今週の礼拝メッセージ
信仰による選択   1999.4.25(SUN)

新城教会牧師 岡本信弘

<今週のメッセージの御言葉>
新約聖書 ヘブル人への手紙11章24節〜27節
信仰によって、モーセは成人したとき、パロの娘の子と呼ばれることを拒み、はかない罪の楽しみを受けるよりは、むしろ神の民とともに苦しむことを選び取りました。彼は、キリストのゆえに受けるそしりを、エジプトの宝にまさる大きな富と思いました。彼は報いとして与えられるものから目を離さなかったのです。信仰によって、彼は、王の怒りを恐れないで、エジプトを立ち去りました。目に見えない方を見るようにして、忍び通したからです。

 ハレルヤ!主の御名を賛美します。皆さんと共に礼拝を守ることができ、また健康で日々主に仕えることができることを心から感謝します。いつも健康が支えられているのですが、今年は三月に四日間ほど風邪で寝込みました。私は何年かに一度くらいしか風邪をひかないのですが、時としてそのようなこともあり、そんなことを通して苦しみも教えられ、感謝します。皆さんのお祈りを心から感謝いたします。
 先日滝元先生が打ち出されたスーパーミッションも、皆さんに祈っていただいて感謝いたします。私も色々な所に行って会場をリサーチしていますが、やっと東京の四十日間の会場が決まりそう、という状況です。続けて最善の所が与えられるように祈ってください。四十日を、四ヶ所くらいの会場でつなげたいということで打ち合わせをしていますが、続けて四十日を休まずに続けることは至難の業で、料金的なことはいいけど、キャパシティーの問題があったり、色々調整が難しいですが、神様の導きと、皆さんのお祈りによって支えられていることを感謝します。多くの必要がありますのでそのためにもお祈りください。
 プレイズ出版の働きのためにも、いつもお祈りいただき感謝します。昨年、東京ミッションを機に「カイロス」を出しました。それは東京ミッションにあたって私たちが何をすべきか、また神様がどのような御業を現してくださっているか、ということを中心に綴られました。そして今回、リバイバルの備えとして更に前進したものを発刊したいということを願って、様々なテーマを掲げて、そのテーマ別に何人かの先生方に書いていただいたものを一冊にまとめるというかたちで、新たに「カイロス・ネクスト・ステップ・シリーズ」を発刊させていただきました。第一巻として「信仰生活勝利への鍵」というテーマで、巻頭言に元ヤクザをされていた鈴木先生が、戦いについての勝利の鍵を書いてくださり、また尾山先生、トムホワイト先生、順先生、望先生、テモテワーナー先生、ポールヒバート先生、有賀先生が、それぞれの角度から、私たちの信仰生活の中で必要なことを語られています。ぜひ一読ください。
 今日は「信仰による選択」というテーマで学んでいきます。私は水曜礼拝や家庭集会では御言葉を語らせていただいていますが、日曜礼拝は大体一年に一度くらいしかメッセージをしていません。前回メッセージをしたのは、昨年の七月でした。その時に語った御言葉は、「選ばれた主の勇士」というタイトルで士師記の中から学びました。私たちは主に選ばれた者であり、一人ひとりが成長し、主の役に立つ者になっていくことを主が望んでおられる、という話をしました。ちょうど東京ミッションの二ヶ月位前で、私たちが主の勇士として立ち上がっていく時、主が答えてくださり素晴らしい勝利を与えてくださるという御言葉を学びました。今回準備をするうちに「選ばれた・・・」ということが心に浮かんできました。しかし、前回と同じようなテーマになってしまうと思い、導きを祈っていました。その中で、今回私がいただいた御言葉の中で、選ばれた私たちがこの先どのように進んでいくかが大切であることを教えられました。
 私たちの人生の中には色々な岐路に立ち、選択を迫られる時があります。右に行くか左に行くか・・・、一番か二番か・・・、今何を選ぶべきか悩むことがたくさんあると思います。
 先日、私の家の近くで火事がありました。私は家にいることが少ないですが、たまたまその日には家にいて、のんびりとテレビを見て、風呂に入ろうかと思った時に、外でパンパンという音がしました。私の家内が「何の音?」と聞きましたが、私はあまり深く考えることなく、「今、選挙だから景気づけに花火でも上げたんじゃないの」と言いました。そして私は風呂に入ると、外が明るいことに気がつき裸のままで外を見ると、近くのモータースが燃えており、「大変だ、火事だ」と言って、あわてて服を着て出て行きました。するとまだ誰もいなくて、どうしたらいいかわかりませんでした。とりあえず、消防車を呼ぼうと思い、家に戻って電話をしようとすると、前の家の人が「もう電話した」と言ったので、また外に飛び出しました。私が行ってから三分ほどが経ちましたが、なかなか消防車が来ませんでした。その間に人がだんだん増えてきましたが、何もすることができませんでした。三分間はとても長く感じました。カップヌードルを待つ時にもお腹が空いているので長いと思うように、とても三分間が長く感じました。私は気が短いので「何やってるんだ。新城の消防署はあてにならない」と思いましたが、冷静に考えてみるとそんなに遅くはなかったのでした。しかしやっと消防車が到着した時には、工場の半分ほどが燃えてしまっていました。きのこ雲のような黒い炎が立ち上りました。母屋の方へ移らないようにと祈りながら見ているだけしかできませんでした。幸い工場だけが燃えて大事には至りませんでした。私は自分では落ち着いていたつもりでしたが、家内に「いや、相当あわててたよ」と言われました。私は皆さんが知っておられるとおり、声が大きいのですが、「消防車は呼んだのか」と言うつもりで、「救急車どうした?」と言っていたのに後で気づき、やっぱりあわてていたんだなぁと思いました。あとから多くの人に「大変でしたね」と言われ、「いや、それほどでもないです」と答えましたが、実は家にもちょっとした事件がありました。火事の前日、家内の車が車検に出してあり、まる焦げになってしまったのです。それは重大問題ではありませんが・・・。私は結局そのようにとっさの時、どうしたら良いのだろうかと思っても何もできませんでした。このように大きなことではなくても、毎日の生活の中で、選択に迷うことがあります。
 私も最近外に出かけることが多いので、外食が多いです。メニューを見てこれにしようかあれにしようか、と悩みます。私は値段が高いか安いかなどを気にしますが、お金を気にせず好きなものを何でも選べたら、とてもおいしく食べられると思います。またどこかに旅行に行くにしても、お金のことや仕事のこと、何の心配もなく行けるんだったら行きたい所はたくさんあると思います。そのようになれたら本当に幸せだと思います。しかし、なかなかそのようにはいきません。色々な制限があり、色々な条件が絡んできます。そのような中で何を選ぶのが一番重要なのかを考えることが肝心です。
 今日お読みしたヘブル人への手紙は、信仰の書と言われており、信仰によって数々の勝利や祝福を受けたことが書かれています。特に十一章は、旧約聖書からの物語で、信仰の人が色々な祝福を受けたことが箇条書きで書かれています。特に、二十五節には、

『はかない罪の楽しみを受けるよりは、むしろ神の民とともに苦しむことを選び取りました』

と、モーセの選択について書かれています。それぞれ生きてきた年数は違いますが、誰もが今までに数々の選択の時があったと思います。どこの高校に行こうか、何の仕事をしようかと選択を迫られます。一度決めて高校に行っても、あっちの高校へ行けば良かったと後悔したとしても三年間は過ぎ去っていきます。また就職しても、仕事が自分に合わなければ途中で変えることもできます。しかし、結婚は一度決断したら簡単には変えらません。皆さんは今の結婚生活に満足されていると思います。私も今年、結婚してから十九年目になりましたが、幸せに楽しく暮らしています。選択にも、変更できることとできないことがあり、また後から取り返しのつかなくなってしまうことがあります。ヘブル人への手紙に出てくるこの人たちは、素晴らしい信仰の持ち主であったと思います。私たちとは比べることができないほどの雲の上のような、とても偉大な人のように思います。しかし、彼らも私たちと同じ人間なのです。どんなに信仰の人であっても、時として色々な失敗があり、選択を誤ったことが聖書には書かれています。
 創世記を見ると初めの人間、アダムとエバは神様によって造られ、何不自由のない素晴らしい生活をしていました。そして、自由に神様と交わりをもっていましたが、エバは蛇の誘惑に負けて、取って食べてはならないと神様から言われていた善悪を知る木の実を、取って食べてしまいました。誘惑したのは蛇でしたが、エバが自分で木から取ることを選び、食べました。自分で決断したのです。そして、その選択の結果、人類に罪が入り、女性には産みの苦しみが与えられ、男性には働く苦しみが与えられたのです。これは、一つの選択の誤りが人類の中に罪を入れ、今に至っていると言うことができます。また、モーセの生涯が出エジプト記に書かれていますが、そこには失敗についても書かれています。
モーセはパロの娘の子として皆からあがめられ、安定した生活をおくっていました。しかし、一つの事件をきっかけに、彼はミデヤンの地に逃げて行きました。しかし、八十歳になった時、神様に召し出され、パロのもと、愛する同胞を救うためにエジプトに戻り、二百万から三百万ほどの民を連れ出し、カナンの地直前まで導きました。もし、彼がこの時、自分さえ良ければいいという選択をしたら、そのままパロの娘の子、王子と呼ばれ、後々王になったかも知れません。彼は幸せに暮らせたかも知れません。しかし、モーセは民を導き出す使命を神様から受けました。モーセの目の前にあることは苦しみだらけで、良いことは何もなく、出て行くことは荒野の生活であり、苦しみの連続が待ち受けていることをも彼はわかっていました。しかしモーセは神様の要望に応えたのです。

『モーセは成人したとき、パロの娘の子と呼ばれることを拒み、はかない罪の楽しみを受けるよりは、むしろ神の民とともに苦しむことを選び取りました』

神様のみこころの道を選ぶなら、彼は報いとして祝福を得るということを確信していたのです。
 モーセはイスラエルの民とともに立ち上がって、エジプトを脱出しましたが、多くの問題もありました。モーセが民と一緒に約束の地カナンの近くまで来た時、十二人の斥候を送りその地を調べさせました。四十日間調べて、彼らは帰ってきました。十二人のうち十人は「あのような所に行ったら、私たちは全部が滅ぼされてしまう」と言いました。しかし、ヨシュアとカレブだけは「あの地は素晴らしい、神様が与えてくださった地だ。今私たちが神様のみこころのままに攻め上って行ったら、あの地を勝ち取ることができる」と言いました。この二つの意見を聞いた民たちは、十人の意見を選び、そこに上って行くことを拒みました。そしてその結果、彼らは神のみこころを歩まなかったゆえに、彼らが調べに行った期間の一日を一年として、四十年間荒野をさまようことになったのでした。そしてその十人は殺され、ヨシュアとカレブ以外、誰も約束の地に入ることができませんでした。その時の一つの選択の誤りによってです。信仰をもって進んで行ったら、約束の地はすぐに手に入りました。天地ほどの違いがあります。私たちも一つの選択を誤ってしまうことによって、人生が全く変わってしまうこともあるということを覚えるべきです。私たちは、神様が与えてくださることを信仰をもって選んでいくならば、必ず祝福されることができるのです。
 信仰による選択を、アブラハムから学ぶことができます。
神様はアブラハムに、「あなたの子孫によってあなたを祝福し、大いなる国民とする」と約束され、イサクという子どもを与えられました。その約束の子イサクを、神様は全焼のいけにえとしてささげるようにと、言われたのです。聖書にはアブラハムが悩んだとは書いていませんが、心がひきさかれんばかりだったと思います。人の子の親ならば誰もがその気持ちはわかると思います。しかし、彼は神様の望まれたとおり、三日の道のりを経てモリヤの山に行き、イサクをささげようとしました。アブラハムは拒否することもできましたが、彼は神様に従うことを選び取りました。モーセと同じように、約束のものから目を離さなかったのです。結果としてアブラハムは初めに神様が約束してくださったように、大いなる祝福を得たのでした。
 私たちは岐路に立つことがあります。クリスチャンである私たちは「イエス様、どうしたら良いですか」と祈ります。その時、イエス様の声が聞こえて「あなたは右に行きなさい。このようにしなさい」と言われたら、「はい」と言って右に行けば良いし、神様の言われるとおりにすればいいから簡単だと思います。しかし、「右に行け」と言われた時、本当に素直に、何も考えずに右に行くことができるでしょうか。アブラハムはどうだったでしょうか。「イサクをささげなさい」と、はっきりとした言葉で神様に言われた時、彼は神様の命令に従ったのです。だからこそ、アブラハムは信仰の父と呼ばれ、神の友と呼ばれ、後々彼は祝福をいただくことができました。あなただったらどうするでしょうか。神様が言われたとおりに「はい」と選択できるでしょうか。私たちにはなかなかできません。たぶん私は「神様、そうは言いますが・・・」と拒否したと思います。
神様は私たちにアブラハムと同じ選択をしなさいとは言われません。神様は私たちに選択の自由を与えておられるのです。皆さんがそれぞれに神様から選択を迫られる時、それを信仰によって受け止めるかどうかにかかってきます。
 甲子園ミッション、東京ミッションのことを考えてみると、その話が持ち上がった時、私は「そんなにやらなくても良いではないか」と思いました。成功するかも知れないけれど、失敗したらどうなるのだろうという心配がいつもありました。しかし、初め下條先生がビジョンを持ち、滝元先生が受け取り、リバイバルミッションの実行委員の先生方が立ち上がり、甲子園ミッション、東京ミッションと今までこの戦いが続けられてきました。これらも選択においては、やめることもできましたし、他のやり方もあったと思います。しかし、神様の御声によって、神様のみ前に信仰をもって甲子園を選択し、東京武道館を選択し、ここまで導かれてきました。私には初めからこのような大きな大会をやろうというような信仰はありません。先生方が受け取ったように、同じように皆に甲子園ミッションのビジョンを持ちなさいと神様は言われてはいません。それは一人ひとりに与えられている信仰に応じて任せられるものなのです。そんなに皆さん全員が、これもやりたい、あれもやりたいと言われては私も困ってしまいます。それぞれに与えられている選択は、違うのです。
 ルカの福音書十章には、マリヤとマルタという二人の姉妹の所にイエス様が来られた話が書かれています。町は大騒ぎになったと思います。イエス様が来られるという大事件。どのようにすべきか、何を一番優先するべきかを考えた時、マルタはまず、イエス様が来られるのだったらおもてなしをしなくては、と一生懸命におもてなしの準備をしました。イエス様が来られ、妹マリヤはイエス様の足元に座ってみ言葉を聞いていました。それが優先順位としてマリヤが選んだことでした。その時、この二人の行動のどちらが一番神様のみこころにかなって良い選択をしたのでしょうか。聖書を見ると四十二節に、

『どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません』

と書かれています。この御言葉に対する受け止め方はたくさんあります。いくつかの注解書を調べましたが、賛否両論です。しかし、共通していることは、マリヤの選択は間違っていなかったということです。それでは、マルタの選択はどうなのでしょうか。このことについては、色々な注解があります。間違っていたというのもあり、またそうではないという注解もありました。もし、マルタにとって、神のみ言葉を聞くことが最優先されるべき神様のみこころであったなら、イエス様がその時に「あなたもここに座ってみ言葉を聞きなさい」と言ったでしょう。しかし、イエス様はそうは言っていないのです。だとすると、マルタの選択も間違っていなかったのです。新城教会においても、まだクリスチャンでない方が来られた時に、クリスチャンは御言葉を一緒に聞く人も必要ですし、色々な準備をする人も必要です。また、もてなす人も必要です。そのように考えると、その時にマルタの選択は間違っていなかったけれども、マルタが言った言葉が問題なのです。四十節に『主よ。妹が私だけにおもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのでしょうか。私の手伝いをするように、妹におっしゃってください』とあるように、「何とも思われないのですか」とイエス様を非難していることに間違いがあると思います。マルタがそのまま自分に与えられた場所で、賜物を百パーセント活かして喜んでもてなし、また、この時に御言葉を聞く必要があったマリヤが御言葉を聞くことができれば、この話は完璧でした。
 私たちは神様から色々な選択を迫られ、選択しなくてはならない時があります。しかし、皆が同じ選択をするようには神様は願っておられません。それぞれに賜物があり、それぞれに違った選択があって良いのです。神様は一人ひとりに自由意志を与えておられ、決断は私たちに委ねられているのです。その時に大切なのは、どのように私たちが選ぶかということです。マタイの福音書六章三十三節に、『神の国とその義とをまず第一に求めなさい』と書かれています。私たちが何かを選ぶ時に必要なことは、何が神様に喜ばれることであるかをまず考えることです。私たちは自分の考えで、これをしたい、あれをしたい、こうするべきだ、ああするべきだ・・・と考えます。しかし、それは時として、神様のみこころにそっていないということがあります。様々な選択を祈る時、神の国とその義をまず第一に求めているか点検するということが、大切なことになります。私たちが神様のみこころを求めて祈っていくなら、神様は必ずその道を教えてくださいます。そして最後に必要なのは、神様が示してくださったその道を選ぶことができるかどうかです。
 私たちにも、アブラハムがイサクをささげるよう命じられたようなに大きな問題にぶつかることがあります。ヨシュア記一章五節から七節に、

『あなたの一生の間、だれひとりとしてあなたの前に立ちはだかる者はいない。わたしは、モーセとともにいたように、あなたとともにいよう。わたしはあなたを見放さず、あなたを見捨てない。強くあれ。雄々しくあれ。わたしが彼らに与えるとその先祖たちに誓った地を、あなたは、この民に継がせなければならないからだ。ただ強く、雄々しくあって、わたしのしもべモーセがあなたに命じたすべての律法を守り行なえ。これを離れて右にも左にもそれてはならない。それは、あなたが行く所ではどこででも、あなたが栄えるためである』

と書かれています。右にも左にもそれてはならない、それは当たり前のことだと思いますが、色々な状況でそれてしまうことが多々あります。何が一番必要かと思う時に教えられたことがあります。一章五節には、「あなたの一生の間、だれひとりとしてあなたの前に立ちはだかる者はいない」と宣言されていますが、この時のヨシュアの状況は、イスラエルの民をモーセから引き継ぎ、約束の地カナンの地の一歩手前まで導き、ヨルダン川を渡ったら約束の地に入れる、というところでした。ヨルダン川はヨシュアたちにとって大きく立ちはだかるものでした。そのような時に、「あなたの前に立ちはだかる者はいない」と言われ、ヨルダン川をどのように渡ったら良いかと悩んだことでしょう。小さな沢であったら飛び越えることができるのに、ヨルダン川を越えるのは至難の業でした。神様によってここまで導かれたのに、こちらから向こうに行くことができない。前には大きな障害物があることをヨシュアは見ています。しかし、それでも神様は「右にも左にもそれてはならない。進んで行きなさい」と言っています。これは何を意味しているのでしょうか。
 私たちの人生の中で岐路に立つ時、神様に「こちらにしなさい」と言われているのに目の前に障害物がある。誰でも大きな問題があることがわかっている時には、できればその道を選びたくはないのです。しかし、私たちは目の前の障害ではなく、信仰の目をもって進むことが必要な時があります。ヨシュアは神様の約束を信じて、祭司たちにヨルダン川に踏み出すことを命じました。その時、上流から流れる水がせき止められ、水が壁となり、民は乾いた地を渡ることができました。誰も考えることができないようなことが起こりました。「あなたの前に立ちはだかるものは何もない」と神様が言われたことは事実です。私たちには、とてつもない、絶対にあり得ないような大きな問題かも知れません。しかし、ヨルダン川の水も神様にとってはせき止めることは難しいことではなく、一歩またげばそちらに渡ってしまえるような些細なことであるのだと思います。私たちにとって大きな障害物も、神様から見たら、ほんの石ころに過ぎないかも知れません。私たちは色々な問題にぶつかる時に、神様はなぜこんな障害物を置かれるのか、なぜ私だけに苦しいこと、悲しいことが起こるのか、と思います。しかし、私は今までの人生を振り返る時、色々な問題にぶつかってきたけれども、その問題一つひとつについて、神様のみこころを求め、神様に従ってきたからこそ今がある、ということがわかります。皆さんもそうだと思います。
 今日初めて来られた方、最近信仰に入られた方は、神様が本当に私を導いてくれるのだろうか、この神様は本当に真実な神様だろうか、と心配なさっているかも知れません。クリスチャンになったら苦しみ、悲しみはないとは言いません。クリスチャンになっても色々な問題はあります。しかし問題を解決してくださる方がいます。先ほどお読みした中に、『わたしは、モーセとともにいたように、あなたとともにいよう。わたしはあなたを見放さず、あなたを見捨てない」と言われた神様が、私といつもともにいてくださるということを信仰もってください。真実なる方、私たちを見放さず、見捨てないと言われた神様がともにおられます。病気や悩みを持っている方がおられるかも知れません。しかしそれも必ず神様が益に変えてくださいます。すべてのことが相働いて益となると語られたイエス様がおられます。家庭の中に問題があったり、岐路に立って右に進むべきか左に進むべきか考えている方も、信仰によって進む時に神様は道を備えてくださいます。ただ、神様が備え示してくださった道を私たちが信仰をもって進んで行けるかどうかです。神様が与えてくださった道を信仰もって進んで行くならば、神様がそれに報いて素晴らしい祝福を与えくださるるのです。
 ピリピ人への手紙二章十三節には、

『神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださるのです』

とあり、私たちのうちに神様のみこころを示し、主がその事を行わせてくださると書かれています。「神の国と神の義をまず第一に求めなさい」の命令に従い、神様優先の選び方をするならば、絶対に間違えることはありません。
 私も今まで多くの失敗をしてきました。私たちにとって一番必要なことは、自分の思いが優先されてしまっていないか、ということを確認するべきです。そして、もし自分の思いが優先されているならば、もう一度神様のみ前に祈り、神様の道を示していただき、その道を私たちが確実に選び取ることができるようにすべきです。必ず神様は私たちの霊的な目を開き、道を示してくださいます。その道を私たちが喜んで従っていく時に、大きな祝福をいただくことができます。
 多くの方がすでに人生をどこで過ごすかという選択を迫られ、その選択において永遠のいのちを勝ち取り、天国行きの列車にもう乗っておられます。一人ひとりにその選択の時があり、それを後悔されている人はいないと思います。まだ選択されていない方の中には、もっと前にその選択をすれば良かったと思っている人がいると思いますが、今からでも遅くありません。何回か教会に来られている方、また初めて来られた方も、真実なる方、私たちを導いてくださる方、すべての責任を持ってくださっている神様に従っていくならば、この神様を選ぶならば、これからの人生が必ず祝福され、永遠のいのちが与えられ、満ち溢れる喜びの生活ができることを断言します。お祈りします。 

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