなさい。そして十四日目に子羊を殺して血を取り、それを柱と、かもいに塗りなさい」と言われました。そして、「その肉を食べなさい。わたしはエジプトの神々に対してさばきを行う。わたしが出てきた時に血がついている家は見過ごしてあげます。」と言われました。そこでユダヤ人たちは、それを信じて、子羊を持ってきて殺して、柱とかもいに血を塗りました。神のさばきの時でした。エジプトのパロの王の長男も殺されました。どこの家でも皆、長男が殺されました。しかし、ユダヤ人たちは長男がいても、血が塗られていたので安心していました。
旧約聖書は預言的な意味があり、羊や子羊は、来るべき神の子イエス・キリストを指しています。そして流された血潮が塗られていたら、神は見て通り過ぎると言われました。今日、初めて来られた方は、信じるか信じないかは別なことですが、聖書には、『人間は一度死ぬことと、死後さばきを受けることが決まっている。』と書かれています。さばきがあると信じますか。何も罪がないと思っても、聖書はあなたの行ったすべての行ないに対して神様はさばかれると告げています。自分の奥さんがいても、海外に行って女を抱いたり、でたらめな生活をしてもさばきがなかったらおかしいと思います。ですから、聖書の中に神様は罪に対してさばかれると言われました。『義人はいない。ひとりもいない。すべての人は罪を犯した。』と聖書に書かれています。
 羊が殺されて血が流され、血が塗られたのを見て神様は見過ごされる、これを「過越」と言います。ですから、彼らはずっと「過越の祭り」を守ってきました。いつか救い主が来ると信じていました。そして二千年前に、救い主が来ました。しかし、ユダヤ人はその救い主を十字架につけました。彼らが考えていた救い主とは違いました。救い主イエス・キリストは、馬小屋に生まれました。貧しい大工さんの家に生まれました。そして三十才になるまでそこで住んでいました。三年六ヶ月間伝道し、素晴らしいことをされました。多くの一般的な会衆たちは、「この方こそ私たちが待ち望んでいたメシヤに違いない。」と言いました。しかし、パリサイ人や祭司長や宗教家は、「イエスは神を冒涜している。十字架につけて殺してしまえ。」ということで、最後にはいばらの冠をかぶらせ、十字架にかけました。実は、イエス様が言われたことは、最初にお読みした御言葉の中に、イエス様がパンを取り、『これはあなたがのためのわたしのからだだ。』また杯を取って『新しい契約の血だ。』ということは、「わたしは神の子であり、救い主である、わたしは皆のために犠牲になり、この肉体が裂かれ、わたしがあなたのために十字架で血を流してあげる。」ということです。この血をだれでも信じたら、「見過ごされる」ということは、「罪が赦され、永遠のいのちを受けることができる」という「契約」を人間に与えてくださったのです。受け入れるかどうかは個人の自由です。
 私は今から随分前に新城に伝道に来ました。元ダンスホールを買って教会にしました。ある時、僧侶の方が来て聖書のことを聞かせてくださいと言われ、話したことがあります。その方はよく聖書を知っていました。そして私に質問しました。「牧師先生。ルカの福音書には人の子が定められたとおりに去っていく、と書かれていますがどういうことですか。」と聞かれました。「定められた通りのこと」とは、旧約聖書で神が約束されたとおりに、イエス・キリストがこの地上で十字架にかけられて、殺されることが定められていました。そしてイエス・キリストは十字架にかかって死んでくださったことを話しました。彼は、話を聞いて帰られました。
 私は十九才の時に初めて教会に行きました。教会は素晴らしいと思いました。二回目に神の御子が私のために十字架にかかって死んでくださことを聞いた時に、「何と素晴らしいことだろう」と思いました。私を導いてくださった先生は、「『しかし、彼を受け入れた人、その名を信じた人は神の子となる特権をお与えになる』と書かれています。どうですか。受け入れたら救われますよ。イエス様を信じて見ませんか。」と言われた時に、私は、「はい。信じます。」と答えました。こんな素晴らしいことはありません。私は罪人だとわかっていました。私は汚い、このままでは天国に入れないけれど、イエス様が十字架にかかって死んでくださったことを信じるだけで、天国に行けるのだったら信じます。私の人生は変えられました。今日、信じるか信じないかは皆さんの自由ですが、ぜひ、皆さんにお勧めします。神が提供してくださった、この契約の血、イエス様の裂かれた肉を心から受け入れてみてください。もし、皆さんが本当に受け入れることができたら、悪魔の力、死の力、さばきの力から救われて、永遠のいのちを持つことができると聖書は約束しています。神様は契約を破る方ではありません。
 今日はこの礼拝のあとで婚約式が行われます。婚約式は契約です。神と人との前で契約をします。また、結婚式も契約です。「私は○○さんを自分の妻としてめとることを約束します」という契約です。神様は契約を破られない方です。一旦契約をたてたら、永久に破りません。今日は神の前での婚約式です。二、三日経って、おもしろくないから変えましょうというのではいけません。マラキ書二章十四節から十六節に、

『それは主が、あなたとあなたの若い時の妻との証人であり、あなたがその妻を裏切ったからだ。彼女はあなたの伴侶であり、あなたの契約の妻であるのに。神は人を一体に造られたのではないか。彼には、霊の残りがある。その一体の人は何を求めるのか。神の子孫ではないか。あなたがたは、あなたがたの霊に注意せよ。あなたの若い時の妻を裏切ってはならない。「わたしは、離婚を憎む。」とイスラエルの神、主は仰せられる。』

と書かれています。
 最近神様を知らない人たちは簡単に離婚します。しかし、今日は永遠に誓いを破られないエロヒムなる神様の前に契約します。結婚は一体になります。死ぬまで一体です。どのようなことがあっても離婚してはいけません。愛し合っていくのです。これは神の前での契約です。これが婚約式です。
 素晴らし人生を送りたかったら、イエス様を信じることです。まず、罪が赦されます。どのような失敗があっても消されます。新しく生まれ変わります。神様によって一つにされたら、約束を破られない神様が最後まで保証して守って下さいます。これから、聖餐式を守りますが、自分を吟味して与りましょう。一言お祈りします。

バックナンバー
戻る
戻る