今週の礼拝メッセージ
圧倒的な勝利者   1999.7.25(SUN)

新城教会牧師 滝元 順

<今週のメッセージの御言葉>
新約聖書 ローマ8章37節
『しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです』

 今から御言葉をいただきますが、今日はアルゼンチン宣教師である在原繁先生が来会されていますので少しの間、お証をしていただきたいと思います。


<在原師のあかし>
ハレルヤ!感謝します。私は十一年間、アルゼンチンのミッショネスという、パラグアイとブラジルの国境地帯で霊的・戦略的戦いをやっている場所で仕えてまいりましたが、皆様方の祈りと多くの愛の配慮をいただき、十一年間走り切ることができました。二月二十四日に妻は先に宣教地に帰り、現在向こうで働いています。私は十月末まで日本全国を巡回しますが、各県にリバイバルの炎が与えられるようにという理念の基で仕えています。そして再び十月から、五年間頑張りますので覚えてお祈りください。
 私の母教会は御殿場にあります。そこはスウェーデン宣教師によって建てられた教会です。今日、その教会に与えられた恵みを少し話したいと思います。アルゼンチン宣教は十一年間の第二期が終わりましたが、その前の三年半、神様は私たちに、新城教会が体験したような、甲子園ミッションの戦いと同じようなことを起こされました。ですから計十五年間でしたが、使徒行伝の時代の継続そのものでした。、聖霊様が導かれ、聖霊様が働かれ、力を与えられ、そして御声をかけて、神の栄光を現してくださいました。
 御殿場教会はアクセルソン宣教師によって導かれました。もう天に召されましたが、この方が聖霊の導きによって御殿場という砂漠のような所にやって来て、四十年働き、彼はそこで神様から幻と言葉をいただきました。それは御殿場に聖書的な教会を建てるということ、そして、その教会から多くの働き人が生み出されること、いつも聖霊の導きによって歩むということ、それから多くの日本の教会に祝福を与える教会、そして最後に、この教会から宣教師が生み出される、という幻と預言をいただいて建てられました。実際に神様は素晴らしいことをしてくださり、今、御殿場の教会は大きな教会になり、多くの働き人が生み出されています。預言が成就しています。そしてその教会から全日本的な祝福となるようにと願っていましたが、それも実現しました。牧師先生も今、全日本的な働きをしておられます。またこの教会にも何度か来られた、料理伝道をされている野木朗牧師もこの教会の出身です。そして私も全日本をまわったり、今はとにかく日本に与えていくこと、日本のリバイバルのために祈って仕える教会となりました。
 一九八八年に、私たちはアルゼンチンに行きましたが、その年に、私たちとバトンタッチするように、アクセルソン宣教師が天に帰っていきました。彼は私のアルゼンチンでの働きを見ることは出来ませんでした。また、御殿場の約三百人以上入る会堂を見ることなく、天に帰っていきました。しかし、彼に四十数年前、神様から与えられた預言と御言葉が実現し、今日、教会は聖霊に満たされて、主に仕えさせていただいています。私のアルゼンチン宣教は、私が個人的に燃えたというものではなく、四十数年前からの神様からの計画と信仰の継承ということがよくわかるのです。それは、まずアクセルソン宣教師に与えられた日本のリバイバル、そしてこの教会が祝福をもたらすように、「わたしはあなたを祝福する。あなたは祝福の基となる。人々はあなたによって祝福される」という理念が現実に実現してきていることです。
 彼はいつも、私に対して色々反対しました。ところが、私が、「アルゼンチン宣教師として召しを受けました」と言った時、彼は涙を流しました。宣教師がこの教会から生み出されるということは、四十数年前に私が受けた預言のメッセージの実現であると泣いたのです。夢みたいなことでした。彼はいつも私のことを反対していましたが、その時初めて「イエス」と言ったのです。
 甲子園ミッションのため、そして、東京リバイバルミッションのための戦いがたくさんありました。順先生が九二年ミッショネスまで来られ、その状況を聞きながら、祈ってつぶさにその戦いに私も参戦しました。今、神様の働きがどういうものであったか、静かに見ることが出来ると思います。実際に私に与えられたこの素晴らしい世界宣教の幻、実はそこには神様の素晴らしい御手の配慮があったことを私は思い出します。  主に二つのことがありました。まず第一番目に、私が一九八四年にアルゼンチンの宣教の召しを受ける前の一九八二年頃、御殿場の教会は上がったり下がったりという状態が続きました。しかしそのような中である時、教会の祈り会に主が現われてくださいました。県民の森に主が来られたような、素晴らしいことが起きました。毎年二月、十人ぐらいで祈っている寂しい祈祷会がありました。三つか四つの祈りの課題を祈ったらすぐに九時になり、皆家に帰ってしまうという祈り会が毎年続けられました。そして二月になって、「さあ、今年も祈り会をやりましょう」と決めました。アクセルソン宣教師は決して他の人や教団教派を批判しない、暖かく受け入れる、そのような方でした。何か教会に問題がありますと、彼の言うことはいつも同じ、「祈りましょう、主に期待しましょう」こういう人物でした。まさに神の聖徒でした。御殿場の教会がなかなか冴えない時に祈りましょうと言われました。「またか」と思いました。二月の寒い中、火曜日は何も起きなかった。十数人がパラパラといるだけでした。ところが水曜日のに、ちょうど私が司会をしました。聖書の御言葉を開いて前に来て皆が祈り始めました。その時に天の窓が開き、素晴らしいことが起きました。天の窓が開き、戦前のホーリネスのリバイバルのようなことが起きました。皆ひれ伏して、泣き始めました。もちろん私も涙が出ました。自分の罪がわかって本当に苦しい思いになって主に叫びました。その晩、主は私たちを満たし、それから新しい流れが始まりました。三日、四日、五日、一週間の予定が二週間、三週間、四週間。皆さん、その素晴らしいリバイバルの祈りが五週間続きました。実はこの五週間の祈り会で、簡単に言うと霊的な革命が起こりました。霊的な革命だけではない、弱い者が強くされ、半別居状態の夫婦の方が愛によって結び合わされ、互いに受け入れ合う。教会で兄弟姉妹が自分の賜物の範囲内で主に仕える、そして神様の圧倒的な介入と主の深い臨在、このような素晴らしいものを体験しました。
 四週間目にアクセルソン宣教師が、「明日は夜、聖餐式をしましょう。」と言われました。普通の日の夜に聖餐式をやったことはその時の一度だけでした。その時に御言葉がよくわかりました。本当に心に入ってきました。キリストの十字架の意味と、神の国の素晴らしい富がよくわかりました。互いに抱き合って、本当に相手を受け入れ合い、その晩は泣きながら聖餐式を受けました。そのことはを通して、教会はキリストを信じた人々が単に集まった所ではなく、各個人が聖霊によって目覚めて、霊的に引き上げられ、個人の賜物が明確にされ、生けるキリストの御からだなる教会、戦闘態勢が整った教会が設立されたということを教えられました。それは世界宣教に向けての戦いのスタートの時でした。五週間続きました。五週間目に「これから年次総会で決まったイースターの集会がありますから、とりあえず祈り会をストップしましょう。」と言いました。すると油がピタリと止まってしまいました。おしかったと今でも思います。しかし、神様はそれによって教会を成熟させ、霊的な戦士たちをたくさん生み出すようになりました。もちろん戦いは間断なく続けられましたが、神様はそれから教会を世界宣教へと導かれました。その後私はアルゼンチン宣教の召しを一九八三年の五月十六日に受けました。その後不思議なことがまた起こり始めました。私は意気消沈していました。どのようにアルゼンチンへ行ったらよいかわからない。アルゼンチンは一体どういう所で、私はそこで何をすれば良いかわからない。わからないことばかりでした。そういう状況の中で、ある時に私は一人の人をお導きすることが出来、バプテスマを授けることが出来ました。その方は非常に大きな病気を持っていました。体も顔も膨れて、髪の毛が抜け、歯は溶けていく、内蔵の間に豆腐のおからのようなものがついてしまう病気でした。彼はとても頭の良い方ですぐに聖書を読み始めました。私はいつも彼の所に行き、手をおいて祈りました。ところが何度祈っても御わざが起こりませんでした。全然変わらない。悪化するばかりでした。ついに彼は教会から離れ、私が訪問すると、「もう来なくても良い」と言われました。ある時に私のところに、あちらこちらから噂が入ってきました。私のことを悪く言ってるという噂でした。「キリスト教会の牧師はブタ野郎」と言われました。私は若かったので、彼の言ったことが頭にきました。それから彼のことをあまり祈りませんでしたが、私の幼い子どもたちは家庭礼拝の中で、よく彼のために祈っていました。毎晩祈っていました。ところが一年ぐらい経ったとき、礼拝をしている最中に彼が入ってきました。彼は変わっていました。そして礼拝が終わると、司会をしていた先生が、「今日はT兄弟が来ましたから、久しぶりにお証しはいかがでしょうか」などと言われました。彼は講壇へ上ると、「ウワーッ」と大きな声で泣き始めました。ハンカチを取り出してずーっと泣いていました。彼はこう言いました。「もう教会へは行かない。聖書を閉じてその上に悪書を置いておいた。酒を飲んで、でたらめな生活を始めた。もう太く短く生きようと思った。ところがどんどん落ちていきました。」
 彼は起き上がることも出来ない苦しい時に、教会に来る二週間前でしたが、実は彼が自分の部屋で、真っ暗闇な中で起き上がってひざまずいて祈ったそうです。「イエス様、私は何のために生きているんですか?教えてください」とそれだけでした。そうしたら彼に真っ暗闇の中に、真っ赤な十字架が幻となって現われたと言われました。その十字架の色はどのような色でしたかと聞くと、この世で見たことのない真っ赤な十字架だと言われました。彼はその十字架を見た時、この十字架の中に救いと癒しと解放があるとわかったそうです。聖書をまだ一回か二回しか読んでいない彼がわかったのです。そして「イエス様」と言った時に完全に見放された、長年つもっていた重病がその場で癒されたと言いました。彼は全く解放されて二週間後に髪の毛をとかし、晴れ晴れとして教会へやってきたのです。教会がそのことを通して、十字架の血潮は今日も有効、十字架の血潮は今日も求める人に働いてくださり、十字架の血潮を通して癒しと解放と救いが起きる。今でも十字架は変わらないことを教会全体、また私自身も教えられました。この二つのことを通して神様は宣教地で、私たちを何度か助けました。神様が臨在するならば、神がご介入されるならば、家庭の中にも、教会の中にも宣教地どこにあっても、力ある働きが出来るということ、証しをして御霊の現れをもらうことが出来るということ、これが第一番目でした。どのような時にも、キリスト教会の真ん中に、家庭の真ん中に十字架の血潮をあがめるということ。この十字架から神の豊かないのちの水が溢れてくる。そこに解放・救い・癒しがあります。これで本当に助けられました。このような体験を神様が準備してくださり、御殿場の田舎の小さな教会から私たちを宣教師として現地に送られました。その後、神様は不思議な御わざを教会に現され、七十坪の小さな教会を、今日千五百坪の御殿場の一等地に奇跡的に建ててくださいました。神様は私たちに教えました。十分になってから与える、十分力をもらってから宣教師や伝道師を排出するのではない、神の国は全部逆なんです。「与えなさい。そうすれば与えられる」これです。宣教師を送る。どういう状況の中でも送る。送り出すことによって何倍かの祝福が教会に、個人にやってくる。このようなことを教会に啓示として与えられました。不思議な使徒行伝の時代の継続のようなことを私たちに起こしてくださり、また、全く予期しない方法で、皆さんの働きの一部として参戦させていただいています。
 私の宣教理念はたった一つ、「日本のリバイバルのためのアルゼンチン宣教」その証拠に、御殿場の教会が宣教師が送ったことによって、何倍かの祝福をもらった。私たちがアルゼンチンで仕えることによって、日本にその何倍かの大きなリバイバルが与えられるという素晴らしい理念の励ましをいただき、私たちはアルゼンチンで仕えています。ありがとうございました。
<ここまでが証>


 ハレルヤ!今日は在原先生の証を聞くことができ、感謝します。先生はアルゼンチンで宣教されています。特にミッショネスは、道路は赤茶け、まだ舗装されていないジャングルを切り開いたところです。そこで、熱心に宣教を展開されています。何百キロも魂を求め移動しながら伝道しておられます。
 昨日の夕方の五時から、今日の夕方の五時まで、新城教会では、「二十四時間連続集会」が始まりました。夜中に、いろんなタイプの集会があって、礼拝の時間もこのようにあります。天国へ行けば時間がないですから、連続して神様をほめたたえていくこととなると思いますが、地上においても、このような素晴らしい一時を持つことが出来て感謝します。
 さて、教会へ来て皆さんは何を聞くのでしょうか。今の在原先生の証、そして私が語らせていただくメッセージ、これらは全て、私たちが持っている信仰をさらに強めるための言葉です。牧師は信仰を高揚させるために御言葉を語ります。そして皆さんは、それを信仰という受け皿で受けるのです。信仰について、聖書はこのように定義しています。『目に見えないものを確信させるものだ』
 「目に見えないことを確信すること」が「信仰」です。神様を信じることは目に見えません。しかし、それを信じるために必要なのはだた一つ、「信仰」です。本当に神様がおられる、目に見えない世界があるということを堅く信じる。これが信仰です。また聖書は、目に見えない世界をどのように生きるかについての、大切なマニュアルです。私たちが聖書を読んでいく時に、目に見えない現実について知ることが出来ます。目に見えない、信仰の世界を把握できないと、人生は上手くいきません。普通の人たちは目に見える世界だけに支配されます。だから多くの問題に陥るのです。しかし聖書を見ると、目に見えない世界をどのように生きるかについて教えられるのです。ですから、聖書をしっかり読んでいただきたいと思います。
 聖書は、その現実をわかりやすく知らせるために、極端とも言えるような例をピックアップし、そのコントラストを描いています。例えば、最悪の人が最高に変えられる、最も敗北していた人が、大勝利者になる、というようなコントラストによってそれらを描いています。そんな中から、私たちは、「こんなに最悪の人がこんなにも勝利を得たのだから、私たちにも同じことが起きる」と、信仰という受け皿で受け止めなければなりません。
 今日は、「圧倒的な勝利者」というテーマで学びます。圧倒的な勝利者です。普通の勝利ではありません。圧倒的な勝利とは、「勝ってまだ余りがある」という勝利です。
 今日お読みした言葉は、パウロという人物が語りました。パウロという人物は、最悪の人が最高になった人です。彼は始めクリスチャンを迫害していた人でした。しかし神様に捕らえられた時、彼はキリストの弟子として、教会の発展に尽くしました。また彼ほど苦労した人もいません。最高に苦労した人でした。しかしその人物が、「私は圧倒的な勝利者となりました」と語ったのです。私たちも時々、人生の中で悩みや苦しみ、色々なことが起こります。しかし、パウロの人生に比べたならば、まだまだ私たちの苦しみというのは甘いものだと思います。パウロは自分の人生の中で起こってきた苦しみについて次のように述べています。
 第二コリント十一章の二十三節、

『彼らはキリストのしもべですが私は狂喜したように言いますが、私は彼ら以上にそうなのです。私の労苦は彼ら以上の多く、牢に入れられたことも多く、またむち打たれたことは数えきれず、死に直面したこともしばしばでした。』

 パウロは本当に苦労した人物でした。しかし、パウロは「圧倒的な勝利者となった」と語っています。だから説得力があります。私達は、この記事を見て、パウロがどのように圧倒的な勝利者になったのか、「信仰という受け皿」で学び取っていかなければなりません。どのようにして彼は圧倒的な勝利者になることが出来たのでしょうか。その勝利の秘訣は何だったでしょうか。ローマ書の八章二十六節に、

『御霊も同じようにして弱い私たちを助けてくださいます。私たちはどのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が言いようもない深いうめきによって私たちのためにとりなしてくださいます。』

 彼は大きな苦しみを体験しました。しかし、そのような中から圧倒的な勝利者となったのです。その秘訣が書かれています。それは、私たちは弱いけども、内側に神様の霊、聖霊が注がれていてると言うことです。その聖霊様が何をしておられるかというと、私たちの内側におられる聖霊様が、「父なる神様にとりなして祈っていてくださっている」ということにパウロは気づいたのです。
 私たちの内側に聖霊様がおられることがわかりますか?イエス様を信じると何が起こるのですか?神様の霊が私たちの内側に住まれるようになるのです。そして神の霊、即ち、聖霊は、私たちのために、とりなしてくださるのです。父なる神様にとりなしの祈りをしてくださるのです。
 聖書の中に、必ず聞かれる祈りについて書かれています。第一ヨハネの五章十四節、

『何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。』

 絶対に聞かれる祈りとは、神の御心をつかんだ祈りです。それは簡単なようで、難しい事です。どのようにして神様の心をつかめば良いのですか。人間の知恵では計ることが出来ないのです。神の心は深く、広く、高いのです。なかなかつかむことが出来ません。しかし、神様の御心をつかむならば、必ずその祈りは聞かれるのです。皆さんの人生の中に、神の御心、神の計画があります。それをつかんで祈ったら、その祈りは聞かれた祈りだということです。でも、神様の御心をつかむことはなかなか難しい事です。しかし、パウロは、その神の御心をつかむ秘訣に気づいたのです。神の御心を完全に把握されている方が誰であるかを知ったのです。何とそれは、「聖霊ご自身」でした。聖霊様ご自身は、神ご自身の霊ですから、神様の御心を百パーセント把握しておられるのです。そして、その方が私たちの内側から祈ってくださるならば、神の御心がすべて神のみ前に伝わり、その祈りが聞かれるという秘訣に彼は気づきました。そんな中で彼は、圧倒的な勝利者になることが出来ました。
 今日、覚えていただきたいことは、既に皆さんの内に神の霊が臨んでおられ、神の霊があなたのために、御心をとりなしてくださっているということです。そのことについて知ることが、まず第一の勝利者の秘訣です。
 私たちは言葉によってコミュニケーションしています。言葉がなかったら、なかなか意思を伝えることが出来ません。三週間前、アルゼンチンとブラジルに行きました。私はスペイン語もポルトガル語も出来ないので、話そうとする努力もありませんでした。しかし、英語は少し出来ますので、アメリカに行くと話すことを努力します。私と一緒に南米に行った四元雅也兄は、スペイン語とポルトガル語が出来るので、会話を楽しんでいました。皆が冗談を言って笑うと、彼も一緒に笑っていました。しかし、彼のスペイン語を聞いていると、時々、「ウーッ、エーッ・・・」という、うなり声も入っていました。自分で何か言いたいのですが、言葉が出ないのです。これは苦しいです。どのようにして、自分の気持ちを表現するべきかがわからないのです。
 私たちの人生の中でも、神様にどのように祈ったら良いのかわからない、どのように表現すれば良いのかわからない場合が多くあります。目の前にはたくさんの問題がたくさんあるが、どうやってこれを神様に表現し、伝えれば良いのか。出てくるのはうめき声だけ・・・。
 しかし、パウロは気づいたのです。何と、聖霊様が、言いようもない深いうめきによって私たちのためにとりなしをしてくださるという事実です。これは、祈りの中でも、「うめきにしかならないようなものさえも、御霊様はとりなしていてくださる」ということです。今日、皆さんの中にうめきがあるかも知れません。ある方は、目の前の問題について、「何をどう祈ったら良いのだろうか」と深いうめきがあるかも知れません。しかし、それをただ、うめきで終わらせないでください。そのうめきさえも、聖霊様はとりなしの祈りとし、的確な祈りを父なる神様の前にささげてくださっていることを知らなければならないのです。パウロはこれを知ったのです。これを知ったことによって、「私は圧倒的な勝利者となった」と語っているのです。
 今週、ぜひ、皆さんのうめきを、うめきだけに終わらせないでください。「聖霊様、私のうめきさえも、とりなしの祈りとしてください」と、内なる聖霊様に、うめきをゆだねなければなりません。
 先ほどお読みした三十七節の「圧倒的な勝利者」という言葉は、ギリシャ語の本文で見ると、一つの単語です。これは「圧倒的な」という言葉と「勝利者」という言葉が別々ではありません。「圧倒的な勝利者」という一つの言葉です。そしてこれは、新約聖書中でただ一度だけしか出てこない言葉です。この「圧倒的な勝利者」という言葉は、二つの言葉がドッキングして構成されています。一つは「度を越えて」という言葉。もう一つは「打ち勝つ」という言葉です。圧倒的勝利者とは、何と、「度を越えて打ち勝つ」という、素晴らしい意味なのです。それは普通の勝利ではない。やっとの思いで勝利したというのでもない。度を越えて打ち勝ってしまう、必要以上に勝ってしまうということです。そんな人生になりたいですね。「度を越えて打ち勝つ」のです。
 「打ち勝つ」という言葉が、新約聖書中最初に出ているのは、ルカの福音書十一章二十節から二十二節です。聖書中、最初に出てくる言葉は、その意味の鍵の言葉となります。最終的に、聖書が何を言おいうとしているかを理解する為の鍵となります。

『しかし、わたしが神の指によって悪霊どもを追い出しているのなら、神の国はあなたがたに来ているのです。強い人が十分に武装して自分の家を守っているときには、その持ち物は安全です。しかし、もっと強いものが襲ってきて彼に打ち勝つと、彼の頼みにしていた武具を奪い、分捕り品を分けます』

ここで、『もっと強いものが襲ってきて彼に打ち勝つ』とありますが、ここに「打ち勝つ」と言う単語が初めて出てきます。この言葉は、「より強いものが、強いものに挑戦して打ち勝つ」ということです。
 「最も強い方」それは聖霊様です。また、「強いもの」というのは、暗闇の世界の王である、「悪魔とその一族、悪霊ども」です。パウロが気付いた第二番目の「圧倒的な勝利者」になる秘訣とは、まず、「この世の強い者たちが打ち砕かれなければならない」ということでした。彼はエペソ人への手紙六章一二節で、

『私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また天にいるもろもろの悪霊に対するものです』

と語りました。私たちには見えない敵がいます。私たちには「対戦相手」がいます。それは目に見えない世界にです。皆さんに挑戦している、目に見えない相手がいるということです。その存在に勝たない限り、私たちは圧倒的な勝利者となることが出来ないのです。
 時々、霊的な戦いについて語る時、「霊の戦いですか。そんなおぞましいことを」と言われる方がいます。しかし、霊的戦いを、低級な働きだと絶対に思わないでください。悪魔とか悪霊というのはどのような存在か知っていますか?これは元天使達です。聖書から見ると、天使は人間よりも知恵ある存在です。と言うことは、私達は人間よりも崇高な生物と戦っているのです。普通に戦ってこの勝負に勝利が出来ますか?出来ません。
 悪霊との戦いは、何か、妖怪やゲゲゲの鬼太郎の一派と戦うようなイメージで捉えますが、そうではないです。人間よりも崇高な、知恵ある存在との戦いなのです。この勝負にどのようにして勝利できるのですか。どうしたら良いのでしょうか。まず第一に、私たちが、霊の戦いを重要視しなければ負けるということです。では、私たちよりも知恵あるものと戦うためにはどうしたら良いのでしょうか。その存在よりも、もっと知恵ある方の中にどっぷりと浸からなければならないのです。そうしなければ、勝利者になることが出来ないのです。パウロはそのことがわかったのです。本当に打ち勝つためには、最も強い方、聖霊ご自身の中に、どっぷりと浸かるべきです。そして敵に勝つことが出来ます。
 パウロは、多くの苦しみがあったけども、二つのことに気づいたのです。その、一つは「神の霊のとりなし」そして、「強いものに対して、さらに強い方によって打ち勝つ」という秘訣を知った時、「圧倒的な勝利者」になることが出来たのです。
 私たちの中に、今週、聖霊様がとりなし、祈ってくださっていることを日々確認しましょう。そして、強いものに、「さらに強いもの」、聖霊ご自身によって打ち勝つことが出来るのです。ということは、私たちが日々、さらに強いお方、聖霊ご自身の中に浸かっていないと戦いに負けてしまうということを知らなければならないのです。
 なぜ、圧倒的勝利者になることが出来るのでしょうか。それは、イエス様ご自身が十字架において完全勝利を取って下さったからです。それがあるからこそ、私たちは勝利することが出来るのです。
 AD306年、ローマ皇帝となったコンスタンティヌスは、今までの太陽礼拝、偶像礼拝を悔い改め、真の神様に仕えることを国民に宣言しました。それを宣言した時、「そんなことを言う王なんか滅ぼしてしまえ」と戦いが起こりました。コンスタンティヌスは戦いのために兵を送りました。しかし、彼が苦戦して、テベル川を行進中、天に不思議なものを見ました。それは、天を見つめていると、十字架がくっきりと現われたのです。先ほどの在原先生の話にも出てきましたが、コンスタンティヌスの目の前にも十字架が現われたのです。彼が凝視すると、そこに文字が書いてあったというのです。それは、「この印にて勝て」と書かれていたそうです。彼はすぐに旗を全部十字架印に変え、イエス様の十字架の血潮によって戦いを進め、勝利したのです。
 イエス様の十字架は、あなたの人生に勝利を与えるものです。私は七月のこの週になると、いつも思い出すことがあります。
 新城教会は、一九九二年の七月、本当に試練の中にありました。甲子園ミッションが始まり、それと同時に、霊的な戦いが突然始まり、その他にも色んな問題が起こりました。毎日が苦しみの連続でした。もう二度と、あんな苦しみは経験したくないと思いますが、緊張した毎日でした。それに加え、家内のおばあちゃんが突然事故で亡くなったりして、私の心は暗かったです。「このまま、私たちは負けてしまうのか。私の人生もこれで終わりか」と思うような問題がたくさん起こっていました。失望していました。
 九十二年七月三十一日。私はスタッフと共に車で名古屋に行きました。私の隣には四元雅也兄が座っていました。集会まで少し時間があり、車を止めて待っていました。すると不思議な風が吹いてきました。隣の木がザワザワと揺れ、今度はスッとその風が横に移り反対の木がザワザワと揺れていました。片方が揺れて、片方は揺れていませんでした。それが行ったり来たりしました。木の中にすずめがいるのかと思って見ていました。何回も見ました。その瞬間、パッと天に目をやりました。するとその時、私はハッキリと見ました。空にクッキリと真っ白な十字架が出たのです。とても驚きました。でも、目の錯覚だと思って、目を閉じて、開いて見るとまだありました。そしてもう一度見ようとしたら、それがスッと消えました。消えたらまた、今度その右下に、もう一つの十字架がサッと出て引っ込んでいきました。私は本当に驚きしました。あまりにも突然な出来事で、びっくりしました。言葉が出ないほど驚き、私は空をじっと見ていました。
 集会が終わって帰る時に、雅也兄が「先生、今日は何か見たでしょう」と言いました。その時にやっと、「今日、天に十字架が出た」と言いました。私は超自然的な経験の乏しい者ですが、その経験を通し、「イエス様はこの戦いに勝利させてくださる」と確信しました。今、起こっていることが、見える世界でなく見えない世界で本当に起こっていることだと確信しました。そして、「主が私たちの味方ならば、絶対に大丈夫だ」と確信しました。
 ローマ書八章に、すべてのことが益となり、私たちは圧倒的な勝利者となることが出来るとありますが、印を天に見せられた時、確信が来ました。私たちが信じているのは宗教ではない、生きている神です。私たちとともに、主が戦ってくださっているとはっきりわかりました。それから、私の心は揺るがなくなりました。主は生きておられる。そして十字架の勝利は確実だ。架空のものではない。十字架の完全勝利が現されているからこそ、私たちは圧倒的な勝利者になることが出来る、と教えられました。
 それから七年が過ぎましたが、その勝利は変わっていません。さらなる勝利を神は与えてくださっています。今日、ぜひ信じてください。あなたにそのような体験がないとしても、信仰によって受け取ってください。神の御言葉は真実です。あなたを普通の勝利者ではなく、中途半端な勝利者ではなく、何と、「圧倒的な勝利者」にしてくださいます。イエス・キリストを信じるならば、圧倒的な勝利者にあなたを変えてくださることを信じていただきたいと思います。その秘訣を、パウロのように受け取っていただきたいと思います。

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