今週の礼拝メッセージ
イエス・キリスト   1999.6.6(SUN)

新城教会牧師 滝元 明

<今週のメッセージの御言葉>
新約聖書 ヘブル人への手紙13章8節
イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです。

 ハレルヤ!今日このようにして共に礼拝することができることを感謝します。今朝、私は素晴らしい夢を見ました。主の栄光が素晴らしく現され、夢の中で主の臨在を恐れおののいているような夢を見ました。今日は皆さんと一緒にヘブル人への手紙十三章八節の御言葉から学びます。
 この御言葉は文語体では、「イエス・キリストはきのうも今日も、とこしえまでも変わりたもうことなし。」と訳されています。イエス・キリストは絶対に変わることがない神だと言っています。今、久しぶりに、「きのうもきょうもとわに」を賛美しました。この賛美歌の歌詞は素晴らしいです。

1)きのうもきょうも永久に変わりなき
  イエスのみことばの慕わしさ
  赦しといやしを きょうもなお
イエスは変わりなく与えたもう

2)我もなが罪をさばきせじ
  再びせざれとのたまいし
  やさしき声もて罪人を
  イエスは変わりなく赦したもう

3)信仰の手をもて 御ころもに
  触りし女をたたしめし
  いやしの力をたれにても
  イエスは変わりなく示したもう

4)この世に再び来るまで
  エマオの途上にありしごと
  我らのかたえを歩みつつ
  イエスは変わりなく語りたもう

 今日も、赦しといやしを与え、主が来られる日まで一緒に歩いてくださるということを歌っています。素晴らしい賛美です。私たちが持つべき信仰は、イエス様が今日も生きておられるということです。そしてイエス様以外に他の神はありません。イエス様は天においても地においても、一切の権威をもっておられます。そして私のために、イエス様が十字架のあがないを完成され、天において父の右に座し、全ての支配権を持たれ、また、私を愛しておられます。新約聖書を見ると、イエス様のなされた素晴らしい業が書かれおり、感動しますが、今日もイエス様は変わることがありません。信じたらその通りになります。
 二年ほど前、私はオーストラリアに行きました。そこで聞いたことですが、ベニーヒンという素晴らしい、いやしの伝道者がおりますが、彼が日本に来たら、五、六千人が集まりますが、日本では、なかなか奇跡が起こりません。しかし、オーストラリアでは、いつでも会場がいっぱいで、奇跡がたくさん起こるそうです。オーストラリアと日本の違いは、期待感が違うそうです。「あの先生が来られたら、先生から語られる神の言葉を通して、必ず奇跡が起こる」と信じるので、病院から死にそうになった人を担ぎ出して来て、いやされて帰ると言います。日本では期待感が少ないのです。しかし、今朝「イエス・キリストはきのうもきょうもいつまでも同じ」という御言葉を持って期待すべきです。イエス様はこの集会の中にも変わりがないので、誰かに期待するのではなく、イエス様に期待し信じましょう。イエス様は変わらない愛で愛してくださっています。
 イエス様が十字架にかかられる前、「最後の極みまで愛した」という言葉が書かれています。最後にイスカリオテのユダに裏切られましたが、裏切る人をも最期の極みまで愛したというのです。これは素晴らしい言葉です。そして、犠牲となり十字架にかかって死んでくださったほど愛してくださいました。今日この御言葉を聞くときに、お隣の人を忘れ、神様は私を一番愛してくださっている、十字架にかかって死んでくださったほど愛してくださる方が今日私と一緒におられる、という信仰を持って行きましょう。
 昨日は非常に素晴らしい時をもちました。外山敏治兄と平本理恵姉の結婚式で、恵まれ感動しました。日本でキリスト教の結婚式は、約五十パーセントだそうです。ホテルはどこでも結婚式用のチャペルがあります。しかし、あれは商売です。式も二十分程で、誓約して完了というようなところがあります。しかし、教会は違います。昨日、花嫁姿で理恵さんが出て来たときに涙がこぼれました。「感謝だ」と思いました。姉妹を救ってくださり、外山兄を救ってくださり、結婚式をあげることができる素晴らしさを思い感動しました。教会の結婚式はいつでも感動があり、心がこもっています。昨日結婚式を見ながら自分のことを思い出しました。
 私の結婚式は一九五〇年六月十七日でした。間もなく四十九年を迎えます。早いものです。そして今度の九月二十日の誕生日で七十才になります。あっという間です。しかしまだ私は若いつもりでいます。県民の森で、「半分の若さになるように」と祈ってもらい、それを信じて、三十五才だと思っていますが、やはり、七十才は七十才です。
 今年私が考えていることは、今は私が新城教会の主任牧師ですが、主任牧師を順牧師に委譲し、ミッションの方に専念することを考えています。また覚えて祈ってください。色々な教会では後継者がいないということで困っていますが、この教会には後継者がたくさんおり、牧師が五人いることは感謝なことです。結婚して四十九年が経ち、心から感謝しています。私が結婚した日は大雨でした。しかし、結婚式は晴天でした。私の司式をしてくださった方は、リースという宣教師と上村という日本の牧師先生が司式してくださいました。ちょうど穐近先生が米国に行っていたので、その先生方がやってくださいました。その時の説教は、イエス様がガリラヤのカナの婚礼式で、第一の奇蹟を行ったことから話されました。
 結婚式にぶどう酒を出したときに、ぶどう酒がなくなり、イエス様のお母さんのところに世話役がやってきて、「ぶどう酒がなくなりました。」と言いました。そこでイエス様が六つの水瓶に水を満たし、それを世話役たちのところに持っていきました。すると、水が美味しいぶどう酒に変わっていました。世話役が驚きました。そして、「最初に良い物を出して酔いが回ってくると悪い物を出すのが一般の常識ですが、一番良いぶどう酒を最後までとっておいた」と言っています。
 そこで先生が私に、クリスチャンではない人は最初に良いぶどう酒を出し、だんだん結婚生活が進むと悪いぶどう酒になっていく。しかし、クリスチャンはだんだん結婚生活が長くなるほど素晴らしくなる、とメッセージされました。その時の私は、二十才でした。それを聞いて、「そうか?」と思っていましたが、四十九年間、結婚生活は祝福されました。浮気をしなかったことは祝福です。夫婦喧嘩もしません、というのは感謝なことです。
 先日、ある家庭集会に神学生が来て、「新城教会のご夫婦の方々は仲が良いですね。」と言われました。私もそれを思い、これは、変わらないイエス様の祝福です。イエス様についていれば家庭生活は素晴らしいのです。
 私は、私の結婚式で奇蹟を見ました。当時家内は化粧もせず、東京は紫外線が強いので黒っぽい顔をしていました。私の家内は絶対に化粧をしない主義です。若い人は本当は化粧をしなくても良いと思います。きれいな家はペンキを塗らないでも良いのです。古びてきたらペンキを塗り、きれいにします。化粧は化粧屋の宣伝に乗っているようなものだと思います。私の家内の母は怒りました。しかし、結婚式に家内が式に立ったら、隣にいた友だちが、「あら、斉藤先生の顔、白ロウみたい。」と言いました。家内のあんなきれいな顔を見たことがありません。これはイエス様が栄光を現してくださったのだと思いました。「やっぱりイエス様、イエス様と言っているので黒い顔ではかわいそうだから、イエス様が白くしてくださったね」と言っていました。
 私は結婚するまで、実家で百姓を手伝い、あまりにも働きすぎて肋間神経痛の痛みを覚えながらの結婚式を迎えました。しかし、その式の時に癒されました。その時から肋間神経痛にはなりません。なぜならば、イエス様はきのうもきょうも変わらない方ですから、助けてくださいます。イエス様を信じることは素晴らしいことです。
 外山兄と理恵姉が結婚したことにより、また新城教会が強くなったと思います。クリスチャンホームができることは素晴らしい祝福です。益々、結婚式が増えることを信じます。変わらないイエス様に期待していきましょう。
 また、変わることがないイエス様によって、乾くことがない満足した生活を送ることができます。ヨハネの福音書四章に、イエス様がサマリヤの町に行かれたことが書かれています。イエス様が旅の疲れで井戸の側に座っていると、一人の女が水瓶を担いで出てきました。イエス様が、「私に水を飲ませてくれませんか。」と言いました。すると、その女が驚いて、「先生。あなたはユダヤ人でしょう。ユダヤ人なのにどうしてサマリヤの女の私に水を飲ませてくださいと頼むのですか。」と言いました。ユダヤ人とサマリヤ人は交際しませんでした。ということは、ユダヤ人は選民意識を持って、アッシリア人との混血のサマリヤ人をばかにし、言葉も交わしませんでした。それで、ユダヤ人のイエス様が彼女に語りかけたことに、彼女は疑問に思い訪ねました。するとイエス様が、「もし、あなたが神の賜物を知り、水を飲ませてくださいと言われる方が誰であるか知っていたら、あなたの方から先に申し出て、その人から活ける水をもらったでしょう。」と言われました。ということは、神の賜物はイエス様です。イエス様のことが誰かわかったら、あなたが先に申し出て、活ける水をもらったでしょう。と言いました。すると女が、「先生。あなたは先祖のヤコブよりも偉い人ですか。ヤコブもこの井戸から飲みました。しかし、あなたは汲むものを持っていません。汲むものをどこからあなたは手に入れて飲むのですか。」と言いました。するとイエス様が、「もしあなたが神の賜物を知り、また、あなたに水を飲ませる者が誰であるかを知っていたら、あなたから水を飲ませてくださいというでしょう。」と言われました。「私が与える水を飲む者はだれでも決して乾くことがありません。私が与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。」と言われました。
「先生。その活ける水を私にください。」と言うと、イエス様はすぐにあげようとは言いませんでしたが、「あなたの夫をここに連れてきなさい。」と言いました。彼女はとても驚き、「先生。私には夫がありません。」と言いました。するとイエス様が彼女に向かって「あなたに夫がないというのは本当です。あなたは今まで四人の夫がありました。しかし、今の人はあなたの夫ではありません。」と言いました。イエス様は人間のすべてを知っています。女は、「主よ。あなたが預言者であることを認めます。」と言いました。彼女は罪が示されました。彼女には四人夫がありましたが、離婚し、五人目は正式な人ではなく、イエス様がこの水を飲む人は誰でも乾くと言われたのは、男で心を満たすこととは違うと言われたのです。結婚は素晴らしいですが、結婚は心の渇きを満たすものではありません。結婚したら肉欲が満足するようなものではありません。彼女は男を何人も変えたが、満足がない。かえって、彼女が持ったのは罪悪感でした。何人も男を変えたので、昼間に水を汲みに来ました。普通ならば、朝早くに水を汲みに来るのですが、真昼に水を汲みに来ました。一人でこっそりを来ました。そこでイエス様にお会いしました。彼女はある意味で、あまり良い生活をせず、人前に出ることができませんでした。そして、彼女は、「先生。私はこの山で礼拝しています。しかし、あなたはエルサレムで礼拝しています。」と言うと、イエス様は、「この山でもない、サマリヤでもエルサレムでもない。神は霊であるから霊と真を持って礼拝するときが来る。」と言われました。彼女は、「私はキリストというメシヤが来られることを知っています。その方が来られたら、すべてのことを告げ知らせてくださるでしょう。」と言いました。彼女の飢え渇きは、「何人も男を変えても満足がない。しかし、キリストと言われるメシヤ、救い主が来たら、罪から救ってくださるでしょう」と言いました。イエス様は、「あなたと話しているわたしがそれだ」と言われました。
 「渇かない」と言われました。私も結婚してから、ただ一人の女性だけで満足しています。何度も離婚しなくてもクリスチャンにはイエス様がおられるので、渇くことはありません。「なぜ生きているのだろう」という問題も解決してます。渇くことがない素晴らしいものを与えてくださるのはイエス様です。毎日、渇きから解放してくださるイエス様、昨日も今日もとこしえまでおられるイエス様は、私たちにとって素晴らしいことです。
 イエス様が地上に来られたとき、イエス様のところに来た病める人は全部癒されました。癒されない病はありませんでした。代表的ないやしは、中風の人、耳しい、めしいは見えるようになり、足なえは歩き、らい病人はきよめられ、死人は生き返ったと書かれています。
 癒しには三つあります。一つは、少しの傷は放っておいても自然に直ります。もう一つは、薬を飲んで医学により癒されます。しかし、医学でも癒されないものがあります。これは神の力が必要です。中風の人が医学により完全に癒されることはありません。また、目が見えない人が見えるようになったり、耳の聞こえない人が聞こえるようになる。イエス様がこの地上に来られたときに、そのようなことが行われました。イエス様がゲッセマネの園にいた時、イエス様を逮捕するために来たマルコスに向かってペテロが剣を出して耳を切り落としました。するとイエス様がペテロに、「そこまで。剣を使ってはいけない。」と言われ、イエス様は彼の耳に手をおいて癒されたことが書かれています。この時にイエス様はどのように癒されたのだろうか、と考えました。イエス様は落ちた耳を拾って治されたと思いますか。私はイエス様が手を置いたら、耳が出たと思います。イエス様は創造主です。今日、耳の悪い方もいます。なかなか耳が良くなりません。目もなかなか良くなりません。なかなか癌は治りません。これは常識です。イエス・キリストはきのうもきょうもいつまでも同じだとしたら、今日ここに主の臨在があり、見えないけれどイエス様がここに歩いておられ、触れられたら癒されるでしょう。イエス様がよみがえられたときに、弟子たちがそれを見て喜びました。イエス様がよみがえられたと言っていました。その時トマスという男、「おれは信じない」と言いました。皆は口々に「私たちはイエス様がよみがえったことを見た。」と言いました。すると、トマスは、「私はこの目の前にイエスが現れ、イエスの手にある釘の跡、脇にある槍の跡に手を入れてみなければ信じない。」と言いました。彼は見なくては信じないと言いました。するとその八日後に、イエス様が弟子たちに現れ、「平安があなたにあるように。トマス。さあ、あなたの指をわたしの手の傷に入れてご覧。あなたの腕をわたしの脇腹に入れてご覧。」と言いました。その時彼は、「我が主。我が神よ。」と言いました。その時にイエス様は、「あなたは見たことによって信じたか。見ずして信じる者は幸いだ。」と言われました。トマスは「私は絶対に見なくては信じない。」と言ったときに、見えなかったけれどイエス様はすぐ側におられました。イエス様はそこに立たれていました。イエス様はトマスの疑いを見て悲しまれたと思います。そこで八日後に「トマス。」と言われて、彼は驚いたと思います。疑い深いトマスに最初に声をかけられ、「指を入れて見なさい。腕を入れて見なさい。」と言われました。「信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」と言われました。全部イエス様は聞いておられたのです。今日、信仰のない人もイエス様が側にいます。「信じられないか。見えないからわたしが今でも耳を癒すことができないことを信じられないのか。今でもわたしが生きていて、きのうもきょうもいつまでも変わらない、わたしを信じることはできないのか。常識しか信じられないのか。」とイエス様は信じない人に対して悲しまれます。
 「イエス・キリストは、きのうもきょうもいつまでも同じです。」と信じることができたら癒されます。癒されることは、電気のようなものです。電灯はスイッチを切ったら消えてしまいます。電源が来ているときにスイッチを入れるか入れないかで明るさが違います。ベテスタの池で、三十八年間横たわっている男がいました。そこに行かれてイエス様が、あまり長い間病気だったのでかわいそうに思い、「良くなりたいか。」と聞きました。「先生。時々天の使いが来て、この水をかき回すときに、一番先に入ると癒されるけれど、私が入ろうとすると他の人が先に入ってしまうので入れないのです。」と言いました。すると、イエス様が、「床をとって歩きなさい。」と言われました。イエス様の御言葉は絶対です。彼は床をとって歩きました。その日は安息日でした。「お前、なぜ、安息日に布団をたたんだのか。」「誰だか知らないけれど、私に床をとって歩けと言うので立ちました。」と言いました。彼はイエス様がわかりませんでした。それから、後になってイエス様が彼に、「あなたは良くなった。もう二度と罪を犯してはいけない。今度罪を犯したら、もっと悪いことが起こる。」と言いました。この人は悪いことをして病気になったのだと思います。イエス様がその男に言ったことは、「良くなりたいか。」ということです。今日ここを歩いておられるイエス様が、「良くなりたいか。」と聞いておられます。それを捕まえてください。信仰を持つことです。
 東京ミッションのときに、何人かの子どもたちが、私がメッセージをしていたときに私の周りに天使が回っていたと言いました。天使が立っていたそうです。今日は天使が見えなくても良いですが、イエス様がここにおられることを信じるべきです。「二、三人わたしの名によって集まるところに、わたしもその中にいる。」と言われました。今日、イエス様が素晴らしい信仰を与えてくださいます。イエス様は二千年前に来られたときに失敗した人に向かって、「私もあなたを罪に定めない。再び罪を犯すな。罪は赦された。」と言われました。信仰を持ちましょう。イエス様は私たちを自由にされます。イエス様は素晴らしいです。イエス様を信じたら罪の奴隷から解放されます。また、呪いからも解放します。
 今日これから聖餐式をしますが、準備をしながら聖書を読んでいると、第一コリント十章十六節〜十九節に、

『私たちが祝福する祝福の杯は、キリストの血にあずかることではありませんか。私たちの裂くパンは、キリストのからだにあずかることではありませんか。パンは一つですから、私たちは、多数であっても、一つのからだです。それは、みなの者が一つのパンを食べるからです。肉によるイスラエルのことを考えてみなさい。供え物を食べる者は、祭壇にあずかるではありませんか。私は何を言おうとしているのでしょう。偶像の神にささげた肉に、何の意味があるとか、偶像の神に真実な意味があるとか、言おうとしているのでしょうか。いや、彼らのささげるる物は、神にではなくて悪霊にささげられている、と言っているのです。私は、あなたがたに悪霊と交わる者になってもらいたくありません。あなたがたが主の杯を飲んだうえ、さらに悪霊の杯を飲むことは、できないのことです。主の食卓にあずかったうえ、さらに悪霊の食卓にあずかることはできないことです。』

と書かれています。クリスチャンは偶像を拝んではいけないということ、偶像にささげたものを食べてはいけないと聖書は教えています。偶像にささげたものを食べることは、偶像礼拝は悪霊礼拝ですので、偶像にささげたら祝福ではなく、呪いを与えるのです。だから、偶像にささげて呪われたものを食べたら弱くなります。病気になります。だから、仏壇にものをあげたり、偶像にささげられたものを食べてはならないのです。偶像にささげることは悪霊にささげることだと書かれています。しかし、聖餐式は、イエス様の肉と血潮であり、聖餐は、イエス様ご自身が祝福してくださいます。ただのジュースではありません。これをイエス様が祝福したときに、血潮として肉として受けることができると書かれています。今日ここにイエス様がおられることを信じましょう。「イエス・キリストは昨日も今日もいつまでも同じです。」イエス様ほど素晴らしい力強い神はありません。偶像も悪霊も恐ろしくありません。やがてイエス様が帰って来られますので、この素晴らしいイエス様を信じ、今週もイエス様と共に、素晴らしい人生を歩みましょう。一言お祈りします。

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