今週の礼拝メッセージ
イエス様についていこう   1999.5.16(SUN)

新城教会牧師 滝元 明

<今週のメッセージの御言葉>
新約聖書 へブル人への手紙 12章2節
信仰の創始者である完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスはご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。

 ハレルヤ!今朝このように皆さんと一緒に礼拝できることを感謝します。先週は宮城県で奉仕をしていました。永井先生が作られた、拡大聖書学院で奉仕しました。その村はゴスペルタウンという名の素晴らしいところでした。先生は開拓伝道に召されており、鹿児島、宮崎、福岡、大阪、茨城、仙台と多くの教会を開拓され、多くの奉仕者がそこに遣わされて牧会しています。何年か前に、聖書学校を作りたいと祈っていたら、その村にクリスチャンがおり、ずっとそこに神学校ができるように祈っていたそうです。祈りが聞かれて、二千五百坪のところにアメリカ風の七棟程の建物が作られていました。そこで集会をしました。とても恵まれて感謝します。十日(月)から十四日(金)まででしたが、火曜日は午前中三時間の講義があり、夜も聖会があり、その次の日にも公開講座が行われ、次の日は卒業式がありとても恵まれた奉仕となりました。
 その期間に、そこからあまり遠くない、宮城教会に行ってきました。八年ほどぶりに大原先生に会い、先生もとても喜んで迎えてくださいました。そこにも素晴らしい教会堂ができていました。

 今日は今お読みしたヘブル人への手紙十二章二節から学びます。

『信仰の創始者である完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスはご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。』

 その聖書学校では早天祈祷会があり、それはとてもおもしろい祈祷会でした。まず聖書を十章読みます。そして生徒は、それ以外にも十章読むということですので、一日二十章聖書を読んでいます。私たちの信仰は、神の御言葉が必要ですので聖書をよく読み、信じることが大切です。十章読むのには時間がかかります。だからとてもスピードが速いです。私も四時半に起きて準備して、五時半から七時頃まで恵まれた時を持ちました。そこでは必ず学生たちが御言葉の暗唱をしています。
 今日はこの御言葉を覚えられたら覚えてください。

『信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスはご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。』

 信仰は難しくありません。クリスチャン生活はとても簡単です。いつもイエス様に目を留め、イエス様についてきなさい、ということですので毎日イエス様を信じてイエス様に従っていくことがとても大切です。マタイという収税人に向かってイエス様が「わたしについてきなさい。」と言われました。簡単なことです。今の時代は多くの人が人生に行き詰まっています。ある人は自分の力でと考えますが、自分の力も行き詰まってしまい、また色々な考え方で生きても、それも行き詰まってしまいます。しかし私たちは、「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。」と書かれていますので、イエス様を見つめて人生を歩いて行くべきです。イエス様がそう言われていますので、イエス様の後について行くならば、必ず素晴らしい祝福された人生を持つことができますので、毎日イエス様の後について行くべきです。
 へブル人への手紙は旧約聖書をよく読まないとわかりづらいところもありますので、旧約聖書をよく読まれると良いと思います。「聖所と至聖所」について書かれています。これは来るべきイエス様の御姿です。
 聖所には燭台があり、机、供えのパンがあり、その後ろに至聖所という天幕がありました。そこには契約の箱と金の講壇があります。契約の箱の中にはマナを入れた金の壷があります。また、芽を出したアロンの杖、十戒が入っています。そこが金で覆われており、ケルビムがいます。そこには年に一度だけ大祭司が入ります。もし他の人や違う時に入ったならば、神の臨在に打たれて殺されてしまいます。大祭司が一度だけ入って小羊の血を持って民のあがないをし、神様の前に血をささげます。するとそこに神様の臨在が現れます。そして赦しが完成されます。しかし今の時代はイエス様ご自身が人間に変わって人間の罪のために、ご自分の罪のない血潮を父なる神の前にささげてくださったのです。契約の箱は今から考えるならば、主の臨在・イエス様ご自身です。
 昔、旧約時代には契約の箱を担いで、契約の箱とともに歩いていきました。そこに神の栄光が現されました。ですから、今の時代はイエス様に目を留めて歩いて行ったら、素晴らしい祝福を受けることができます。契約の箱がとどまったらどのようなことが起こるかについて学んでいきたいと思います。民数記十章三十三節から三十六節に、

『こうして、彼らは主の山を出て、三日の道のりを進んだ。主の契約の箱は三日の道のりの間、彼らの先頭に立って進み、彼らの休息の場所を捜した。』

と書かれています。
 四十年間も荒野を、契約の箱を先頭に歩いていきました。これは、イエス様とともに歩んでいくと、「休息の場所が与えられる」という事です。イエス様と一緒に過ごすと、イエス様が休みを与えてくださいます。今日は日曜日という休みですが、イエス様が素晴らしい休みを与えてくださっています。主の臨在が現れると、イエス様の臨在があるところには必ず魂の休みがあります。イエス様は、『すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。』と語られました。教会には主の臨在があります。ここでは重荷を下ろし、休みを得るべきです。今日皆さんが持っている苦しみを全部ゆだねることです。
 旧約聖書を見ると、「安息日」という考えは、ユダヤ人たちが四百三十年エジプトの奴隷生活をしていた時はありませんでした。奴隷なのでこき使われていました。休みもありませんでした。そして彼らは奴隷から解放されて、十戒を与えられその中に、「わたしの他には神はない。」「偶像を拝んではいけない。」「みだりに主の名を唱えてはならない。」その後、「安息日を守りなさい。」と言われました。
 安息日は六日間働いて七日目は主の日であるから何の仕事もしてはならないというのです。奴隷生活している人は安息、「休み」がありません。今の時代もそうです。働くことしか考えていない人がいます。休みがわからないのです。外国の人が日本人に「日本人はうさぎ小屋に住み、働き中毒症にかかっている」と言いますが、働くばかりではいけません。安息が必要です。イエス様がこの地上に来られたときに、「見よ。安息日よりも勝った者がここにいる。」と言われました。イエス様が安息です。イエス様の中にあるときが安息です。自分の重荷を下ろして、「イエス様あなたにお委ねします。今週も休みを与えてください、。」と祈るべきです。イエス様が、

『すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。』

と言われました。これは、イエス様が私たちの重荷を背負って生活してくださるから、「あなたには休みがある」と言われたのです。今週も主の契約がとどまるところには休みがあります。「今日あなたの魂に休みがありますか。」「アーメン。」今週はイエス様とともに安息の道を歩みましょう。

 またもう一つは、ヨシュア記三章に、イスラエル人がヨルダン川を渡り、カナンの地に行くという時のことです。契約の箱がヨルダン川に入ると、川の水がせき止められ道が開かれました。これは、主の臨在があるところに、「必ず道が開かれる」ということです。時々人生の中で、道がわからないときがあります。私の人生の中にも何度かありました。
 私は十九才で救われてすぐに、聖書学校に入ろうかと思ったことがあります。そして、「イエス様。聖書学校に入るべきでしょうか。」と祈ったことがあります。すると、夜夢を見ました。三人の友だちと一緒に歩いていると、道の向こう側に垣根があり、その向こうにおいしそうなキャンディーが置いてありました。私はそこに向かって走って、それをつかもうとしたら、後ろから来た友だちが私を突き落として全部取ってしまいました。その時に目が覚め、主が私に、「急いではいけない」と言われました。「何も取れなくなる」と言われました。その時は夢でイエス様が私に教えてくださいました。今は夢を全て信じることはしません。悪魔から来るものもあり、自分勝手に見るものもあります。しかし私は夢を見て導かれたことがあります。
 私が救われたばかりに路傍伝道に行きました。その時は自動車に乗れることがとても嬉しく思いました。宣教師がジープの後ろにトレーラーをつけて、そこに乗って行きました。その時に斉藤清子さんが、「穐近先生が、あまり路傍伝道は実を結ばないので、日曜学校をやった方が良いと言われました。」と言われました。そして斉藤清子さんと中学生の女の子2人と四人で日曜学校に行きました。ジープに乗れるかと思っていましたが、電車でした。そこでの私の仕事は斉藤清子先生が先輩でしたので、賛美歌を持って、一緒に賛美する程度でした。私は女性ばかりと電車に乗っておもしろくないと思いました。
 教会に帰ると、「滝元さん。今度、池袋で路傍伝道がある。宣教師が行くから行かないか。」と誘われました。「ジープに乗って行くの。」と聞きました。「はい」と言われたので、私は斉藤清子さんのところに行って、「今度の日曜日は池袋に路傍伝道に行きますので、日曜学校をお断りします。」と言いました。すると斉藤清子さんは、「そうですか。良いですよ。」と言われました。その言葉は普通ですが、私の心の中がとても重くなり、平安がなくなりました。その夜私は祈りました。「イエス様。今度日曜学校に行くべきでしょうか。路傍伝道に行くべきでしょうか。教えてください。」と祈りました。いくら祈っても祈りが聞かれずにわかりませんでした。わからないので奥の手で、救われたばかりだったので、「イエス様、これから寝ますので夢でも見させてください。」と祈って寝てしまいました。
 その晩夢を見ました。川に魚取りに行きました。四つ網を私が引いていました。すると、斉藤清子さんが上から魚を追ってきて網をあげると、とてもたくさんの魚が捕れました。それで目が覚めました。その時に聖霊様が語りかけました。「あなたは斉藤清子さんと一緒に人を砂取りなさい。そうしたら魚をたくさん捕らせてあげます。」と言われました。そして日曜日に教会に行き「斉藤先生。今日一緒に日曜学校に行かせてください。」と言いました。彼女は普通の顔をしていましたが、何のために私が日曜学校に行くようになったかは説明しませんでしたが、後からわかりました。あの時に一緒に日曜学校に行かなかったら、きっと結婚していなかったのではないだろうかと思います。それは夢でイエス様が教えられました。主の臨在があるところに必ず道が開かれます。
 私の好きな御言葉にイザヤ書四十五章二節から三節に、

『わたしはあなたの前に進んで、険しい地を平らにし、青銅のとびらを打ち砕き、鉄のかんぬきをへし折る。わたしは秘められている財宝と、ひそかな所の隠された宝をあなたに与える。それは、わたしが主であり、あなたの名を呼ぶ者、イスラエルの神であることをあなたが知るためだ。』

と書かれています。道を開いてくださいます。どのような大きな問題にぶつかっても、私たちは主の前に出て主の臨在を仰ぐことです。「主よ。どちらを歩いたら良いですか。」主の臨在があるときに、必ず道が開かれます。ですから、イエス様の契約の箱が先を行くときには必ず道が開かれます。

 第三には、ヨシュア記六章一節から七節、契約の箱が先に行くと必ず「勝利」があります。ヨルダン川を渡り、エリコの町が城壁で囲まれていました。彼らは契約の箱を担いで一日一回ずつ無言で回り、六日間周り、七日目には七周廻りました。この時には、主の契約の箱が先に進みました。そして、最後にときの声を上げたときに、エリコの城壁が崩れ落ち、勝利しました。私たちが勝利するとは、主の臨在があるときです。ですから、この教会の中にもイエス様の御臨在があるときに、必ず勝利することができます。皆さんの人生はイエス様が共にいたら、勝利することができます。イエス様がいなかったら、勝利することができません。
 聖書の中にイエス様と共に行く人生とイエス様に逆らう人生の二通りがあります。イエス様に従っていくとき、イエス様が敵と戦ってくださいます。しかし、イエス様に逆らっていくと、「主が彼らの敵」と書かれています。聖書の中に、

『神が私たちの味方であったら、だれが私たちに敵対することができましょう。』

 神様が味方だったら敵はありません。しかし、神様を敵にしたら勝ち目がありません。人生の中でどんなに金があり、頭が良くても神様に敵対した人生は祝福されません。頭が良くなくても金がなくても大した常識がなくてもイエス様が共にいてくださることによって、敵に勝つ人生を歩むことができます。
 イエス様が共におられますか?神に敵対してはいけません。イエス様と共に歩むときに、必ず勝利することができます。
 今回集会に行ったところで、そこの教会の先生が毎朝メッセージされました。とても良いメッセージでした。私が忘れられないことは、先生方がとても純粋でした。ある先生は自衛隊で三年働かれ、イエス様によって救われ、聖書学校を出て、永井先生のところから九州に遣わされたそうです。遣わされたときに、永井先生は、毎月一万円だけ補助したそうです。「伝道に行ったときに仕事はするな。イエス様だけに頼れ。」と言われたそうです。伝道に出た以上は、イエス様にだけに頼れ、と言われ、祈って祈って夢中で伝道したそうです。これは素晴らしいことです。
 下條先生は松原先生から、「末紀子さん。来年は西宮に行ってもらうよ。」と言われ、次の年に先生は、西宮に伝道に行き、六畳一間の部屋で伝道を始め、サポートもなく、仕事もせずにイエス様だけのために働きました。私の場合は東京から出て、鉱山の土方と麻工場で働きました。
 ただ主だけに頼る。これはすごいことです。主が共におられる。今、西宮に素晴らしい教会が建って祝福されていることは、主がおられたからです。私たちの人生の中に、イエス様が共におられたら必ず勝利します。
 福岡に伝道に行かれている先生の子どもたちは、すごい賛美をする子どもたちです。その中学生に聖書を毎日何章読んでいるかと聞くと、毎日三章読んでいると言われました。その先生は、鳥取県の出身でお母さんが寺の娘だったそうです。大阪に来て同じ職場にクリスチャンがおり教会に誘われたそうです。『だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。』と聞いて、生まれ変わりたいと思い、イエス様を信じたそうです。それから聖書学校に入り、嬉しさのあまり家に手紙を書いたそうです。
 「私は献身してこれから牧師になります」と言うと、彼は寺の出身なので、お母さんのお姉さんがそのことを皆に言い、親族会議となり、先生を勘当することにしたそうです。「絶対に一円も渡さないように」ということになったそうです。しかし、先生は信じていました。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」ということで、心から信じて祈っていたそうです。
 すると、その一番先頭に立って勘当するように皆を集めたお母さんのお姉さんが、脳卒中で倒れたそうです。その時彼はすぐに、おばさんの所に行き、「おばさん、イエス様に祈ってあげる」と言ってお祈りしたら、とても喜ばれ、イエス様を信じられたそうです。そして今は、お父さんも救われ、お母さんも救われたそうです。また、甲子園ミッションの時に、どうしてもイエス様のことを聞かせたいという思いで、お兄さんのいる鳥取県まで行き、「お兄さん甲子園球場に行こう」と言って、彼と一緒に来たそうです。お兄さんは最初の説教を聞いて、イエス様を信じたそうです。そして今は、お姉さんも救われたそうです。
 先日私はイスラエルに行きました。アシュケロンという町に行きました。そこでは昔イスラエルとペリシテが戦争をしました。第一サムエル記に書かれていますが、イスラエルが負けそうになりました。その時の祭司はエリで、エリの息子たちはとても悪い人でした。あまりに悪かったので、神様が最後に殺されました。イスラエルの人たちが「契約の箱があったら戦争に勝つ」と言って、契約の箱を持ってきました。それを知ったペリシテも、がんばって戦い、ペリシテが戦いに勝ちました。その時に契約の箱をペリシテたちが奪い、ダゴンの宮に持っていきました。ダゴンは偶像です。そこに契約の箱を置きました。そして次の日にダゴンの宮に行くと、その偶像は地に倒れてうつぶせになっていました。次の日に行ってみたら、今度はダゴンの首、手が離されてました。それで恐ろしくなり、以来ダゴンの宮には人々が入らなくなったと書かれています。そこに主の契約が箱が来たらその町に対してさばきが始まりました。皆に腫物ができ、また、疫病になり、苦しんだことが書かれています。主の臨在が現れたら、偶像も打ち砕かれます。
 ということは「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも、あなたの家族も救われます。」と書かれていますが、どのような偶像礼拝の家でも、イエス様が入られたら、必ず、その家族も救われることができます。この国に主の臨在を求めましょう。主の契約の箱が置かれたように。イエス様ご自身が力と共に臨んでくださり、素晴らしい奇跡が起こるように祈っていきましょう。難しいことはありません。

『信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。』

 イエス様に人生を明け渡し、イエス様について行ってください。そうすれば必ずイエス様が勝利をくださいます。イエス様の臨在とともに今週も歩んでいきましょう。お祈りします。

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