今週の礼拝メッセージ
特別講演記録   1999.6.13(SUN)

アヤコ・ビラップス師

<今週のメッセージの御言葉>
旧約聖書 エゼキエル書47章1節〜12節
彼は私を神殿の入口に連れ戻した。見ると、水が神殿の敷居の下から東のほうへと流れ出ていた。神殿が東に向いていたからである。その水は祭壇の南、宮の右側の下から流れていた。ついで、彼は私を北の門から連れ出し、外を回らせ、東向きの外の門に行かせた。見ると、水は右側から流れ出ていた。その人は手に測りなわを持って東へ出て行き、一千キュビトを測り、私にその水を渡らせると、それは足首まであった。彼がさらに一千キュビトを測り、私にその水を渡らせると、水はひざに達した。彼がさらに一千キュビトを測り、私を渡らせると、水は腰に達した。彼がさらに一千キュビトを測ると、渡ることのできない川となった。水かさは増し、泳げるほどの水となり、渡ることのできない川となった。彼は私に、「人の子よ。あなたはこれを見たか。」と言って、私を川の岸に沿って連れ帰った。私が帰って来て見ると、川の両岸に非常に多くの木があった。彼は私に言った。「この水は東の地域に流れ、アラバに下り、海にはいる。海に注ぎ込むとそこの水は良くなる。この川が流れて行く所はどこででも、そこに群がるあらゆる生物は生き、非常に多くの魚がいるようになる。この水がはいると、そこの水が良くなるからである。この川がはいる所では、すべてのものが生きる。漁師たちはそのほとりに住みつき、エン・ゲディからエン・エグライムまで網を引く場所となる。そこの魚は大海の魚のように種類も数も非常に多くなる。しかし、その沢と沼とはその水が良くならないで、塩のままで残る。川のほとり、その両岸には、あらゆる果樹が生長し、その葉も枯れず、実も絶えることがなく、毎月、新しい実をつける。その水が聖所から流れ出ているからである。その実は食物となり、その葉は薬となる。

 ハレルヤ!主の御名を賛美します。私は神様の栄光が輝くことを考えるとき、いつも感動を覚えます。もし、神様の豊かな栄光と恵みがなかったら、私はこの新城教会にもう一度来ることはできませんでした。私は過去四ヶ月から五ヶ月に渡り、苦しい痛みを通りました。この私の経験を通しても、神様が何か皆さんに告げようとされていると思います。
 去年東京ミッションの時に滝元先生にお会いしました。その後、家に帰ると私は急に足腰が動かなくなり、自分で体を動かすことができなくなるような病気に陥り、医者も原因がわかからず、助けてあげることができないと言われました。その時、主人が牧師のところに行って泣いたそうです。私はそのことを見る時、主人がかわいそうに思いましたが動けないので、祈る事しかできませんでした。そのような中で、「必ずイエス様がいやしてくださる。イエス様がたくさんの世界に対するビジョンをて与えてくださったのが全うしていないままでは死んでいけない。」という感じを深く持ちました。しかし、そのような状態なので祈ることがまず第一だと思い、再び日本のことを思い、過去行われたリバイバルミッションのことを思い出しながら、祈り始めました。
 そのような毎日でしたが、私の目の前に広がってきたのは大きな川でした。それは、生ける川でした。神様はエゼキエルに神殿の下から川が流れてくるという、新しいビジョンを見せられました。その御言葉を通して、神様が私に、この教会の土台から川が流れている、それは生ける川で教会内に留まるだけではなく、世界に出て行く。また、日本から出て行くという川で、最初は小さな川であるが、東西南北に流れていくごとに大きな川となり、あちらからもこちらからもたくさんの小さな川が寄り、だんだん大きくなるという、大きな励ましを神様からいただきました。イエス様は何と素晴らしいことでしょう。
 私は甲子園ミッションが始まる前にこの教会で二ヶ月間奉仕させていただきました。その時の皆さんの活動されていた姿が目の前に浮かびました。それを思った時に、「イエス様。あなたがあの教会、そこにいる兄弟姉妹、先生方を建て上げ、この仕事を日本にするために導かれました。」と祈り、同時にエゼキエル書四十七章の御言葉について考えました。
 一節に、「祭壇の南、宮の右側の下から流れていた。」と書かれています。「祭壇」は、私たちが礼拝し、また第一にいけにえをささげる所です。私たちのいけにえはイエス様です。イエス様が私たちのために十字架で死んでくださいました。だから私たちはイエス様のところに行き、すべての罪を告白し、きよめられます。神様の私たちを愛する愛のゆえに、イエス様が十字架にかかられ死んでくださいました。ですから、私たちは祭壇に行き、そこからすべてが始まります。
 甲子園前に先生が県民の森で素晴らしい経験をされたことを聞きました。その時に大きな風が来て、祈祷会をしていた小屋が揺れたそうです。使徒の働きにある御言葉のようです。そのことについて考えました。この教会ではその後どうなったのでしょうか。ある人は喜んで聖霊の流れの水に足を入れ、ある人は足先を少し濡らして立ち止まったと思います。そして、ほとんどの方が水に足を入れたと思います。しかし、水に足を入れる程度であったら、まだ歩くことができ、行きたいところにも行けます。足を蹴り、水面が動くのを見て遊ぶこともできます。そのような時は、個人として、また、団体としてのコントロールがあります。
 ところが聖書を見ると、そこから千キュビト歩いて行った所は水がひざまであったと書かれています。新城教会のことを考えると、聖霊の流れが起こった時からだいぶ長い時間をかけて霊的な戦いなど色々なことがわかり始めたように思います。そのような時に、皆さんの中に、どのようなことが起こったでしょうか。始めと同じような状況ではなかったと思います。ある人は喜んでひざの所まで入って行き、また、ある人は、「これで良いのだろうか、霊的な戦いなんてしたくない」と考えた方もいると思います。しかし、結局は、イエス様の恵みの中で教会として一人一人が、「はい。私たちは喜んで水の中に入って行きます。」と言って、水の中に入ったと思います。ひざまでというとまだ自由がありますが、波が向かってくる方に進むとそう簡単に歩くことができない状況です。
 また、そこから千キュビト歩いていくと、今度は腰まで水がありました。泳ぎに行き、冷たい水が腰の周りに来たら、感情的にも震えるような気がすると思います。甲子園ミッションの働きが深くなってきた時に、その中にいた人たちも必死になってがんばっている反面、そのような感情的なものを経験されたのではないかと思いました。あの時の姿は、今でも私の目に焼き付いています。あの時に一生懸命に働いていた若い人たちがここにおられますが、その姿を持って私はアメリカのクリスチャンたちに言いました。「あなたがたはあのように必死になって、自分の国にリバイバルが来ることを祈ったことはないのです。あんなに必死になっている日本人の姿を見て習ってください。私も習っています。」と言いました。
 このように、病の床からその日々を思い出しているのが励ましになり、また同時に私自身、悪い状態が続き、だんだん力がなくなってきました。ある時にはこれが長続きしたら二ヶ月も私は持たないだろうと思いました。「イエス様。若い三人が炉の火の中に入れられた時に、自分が信じている神が必ず救ってくださると信じました。しかし、もし救われないとしても、私たちは偶像に頭を下げませんと言ったのを思い出し、私も、イエス様が私をいやしてくださると信じていますが、もし、いやされなかったとしても、もう七十才になるので御国に召されていくかも知れませんが、それでも私はイエス様のことを恨んだりしません。苦々しい思いをしたりせず、いつまでも賛美して死んでいきたいと思いますのでよろしくお願いします。」と祈りました。
 しかし、祈ってから私はどうしても納得がいきませんでした。私たちは御言葉を信じて生きることをしています。そして御言葉にはたくさんの約束があります。マタイ七章七節に、『求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。』また、『地上で二、三人が心を合わせて祈ったことを信じたら必ず与えてくださる』という御言葉もあります。「イエス様。夫と二人で祈ったのでいやしてください。」と祈り始めました。そしてヨハネの十四章十二節に、

『まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしを信じる者は、わたしの行なうわざを行ない、またそれよりもさらに大きなわざを行ないます。わたしが父のもとに行くからです。』

と御言葉が示され、祈りながら私は心の中を探りました。そして、「私が口で告白して主の前に祈っていることを、自分で信じているのだろうか。」そのように考えている時に、私は百パーセント信じていないことに気がつきました。私は悲しく思いました。イエス様のように一生涯奉仕してきた私ですが、皆のためには熱心に祈り、そして癒しを見ることもできたのに、自分のことをみるとそれほど熱心ではない。「これはどういうことなのでしょうか。イエス様どうしてですか。こんな悲しいことで良いのですか。」その時、イエス様は静かに語られました。「それは私が天なるお父様からの百パーセントの愛を握っていない」ということでした。私たちは言葉で「イエス様に愛されています。」と何度も言います。また、また他の人にも「私はイエス様に愛されています」と言います。しかし本当に心の底から百パーセント愛されておられる神様が、私たちの祈りを必ず聞いてくださるということに対して、百パーセント聞いてくださると信仰持つことが必要であると示されました。私はそのことについて深く考えました。
 人間は時々、成長環境の中で体験した、ある一部分のことを反映させて、天のお父様の姿を見ていることがあるのです。そう思った時に、私は私の父のことを考えました。私の父親は日本人でした。とてもかわいがってくれました。私の夫がベトナムで戦死し、私が五人の未亡人になった後、急に病死しました。私にとっては一番つらい時でした。五人の子どもを抱え、まだアメリカで英語もろくにできないのに、孤児のようにさまよっていた姿を思い出しました。しかし、その時私をこんなにも愛しているお父さんが側にいてくださったらどんなに良かったのでしょう。しかし私の父親は、お母さんの後を追って九週間後に自殺してしまいました。イエス様は私の心の中に、天のお父様と言っても、自分のお父さんの姿がそこに入り、「最後になったら天のお父様は私の側にいてくれるのだろうか。それとも自分のお父さんのように、一番欲しいと思っている時に裏切るようにこの世を去り、五人の子どもを置いて行ってしまうのだろうか」と言うような、小さな暗い陰が私の心に残っていることを教えてくださいました。それは今考えると、私だけではなく、父親と良い経験を持つことができなかった人も同様です。また良いお父さんであっても、人間は百パーセント完全ではないので、私たちを落胆させようと思っていなくても落胆させる時があります。またその中には酔っぱらいのお父さん、暴力を振るう人もいたかも知れません。そのような反映が、キリストの体の中でもある程度、反映しているということに気がつきました。それを示された後、私は「イエス様のことがもっとわかるようにしてください」と祈りました。そしてダニエル書十一章三十二節に、

『自分の神を知る人たちは、堅く立って事を行なう。』

と書かれています。だから私たちはまず第一に天のお父様を知るということがとても大切なことだと思います。
 このようなことを経験し、私はこれからはもう絶対に疑わないで私の体が元気で自由でいるように計画し、行動を始めることにしました。そしてちょうどその頃、牧師先生から教会でカウンセリングセミナーをするように依頼されていました。しかし、私の夫が牧師のところに行き、「私の妻は動けませんのでカウンセリングセミナーを取り消してください」と言ったそうです。その話を聞いた時、私は教会に電話をかけて、「すみません。三日ください。神様のみ声が聞こえたら、私はそのようにします。」と言いました。すると二日目に、神様が第二コリント十二章九節の御言葉を示してくださいました。
 「わたしの恵みはあなたの十分である。わたしの力は弱さの中に現わされる。」それを握って、「ハレルヤ!わたしは必ずそのようになる」と信じてそのセミナーをすることにしました。そしてその日が来ました。夫が私を車の中にかつぎ込むようにして教会に連れて行ってくれました。そして教壇に立った時にも、座ってなければならない、声もろくに出ないという中でしたが、「イエス様。助けてください。」と祈りながら話しました。そして話しているとだんだん声が出てきました。そして話しているとイスに座っているのが嫌になり、勢いよく話していきました。そうしていると出席している方がハンカチを出して泣き出しました。その人たちは私のことがかわいそうに思って泣いているのだと思いました。午後のセミナーも無事終わり家に帰りました。すると次の日に牧師から電話があり、「アヤコさん。素晴らしかったですね。出席した人が皆が触れられて大きな心の癒しを受けましたよ。」と言われました。その時、神様は御言葉のとおりに、わたしの弱い中から、ご自分の力を完全なものにしてくださったと思いました。そしてその頃、やっと病名がわかりました。アメリカではあまりない病名で、日本や中国にはあるそうですが、これは一生直らないから薬を飲みながら生きていくしかありません。でも副作用もあるので大変でしょうと言われました。それを知っていながら何も恐れずに、「主よ。」と祈り、私は健全な者かであるように計画を立てました。
 その頃、東京の教会に五月に行くことを約束していました。そしてそれを目指してカバンを買いました。それが前よりも大きいもので、それをベッドの所に置き、「主よ。感謝します。あれを引いて歩くことができることを感謝します。」と言いながら、見るたびに祈りました。「おまえはそんな大きなことを言って、そんなものが持てるのか。」とサタンが二度程囁きましたが、私はそれをはねつけて、「サタンよ。出て行け。おまえなんか受け付けない。」と祈ることができました。私がこのようにして話すことができるのも、神様の恵みと情け、そして愛のゆえです。主に栄光をささげます。そして確かに、その日が来ました。そしてちょうどその日に、今日同行してくださったアイリーンさんから電話があり、教会で預言が語られ、「あなたは九十日目に素晴らしい喜びのあることをします。」と言われたそうです。私はその頃、アイリーンさんと一緒に行きたいと思っていました。「イエス様。あなたの確認なしには絶対に身動きしません。」と祈りました。ところが、彼女が私に言った九十日目に何かが起こる・・・。これは私が目的を持って行こうとした日でした。そして彼女も私も皆も喜んで私たちを送り出してくださいました。そしてアイリーンさんを通して、私に恵みを神様は与えてくださり、私の体も良くマッサージしてくださいます。主に感謝しています。
 このことはただ証して終わるのではなく、私にとってもっと深いことが教えられ、また、関連して神様が皆さんにも教えたいことがあると思いました。というのは、今まで皆さんが甲子園ミッションの前から忍耐して働いて来られました。長い間でした。しかし、これが始まりではないでしょうか。神様のみこころは一つです。また、神様が新城教会について語られたことは、「新城教会に行き、わたしの愛している民にありがとう。愛しているよ。あなたの労苦を私は覚えている。ありがとう。」ということでした。そして、今が再び、始まる大切な時です。また、その中にいるあなた方の中には、ある人は疲れ果てているかも知れません。またある方は、ビジョンが薄くなり、私が病をしていた時に立ち上がれなくなっていたというような気持ちがあるかも知れません。また、あなた方の中には、何か過去から来ているものにより、それによって天のお父様の愛が感じられず、ここまでやって来たけれど、個人の問題もあり、それも解決しなければならないけれど、これから先、熱心に続けていくことができるのだろうかという方もいるかも知れません。そのような中でイエス様は、「わたしのところに来なさい。あなたの力では絶対にできません。わたしの名を呼びなさい。わたしを求めなさい。そしてわたしに力を頼んだ時、わたしは必要なことをあなたがたに告げてあげます。」と言われます。皆さんの中には、もしかしたら、お父さんとの人間関係がいやされていない分野があり、それが反映して天のお父様のところに来ても何となく私が自分のために祈れなかったように、自分の家族のために自分の祈っていることに心から百パーセントの信仰を出して祈ることができない方がいるかも知れません。しかし、天のお父様は、「あなたがたが日本のリバイバルのために活動していることを、ありがたく思っています。わたしはあなたがた個人を、父として愛している。あなたがたが私にしてくれる仕事以上に、わたしはあなたがたをわたしの息子・娘として愛している。その愛をわかって欲しい。だから、あなたたちはわたしを知って欲しい。わたしを捜し求めたならば、わたしは自分を更に深く、あなたがたに伝えたい。交わりたい。愛を味わっていただきたい。」と神様が語られました。
 そのように求める時に、本当の喜びが心の底から溢れ、絶えることのない信仰の道・リバイバルの力が、主を通してくることを私は信じます。それは素晴らしいことです。イエス様が私たちに望まれることは、いやしが進む中で、私たちがもう一度、祭壇にまで来て主に心を探っていただき、もしも心の中で何か気持ちが離れ、生ぬるくなったところがあったら、「イエス様。ごめんなさい。もっとあなたの愛が必要です。あなたの愛がわかりたいです。天のお父様の愛を見せてください。そして私を力づけてください。悔い改めます。十字架の血潮で私をきよめてください。新しく私の身をあなたにささげます。」と祈ってください。これが始まりだと思います。
 イエス様が、「ここには甲子園の前から来られている方もいれば、それ以降、新しく来られた方もいます。そしてその時のことを十分に知らない方もいるでしょう。でもイエス様が、エゼキエル書で示されたように、これから作る神殿はソロモン王のような素晴らしい神殿、外見は美しくはないけれども、更に素晴らしい神殿、それは、イエス様が神殿の中におられるからです。そしてイエス様はここにおられる方皆を必要とされ、皆が築かれて必要な場所にまとめられ、神殿の中で祈り、愛の神様を持ってここから生ける流れの川として、今一度新しくきよめられたものが流され、日本中東西南北、またそれ以上に国々に出て行くという姿を見せてくださいます。そして皆さんに、「一人一人が大切です」と語られます。「私は結構ですから・・・」ということはないのです。皆が心を一つにし、「リバイバルミッションは私のもの。」と心の中で握った時に、初めて本当の流れのリバイバルがもっと豊かに力強く流れ出します。
 イエス様はたくさんのことをこの教会に示してくださいました。しかし、これからがまた素晴らしい時です。皆さん、どうぞ心を一つにして主の前に祈ってください。また、新しい生ける川はすべてを生かします。その川の中にはたくさんの癒しがあります。心のいやし、肉体のいやしがあります。なぜならば、その中に神様の力、愛があるからです。また、人間関係をいやす力もあります。またそれ以上に素晴らしいことは、たくさんの魚が川の中に入っており、収穫することができます。私たちが互いに触れ合っていると、自分たちだけではなく、皆一緒なので皆が力づけられ、皆が変わって行き、皆が収穫していく人として、だんだん強められ、魚である人間の魂がたくさん採れるようになります。そのようなことを経験するときに、エゼキエル書の四十七章十一節に、

『しかし、その沢と沼とはその水が良くならないで、塩のままで残る。』

と書かれています。
 「イエス様。これはどういう意味でしょうか。水が触ったら全部いやされるのではないでしょうか。」と祈りました。すると、「それは全部水ですが、生ける水は流れるものです。しかしここは生ける水の流れが来た時に、一緒に流れたくなくて止まっているもの、というのは、ある教団ではそのようなことを信じたくないので、いつまでも堅くなっているのかも知れません。」私は涙を流して祈りました。「あなたの愛される日本人です。堅くなり、真実を受け入れることができずに、滅びてしまうようなものではかわいそうです。主よ。助けてください。」と祈りました。そしてイエス様も、「わかっている。わたしの愛している子どもたちだから。そこにはわたしの恵みが言葉に言い表わせないほどある。」と語られました。しかしそのように心頑なにした者を私たちが見る時にも、主に委ね、主の時が来たら、その人たちをも美しいクリスチャンとして扱ってくださいます。しかし、私たちは皆が生ける石として、皆で一緒に前進していきたいと思います。このように素晴らしい特権をいただいた私たちは幸せです。今のような時代に私たちは生まれてきて主のみこころを果たすために、このように毎日を主にささげています。十字架の愛によって赦されたこの身をもう一度主にささげ直したいと思います。主の御名を心から賛美します。皆さんの愛、心からの労苦、信仰を心から感謝しています。
 ジョー先生が皆さんによろしくと言われていました。ジョー先生は皆さんに大歓迎され、私たちの教会に来ても、皆が驚くほどに変わられました。皆さんの成されていることがアメリカ人に変化を与えてきたことを覚えてください。そして私の教会の牧師に言いました。「あなたも、霊的な戦いを習うべきです。私たちは一生懸命にヤキマで行っています。順先生のところまで習いに行きました。人を送って学んできなさい。」と言われました。そして皆が、昔のジョー先生とは違うと言われます。前は、冗談ばかり言っていましたが本当に良い先生になられ、今熱心に祈り、「皆さんによろしく」と言っておられました。奥さんのロビンさんも皆さんのところにきて、楽しい思い出深いときを過ごされました。
 私の教会もひざまで水に浸かっているくらいかも知れませんが、この教会のリバイバル、祈り方を聞き、特に霊的な戦いについて深く入ることができるように祈っています。皆さんもお祈りください。主イエス様の御名を賛美します。神様が私をいやし続けてくださり、元気にしてくださり、このように御言葉を分かち合うことができたことを、心から感謝します。主の御名によって、あなたがたを愛します。主の御名を賛美します。

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