今週の礼拝メッセージ
気前のよい主人のたとえから学ぶ   1999.5.2(SUN)

新城教会牧師 滝元 順

<今週のメッセージの御言葉>
新約聖書 マタイの福音書20章1節〜16節
天の御国は、自分のぶどう園で働く労務者を雇いに朝早く出かけた主人のようなものです。彼は、労務者たちと一日一デナリの約束ができると、彼らをぶどう園にやった。それから、九時ごろに出かけてみると、別の人たちが市場に立っており、何もしないでいた。そこで、彼はその人たちに言った。『あなたがたも、ぶどう園に行きなさい。相当のものを上げるから。』彼らは出て行った。それからまた、十二時ごろと三時ごろに出かけて行って、同じようにした。また、五時ごろ出かけてみると、別の人たちが立っていたので、彼らに言った。『なぜ、一日中仕事もしないでここにいるのですか。』彼らは言った。『だれも雇ってくれないからです。』彼は言った。『あなたがたも、ぶどう園に行きなさい。』こうして、夕方になったので、ぶどう園の主人は、監督に言った。『労務者たちを呼んで、最後に来た者たちから順に、最初に来た者たちにまで、賃金を払ってやりなさい。』そこで、五時ごろに雇われた者たちが来て、それぞれ一デナリずつもらった。最初の者たちがもらいに来て、もっと多くもらえるだろうと思ったが、彼らもやはりひとり一デナリずつであった。そこで、彼らはそれを受け取ると、主人に文句をつけて、言った。『この最後の連中は一時間しか働かなかったのに、あなたは私たちと同じにしました。私たちは一日中、労苦と焼けるような暑さを辛抱したのです。』しかし、彼はそのひとりに答えて言った。『私はあなたに何も不当なことはしていない。あなたは私と一デナリの約束をしたではありませんか。自分の分を取って帰りなさい。ただ私としては、この最後の人にも、あなたと同じだけ上げたいのです。自分のものを自分の思うようにしてはいけないという法がありますか。それとも、私が気前がいいので、あなたの目にはねたましく思われるのですか。』このように、あとの者が先になり、先の者があとになるものです。」

 ハレルヤ!今日、皆さんとともに御言葉を学ぶことができる恵みを感謝します。今日は「気前のよい主人のたとえから学ぶ」というタイトルです。
 今日お読みしました箇所に記されていることは、一般の賃金支払いシステムとは全く違っています。朝早くから仕事をした人も、仕事の終わる直前の夕方五時頃に雇われた人も一デナリをもらいました。それでイエス様は、天の御国について、「御国とはこのようなものだ」と言われました。
 さて、天の御国とは、やがて死んでから行くところばかりではなく、この地上にも現されるものであると教えられました。先ほども皆さんと共に主の祈りを祈りました。御国が現されるのはクリスチャンのただ中であり、教会です。また同時に、国にも神の国が現されるように祈って行くべきです。リバイバルとは神の国の到来です。それは、神の支配です。ということは、私たちが神の国の価値観で生きていくことが、神の国が現わされる秘訣です。ということは、この御言葉をただ読むだけではなく、実行していく中に神の国が現されます。
 高校生がアルバイトをしても、一時間につき八百円から千円もらえるところもあるようです。働いた時間だけ給料をもらうことができます。しかし今回の聖書の箇所では、その働いた時間に合った支払いがされていません。
 デナリという通貨が出てきますが、当時、イスラエルでは、二つの通貨が使われていて、一つはローマの通貨のデナリ、またもう一つはドラクマというギリシアの通貨も出回っていました。一デナリと一ドラクマは同じ価値であり、一日の給金でした。日本で言うならば、一日一万円という感じです。
 ある人々は朝早くから主人に雇ってもらいました。「あなたに一デナリあげますので、私のぶどう園に来て一日働いてください」ということでした。また、途中から採用された人は、一日一デナリの契約をしませんでした。「それ相当のものをあげるので来てください」と言われました。しかし、支払いの時には、「全員一デナリ」でした。
 この意味について、まず、イエス様が語られた状況下での理解をしなくてはなりません。弟子たちは、イエス様に三年間、従って働きました。彼らには野心があり、「これだけイエス様とともに働いているのだから、きっとたくさんの報酬をくれるに違いない」と思っていました。十九章では、ペテロがイエス様のところに行って聞いています。「イエス様。私はあなたに従ってきましたが、どんな報酬をもらえるのですか」と。するとイエス様は、そのことに対して十九章二十九節、

『また、わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子、あるいは畑を捨てた者はすべて、その幾倍もを受け、また永遠のいのちを受け継ぎます。』

 私たちがイエス様を信じ、従っていくときに捨てなければならないものがあります。捨てるのは辛い時があります。しかし、イエス様が保証してくださいます。あなたが地上で捨てるものは、捨てるようであっても捨てるのではなく、その幾倍も受けることができるのです。そして何と、「永遠のいのち」につながるのです。
 クリスチャンになる時、犠牲を伴うことがあります。捨てなければならないものがあります。しかし神様はそれを放っておかれません。幾倍にもされます。他の訳では、「百倍にしてあげる」とあります。
 ペテロの質問と答えに続けて次のことを語られました。それは、「支払いは皆同じだ」ということです。何となく、矛盾するような気がします。しかし、これは、世のものを捨てるならば、神の御国において、「この世よりも幾倍も与えてくださる」ということです。そして、神の国の中においては、「支払いは同じ」であると教えているのです。
 これは、ユダヤ人に対する警告でもありました。ユダヤ人は、「自分たちが神の選民だ」という意識がありました。「私たちは特別に選ばれた者達だ。だから、異邦人とは違う」という選民意識を持っていました。しかし、イエス様は、「あなたがたは特別だと思っていますが、特別ではない。」と語られたのです。
 私たちも時々、自分たちが何か特別のように思い込んでしまうことがあります。これはある意味で危険なことです。神様は決して差別をなさらない方です。自分たちの民族だけが特別だと考えると、ユーゴで起きているような紛争になってしまいます。他の民族は受け入れることができないというものです。神様はどこかの民族だけを特別に扱われるのではありません。皆、一デナリずつ与えています。今日ここには、色々な国籍の方がおられますが、神様はそれぞれキャラクターを与えていますが、それを特別だとは言われません。皆同じです。もしも、何か自分たちが特別かのように考える時に、神の国から外されてしまうのです。
 教会には色々な方がおられます。教会設立当時から、熱心に戦っておられる方もおられます。また、近頃救われて、この教会に集われている方々もおられます。この世の価値観から言うならば、年功序列で、年をとったら偉い者だと思います。しかし、神の国ではそうではないのです。
 ヨハネが幻を見ました。黙示録の中で、天のエルサレムについての幻でした。そこには、十二の門があり、東の門は日の出の方向に向いていました。西の門は日が沈む方向の門でした。神の国に十二の門があるのと同じように、教会にも十二の門があると思います。ある人は、東の門、日が昇る頃から入ってきます。ある意味でクリスチャンホームの子どもたちは、東の門から入って来たようなものです。また、ある人は、西の門、人生の夕暮れに入った人もいるかも知れません。しかし、神様は、どの門から入っても同じ一デナリを与えてくださる公平な方であると教えています。ということは、教会にどこから入って来ても、同じ一デナリを受ける者として歓迎し合うべきです。
 これから日本のリバイバルの中で、多くの魂が救われて教会に加えられると思います。決して私たちは、この世の中の年功序列的考えではいけません。神様は同じように祝福を与えてくださることを知るべきです。
 そうするとクリスチャンホームの子ども達は、堅苦しい世界に日の昇る頃に入ってしまった、それで一デナリ、「どうせなら、死ぬ寸前に入れば良かったのに・・。」と思われるかも知れません。かつては私もそのような考え方を持っていました。クリスチャンホームに生まれたので、イエス様以外に神様はいないということはわかりましたが、「死ぬ寸前に救われれば良かった」と思っていました。しかし、このストーリーはそのように教えているのではありません。
 このストーリーには、二種類の人が出てきます。第一は主人と労働契約を結んだ人です。「ぶどう園で働いたら、一デナリを与えます」と契約を結びました。また、他の人たちは、「とにかく働きに来なさい。それ相当を与えます」と言われて雇われた人たちです。この二種類の人達がいます。
 ある時、ヨーロッパでひとりの旅人が、れんがを積んでいる職人達に出会いました。そこで働いている一人のおじさんに話しかけました。「おじさん何やってるの?」すると、「見れば分かるだろう。れんがを積んでいるのだ。」と答えました。また他の人にも聞きました。すると、「一時間やったら何ドルもらえるのだ。」と答えました。もう一人は、「だんなさん。ここにやがて大聖堂が建ちます。そのために私は働いています。」と明るく答えました。
 毎日どのような気持ちで神の国に属していますか。「教会に来たら神様は素晴らしい祝福を与えてくださるに違いない」と、祝福を求める方もおられるかも知れません。最初に雇われて来た人たちは、ただ賃金を求めて働きに来ました。支払いの時が来ると、後から雇われた人達から一デナリずつもらいました。それを見て、彼らは期待しました。「主人は五時から雇った人にも一デナリ渡した。だから私には相当、はずんでくれるに違いない。」
 しかし、一デナリでした。それでガックリしました。彼は最初に一デナリという契約をしたので、一デナリで文句を言う権利はないのですが、がっかりしてなぜ主人は中途に採用された人にも、一デナリ支払ったのかと不満を言いました。私たちがただ、神様の祝福だけを求めていると、このような文句が出てしまいます。何か神様から祝福を受けるためだけに神の国に集ってはならないのです。もう、すでにこの世の中よりも何倍も受け、その上、永遠のいのちまでも与えられているのですから、喜んで神に仕えるべきです。途中から雇われた人は、雇ってもらえたことが嬉しくて働いたのです。私たちも喜んで仕える者になりたいです。今週、神の国の中で、喜んで主に仕えることができるよう祈っていきたいと思います。
 旧約聖書サムエル記第一の二十八章から三十章を見ると、ダビデがサウルに追われて、いのちからがら、敵の陣地であるペリシテ人の地に逃げ込んだことが書かれています。彼はペリシテの地で、彼の部下六百人、そしてその家族とともに住みました。やがてダビデは信用を得、「イスラエルと戦いに行くけれど、あなたもいっしょに参加してくれないか」とダビデはある王様から頼まれました。ダビデは、「いっしょに戦いましょう」と出て行きました。しかし、他のペリシテ人達は、ダビデを見て不快に思いました。なぜならば、かつて彼らの勇士であったゴリアテがダビデによって倒されたからです。「なぜ、ダビデが私たちと一緒に戦わなくてはならないのか、ダビデは裏切るから一緒には戦えない。」と一緒に戦いに出ることが出来ず、自分が住んでいた、ツィケラグという町に兵隊とともに帰されたのです。
 町に帰ると、町の様子が違いました。留守をしている間に、町が滅ぼされ、彼らの妻も子も家畜も捕らえられ、略奪隊といっしょに連れ去られてしまっていました。彼らはとても焦りました。「神様どうしたら良いでしょうか。」祈りました。皆は、「ダビデのせいだ」と言って、ダビデを殺そうとしました。すると神様が、「あなたはすぐにその略奪隊を追いなさい。必ず追いつくことができる」と言われ、ダビデは、六百人とともに略奪隊を激しく追って行きました。ベソル川まで来たとき、彼らは疲れてしまい、二百人の兵隊が座り込んでしまいました。彼らは力を失いました。ダビデは仕方なく、彼らに荷物を見張って待っているように言いました。そして四百人の精鋭と川を渡り、略奪隊に近づき打ち砕き、全部を取り返し、彼らの持ち物をも逆に略奪して帰ってきました。勝利して帰りました。そして残された二百人のところに戻ってきました。二百人のところに戻ってきた時、ダビデとともに働いた人は気の荒い人ばかりでしたが、残っていた人に対して言いました。
 サムエル記第一の三十章二十二節に、

『そのとき、ダビデといっしょに行った者たちのうち、意地の悪い、よこしまな者たちがみな、口々に言った。「彼らはいっしょに行かなかったのだから、われわれが取り戻した分捕り物を、彼らに分けてやるわけにはいかない。ただ、めいめい自分の妻と子供を連れて行くがよい。」』

 私たちと一緒に行かなかったから、「自分の妻と子どもだけを連れて帰れ」と言いました。しかし、そんなことを言っている自分の部下に対しダビデは、

『「兄弟たちよ。主が私たちに賜わった物を、そのようにしてはならない。主が私たちを守り、私たちを襲った略奪隊を私たちの手に渡されたのだ。だれが、このことについて、あなたがたの言うことを聞くだろうか。戦いに下って行った者への分け前も、荷物のそばにとどまっていた者への分け前も同じだ。共に同じく分け合わなければならない。」その日以来、ダビデはこれをイスラエルのおきてとし、定めとした。今日もそうである。』

と語りました。
 この時に戦いに出て行った人と、荷物を管理していた人がいました。しかし、ダビデは同じように分け前を与えなくてはならないと語りました。
 同様に、教会とは優劣ではなく、皆に役割があるということです。私たちの教会は日本のリバイバルのために働いています。牧師達はある意味で、前線に出て働いています。またある人は影で祈ってくださっています。神様はどの人を喜ばれ、どの人に一番の祝福を与えられるのでしょうか。きっと前線に出ている人達は祝福を受けているだろう、と思うかもしれません。しかし、分け前は同じだというのです。
 先週私は、「すべてが生きる47」の岡山県集会のために行きました。リバイバルミッションも予算があまりないので、小さなチームで行きました。賛美チームは私がギターで賛美し、息子がベースを弾き、石塚兄弟がキーボードを弾きました。その時、百名ほどの方が来られましたが、本当に恵まれた集会となりました。メッセージの時にも聖霊による自由がありました。会場となった教会の奥様は大変霊的に鋭い方で、終わってから私のところに来て、「今日の集会は素晴らしかったです。先生がメッセージしている時に、背後に厚い祈りの雲があるのがわかりました。この働きは小さな働きではなく、多くの人達が祈っている重要な働きであることがわかりました」と言われました。私もそれを聞いて、新城でも真剣に祈ってくれているし、また日本全国での祈りが結集していることがわかりました。
 教会にどの門から入っても、それぞれに、またどのような年代にも役割が与えられているのです。ここにおられる方で役割がない人は誰もいません。それぞれに役割が嫁せられています。
 今年、私に与えられている神様からの中心的御言葉は、ヤコブの四章七節です。

『神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。』

「神に従い、悪魔に立ち向かう」このペアは大変重要です。神に従うことはただ、闇雲に従うことではありません。これは「配備につく」という意味です。神様の命令によって、配備につくと言うことです。教会の上官は、牧師ではなくイエス様です。神の命令によって皆が配備につくことです。それぞれの役割が与えられています。東の門から入り、長い信仰生活の方々も一デナリの役割があります。又、西の門、南、北から入った方も、それぞれに役割があるのです。ということは、「お互いがお互いを必要としている」ということです。私達はキリストのからだに属する各器官です。一つの器官では人間は動きません。各器官が寄せ集まって人間のからだができます。同じように、ここにおられる、一人ひとりは、重要な器官の一つを占めています。その役割を果たしますよう、神の国が現されるよう、更に祈り続けたいと思います。
 マタイの二十章を読むと、イエス様はいつもこの世の価値観とは逆のことを言われる方だと感じます。しかし、マタイの福音書二十章の出来事は決して作り話ではなく、当時のパレスチナにおいてよくあった出来事でした。
 これはぶどうの収穫時のストーリーです。イスラエルでは、ぶどうの収穫と同時に雨期が始まります。収穫期に雨が降ってぶどうを濡らしてしまうと、腐ってしまいます。だから収穫期には、日本の言葉でいうと、猫の手も借りたいほどの大忙しでした。一転にわかに雲が立ちこめて、雨が降るかも知れない、収穫を明日に延ばすことができない緊急時には、五時からでも人々を雇って収穫を急がなくてはならなかったのです。ということは、五時からの人に一デナリを払ったということは、彼らも大歓迎だったのです。
 ここで、「あとの者が先になる」という言葉があります。何となく寂しい気がします。だったらクリスチャンになるのも後の方が良いではないか、と考えます。これはどのような意味でしょうか。これは、朝から働いてきた人はそれなりに疲れています。それも、あと一時間で全部ぶどうを収穫しないと雨が降るという時は重労働です。朝から働いている人々は疲れて体があまり動きません。しかし、五時頃、雇われた人は、一日中、何もせずにいたので疲れていないのです。ぶどう園に来てからは、先から働いていた者よりも、先立ってぶどうを収穫したのです。ということは、収穫量は初めから働いていた人とあまり変わりませんでした。
 今、私たちに雨期が近づいています。それは働くことが出来ない時です。世界を見ると、あまりにもひどい状況です。これを神が百年も二百年も見過ごしておくはずはありません。やがて、すべての働きをやめなくてはならない時が来るのです。その前に主は、大収穫をもたらすのです。ある意味で、今は、夕方の四時か五時に迫っています。今、主は収穫のために、多くの働き人を必要としています。「あなたも早く来て、この収穫を手伝ってください」と言われます。先にイエス・キリストを信じたということは、大きな収穫のために主が準備されているということです。神が与えられた使命を全うする者となりましょう。これから、多くの方々が主を信じ、終末の収穫の時に真剣に主に仕える者となりますように。そして、私たちのただ中に、神の国が現されるよう、祈っていきたいと思います。
 神様はすべての方を愛されています。イエス様は九十九匹の囲いの中にいる羊を置いても一匹の迷い出ている羊を追い求める方です。日本では、一匹が囲いの中にあり、九十九匹が迷い出ているような状況です。イエス様はこの日本を決して放っておかれないと信じます。必ず、この日本に、大きな収穫の時を与えてくださいます。その滅び行く魂のために心を燃やして一デナリを使って行かなくてはなりません。前線に出ていく者も後方で支援する者も、同じ油注ぎをいただいて、同じ目的のために用いていただきましょう。
 与えられている使命を全うすることができますように。神様が言われる配備につき、使命を全うし主の戦いを進めることが出来ますよう祈りたいと思います。
 神の国の中にまだ入っていない、という方はイエス様を信じ、告白してください。メッセージに応答してしばらく祈りましょう。

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