今週の礼拝メッセージ
神の視点   1999.6.27(SUN)

新城教会牧師 岡本信弘

<今週のメッセージの御言葉>
新約聖書 ピリピ人への手紙 3章7節〜9節
しかし、私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。それは、私には、キリストを得、また、キリストの中にある者と認められ、律法による自分の義ではなくて、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基づいて、神から与えられる義を持つことができる、という望みがあるからです。

 ハレルヤ!主の恵みを心から感謝します。今朝皆さんと共に御言葉を学ぶことができることを感謝します。いつも皆さんの祈りに支えられ、健康が守られていることを感謝します。
 前回四月にここで皆さんと共に「信仰による選択」というテーマで学びました。私たちは岐路に立ち、右か左かを選ばなくてはならない時があります。そして、右に行きたいけれど左に行かなくてはならないという時もあります。いろいろな障害物もある中で私たちは祈り、主のみこころをつかんで信仰を持って進んで行くところに主が新しい道を開いてくださり、私たちが考えもつかなかった主の御業が成されることを学びました。そして、実際の生活の中で、またいろいろな働きをする中においても、御言葉にとどまることを学びました。
 私はここ数カ月、来年のスーパーミッションの会場探し、また準備のために、東京や大阪に何度も行きましたが、正式に東京の四十日間と大阪の四日間の日程と会場が決まりました。決まるまでには、多くの会場に出向き、交渉してきました。ある所は料金が高いとか、定席の数が少ないとか、日程が合わなかったり、いろいろな問題がありました。毎月行われているミーティングに持ちかけると、新たな問題が出てきて変更になったりもしました。私は決まったことを遂行するだけなのですが、そのためには多くの資金もいりますし、心配もあります。また、あと一年しかないと焦ります。それでも立ち止まるわけにはいきません。主に信頼して祈って進む毎日です。
 今日は皆さんとともに「神の視点」というテーマで、ピリピ人への手紙から学んでいきたいと思います。ピリピ三章七節に、

『しかし、私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。』

と書かれています。これはパウロがピリピの人に宛てた手紙の一文ですが、三章の始めには、パウロがどのような人であったかについて書かれています。四節から、

『私は人間的なものにおいても頼むところがあります。もし、ほかの人が人間的なものに頼むところがあると思うなら、私は、それ以上です。私は八日目の割礼を受け、イスラエル民族に属し、ベニヤミンの分かれの者です。きっすいのヘブル人で、律法についてはパリサイ人、その熱心は教会を迫害したほどで、律法による義についてならば避難されるところのない者です。』

とあるので、パウロは知恵も学歴もあり、血統も良く、人間的には完璧な、誰から見ても非の打ち所のないような人物だったと思われます。しかし教会を迫害したほどの彼がイエス様に突然出会い、それからの人生は今までの自分の人生が損と思うようになるほど変わりました。
 人間のものの見方はいろいろあります。子どもと大人でも見方は変わります。このメッセージも早く終わって欲しいと思う人もいれば、ゆっくりと話して欲しいという人もいます。親子喧嘩が生じるのは世代の違いのせいもあると思います。ものの見方や考え方は、性格や環境によっても違います。ここには外国の方もおられ、自国とは全く生活環境の違う中で働かれています。外国の方と話すと、こちらでは常識的なことが向こうでは常識ではないこともたくさんあり、意見が食い違うことがあります。たとえば、あなたが一人の人を素晴らしい熱心な人だと言っても、別な人は必ずしもそう考えているとは限りません。学生における評価は、通知票です。私も学生の頃、成績が上がっている時は良いのですが、下がっている時はそれを持って家に帰るのがとても辛かったのを覚えています。成績がいつも良い人は、「あの人は頭が良い」と言われます。そのようにテストの点で評価されることが多いのですが、それだけではないと思います。確かに勉強して実になっていることもたくさんあります。しかし、何十年も経ってから、今までやった勉強がどこまで役に立っているのだろうと思います。
 私の高校時代の一人の友だちはあまり成績が良くなく、当時は平均点の半分以下が赤点だったのですが、彼は九教科の内七教科が赤点でした。学校の先生からも「この子はダメだ」という評価をされていて、何度も追試をしていました。私も彼がなんとか卒業できるように勉強を教えたりしました。先生も何回も相談にのってくれて、彼は無事高校を卒業しました。何年か前クラス会があり、そこに私も行きました。いろいろな話をしましたが、誰が一番給料をもらっているかという話が出ました。すると、あの勉強があまりできなかった彼が一番たくさんの給料をもらっていることがわかりました。彼は、某一流メーカーの自動車販売会社に入り、初めは整備工、次ぎにセールスになり、月に何十台も車を売り、そして係長になり、課長になっていたのです。そのように語り合う中で最後に、誰が一番出世しただろうかという時に、「一番出世したのは岡本だろう。牧師になったのだから」と皆が言いました。牧師になったことが出世したのかどうかはわかりませんが、そのように評されたことはうれしく思い、また、人の評価はそれぞれ違うなぁと思いました。この世の中では、人から見て仕事ができる、勉強ができる、また、勉強はできないけれど人が良いとか、そんなに人は良くないけれどお金はあるとか・・・それぞれの評価があります。しかし、たいていの人はやはり目に見える部分で評価します。あの人は素晴らしい立派な人だと思うのは見えるところです。だから、外見も必要です。
 最近テレビを見ていて、私たちのものの見方は、ちょっとした視点を変えることによって随分変わってくるということに気づかされました。今、底が二〇センチ以上あるサンダルがはやっていて、インタビュアーがそのサンダルを履いた女性たちに「こういうサンダルを履いていかがですか?」と質問していました。質問を受けた女性たちは皆、「世界が変わった」と言っていました。今まで自分が見る目線は身長一四〇センチ、一五〇センチ位の人なら、二〇センチ上がって一六〇、一七〇センチの高さになるわけです。ですからその高さからものを見ることになったら、同じ所に遊びに行っても今までとは全く別の世界が見えるようになったと言っていました。その番組を見ながら「そんなものかなぁ」と思いましたが、実際、乗用車に乗っている時とトラックに乗っている時を比べると、トラックに乗った時の方が上から見おろすことができるので気が大きくなるとよく言われます。そう考えると、少し視点が変わっただけで、ものの見方や世界が大きく変わるものだと思います。
 ここには七十歳、八十歳の年配の方もおられます。戦争の時代を生き、いろいろな苦難の中を通ってきたと思います。しかし、何でもこの世の中のことを知っているという年齢であっても、今まで全く知らなかったことがあると気がつくことがあります。食べ物にしても今まで何十年も生きる中で、最近初めて食べたというものがあると思います。ここ二、三年前に作られたものではなく、以前からあったものなのに・・・。それはその食べ物の存在を、単に知らなかっただけなのです。また、使ったことのないものを使うだけで、今まで長いことかけてしていたことが、数分でできてしまうくらいの便利なものがあります。でもそれも知らなければ使えないのです。それほど私たちは知らないことが多いです。私たちは視野以上のものは見えないし、考える部分にも範囲があります。私たちは百年前のことを写真では見ることができ、話を話を聞くことはできても、本当のことは誰にもわかりません。もちろん百年後のことも知ることはできません。今、生きている周りのことを知っているだけです。私も新城で生まれ育って、ここからあまり出たことがないので世界は狭いのです。海外に行ったことのない人は日本しか知りません。しかしその日本のことにしても、全部知っているわけではなく、世界から見たらちっぽけな島です。パウロはコリント人への手紙第一の八章二節に、

『人がもし、何かを知っていると思ったら、その人はまだ知らなければならないほどのことも知ってはいないのです。』

と言っています。これは、もしあなたが何か知っていると思っても、本当に知るべきことを知らないのだと教えているのです。
 今私は講壇から全員の人を同じように見ていますが、全員の人を記憶に入れるわけではありません。私たちの記憶は、目に飛び込んでくるものを重要なものから蓄積するのです。だから、昨日何を食べたかということは忘れても良いのですが、今日テストという時に昨日勉強したものは忘れてはいけないのです。そのように、忘れても良いことは忘れ、忘れてはならないことを記憶するようにしているのです。周りにいろいろな情報があっても、自分に必要な、重要と思われることだけを取り入れているのです。私たちはクリスチャンになる前には学校でいろいろなことを学び、吸収してきましたが、私たちがイエス様を知った時に、なぜ、このように重要なことをもっと早く知らなかったのだろうかと思います。近くに教会があり、誰かに誘われたかも知れませんが、私たちはそれを拒否してきました。そんなものは私は必要ではないと私たちの中に取り入れようとしなかったのです。また、そのような機会がなかった人もいるかも知れません。パウロもそうでした。こんなのは神ではないと言って多くの人を迫害し、投獄までし、クリスチャンを苦しめていました。そんな彼がイエス様に出会い、これが良いと思ってきたものが全部損と思うようになったと言うのです。
 ここにおられるクリスチャンの多くの方も、イエス様を信じた時に、今まで大切にしていたものがそうではなくなったという経験をもっておられると思います。私たちは何が重要であり、何が必要であるかを考える時に、神の視点に立って一つひとつを考えるべきだと思います。私たちの目に見える範囲はごくわずかですが、イエス様は私たちを日本を、また世界をどのように見ているのか、と考えていただきたいと思います。イエス様が私たちを見る時に、

『わたしの目には、あなたが高価で尊い。』

と言ってくださっています。この御言葉を私たちは知っていますが、それを自分のことと思えない方もいるかもしれません。そして、

『あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたがたを選び、任命したのです。』

イエス様があなたを選んだと言われますが、私は選ばれてはいないと言われる方がいるかもしれません。しかし、確かにイエス様があなたを愛し、あなたを高価で尊い者としてあなたを選んでくださったのです。ではなぜ、イエス様があなたを、また、私を選ばれたのでしょうか。「イエス様。あなたは目が悪いのではないですか。ちょっと見るところが違いませんか」と思うかもしれません。しかし、私たちには一人ひとり、選ばれた目的があるのです。イエス様は私たちを神の作品、それも最高傑作品として造られました。いろいろな動物などの一つとして、とりあえず人間を造ったというのではありません。神様は人間を特別な者とし、皆の顔形が違うように高価で尊い者として造ったというのです。
 先日、遠足で陶器を作った方の作品を見させていただきました。どれも味わいがあって、私も一度やってみたいと思いました。でもたぶん思ったとおりにはできないと思います。行った人も最初にこれを作ろうと思い描いて、コップ、皿・・・と手がけていったものの、なかなか形にならなかったり、思ったものと違うものができてしまったかもしれません。神様も陶器師が粘土で作るように、私たちを造ってくださいました。「あなたがたはわたしの手によって造られたのだ。わたしの思い通りに造ったのだ」とイエス様が言われます。皆さんが瀬戸に行って作ったものは未完成品であったかもしれませんが、皆さん一人ひとりはイエス様から見て未完成品ではありません。それは完成品であり、最高傑作品として造ってくださいました。しかし、それと同時に、器の中に何を入れるのかも大切な問題です。イエス様は器としての一人ひとりを完全なものとして造ってくださいましたが、もう一つ見ておられるのは外側ではなく、内側です。器としての私たちは最高傑作品ですが、いくら素晴らしい器であっても、中にごみが入っていたり、虫が入っていたら価値がありません。今、あなたの内側をイエス様が見られたらどうでしょうか。「イエス様。見てください。どうぞ」とイエス様の前にすべてをさらけ出すことができるでしょうか。礼拝に来ているところを見られるのは良いのですが、家に帰って兄弟喧嘩や悪いことを考えている時には、「イエス様、今はちょっと見ないでください。今はちょっとまずいですから・・・」と思う領域もあると思います。そのような時にもイエス様は私たちの内側を見ておられます。私たちはこの世の中で、常に周りの人、隣の人、友人がどう思うかということを考えます。ガラテヤ人への手紙の中に、

『いま私は人に取り入ろうとしているのでしょうか。いや。神に、でしょう。あるいはまた、人の歓心を買おうと努めているのでしょうか。もし私がいまなお人の歓心を買おうとするなら、私はキリストのしもべとは言えません。』

と書かれています。この世の中では少しでもよく見られたい、よく評価されたいと誰もが思っています。しかし、神様はどのように私たちを評価しているのでしょうか。神様は私たちの内側を見て評価されているということをぜひ覚えてください。ですから私たちは人によく思われることを願うのではなく、いかに神様から良い評価を得られる者になれるかを求めてください。
 それでは、私たちはどのように選ばれたのでしょうか。「できないから選ばれた」と聖書に書かれています。時々、聖書には矛盾していると思われるような御言葉があります。「この世でとるに足りない者や無に等しい者を選ばれたのです」とも聖書に書かれています。無に等しいものだからこそ神様は選んでくださいました。私たちが何かができるから、また素晴らしいことをしたから選ばれたのではありません。何もできないからこそ選んでくださったのです。
 イエス様はこの地上に来られて三十三年間、地上で生活をされました。そして三十歳からの公生涯の三年間、多くの人にさげすまれ、偽預言者だと言われ、むちを打たれ、最後には十字架にかけられました。虐げられた、皆から認められない者としてこの世を一度去っていきました。しかし、イエス様は死の力を打ち破られ、よみがえってくださいました。そして、今も生きておられる方です。私たちはイエス様が地上で迫害されたように、この地上で人に迫害され、無視され、認められなかったとしても、神様が私たちをどのように認めてくださるかということが一番大切なことです。肉に属した考えで、こうした方が良い、ああした方が良いと思うことを行なったら神様が喜ばれるということではありません。私たちの肉なるものは本当に汚れたものです。悪い考え、思い、また、人を憎み、人と争うそのようなものが私たちの肉なるものです。
 私たちがイエス様を信じた時、神様が私たちの中に入ってくださいましたが、私たちの心がどのくらいイエス様に支配されているが重要です。私たちはイエス様にすべてを明け渡したいと願っても、罪や自我が邪魔をしますが、イエス様に支配されていれば、それら全部を明け渡すことができ、神の視点で物事を捕らえることができるようになります。さらに、そうしていくなら、イエス様のみこころが何であるかを知ることができます。どのようにしたら神様のみこころを行うことができるのでしょうか。「私にはできない」と思います。しかし、肉の力で行うのではなく、イエス様が私たちの中に入り私たちを支配されるならば、イエス様自身がそのようにさせてくださいます。「神様、今日もあなたのみこころを私に示してください。また、神様のみこころを行うことができるように」と祈って求めるなら、必ずさせてくださいます。
 私たちはイエス様を信じたといっても、瞬時に肉の領域が変わったということはありません。しかし、私たちの内なる人は、イエス様と共に歩むごとに日々新しくされていくのです。そのために神様が私たちのような、何もできない者に対して賜物を与えてくださいました。私たち一人ひとりには神様のすべての領域を行う力はありませんが、神様は私たちに賜物を与え、私たちを通してこの地に主の御業を現そうとされます。そして一人ひとりが与えられた能力を用い、働き、皆の力を集めた時に神様のみこころ、神の国がこの地上に実現するのです。今私たちは神の視点に立ち、一人ひとりが神様に近づき、祈り、その中で霊的な目を開かせていただき、神の霊に満たされて、新しい主の御業を現していただきましょう。決して私たちは人間的な目で物事を見ないようにしていきましょう。
 私たちは時々、人から称賛されますが、コリント人への手紙第二の十章に「誇る者は主にあって誇れ」と書かれているように、決して自分を誇ることのないように、主にゆだねて仕えていきましょう。神の視点に立ち、神様に満たされ、改革され、支配されていくなら、器もその内側もきよめられて主に喜ばれる者となり、主に用いられる者になることができます。パウロが瞬時にして変わったように、私たちも自我を捨て、イエス様の前に喜ばれる者として、これからのクリスチャン生活を送っていきたいと思います。
お祈りします。

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