今週の礼拝メッセージ
聖書を読もう   1999.4.11(SUN)

新城教会牧師 滝元 順

<今週のメッセージの御言葉>
新約聖書 テモテの手紙第二 3章15節〜17節
また、幼いころから聖書に親しんで来たことを知っているからです。聖書はあなたに知恵を与えてキリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができるのです。聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。それは、神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるためです。

 今日は「聖書を読もう」というタイトルでお話しします。世界の人々にこれほど大きな影響を及ぼしてきた書物は、聖書以外にありません。世界のベストセラーは聖書です。アメリカの初代大統領、ジョージ・ワシントンは、「神と聖書なしでこの世を正しく統治することは不可能である」と語りました。
 人間ほど複雑な生きものはないと思います。私たちは色々、複雑な機械を目の前にしていますが、それを作った人間はそれ以上に複雑なものです。機械を使いこなすときに、必ず、マニュアルが必要です。複雑な機械ほどマニュアルが必要です。それ以上に、複雑な人生を生きるためにはマニュアルが必要です。それが聖書です。神様は人間を造り、「適当に生きてください」とは言われませんでした。生きていくために必要な、すべての情報を聖書の中に託し、それと共に神の子イエス様をこの世に送られました。聖書をよく読んでいただくと、神が生きておられることと、すべての人生の情報が聖書の内に含まれている事がわかります。
 今日はテモテへの手紙を読みましたが、テモテは若い頃から聖書に親しんできたのです。今日ここには、子どもたちからお年寄りまで幅広くおられますが、若い時から聖書に親しむことはとても素晴らしいことです。
 有名な詩人であり、作家であったゲーテは聖書を愛読していました。そして彼は、「私は確信する。聖書は人々がこれを理解すればするほど立派な人物となる。」と語りました。聖書を理解すればするほど立派な人物になれるそうです。ですから子どもたちがよく聖書を読めば、神の前に立派な人物になれます。聖書を熱心に読むべきです。
 アメリカで奴隷解放を行ったリンカーン大統領は、聖書の中から人々が神の前に平等であることを知りました。これはただのヒューマニズム的考え方からの奴隷解放ではなく、聖書より、すべての人種が平等であることを知り、奴隷解放のために働きました。彼は、「私は聖書をこれまでに人類に与えられた最上の賜物と信じる。世界の救い主から発する一切の良きものはこの書を通して我々に伝達された。」と語りました。この書を通して、神の良きものが伝達されます。今日初めて来られた方も、聖書を熱心に読んでみてください。ここには神の言葉が書かれています。神の言葉は真実ですので、それを実行する時にいのちが湧いてきます。
 私たちの周りにあるものは、使ってしまえば終わってしまいます。おいしいものを食べても、食べ終わってしまえば残がいだけが残ります。何となくむなしい感じがします。家内が二時間くらいかけて夕食を作っても、私が一分くらいで食べてしまうと悲しがります。この世のものは、あっという間になくなります。しかし、聖書は違います。
 中国で長年伝道したハドソン・テーラー先生は、「私は聖書の御言葉を銀行の小切手手帳と同じように使うが、次のことが違う。小切手は振り出すごとに減って二度と使えないが、聖書は何度でも繰り返して使える。」と語りました。聖書の御言葉は何度でも使うことができます。皆さんの人生の危機に何度でも対応します。
 私たちが聖書と出会えたのは素晴らしいことです。聖書はあなたに語りかけ、あなたにいのちを与えます。なぜならば、神の御言葉だからです。

『はじめに、神が天と地を創造された。』

 人間が何かを作るときには時間をかけて、労働力を使い時間をかけて作ります。しかし、神は天地宇宙を言葉によって創られました。「光れあれ」言われると光が現れ、「地よ現われよ」命じられると地が出来たというのです。すごいお方です。神様は言葉によってすべてのものを創られました。聖書が神の言葉であるのなら、聖書中のすべての言葉が、天地宇宙を創造するほどのエネルギーを持った言葉であるということです。だから聖書のどこを開いても、それは一瞬にして天地宇宙を創るほど強力な言葉であるということです。聖書のどこを読んでも、無から有を創造する神の力ある言葉なのです。
 聖書は六十六冊が一冊になった本です。筆者は四十人程。そして書かれた場所はある書はアジア、ある書はヨーロッパ、中近東・・・と色々な場所で記されました。それが一冊になっています。伝言ゲームというのがありますが、一つの言葉を次の人に伝えていくとほとんど話が変わってしまいます。しかし、聖書は、著者が違い、地域が違い、何千年という歴史の中で書かれましたが、そこには驚くべき一貫性があります。聖書を調べれば調べるほど、不思議に思います。始めから終わりまで、天地創造からヨハネの黙示録まで、一貫性があるのです。そのような書物は他にありません。
 それについて聖書自体が語っています。イザヤ書三十四章十六節に、

『主の書物を調べて読め。これらのもののうちどれも失われていない。それぞれ自分の連れ合いを欠くものはいない。それは、主の口がこれを命じ、主の御霊が、これらを集めたからである。』

 聖書は連れ合いを欠いていないというのです。この言葉が夫婦に例えている言葉です。ご夫婦でご主人を亡くしてしまったら連れ合いをなくし、大変なことです。人間はアンバランスになります。しかし、聖書はどこも連れ合いを欠いていないというのです。これはすごいことです。
 この聖書には、三つの大きな柱があります。まず第一に、聖書は天地創造から始まっていますが、創造の中心は人類の創造です。神は人類を特別な存在として造られました。そして自由を与えてくださいました。しかし、一つの約束事の中における自由でした。それは、神様の命令に従うなら、自由に生きても良いということでした。しかし、人間は残念ながら、その約束を破ってしまいました。初めに人間が造られた時、土から創られましたが、いのちの木の実を食べるならば、永遠に生き続けるように創られていました。
 いのちの木の実を食べるならば永遠に生きることができるとしたら、今でも食べたいものです。その実を売ったら、相当高い値で売れると思います。売りに出したらすぐに大金持ちになり、自分も永遠に生きることができます。しかし残念ながら、それは食べることができないようにされたというのです。創世記三章二十二節から、

『神である主は仰せられた。「見よ。人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るようになった。今、彼が、手を伸ばし、いのちの木から取って食べ、永遠に生きないように。」そこで神である主は、人をエデンの園から追い出されたので、人は自分がそこから取り出された土を耕すようになった。こうして、神は人を追放して、いのちの木への道を守るために、エデンの園の東に、ケルビムと和を描いて回る炎の剣を置かれた。』

と書かれています。
 ここを読むと「あれ?」と思うことがあります。「見よ、人は我々のひとりのようになり、善悪を知るようになった。」とあります。
 私たちの信じている神は、唯一の神ではないのだろうか。しかし、ここには「我々」と複数になっています。それは、私たちの神様が単数では現すことができない程、偉大であるという事を現しています。またこれは主語が複数でも動詞が単数という文法です。おもしろい表現が使われています。そしてこの「我々」というのは三位一体をも現しています。
 時々、「なぜ、神様がおられるのに、この世は不幸なんですか」と問われます。その理由は、人間が罪を犯し神から離れてしまったからです。何と、聖書は、初めは人間が神から離れて不幸に陥ったところから始まっています。神から離れたことによって、人間は目標を見失ってしまいました。それで不幸がこの世にたくさんあります。神から離れたという一点から始まっていることを知るべきです。しかし、聖書は、神から離れた人間を、救い出すためという一貫したストーリーです。神様から見捨てられている人はいないのです。神が私たちを求めてくださっているのです。そして、聖書は、イエス・キリストについて語っています。イエス様は、この地上にただ一度だけ、人間の姿をとって来てくださった神です。神様は、あまりにも偉大で人間には理解することができません。神様は時間空間を越えたお方ですので、どのような方かわかりません。また、永遠の世界のことを聞いても、私達は理解することができません。しかし、天から来てくださった方に耳を傾けるならば、神の世界について知ることができます。それがイエス様です。イエス様がこの地上に来られたときに、神にしかできない不思議な業を行いました。しかし、皆はなかなか信じることができませんでした。それでイエス様に、「あなたはどなたですか」と質問しました。
 ヨハネの福音書五章三十九節に、

『あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたしについて証言しているのです。』

と語られました。ユダヤ人は旧約聖書を持っていました。その中に救いがあると信じて調べていました。するとイエス様が、「あなたがたは聖書を調べていますが、聖書の中に書かれているのはわたしのことです」と語られたのです。これはすごい言葉です。
 旧約聖書はイエス様が生まれる前に書かれました。しかし、それはイエス様についての事だというのです。だから、私たちが聖書を読むとき、旧約聖書を読んでも、「イエス様はどこにおられるのだろうか」と考え、祈りながら読むべきです。創世記にもイエス様がおられます。それを見つけなくてはなりません。何しろ、聖書が語っているすべてのことは、「わたしのことです。」とイエス様は語られました。このイエス様を通して永遠の命が与えられるのです。
 そして、聖書の最結びの黙示録二十二章十三節から、

『わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。初めであり、終わりである。自分の着物を洗って、いのちの木の実を食べる権利を与えられ、門を通って都にはいれるようになる者は、幸いである。』

と書かれています。聖書中、最後に書かれている言葉です。黙示録を創世記と比べたら、何千年も隔たりがあります。最初、人類は神の前から追い出されてしまったのです。しかし、イエス様が現れたとき、「わたしについて聖書は語っている。また、わたしを通して永遠のいのちが与えられる。」と言われました。そして聖書の結びの言葉は、「わたし(イエス様)が初めであり、終わりである。」と記されており、イエス様を通して、もう一度いのちの木の実を食べる権利が与えられる、ということです。人類が失ってしまったいのちの木の実を食べる権利を、イエス・キリストを通して回復されるのが、聖書全体を通してのメッセージです。
 イエス・キリストを信じるならば、いのちが回復するというのです。イエス様が人生の希望です。聖書は全体を通して、イエス様を中心とし、永遠のいのちについて語っています。
 「救い」と呼ぶことができるものは、永遠のいのちだけです。どんなにお金を儲けても、使ってしまったら終わりです。病が癒されても、また病気にかかります。本当の救いは千年後、一万年後を断ち切ってみても救われていることです。ということは、本当の救いは「永遠のいのち」です。永遠のいのちが人類には与えられているのです。あなたに与えられる、それもイエス・キリストを信じることによって与えられるのです。
 これをどのようにして受け取るのでしょうか。神の言葉は人間的に受け取っても理解することができません。今日、来会されておられる鈴木留蔵先生が証された中に、ある校長先生がマタイによる福音書を読んだら、「処女マリヤからイエスが生まれたことなど信じることができない」と言われた、と話されました。これは人間的には絶対に信じることはできません。神の言葉を知るためには、「風」を受けなければなりません。聖書は初めから終わりまで風が吹いているのです。その風は、「聖霊の風」です。ヨットも風を受けなければ動かないように、私たちも聖霊の風を受けなければ聖書を理解できません。私たちは、聖霊によってのみ、御言葉を理解することができます。ですから、聖書を読むときに、聖霊の風が吹くように祈ってください。ある人は風によって聖書を読まないから理解することができないのです。しかし、ある人は御霊によって聖書を読むので、神の御言葉を理解することができます。
 ある船会社が通信員を一名募集しました。大きな船会社で、募集広告を出したら、試験に大勢集まりました。多くの人が集まったけれど、選ばれるのはただ一人だけです。面接試験の時間が来ても、なかなか面接が始まらなかったそうです。それで待合い室がザワザワし、各々世間話をし始めたのです。すると、ひとりの青年がすっと立ち上がり、面接室に入っていったそうです。しばらくすると、その青年がニコニコしながら部屋から出てきました。その時にアナウンスがあったそうです。
 「今日の試験はこれで終わりです。」「なぜ面接もしないで、駄目なのですか。」と聞いたそうです。そうしたら、面接試験を待っているときに、近くのスピーカーからモールス信号が出ており、皆の名前を呼んでいたそうです。しかし、皆、むだ話をしていたので自分の名前が呼ばれたのに気がつかなったのです。しかし、一人だけ、スピーカーからモールス信号がもれているのに気づき、自分の名前が呼ばれた時に部屋に入っていき、採用されたのです。
 ある意味で、聖書は神様から送られているモールス信号のようなものです。ある人は読んで「こんなもの」と思うかも知れませんが、その中に神様の風が吹きます。その風をキャッチし、「これは私のことだ」と気づけば、永遠のいのちを受け取ることができます。今日ここにおられるすべての方が聖霊様によって御言葉を理解し、自分のものとしますように。
 エペソ人への手紙は、聖書の言葉が剣であると教えています。六章十七節に、

『救いのかぶとをかぶり、また御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい。』

と書かれています。また、新共同訳聖書では、

『また、救いのかぶとをかぶり霊の剣、すなわち神のことばを受け取りなさい。』

と書かれています。神のことばは聖霊様ご自身が与えるものだというのです。刀は使わないときは、「さや」に収められています。ある人はその刀を床の間に飾っておきます。さやに収めて飾っておく刀は飾りものにはなるかも知れませんが、本来の意味は成り立ちません。刀を使用するときには、さやから引き抜いて使わなければなりません。「聖書の言葉は剣」ということは、神の霊によってさやから引き出し使うのです。聖書には、色々なことが書かれていますが、聖霊によって適宜、引き出すことができます。また、聖書が事実だということを証明するのが聖霊様の働きです。今でも聖書に書かれていることが実際に起こります。病が癒され、人生の問題が解決したりと不思議なことが起こるのです。それは、聖書が事実であるということを御霊が証明しているからです。教会に来て、聖書に書かれていることの体験は、聖書に記されている神が真実である証明です。今日ここにおられるひとりひとりが聖霊により、生ける言葉を理解し、主の栄光現わされる人生に入ることを心から願います。
 ぜひ、熱心に聖書を読みましょう。そして、聖書を御霊の風によって、さやから剣を引き出しましょう。主はあなたを呼んでおられます。その声に耳を傾けていただきたいと思います。一言お祈りします。

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