今週の礼拝メッセージ
「救い」とは何でしょう   1999.5.23(SUN)

新城教会牧師 滝元 順

<今週のメッセージの御言葉>
新約聖書 使徒の働き26章17節〜18節
わたしは、この民と異邦人との中からあなたを救い出し、彼らのところに遣わす。それは彼らの目を開いて、暗やみから光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、わたしを信じる信仰によって、彼らに罪の赦しを得させ、聖なるものとされた人々の中にあって御国を受け継がせるためである。

 ハレルヤ!皆さんと共に御言葉を学ぶことができ感謝します。お祈りに支えられて、「スーパーミッション」が徐々に動き始め、ミッションの働きも大変忙しくなっています。心を一つにして、日本のリバイバルのために働いていきたいと願います。この教会も、新しい動きがたくさんあり、先週は、「第二青年会女性とりなしセミナー」が始まりました。この教会には多くの祈り手がおり、その方たちが組織されて、リバイバルのために祈り始めるならば、素晴らしいことが起こされると信じます。
 また、私たちの教会では、多くの南米からの方々と共に礼拝できることを感謝します。ブラジル、ペルー、その他の国々の方々と心を一つにして礼拝できることを心から感謝します。教会に、外国から兄弟姉妹が集われるようになり、約十年経ちますが、来月、六月十五日から二週間に渡り、私は、アルゼンチンとブラジルに行くことにしています。アドリアン先生が何度も電話を下さり、いつかは約束を果たさなくてはいけないと思っていましたので、今回は、十年間忠実に外国人ミニストリーを務めてきた、四元雅也兄と共に行って来ます。また、フェルナンド兄も里帰りと合わせて、現地で合流してくださいます。ぜひお祈りください。二週間でも出入りに、五日間取られてしまうので、アルゼンチンに一週間、ブラジルに三日間ほどですが、初めて新城教会の働きとして行きますので、祈ってください。毎月、世界宣教のためにささげられていますが、その中から皆さんの献げものを携えていきたいと願っています。世界中に福音が宣べ伝えられるために、教会が用いられるように祈っています。
 今日は「救いとは何でしょう」というテーマで話したいと思います。

 「救いとは何ですか」と聞かれたら、どのように説明するでしょうか。救いには色々な定義がありますが、キリスト教辞典を調べると、「イエス・キリストを信じることによって罪赦され、来るべき神のさばきから救われること」と書かれていました。これも素晴らしい定義です。イエス様を信じるならば、罪が赦されるのです。罪の赦しは世の中では体験できないことです。償いはできるかも知れません。しかし、罪の赦しはイエス様以外にありません。
 「さばきから逃れることができる」とあります。神様は、「自分の力できるのならばやってみなさい」と人類に歴史を与えられました。それはアダムとエバから始まり、人類は自分の知恵によって歴史を作り出そうと努力してきました。しかし、神なしの人生、神なしの歴史は悲惨なものです。
 今、世界の国々を見ると悲惨なことばかり起こっています。毎日のニュースを見るならば、良いニュースはほとんどありません。九割以上が悪いニュースです。なぜこれほど科学や教育が進んだのに、悪いことばかり起こるのだろうかと思います。これは、神から離れた人間の罪の結果です。やがて人類はこれ以上は進めないというところまで行き着いてしまうと聖書は教えています。ある意味で、今はそのような時です。これ以上、人間の力では進むことができないのです。公害問題一つとっても、自分たちの出した物質によって、首を絞めてしまう問題に発展しています。また医学が進んでも、解決できない病気がたくさんあり、家庭が崩壊し、教育の現場は子どもたちが銃を乱射するような時代になってしまいました。これらを人類の力ではどうすることもできません。そのような時に、神が人類の歴史にストップをかけるというのです。その時、人類の歴史に終止符が打たれます。その時が近づいているかも知れません。イエス様はやがて歴史をストップさせるために帰って来るのです。イエス様は再臨されます。明日、イエス様が帰って来られても、天に携え上げられるよう、準備しなければなりません。その時は神のさばきの時でもあります。しかしその前に救い出されなければならない人が多くいます。今日、ここにおられる一人ひとりが、神のさばきではなく、永遠の救いに与かれるよう願います。
 私がここまで信仰が保たれてきたのは、小さな時に福音を聞いたからです。その頃、イエス様が帰って来られることが恐怖になっていました。「イエス様が帰って来られたら、私は天国に行くことができるだろうか」という心配がありました。
 学校から帰って来て、家にだれもいないとイエス様が帰って来られたのだろうか、と焦ったことがありました。私はそんな時のために、二つのチェックポイントを作っていました。それはお隣りの見城さんと岡本さんの家をチェックポイントとしていました。家にだれもいなくても、隣に行って誰かがいれば大丈夫、もしくは仲間がいるということで安心していました。岡本さんは、当時、おじいさんを除きすべてがクリスチャンでしたので、おじいさん以外の誰かが居れば、再臨ではないか、もしくは仲間がいるとして安心していました。
 ある時に家に帰ってくると、誰もいなかったので不安になりました。すぐに第一のチェックポイントに行きました。すると、大家族にもかかわらず、誰一人いませんでした。私は焦ってすぐに岡本さんの家に行きました。そして、「誰かいる?」と家に飛び込んだら、その日に限って、おじいさんが出てきました。私は、「もう駄目だ。再臨に置いて行かれた」と焦りました。それで走り出すと、クリスチャンとすれ違い、安心しました。
 私たちはいつイエス様が帰ってきても、天国に行ける準備をすべきです。天国に行くためには、イエス様を神の御子として信じることです。イエス様を信じるならば、あなたは天国に入ることができます。信仰を持ってください。私たちはいつも準備すべきです。しかし準備しても、それが極端になってはいけません。「再臨が近いから、財産を売って遊んで暮らそう」というのはいけません。イエス様にとっては、「一日は千年のよう」であり、「千年は一日のようだ」とあります。ですから、再臨は千年後かも知れません。
 私たちは明日、イエス様が帰って来ても良いよう準備すると同時に、「りんごの苗木を植える」ということわざがヨーロッパにありますが、将来に対して準備することも大切です。両方のバランスを持っていくべきてす。
 救いについて考えるときに、それは罪からの救いであり、永遠のいのちです。しかしこれらは、突き詰めて考えると、「救いの結果」です。救われた結果として、自動的に、「永遠のいのち」に入れられます。また、救われなかった結果として、「永遠の滅び」に行ってしまうのです。ということは、「救いとは何か」にフォーカスを合わせると、それは、永遠のいのちが欲しいから救われるのではありません。そこには、「救われなければならない状況」が存在するがゆえに、「救われなければならない」のです。溺れている人は、なぜ、救われなければならないかというと、「救われなければならない状況」がそこにあるからです。
 「救い」の状況について教えているのが、使徒の働き二十六章十七節から十八節です。これはパウロが神様から、「救い」について語られた言葉です。彼はダマスコというところにクリスチャンを迫害するために出かけていく途上、主に触れられ、この言葉が与えられました。

『わたしは、この民と異邦人との中からあなたを救い出し、彼らのところに遣わす。それは彼らの目を開いて、暗やみから光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、わたしを信じる信仰によって、彼らに罪の赦しを得させ、聖なるものとされた人々の中にあって御国を受け継がせるためである。』

 「救われる」ということについて、はっきりと神がパウロに知らされました。これは、「彼らの目を開いて」と書かれています。「救われていない」とは、まず、「目隠しされている」ということです。そして、「暗やみから光り」とあるので、救われる以前は、「暗やみの中に属している」ということです。そのことについて、「それはサタンの支配から神に立ち返らせ・・」と書かれています。私たちが救われなければならない理由は、「サタンの支配」から「救われる」ことです。サタンによって捕らわれているから、そこから救われなければならない、ということです。誰が目隠ししているのでしょうか。それはサタンです。サタンが私たちを目隠しにし、暗やみの中に閉じ込めているというのです。だから、「あなたは救い出されなくてはならない」というのです。永遠の滅びは誰のためでしょうか。これは、人類のためではありません。「サタンと、その一族である悪霊ども」に対して、神様は永遠の滅びを用意されました。しかし、私たち人類が、そのサタンの虜になっていたら、サタンの滅びの時には、人類の滅びにもなってしまうのです。ということは、救いとは、サタンの支配から、神の支配に変えられることです。「サタンの手から解き放たれる」ということが、救いです。ここから救われなければならないのです。
 私たちは救われると、永遠のいのちを得ますが、それは結果であり、結果を強調します。しかし、「なぜ救われなければならないか」ということが、はっきりせずにぼけていることがあります。それは、「サタンの支配から救われなければならない」ということです。
 「支配」とは、受けていても気づかないのが支配です。支配とは、縄で巻かれて、動けないような直接支配は少ないのです。案外、支配は気づいていなくても支配されていることが多いのです。
 私たちは日本に住んでいますが、日本という、国の支配が私たちの中に及んでいることがわかるでしょうか。日本の支配を受けているということは、普通の状況では全く意識していません。「普通に生活して、自由に物も買えるし、自由にどこにでも旅行できるし、何の支配を受けているのですか。私は自由ですよ。」と言われます。しかし日本人であれば、「日本」という支配を受けています。日本に来られた外国人は日本の支配は受けませんが、「日本の支配の影響」は受けます。これは霊的世界においても同様であり、大変重要な事です。私たちも、サタンの国に住んでいれば、知らないうちにサタンの支配を受けています。また、この世はサタンの支配に属しているので、クリスチャンである私たちがこの地に住むことは何らかの影響を受けるのです。だから、そのことを知らないと、やられてしまうことがあります。
 日本の支配を受けていることが良くわかるのは、海外旅行をする時です。まず空港に行き、出国手続きをします。その時には出国カードを記入し、それをパスポートと一緒に、係官に渡しチェックを受けます。パスポートの有効期間があるかどうかを調べて証印を押してくれます。それを持って国から出る事が出来ます。その時、私たちは日本の支配を受けていることが良くわかります。
 同様に、霊的にも、どの国の支配を受けているかがわかる時は、国から出る時です。私たちはやがて、永遠の世界に旅立っていく者です。人生を終えて、目に見えない永遠の世界に旅立つときに、どの国の支配を受けているかがはっきりとわかります。暗やみの支配を受けていたら、暗やみのパスポートを持っているので、永遠の滅びに行ってしまいます。しかし、光のパスポートを持っていたら、永遠の国、天国に行くことができます。私たちの救いとは、「悪魔の支配からの解放」であることをよく知るべきです。
 クリスチャンはサタンの支配から、根本的には解放された者です。今日、イエス様を信じた者たちは、どんなに暗やみの世界に住んでいたとしても、光のパスポートを持っているのです。やがて、人生を終えて出ていくときには、そのパスポートで天の御国に入る権利が与えられているのです。それは、暗やみのパスポートから、光のパスポートへと、支配が変わったからです。
 さて、支配が変わるとは、天の御国に属するか、暗やみの国に属するかという、究極的な部分においてと同時に、人生のプロセスにも支配の影響を受けます。もしもクリスチャンが、暗やみの世界の法律に触れるならば、暗やみの支配の影響を受けるのです。
 私は何年か前にケニアに行きました。ケニアに日本人として、日本のパスポートを持っていきました。しかし私は、ケニアの警察に捕まって、四時間くらい監禁され大変な目に遭いました。「日本に帰れるのだろうか」と不安になりました。なぜ捕まったのかというと、ケニアの警察署の前で記念撮影をしたからです。「逮捕。逮捕。」とカメラを握られましたが、その国の法律によると、軍事施設や警察の前では写真を撮ってはならないという法律があるらしく、私たちは全く、そのようなことを知りませんでしたので捕まったのです。取り調べを受け、パスポートを取られて、「明日、もう一度、来るように」と言われました。何とか、逃れなくてはと思い、最終的には署長を呼び、署長に百ドルあげて勘弁してもらいました。「百ドルでお願いします」と言ったら、「ありがとうございます」と言って釈放してくれました。
 その国の法に触れると、その国の人間ではなくとも、その国の支配を受けます。サタンの支配下に属していなくても、光の子どもであっても、もし、私たちが罪に手を出すと、サタンの国の影響を受けます。ですから、私たちは注意すべきです。だから、私たちは、クリスチャンとして、正しく、きよい歩みをするべきです。しかし、根本的には、私たちは暗やみから光りに、サタンの支配から神の支配に変えられていることを知るべきです。これは、クリスチャン生活全般に関わってきます。また、クリスチャン生活の中で、サタンの影響を受けている部分は、御言葉と共に継続的に時間の経過とともに解放されてきます。私たちは更に解放を受けなければなりません。「もう、私はサタンから解放された」と思っていても、サタンは色々な策略を持っています。「もう、完全に解放された」と思うところに、サタンの束縛があります。
 例えば、「個人」というレベルで、私たちが解放されたとしても、家族に属しているという立場をとると、その下には「家系」というものが生じ、家系の束縛の影響があります。先祖代々、偶像礼拝の中で固められた束縛がそこにはあります。
 また家系が勝ち取られたとしても、私たちが地域に属しているとすれば、地域住民のひとりとして考えると、地域にも束縛があるので、その束縛の中に入ります。また、私たちは日本人であるということにおいて、国とサタンとの契約があるので、その束縛があります。だから私たちは、継続的に戦っていかなくてはならないのです。継続性を持って神は私たちを解放してくださり、これからもなお、解放し続けてくださいます。
 先週私は、三島で奉仕しました。大変素晴らしい集会を持つことができました。朝ここからひとりで運転して三島まで行き、教会に着いたら、十時半から十二時半まで礼拝、少し休憩し、二時から四時までセミナー、そして七時から十時半まで聖会という、忙しい集会でした。帰りに運転して帰る途中、ちょうど秋田で集会をしていた人たちとインター付近で出会い、車を運転してもらいました。
 夜の聖会の前に、晩御飯を韓国の婦人が御馳走してくれました。なぜ、その方が御馳走してくださったかというと、今年の二月に行われたリバイバルミッションの拡大聖会に来られ、解放されたからです。ちょうど私の集会の時に来て、メッセージを聞き、解放を受けたそうです。これは神の栄光として話します。その方は、二十年間、「対人恐怖症」で人と会うことができなかったそうです。一度人の顔を見たら、数日間寝込んでしまうくらいだったそうです。その時、聖会で解放について話しました。サタンの支配から解放されなければならないと話しました。その場でも祈りましたが、個人でも家に帰って一晩かけて祈ったそうです。すると不思議なことが起こったそうです。何と、それが全部直ってしまい、見違えるようになってしまったそうです。教会でもそれが評判になったそうです。私が教会に着くと、先生がすぐに、「○○姉は二十年間家から出ることができませんでしたが、変わってしまいました。」と喜んでいました。イエス様の救いは、サタンの力からの解放です。これが更に、教会においても、国においても起こされるように祈っていただきたいと思います。
 新城教会において、数年前、霊的戦いが起こされ、色々なことがありましたが、神が確かにサタンの力を打ち砕いてくださり、今まででは、どうすることもできなかったような問題にも勝利させてくださっています。
 近頃、素晴らしいことが起こり、皆さんにそのことを紹介しなくてはならないと思っていましたが、本人の承諾を受け、私のメッセージの時に証しをして下さることになりました。今からその方から証を聞きたいと思います。本当に神様が素晴らしいことをしてくださいました。その方の名は、松平リカさんと言います。それは、去年の夏から始まりました。
 去年の夏、「教会の前に立っている人がいます。」と聞き、行ってみると、ひとりの女性が悲しそうな顔をして立っていました。これは大変だと思いました。また、その方の顔を見て、「この人は昔、教会に来ていた人だ」とわかりました。七〜八年前に教会に来られていた方で、しばらく教会を離れていました。彼女は、色々な支配を受けていたようでしたが、その時から神様が素晴らしいことを始められました。最近、長い間イエス様から離れていた人々が、取り戻されています。神様は素晴らしい方です。彼女の身に、近頃、何が起こったのかを証していただきたいと思います。

(あかし)
「今日、皆さんの前で証することができることを心から感謝します。今も、順先生が話されましたが、私は七〜八年程前にこの教会に通い、その時に洗礼を受けてクリスチャンになりました。それから、ひょんな事で教会から離れて生活していましたが、今からちょうど三年程前、結婚を機に、「摂食障害」という精神的な病気にかかりました。摂食障害とは、最近よく耳にする「過食や拒食」、過食して全て自分で吐いてしまうという病です。最初は、拒食症になり、汚い話ですが、食べたものを、手を喉に突っ込んで吐いていました。そうした日を繰り返していた時に、ある日、突然過食症になってしまい、一度に五人から六人分のご飯を食べ、それをすべて吐いてしまうという生活を繰り返すようになり、とても苦しい日々を過ごしていました。そして気がつくと、食欲を自分でコントロールできなくなっていました。自分の意志で吐くとか吐かないではなく、食べた物は出さないと気が済まなくなってしまいました。そんな毎日を過ごしていました。目を覚ましては過食しては吐き、過食しては吐き、寝るまでそれを繰り返し、頭ではもう食べたくない、吐きたくない、苦しいと思いながらも、過食し嘔吐せずにいられない状態で、自分が自分ではなく、人に操られているような感じがしていました。毎日泣きながらそんなことを繰り返していました。
 同時にアルコール依存、また、過食のためにお金もなくなってしまい、店に行って色々なものを盗んででも、過食を繰り返していました。それが癖になり、家族に対する脅しや、対人恐怖症、下剤の乱用もありました。そんなことをかけ持ちながら苦しんでいましたが、そんな中で、やはり家庭は崩壊し、夫婦間もメチャクチャになり、今年に入ってからは、離婚の話が出て、離婚寸前の状態でした。こういうことにプラスして、私の摂食障害は益々、ひどくなってしまいました。自分でもどうすることもできずに苦しみ、ひたすら、それを繰り返すばかりで、それだけが生きる望みとなってしまっていました。ついに、指では吐けなくなり、スプーンを喉の奥に思いっきり突っ込んで、吐くような状態になり、その時には、その勢いで血を一緒に吐くようなこともあり、前歯も胃液の逆流によって溶けてしまったりと、ひどい状態でした。そんな感じで体調を崩し、いよいよ、二年くらいそんな生活を繰り返し、入院となりました。救急車で運ばれて、入退院を繰り返しましたが、症状は全く良くならず、ひどくなる一方でした。そして、自分でも、もう直らないのだと、絶望していました。そんな時に、自分の心の中で、「死にたい」と思うようになり、今度は摂食障害どころではなくなり、「死」ということに、いつも縛られていました。自殺したくて仕方がなく、だけどそれが怖くて、気がつくと気が狂ってしまっており、病院に無理矢理連れて行かれました。それが去年の入院でした。
 その時から、イエス様が働いてくださいました。病院に入院したとしても、その気持ちは変わらず、益々、死にたいという気持ちはひどくなり、病室で、首もつり、出されていた精神薬をため込んで飲み、自殺行為を図る毎日でした。先生からも、「この子は危険すぎる」と言われ、薬の力で寝たきり状態にされ、ベッドからは一歩も動けずにいました。気持ちは絶望的で、家庭もとてもひどい状態になり、私の周りのもの全てがひどい状態に陥っていました。誰もが、私の親も、家族も絶望していましたが、誰も何をどうしたら直るのかわからない状態で、ただ私を、病院に入れておくしかないという状態でした。入院している私も、とても苦しかったですが、そのような中で入院して一ヶ月程が経ち、ふとした時に、昔、教会に来ていた時にメッセージで語られた言葉を思い出しました。その言葉が頭の中をすっとよぎりました。「この様な病は、教会に行って祈ってもらえば直る」という言葉でした。これしかないと思い、その時から、自然と自分の気持ちが教会に行きたいという方向に変わりました。
 早速、その週の日曜日に教会に来て、主人と一緒に礼拝に出ましたが、礼拝に出ると、今度は大声を出して叫び出したいような恐怖感に襲われ、逃げるように礼拝の最中に教会を去って病院に帰ってしまいました。
 それからまた一週間後に、教会に来ました。その時、順先生に礼拝後に祈ってもらい、自分では病気だと思っていましたが、祈りの中で、「悪霊よ。出て行け。」という祈りがされました。すると、自分ではわからない内に気持ちが楽になり、何が何だかわからない状態で病院に戻りました。病院の中での生活では、起き上がれないほどの多量の薬を飲まされ、それにプラスして、目の開いている時には、三十分に一回の注射や強い薬を飲まされていました。その薬が、教会に来て祈ってもらって病院に戻った途端、必要なくなり、自分が一番驚いていたのですが、それ以上に、担当の先生や看護婦さんや一緒に入院していた患者さんまでも、皆が、「どうしたの。何があったの」と驚くほどでした。表情も全く自分ではわからない内に明るくなっていました。看護婦さんからも、何度も、「何があったの。どうしたの。」といつも質問攻めでした。私も、何が何だかわからずに、「教会に行って、祈ってもらったら良くなった」としか言えませんでした。
 それから良くなって、二週間後に退院できたのです。しかし、私は弱い者で、その後、教会から離れてしまいました。それで一ヶ月、二ヶ月が過ぎてしまい、その間は、死というものからは解放されていましたが、忘れていた「摂食障害」が再び始まってしまいました。退院したその日からでした。それで食べ吐きを繰り返し、教会の人に相談すれば良かったのですが、自分で隠し通し、嘘ばかりつき、「直った、直った」と皆に言って、自分は吐き続けている内に、どんどんひどくなってしまいました。そして以前よりも、比べものにならない程、ひどい状況に陥りました。今年の三月に入った頃、体重が二十キロ代に入ってしまい、立つこともできなくなり、考える力も徐々になくなってきました。その間でも私は親に対して、教会からの電話も、「放っておいて欲しい」ということで、いつも居留守ばかり使い、冷たい態度をとっていましたが、教会のある姉妹が、一生懸命、連絡してくれ、働いてくれました。
 そんなことがあり、先月、四月になって、体重が二十六キロということ、また精神的にも危なくなり、自分の体力に対して死を覚悟し、また、入院となりました。
 その時にそのような電話を思い出し、教会の人にもう一度相談したい、祈ってもらいたいと強く思いました。そう思った瞬間に、自分でも多少、祈れるようになり、電話をしたら、すぐに電話をくれていた姉妹が病院まで面会に来てくれました。精神科病棟は、家族しか面会できないのですが、感謝な事に、それを機に、教会の人たちは特別に面会が許され、それからも、順先生も面会に来てくださり、その中で祈ってもらったり、交わりがありました。
 そうしていく内に、私はどんどん癒され、水曜日ごとに教会に通っていました。その中でその姉妹と、順先生と祈りの時を持ちました。その度に、「悪霊よ。出て行け。」という祈りがされ、私の口から悪霊が出ていくのがわかりました。自分では、何が何だかわかりませんでしたが、回数を重ねていく内に、自分でも、その病気が、病気ではなく、「悪霊から来ているもの」であるということがすごくわかりました。薬では直らないし、医者でも直せないし、だから、三年以上苦しみ続けました。教会に来て、祈ってもらってから誰が見ても、驚くほどの心のいやし、体のいやしがあり、今、誰から見ても、一ヶ月少し前は二十六キロだった、なんて思わないかと思います。順先生は覚えておられると思います。そのような中で、約一ヶ月で退院になり、五月十日に退院しました。退院後も、自分が運動をするわけではないのですが、ただ祈るだけで、自然と体力がつき、子どもを簡単に抱けるようになり、今、全てがいやされています。
 振り返ってみると、その病気はとても辛かったのですが、今はとても感謝しています。とにかくわかったことは、今回の私の摂食障害は病気ではなく、「悪霊によるものだ」ということがはっきりとわかりました。何度も、「コントロールできない心」に悩まされて泥沼にはまっていたような状況でしたが、その力が全て、悪霊の力であることがわかりました。だから薬やカウンセリングでは直せず、直せるのはサタンの力を打ち破れる、「イエス様だけだ」ということがはっきりとわかりました。
 そして同時に、一緒に入院していた同じ病の人も苦しんでおり、私も同じような道を歩んでいた者として、その人たちの救いのために、これから用いられたいと思っていますので、そのために祈って頂けたら幸いです。
 また気がついたら、家族間もいやされていました。夫婦間もまるで昔のよう、いや昔以上にいやされて、今日も、子どもと主人が教会に来ています。子どもが三ヶ月に入ったくらいから、私が摂食障害になったので、今回いやされて解放され、退院して先週初めて三人で食事を共にしました。当たり前なことですが、感謝な時、感動的な瞬間でした。毎日毎食、その気持ちが変わらないことを心から感謝します。とにかく、そういう病気は悪霊の支配だと、自分でもわかるようになり感謝しています。とくに精神的に苦しむ人たちのためにも皆さん覚えて祈っていただきたいと思います。」
                     (ここまでは松平リカさんの証です)

   松平さんありがとうございました。一ヶ月前、彼女は、体重二十六キロでした。本当に細かったです。教会に来たときはそれでも三十キロでした。本当にみんなに見せることができない程の細さでした。今は四十キロあるそうです。これはイエス様の癒しとしか言うことができません。医者も二回続いてこのようなことが起こったので驚いているらしく、これからずっと観察させて欲しいと言われているそうです。これからこの方だけではなく、同じように苦しみを持っている方が、本当に解放されるように祈ってあげてください。
 精神的な病が、全て悪霊から来るものだというわけではありませんから誤解しないで下さい。しかし、彼女の場合は、ほとんどが霊的なものでした。だから悪霊から解放されて、すぐに、いやされました。まずは、霊的支配で勝利を取らなくてはなりません。また、残った病の部分は、治療しなくてはなりません。しかし、今回の彼女は霊的なものでした。神様が新城教会に霊的戦いを起こしてくださり、地域のとりなしがなされてきましたが、「これが人の解放と結びつく」ということを、今回、教えてくださったと思います。彼女が代表となり、その領域の人たちを勝ち取られるようにぜひ祈ってあげてください。
 時々神様は、私たちの心に深い傷を造られます。なぜでしょうか。それはある意味で解放の剣を造るためです。ある製品を作る時、その前にその為の「型」を作ります。型とは製品の逆の溝です。例えば、エンジンを作るときに、エンジンの逆の溝を造り、そこにドロドロに溶けた、真っ赤な鉄やアルミニウムを流し込みます。そしてしばらくして型を取るとエンジンができるように、人生の中で深い傷を受けた方の中に、イエス様は十字架の血潮を注いで解放されます。その後、型が取られると、今度はそのような領域の人々を解放する剣となるのです。今神様が、教会にそのようなことを成してくださっていることを感謝しましょう。今日、彼女は勇気を持って全てのことを話してくれました。ぜひともこれから、彼女のためにも祈ってあげて欲しいと思います。更に、解放が継続し、主の栄光が現されますように、そして、また、続いて彼女と同じ、またそれ以上の解放がどんどん現されるように、病院では駄目だけど、教会に連れてきたら癒されるというようなことが起こされるように、祈っていただきたいと思います。すべての栄光を帰して、イエス様に大きな拍手をささげましょう!
 これは本当にただイエス様の栄光です。私は何もしていません。「悪霊よ。出て行け。」ただ、怒鳴って悪霊が出て行くとしたら、私の力ではなく、イエス様の働きです。そうでなければ、悪霊などは出てはいきません。それだけで解放されるとしたら、ほんとうに申し訳ないと思います。私はただ、イエス様の名によって、「出て行け」と怒鳴っているだけです。これはただ、イエス様ご自身が働かれている証拠です。
 これは、よく見える支配からの解放ですが、先程言ったように、私たちが知らない内に支配を受けているところからも、イエス様は解放してくださいます。礼拝に来て、知らない内に解放されていくのです。その支配が打ち砕かれて、イエス様に似た者とされるのです。
 今日は素晴らしい証を聞くことができましたが、更に主の栄光が現されるように祈り続けていきたいと思います。一言お祈りします。

バックナンバー
戻る
戻る