今週の礼拝メッセージ
信仰の戦い   1999.7.11(SUN)

新城教会牧師 滝元 明

<今週のメッセージの御言葉>
新約聖書 Tテモテ6章12節〜13節
信仰の戦いを勇敢に戦い、永遠のいのちを獲得しなさい。あなたはこのために召され、また、多くの証人たちの前でりっぱな告白をしました。私は、すべてのものにいのちを与える神と、ポンテオ・ピラトに対してすばらしい告白をもってあかしされたキリスト・イエスとの御前で、あなたに命じます。

 ハレルヤ!今日久しぶりにメッセージすることができることを感謝します。先週は月曜日から金曜日まで特別な祈祷会がありました。それは、一九九二年七月から霊的な戦いが始まったということで霊的な戦いのための勝利を得るための祈祷会が開かれ、県民の森や総合公園で行われました。私は一つのことを後悔しています。一九九二年の二月十三日に愛知県民の森で何名家の人に聖霊が下りそれから新しいことが始まりましたが、丁度その日は役員ゼミナールがあり韓国から李浩文師が来られて集会を持ちました。その集会は今でも忘れられませんが、素晴らしく聖霊様が働かれました。その時に私は愛知県民の森に泊まっていました。聖会が終わってから山に行って祈祷会を持っていましたが、私は県民の森に泊まっているにも関わらず祈祷会に出なかったことを後悔しています。今考えるとその日に私が出ていたら私ももう少し変わっていたかも知れないと思い、今回は逃さずに出ることができました。素晴らしい祝福をいただき心から感謝しました。今の時代は素晴らしい奇蹟の時代だと思います。新約聖書の中にピリピがガザに行き福音を伝えたことが書かれています。エチオピアの人たちに向かって聖書の話を馬車に乗って話していく時にエチオピアの人が「ここに水があるからバプテスマを受けさせてください」と言ったときにピリポは「あなたが真心から信じたら良い。」と言うと「私はイエスを神の子として信じます。」ということで二人が荒野の水のある川に行きバプテスマを授けました。その瞬間主の霊がピリポをさっと取り去ったと書かれています。バプテスマが終わるとピリポがいないのです。聖書を見るとピリポはアゾトに行って福音を伝えたと書かれています。アゾトは、その場所から約三百キロ離れたところです。そこに瞬間的に移されました。そしてそこで伝道しました。これはすごい奇蹟だと思います。最近私は今の時代はもっとすごいと思います。木曜日の日に私は東京に行きました。用事を済ませて帰って県民の森に行きました。東京まで三百キロ、それから帰ってきて六百キロで、また県民の森に行くということは昔以上の奇蹟ですが、素晴らしいことだと思います。そのような素晴らしい時代に私たちが主に仕えることが出来ることを心から感謝します。今日は「信仰の戦い」というテーマで皆さんと共に学んでいきたいと思います。
 六章十二節に、

『信仰の戦いを勇敢に戦い、永遠のいのちを獲得しなさい。あなたはこのために召され、また、多くの証人たちの前でりっぱな告白をしました。』

と書かれています。私たちがクリスチャンになると必ず戦いがあります。私たちがイエス様を信じて救われるとことはかつては悪魔の支配の中にいた者がイエス様の十字架の血潮によって贖い出されたということは悪魔の支配から神の支配に移され、天国に行く永遠の命をいただいたのです。イエス様を信じたら信じた途端に天国に入ったらそれで終わりですが、そうではなく信じてか何十年と続いていますので、悪魔の手から私たちが救い出されましたが悪魔も生きており、天国に行くまで何とかして私たちを引き下ろそうとします。同じように働きます。ですから、私たちはこのような戦いに対していつでも戦っていかなくてはなりません。先週アルゼンチンから帰ってきた順牧師が話していましたが、その中でアルゼンチンで寝ているときに悪魔が出て圧迫されたりしたけれど恐ろしくはなく、勝利したと言っていました。その後でヨハネの福音書十五章の、

『わたしから離れては、あなたがたは何もすることができないからです。』

という御言葉をいただいたそうです。私はそれを聞いてすごいことだと思いました。私も今から二十数年前に山梨県に集会に行きました。スェーデンの宣教師に招かれました。今は祝福されていますがその時代は宣教師が叩かれていました。あまり集会に集まりませんでした。終わってから私は一人で教会の二階に一人で泊まりました。その日二月四日の夜でしたが、すごく嫌な夢を見ました。この夢は悪魔が見せたと思いました。それで私はベッドに寝たまま祈りました。妻や子どもや新城教会の守りを祈りました。そして寝ようと思って目を開けると私の目の前に悪魔がいるのを見ました。生まれて初めての経験でした。「滝元よ。塩山からすぐ帰れ!」と言われました。悪魔は私の名前を知っていたのです。その時私は大声で、「イエスの御名によって命じるから悪魔よ去って行け!」と怒鳴りました。悪魔が一番怖いのはイエス様の名前です。すると見えなくなりました。悪魔は霊的なものなので見えなくなっても私のベットの周りを歩いているような気がしたので私は祈りました。「イエス様。十字架の血潮で守ってください。イエス様の御名によって出て行け!」と祈りました。そして眠りました。その朝、私が起きたときに与えられた御言葉は順牧師に与えられた御言葉と同じヨハネの十五章の、

『わたしから離れては、あなたがたは何もすることができないからです。』

という御言葉でした。ですから、イエス様から離れては決して悪魔に勝つことができません。だからいつでもイエス様の側にいるべきです。しかし、クリスチャンは色々な戦いがありますが結論は出ています。どのような戦いがあっても最終的には必ず勝利があります。なぜならば、もうイエス様が十字架上で勝利し、死者の中からよみがえられ、天においても地においてもすべての権威を持っているからです。最終的にはイエス様の御名にあってどんなことも勝利できます。ヨハネの福音書十六章には、

『あなたがたは世にあっては艱難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしは既に世に勝ったのです。』

と書かれています。またローマ人への手紙八章三十一節〜三十九節に、

『では、これらのことからどう言えるでしょう。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。「あなたのために、私たちは一日中、死に定められている。私たちは、ほふられる羊とみなされた。」と書いてあるとおりです。しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。』

と書かれていますので私たちもこれから勝利を得るまで前進して行くべきです。私たちが勝利を得る生活をするために何をするべきかはまず第一に、しっかりとイエス様の十字架の贖いを信じ込むべきです。私の罪はイエス様の身代わりによって赦された。私はイエス様を信じたことによってすべての罪がきよめられた、私はイエス様を信じたことによって救われているという確信をしっかりと持つべきです。「心で信じて義とせられ、口にてイエスを主と告白して救われます。」と書かれていますので、サタンに打ち勝つために必要なことは罪があっては勝てません。罪を通して私たちに悪魔は攻撃してきますので、イエス様を信じたときに徹底的な悔い改めをしていくことが必要です。私はイエス様を信じたときに毎週土曜日と日曜日に教会に行くようになりました。ある時に一人の娘さんがイエス様を信じてから自分が過去に悪いことをしたこと、泥棒をしたことを悔い改めて社長さんの所に行き精算してきたら赦されて嬉しいと話されました。そして彼女はあまりに嬉しいので帰りにはトラクトを配布したと言われました。その時にイエス様を信じただけではなく、罪の精算したことは私もしなければならないと思いました。そして過去のことを色々と考え、小中学生の時に津具で悪いことをしたことを思い出しました。あそこの家の桃、梨、柿を盗んだとことを思い出しました。それから私は下津具村にて謝りの手紙を書きました。「すみません、私は中学生の時にあなたの家の梨を盗んだから許して下さい。それから桃を盗んだから許して下さい」と手紙を書いて、私の持っている範囲で精算のため金を入れました。「わずかですけど、償いの金です。」と金を送りましたが金がなくなって全部の所に精算ができませんでした。その夜ミセス穐近に証しをしました。私は罪の精算をして金を送ったけど、金がないので、今度金が入ったら精算のために送りたいと思いますと話すと、ミセス穐近が帰るときに、「滝元さん、これをお使い下さい」と封筒をくれました。私はそれを見てきっとトラクトが入っていると思いました。「ありがとうございます!」と言って家へ帰って開けてみました。するとたくさん金が入っていました。先生が「この金で精算しなさい」それを感謝して受け取り、全部の所に謝ることができました。その時に先生愛に感動しました。それから考え、手紙を送ったけど手紙だけじゃいけないと思い、自分の郷里へ戻り歩いて皆の所に謝りに行きました。東京から津具に来て、一軒一軒謝りました。「すみません。泥棒したこと許してください。」すると皆が「そりゃあ、小さいときは誰でもやるから、まあいいわ。」と簡単に許して下さいました。しかし、あの時私が悔い改めたということは将来私に対して「許された。精算した。」ということが、この戦いに勝利したことだと思います。今から何年か前に津具に行きました。これは津具で昔リバイバルがあったということで神学生たちと一緒に学びました。下津具に山崎さんという八十歳過ぎのお医者さんがいます。「久しぶりです。すのこの滝元でございます」そうしたらその人は驚いて、「おー滝元君か!君のことだけは忘れない。」と言われました。何が忘れないかというと、もう五十年ぐらい前のことですよ。僕が精算したということを覚えておられ、「君がわざわざ東京から家の柿を盗んだから許して下さいと謝りに来た時のことを今でも覚えているよ。私はあの時君は将来大物になると思ったよ。」と言われました。精算して良かったと思いました。私たちの悪魔との戦いで、誰かを憎んでいるということがあったら悔い改めないといけません。今朝も私は早く来てここでお祈りしました。お祈りの中で、この人をもちろん許してるけど、心の底から祝福してるかを考えるとまだちょっと祝福しかねる所がある人もいるのに気付いてお祈りました。「イエス様、彼を本当に祝福してください」許すこと祝福すること、また精算することはとても大切なことです。先週、私の教会では素晴らしい祝福を頂きました。「平和の架け橋」というイスラエルとユダヤと日本の架け橋について書かれている本を読みました。火曜日にはスティーブンス栄子さんをお招きして素晴らしい集会を持ちました。水曜日も水曜礼拝で証しをしてくださいました。色々な証しの中でこんな話をしました。「私は日本人と結婚しましたがその人が嫌で逃げ出しました。やがて今度はアメリカ人の人と結婚しました。すごく悩んだ中でイエス様を信じて救われて、今度はご主人も救われた証しをしてくれました。とてもあからさまに証しされました。自分も失敗したけれど、こんな者をイエス様は救ってくれました。」と非常に素晴らしい証しをされたました。私はとても恵まれたので本を買って読みました。この中に「悔い改めの七百ドル」ということが書いてあります。

「当時経済的には決して楽ではありませんでした。ちょうどビル(ご主人)が主と出会い、病気も良くなった頃、一年に一度戻される税金が七百ドルあり、返金されることになりました。そんな時ぐらいしか子どもに洋服を買ってやれません。子どもに服を買ってあげたり、払いが済んでないものの支払いをしたりして大切に使っていました。これは毎年待ち焦がれる待望の臨時収入でした。ところがある日主人がこう言いだしたのです。「僕は高校生・大学生の時にガソリンスタンドでアルバイトをしていた。その時はコーラは十セントで、機械に十セントコインを入れるとコーラが出て来たんだけど、それをガソリンスタンドのお金で飲んでいたことを祈っている時に思い出したんだ」それでこの代金をどうしても返さなければならないと言い始めました。私は「主の導かれることを何でもしてください。」と言いました。彼は一日かかってコーラの代金の計算を始めました。七年間ぐらい働いたらしいですが、正直に計算していったところそれは何と七百ドルでした。子ども達の下着や洋服を買わなければなりませんし、たまっている借金も払わなければなりません。しかしその金額とコーラの代金が同じだったのです。皆が当てにしていたこの大切なお金。私はすべて主にゆだねました。税金が戻ってくると同時に彼はガソリンスタンドに代金を帰すことにしました。心からの詫び状を書き、ガソリンスタンドのご主人に謝りました。突然のことに驚いたご主人からすぐに返事が来ました。「こんなことは誰でもやっていたことで、自分も知っていたが、見て見ぬふりをしていた。そんなことはいいんだ。気に病んだりしてはいけない」と言ってきました。しかし夫は「神様に言われたことをしたのですから、この七百ドルはご主人が好きなようにしてください」と返事をしました。後ほど返事がまた届き、お金はスタンドのご主人が通う教会へ献げられたということでした。お金を返してしまったので、子どもの服は買えませんでしたが、いろんな方法で備えて下さいました。姉のところから古着が来たり、教会の人達が「ちょうど良いサイズだから着なさい」などと言って持ってきてくださったりするのです。結局今まで持っていた以上に服が与えられ、どんなに喜んだことでしょう。それからというもの、経済状態も改善されました。給料日から給料日までギリギリで過ごし、給料日の前には一銭もないという不安を伴う苦しみから少しずつ抜けだし、わずかですが貯金も出来るようになりました・・・。」(本文より)

と書かれていました。考えてみたら七百ドル期待していたものがちょうどコーラ代。これは戦いです。しかし私は今考えてみると、この人たちが用いられているのはこういうところがはっきりしたからだと思います。私は正直言って人から借りたものを返さないルーズな人は主には用いられないと思います。金を借りっぱなしでそのままの人は用いられないと思います。だから借りたものは返す。盗んだものは謝る。これをしっかりすることは非常に大切なことです。聖書を見るとルカの福音書十九章見るとイエス様がエリコの町へ行かれた時にザアカイという取税人がおり、イエス様が来られるというので彼はいちじく桑の木に登っていました。そこにザアカイがよじ登って上からイエス様を見ていたら、イエス様が下に来られて「ザアカイ、急いで降りてきなさい。今日、あなたの家に泊まることにしているから」そこでザアカイは喜んでイエス様を迎え入れました。この人はみんなから嫌われた人です。そうしたらこの人がイエス様を迎えた時に、「イエス様、私が無理矢理に取ったことがあったら、四倍にして償います。そして私の財産は半分は貧乏人に分け与えます」と言いました。そうしたらイエス様は何と言ったでしょう。「今日、救いがこの家に来た」ザアカイは幸せだと思います。ザアカイは悪いことしましたが、心から悔い改めたので聖書の中に載っています。これは聖書に載っている載ってないに関わらず、皆さん神様は私たちの真実な心を見ておられるということです。本気で真実に悔い改めるかどうかってが用いられるかどうかにかかっています。ですから一つ、戦いに勝つためにははっきりした悔い改めが非常に大切です。それから私たちが戦うためには、人前でクリスチャンだはっきりと告白することです。「クリスチャンです。」隠いてはいけません。ルカの福音書十二章にはこう書いてあります。「人の前にてわたしを告白するものは、わたしもまた天の父の前で告白しよう」と書いてあります。クリスチャンになったら、旗を揚げること。旗を揚げることは素晴らしいことです。私も東京に行く時にカバンを持って行きます。来年のスーパーミッションのステッカーをペタンと貼って、そこに「天下にイエス・キリスト以外に救いはない」というステッカーもばっちり貼ってあります。これを持って電車の中にカバンを置いておくと、みんなが見ています。見られている時になかなか悪いことはできません。これはクリスチャンになりましたという告白です。はっきり「私はクリスチャンです」これは勝利します。私は三年間鉱山で土方生活をしていましたが、鉱山でも色々な誘惑があります。汚い話をします。最初に私が鉱山入って、鋼内に入った時にしたことは、あんまり汚い話をするので、岩盤にガス燈で一番大きく「汝ら悔い改めよ」と書きました。鋼夫たちが一生懸命消してました。私は鉱山に三年間いる間、「酒を一杯飲まないか」と誘惑されたことがありません。なぜならば、酒を飲んでいる人に「おい、やめなさい。酒を飲む代わりに牛乳飲んだほうが良い。」たばこを飲む人に「やめなさい」 と私の方が伝道していました。「私はクリスチャンだ」と公にクリスチャンの看板を掲げたら勝利します。なるべくクリスチャンということを隠してはいけません。はっきりすることです。また、私たちが告白することはある意味において、最近はだいぶ良くなりましたが、私が津具に入った時分には本当にキリスト教に対する偏見がありました。私の兄嫁が私にこう言いました。「明ちゃん、頼むでの、アメリカ人とだけは結婚しないでよ」と言いました。彼らはキリスト教はアメリカ人だと思っていました。私はもう家内を決めてましたので、「大丈夫、日本人だよ」「それならいいけど」と非常に偏見がありました。また、私が村歩くと「アーメン、ソーメン、冷やソーメン」あの頃はは飢えていたので、食べることばかり考えていたと思います。だから私がクリスチャンになってお祈りして「アーメン」というと、「ソーメン、冷やソーメン」と口出されました。数年ほど前、私がいた茨城県の日本農業研究所に行きました。先生や皆が喜んで迎えてくれて、「今日は滝元君が来たから一つお祝いしよう。」と特別にお祝いしてくれました。そして料理屋に行き、おいしいお寿司をとって、ビールを出し、「さあ、滝元君のために乾杯をしよう」と言われました。私は、「ここで負けてはいけない」と思い、「私はいまだにビールも酒も飲まない。」と言って私はジュースで乾杯しました。乾杯した後で、私はそれまでいつも祈った時に、「アーメン、ソーメン、冷やソーメン」と言われたから、「先生、ちょっと待って下さい。一言私が祝福の祈りをさせて下さい」そこで私は祝福の祈りをしました。もう何十年か経っています。そうしたら、佐藤という私の恩師が泣き出し、「滝元君、僕も滝元君を祝福する」と言って喜んでくれました。これは告白です。クリスチャンですと言う告白は勝利の生活です。ですからクリスチャンとして告白をするべきです。聖書を見るとテモテ第一の手紙六章の十三節に、

『私はすべてのものにいのちを与える神とポンテオ・ピラトに対してすばらしい告白を持って証しされたキリストとの御前であなたに命じます」ということは、イエス様って方は、十字架につけられる前に、すべてのものにいのちを与える神の前と、ローマの総督ポンテオ・ピラトの前に対して素晴らしい告白をもって証しをされた。』

と書かれています。このイエス様の告白を見ると、その前にカヤパの官邸に引かれて行ったことが書かれています。その時にイエス様はいくら偽りの証言を言われても、黙って何も言わなかったと書かれています。これはある意味で無言の証しです。クリスチャンも、皆さんの姿を見て「クリスチャンって何と素晴らしいか」何も言わなくてもわかるような証しが必要です。しかし、告白しなければならない時に告白しなければなりません。マタイの二十六章の六十三節から六十四節を見ると、

『しかし、イエスは黙っておられた。そこで大祭司はイエスに言った。「私は生ける神によってあなたに命じます。あなたは神の子キリストなのかどうか、言いなさい。」』

と書かれています。この質問に対してはイエス様は、イエス様が十字架につけられたのはイエス様が神の子だと言ったからつけられたわけです。「あなたは神の子なのか」と言われた時にイエス様は黙って「これ言ったらヤバイ。殺されるかもしれない」そんなことではありませんでした。イエス様は、

『「イエスは彼に言われた。「あなたの言うとおりです。なお、あなたがたに言っておきます。今から後、人の子が力ある方の右の座に着き、天の雲に乗ってくるのをあなたがたは見ることになります。」』

と告白しました。これは命がけです。再臨の時に刺したものは彼を見ると書かれていますが、大祭司カヤパは着物を裂いて「これ以上何の証言が必要だろうか、死刑だ、死刑だ!」と言いました。最後には死刑囚としてイエス様は渡されました。これは命がけの証しです。ピラトの前でもピラトに対してイエス様が言われたことは黙っていたけど言うべきことはしっかりと言われました。聖書を見ると「ののしられてもののしりかえさず、苦しめられても脅すことをせず、正しく裁かれる方におまかせになりました。」と書かれています。私たちは勝利ある信仰の戦いは、告白して殺されてもどうであってもイエス様についていこうと証しすることが大切です。今日、皆さんの中で誰かをまだ許していないとか、また許しているけど祝福できないとか、盗んでいるけどまだ返していない、過去に返さなければならないものを返してない人は悔い改めてしっかりとこれからの信仰生活を共に進んで行きましょう。最初に書いてあるとおり、「信仰の戦いを勇敢に戦い、永遠のいのちを獲得しなさい。」皆さん、天国にどうしても行きましょう。永遠のいのちを獲得しなさい。信仰を持って歩いて行きましょう。一言お祈りします。

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