今週の礼拝メッセージ
上からの権威を受け取ろう   1999.8.8(SUN)

新城教会牧師 滝元 順

<今週のメッセージの御言葉>
新約聖書 マタイの福音書10章1節
イエスは十二弟子を呼び寄せて、汚れた霊どもを制する権威をお授けになった。霊どもを追い出し、あらゆる病気、あらゆるわずらいを直すためであった。

 ハレルヤ!今日皆さんと共に礼拝を守ることが出来ますことを、心から感謝します。先週は皆さんのお祈りに支えられ、サマーコンサートも大変祝福され、五一二名の方々が集まられました。
 今月は、色々なプログラムがあり、月末には、ラリー・ノーマンがコンサートをしてくださいます。このような企画が次々と舞い込んで、多くの方々に助けられ教会が守られていることを心から感謝します。
 また、皆さんのお祈りに支えられ、スーパーミッションもだいぶ具体的に進んできました。ロンさんの協力により、大変素晴らしいテーマソングもできました。また、東京には先週、事務所が開設されました。東京、田町に広い事務所を、ミッション「バラバ」のメンバーの方が無料で一年貸してくださることになりました。神様はすべてのことを用意してくださり感謝したいと思います。
 今日は、「上からの権威を受け取ろう」というテーマで学んでいきたいと思います。私が、皆さんの前でメッセージをする時のコンセプトがあります。私は、うっとりするような話は出来ません。私の使命として、メッセージを通して一人ひとりが武器を受け取っていただけるようにと願っています。そして、上からの権威を受け取り、自分で戦うことが出来るようにと願っています。なぜならば、教会にいつも来ることは出来ないからです。私たちは一週間のほとんどの時間を、自分の家や職場、学校で過ごさなくてはならないからです。そのような中で、神から直接、油注がれなくてはならないのです。ですから今日のメッセージの中で、上からの権威と武器をいただいて歩んでいただきたいと思います。
 目に見えるものも、見えないものも、全て、神によって創造された。即ち、それはイエス・キリストによって創造された、と聖書は教えています。
 コロサイ人への手紙一章十六節に、

『なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたものです。万物は御子によって造られ、御子のために造られたのです。』

 見えるもの、見えないもの、それらは全てイエス様が創られました。その中には王座、主権、支配、権威、などという、この世のシステムも創られたと聖書は記しています。ということは、日本の主権の上に、イエス様がおられるということです。だから、悪魔が日本を握っているように見えますが、その上にイエス様がおられるのです。
 ここに、「権威」という言葉がありますが、「権威」とは不思議なものです。それは、普通では出来ないことが、権威によれば、簡単に出来てしまうからです。ですから権威はある意味で恐ろしいものです。しかし、この権威にも上から来る権威があります。そして、イエス様は、クリスチャン一人ひとりに、上からの権威を授けようとされています。
 イエス様は十二人の弟子を選ばれました。その時に何をされたかというと、まず十二人の弟子たちを呼び寄せ、権威を授けられました。また他には、七十人の弟子たちを呼び、権威を授けたと記されています。イエス様は、すべてをご自分でなさったのではなく、権威を弟子達に授けて、み業をなさせたということです。ということは、私たちがいつも誰かに助けてもらうのではなく、権威を受け取り、自分で戦うという領域も信仰生活の中に含まれるのです。
 世の中には、多くの権威を見ます。私は東京によく行きます。先週も二回ほど行きました。東京に車で行くと、この辺のように簡単に道路に車を止めることが出来ません。なぜならば、駐車違反をすぐにとられるからです。駐車違反だけ専門に見張っている人達がいます。違反車両を探しながら、一日中町をまわっています。東京には色々な職種の人、強そうな人、弱そうな人もいますが、その人々に関わったら、どんな人でも駐車違反は全部捕まってしまいます。それを取り締まっているのが、うら若い婦人警官達です。持っている権威によって、大の男たち、大人たちが簡単に捕まえられます。文句は言えません。彼女らは見かけは弱そうでが、権威があります。なぜならば、婦人警官たちは国家という背景で権威付けされているからです。駐車違反の車両を取り締まるという権威を持っているがゆえに、普通、ギャルと呼ばれるような人たちが、怖いお兄さんまでも捕まえます。それは、権威があるからです。権威とはすごいものです。
 私たちも神様から権威をいただくことが出来ます。そしてその権威を受け取るならば、普通では出来ないことが出来るようになり、人生も変えられます。この与えられる権威とは、「汚れた霊どもを制する権威」です。イエス様が弟子たちに、「汚れた霊悪霊を制する権威」を与えられました。
 今日読んだマタイ十章一節に、

『イエスは十二弟子を呼び寄せて、汚れた霊どもを制する権威をお授けになった。霊どもを追い出し、あらゆる病気、あらゆるわずらいを直すためであった。』

と書かれています。ここに、「あらゆる病気、わずらい」を直すためであった、と書かれています。「あらゆる」とは、「全て」という意味でもあり、「例外なく」とも訳すことが出来ます。何と、御言葉によると、汚れた霊を制する権威をいただくことにより、例外なく、すべての病気も、煩いも直るようです。精神的にも肉体的にも、すべての問題を打ち砕く鍵となる権威を与えてくださるというのです。それを弟子たちはイエス様から受け取りました。私たちも、弟子たちと同じように、権威を受け取るべきです。この権威を一人ひとりが受け取るならば、素晴らしいことが人生に、教会に、国に起こってくると確信します。
 さて、どのようにして、この権威を受け取れるのでしょうか。婦人警官の話をしましたが、なぜ、婦人警官に権威があるかというと、それは婦人警官の身分もありますが、同時に重要なことは、彼女たちが「制服を着ている」ということです。婦人警官がオフの時に、私服で道路に駐車違反の線を引いていたら、皆、怒ります。しかし、制服に身を固めているがゆえに、権威付けされます。私たちクリスチャンも制服を着ているか、いないかが大切なことです。
 皆さんは制服を着ていますか。権威の制服の第一は、「イエス・キリストを神の子として信じている」ことです。イエス様を信じていなければ、権威も何もありません。イエス様を神の子と信じることがまず基本です。これはあなたの立場を規定するものです。そして、あなたに与えられる制服とは、ガラテヤ人の手紙三章二十七節に、

『バプテスマを受けてキリストにつく者とされたあなたがたはみな、キリストをその身に着たのです。』

 「信じてバプテスマを受ける者は救われます」とも書かれています。ここにおられる大半の方がすでに、バプテスマを受けられたと思います。バプテスマとは、水の中に入って出るのですが、それはただの儀式ではありません。それは、権威付けの制服を着る時です。バプテスマを受けるとは、「キリストをその身に着る」ことです。まだ、バプテスマに躊躇されている方は、ぜひ、バプテスマを受けてください。これは教会員になるとか、メンバーシップとの関わりが中心ではありません。権威との関わりがあるのです。バプテスマを受けると、霊の世界ではキリストをその身に着るのです。この、「着る」という言葉は、「まとう」、「武装する」という意味もあります。イエス様によって武装されるのです。
 バプテスマを既に受けている私たちは、もう一度この事を確認すべきです。バプテスマは「武装である」と確認しましょう。
 私は小学校二年の時にバプテスマを受けました。聖餐式が受けられるという不純な動機で受けました。夏にバプテスマを受けましたが、そのついでに川で泳ぐことも計画していました。しかし、バプテスマは「制服」であり、イエス様により武装されるのです。まだバプテスマを受けておられない方は、ぜひ、受けて武装してください。そうするなら、悪魔はその人に手を出せなくなります。また、バプテスマとは、水のバプテスマだけではなく、聖霊によるバプテスマでもあります。先週、「油注がれた者に手を出すな」という言葉を学びましたが、これは神様が、悪魔に向かって自分の民の為に語っている言葉です。悪魔に向かい、「おまえたちは手を出すことはできない」という意味です。これは権威の制服です。
 「知る」か、「知らない」かということは、大きな事です。既にイエス様の十字架の救いは二千年前に完成されていました。しかし、私たちがその事実を知らなかった時には、救われませんでした。知った時に、救いは自分のものとなりました。ということは、権威の領域についても、バプテスマの意味についても知らないと、自分のものにはなりません。ただ、バプテスマを、「教会員」という理解だけならば武装されません。バプテスマは、「キリストをその身に着る」時です。これが、権威を受け取る前提条件のようなものです。
 第二番目に、権威により武装するために必要なことは、ヨハネの福音書十五章五節、

『わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。』

これが、権威を使うために必要な御言葉です。イエス様がぶどうの木で、私たちはその枝です。枝が幹から離れているならば、養分が来ないのです。花は離れていてもしばらくは生きています。
 いつも育館階段中央の所に、お花の先生方が素晴らしいお花を生けています。いつも私は感動します。今日は誰の作品だろうかと思います。あれは、素晴らしい作品なので、小さい子どもたちも手を出しません。やはり権威があるのです。しかし、あれには悲しいこともあります。大体、二日か三日すると、最近は熱いのでしおれてしまうのです。切り花は地に根ざしていないからです。地に根ざしていない切り花は、はやがて枯れてしまいます。私たちも同じです。イエス様から離れても、しばらくは良いですが、やがて枯れてしまいます。ということは、イエス様につながっていなければ、私たちは何もすることが出来ないのです。
 権威を使うために必要なことは、イエス様と良い関係にあることです。ところで、皆さんは、今、イエス様とどんな関係ですか。トラブルはないですか。ご無沙汰していないですか。イエス様と良い関係でなければなりません。私も、このようにメッセージを語らせていただきますが、メッセージを語るときの基本は、その為の勉強や準備ではありません。それは、「自分がイエス様と良い関係であるか」ということです。イエス様と良い関係でなかったら、良いメッセージを語ることは出来ません。だから、メッセージを語る前に勝負は決まっています。私たちは、常に、イエス様と良い関係であるべきです。良い関係なら、多くの恩恵に預かることが出来ます。
 例えば、親子という関係の中では、子どもは親のものを自由に使うことが出来ます。車でも、お父さんと子どもが良い関係ならば、自由に使うことが出来ます。
 私はよく、地方に出て、リバイバルミッションの決起大会に行きますが、集会が終わってからの楽しみがあります。それは、コンビニエンス・ストアーに行くことです。自分で好きなものが選べるのは楽しい一時です。「昨日はこの銘柄だったから、今日はこれにしよう」と悩みます。それを食べることは結構楽しいです。しかし、コンビニに行って、嫌なこともあります。それは、お釣りの小銭である、一円、五円、十円で財布がふくれあがり重くなるからです。しかし、最近は、某コンビニのカードを作りそれを使っています。家族も家族カードを作って使っています。私の息子、娘は、まだ信用がないのでカードを自分で作ることが出来ません。だから、父親の名の権威のもとで家族カードを使っています。家族カードは危険です。父親の保証のもとで、子どもたちにカードが渡されます。そのカードを持っていれば、同じブランドのコンビニであったら、全国どこででも買えます。それは父親の権威によって裏付けされています。
 月末には私に請求が来て、どこで何を買ったか全てわかります。だから、私はぶつぶつ言いながら仕方がないので支払います。
 私たちの父親、天の父なる神様は、全宇宙を持っておられるお方です。その方の発行する権威のカードを私たちは受けるのです。私達の父なる神様は、そのカードの請求を見て、ぶつぶつと言われる方ではありません。いくら使っても、喜んでくださいます。そのように、権威を使うために必要なことは、イエス様との良い関係です。私たちがイエス様といつも良い関係にあるならば、イエス様のもっておられる権威を、引き出して使うことが出来るのです。
 今日、イエス様との関係を、この礼拝において良くしてください。そうすれば、あなたはイエス様の権威のカードを使うことが出来ます。
 そして最後に、権威とは、向けられる対象があるという事です。何に対して権威を行使するか、ということです。この権威は、どこに対して行使されるのでしょうか。イエス様は十二弟子を呼び寄せ、「汚れた霊に対する権威」をお授けになったとあるように、私たちの権威は、「汚れた霊」に向けられるのです。それは悪霊に対するものです。
 この世界には、人を不幸にするために二十四時間働いている、悪魔とその一味悪霊どもが存在することを知らなければなりません。多くのクリスチャンが、悪魔や悪霊の存在を信じていません。聖書を読んで、「紀元一世紀頃には悪魔や悪霊がいたようだ。しかし、彼らはどこに行ったのだろうか」と言う人がいます。紀元一世紀にはいて、今はいないというのではありません。今でも悪魔はあなたの側にいます。恐れる必要はありませんが、あなたを日々狙っている敵がいるということです。このことを知らないと、私たちは権威を使うことが出来ません。このことをどのくらい実感していますか。あなたの近くに、二十四時間態勢で、あなたを陥れるために働いている、悪魔とその一味がうごめいていることをどれくらい認識しているでしょうか。
 例えば、家に帰ってきて、お金が全部なくなっていたとします。それは、「泥棒が入った!」ということです。家財道具が全部なくなっていたら、誰かが持っていったということです。
 しかし、多くのクリスチャンが霊的には、それに気付いていません。「どうしたのかなあ」という感じです。家に帰ってきたら家財道具がない。おかしいなあ。なぜ、消えたのだろう。また、家に帰ってきたら、窓ガラスが割られて、もうぐちゃぐちゃだ。どうしたのだろうか。何なのかわけが分からない。霊的にはそのような人々が多いのです。現実の世界で、そのようなことが起こったら、何かをしている存在を見い出さないでしょうか。人生をかき乱し、窓ガラスを割り、盗み、傷つけ、倒される・・・、誰が行っているのかわからない人が多くあります。誰がしているのでしょうか。それは、暗闇の支配者たちであると聖書は教えています。この事はどこに行っても教えてはくれません。学校でも教えてくれません。それはただ、聖書でしか教えてくれません。本当に、私たちの周りに、創造の初めから、人類を不幸に陥れようとする悪魔とその一味悪霊がいるのです。その存在と戦わない限り、問題解決はありません。
 マタイの福音書十章一節から教えられることが多くあります。イエス様が汚れた霊どもを追い出す権威を弟子達に授け、次に、悪霊を追い出し、病を癒し、わずらいを癒したということです。ということは、病や、わずらいに対しても、悪霊が何らかの関わりを持っているということです。問題の背後には、目に見える問題だけではなく、霊的な関与があるのです。これを知らなくてはなりません。権威を受け取り、持ち場、持ち場で使わなくてはなりません。今日、私たち一人一人が、上からの権威を受け取り、悪霊に対して、家庭や職場、その他、色々な場所で権威を使うのです。
 特に、今、日本では、その権威を使わなくてはならない時期だと思います。この時期は「盆」という時です。「盆」はインドから始まっています。インドから来た文化を、あたかも日本文化とし、死者を礼拝しています。「死者礼拝」は、とりもなおさず「悪霊礼拝」です。この時期は、悪霊が活発になる時です。このような時にこそ、私たちは権威を持っていなくてはなりません。
 時々、神様は色々なことを通して、権威を行使するように導かれます。その導きを受け取ったら、立ち上がらなくてはなりません。時々、クリスチャンが悪霊から直接攻撃を受ける時があります。直接攻撃を受けたとしたら、相手が誰かハッキリとわかります。それは、悪魔が攻撃したようであっても、神の領域に属しているのです。なぜならば、この時こそ、「権威を行使し、立ち上がりなさい」ということを意味しているからです。だからそのようなことが起こったら、即、立ち上がらなくてはなりません。悪魔は、本当は直接攻撃をあまりしたくないのです。一番したいことは騙しておきたいのです。泥棒に入っても、誰かわからないようにしておきたいのです。多くの人が騙されています。しかし、イエス様を信じると、徐々にわかってきます。問題の背後に隠れている、悪霊の存在がわかってきます。そうすると、直接的な攻撃に変わってきます。しかし、それを恐れないでください。直接攻撃に対しては、神が権威を持っておられます。そして、あなたが立ち上がるのを促しておられると理解したら良いと思います。
 二年ほど前、あるクリスチャンの女性が、豊橋の某ガソリンスタンドでガソリンを入れようとしたら、悪霊の攻撃を受けたそうです。洗車をしようとしたら、回っている白いものが急に真っ黒に見え、かぶさってくるような気がして、後ろから包丁で頭を刺されたような痛みを感じ、「これは悪霊にやられた」と感じたそうです。後ろを振り向くと、神社があったので祈って帰ってきたというのです。そして、私たちの所に来て、「こんな攻撃を受けたので教会でも祈ってください」と言われました。それで、私たちはすぐにその場所に行き、悪霊どもが打ち砕かれるようにと祈りに行きました。
 私たち牧師、伝道師の仕事は、まずは、霊的な領域で勝利を取るための仕事です。教会に多くの方々が来られていますので、一人一人の現実的な必要に全て応じきることは出来ません。しかし、それが霊的な世界から始まっているとしたら、応じることが出来ます。霊的な世界で勝利を取ることが出来るのです。ですから、私たちは、霊的な世界で勝利を取ることに躍起となっています。そして、同時に、切迫した問題にもできる限り対処します。しかし、一番大切なことは、霊的な世界で勝利を取る事です。ならば状況が変わってきます。
 本日発行された、「ファミリア・ジ・デウス」に松平さんの素晴らしい証が紹介されていますが、どのようにして癒されたのかというと、霊的な世界で勝利を取ったから癒されたのです。私たちはまず、霊的な世界で勝利するのです。霊的戦いの情報があれば、私たちはすぐに駆けつけます。そして、その地域のために祈ります。もしもその地域から攻撃を受けたとしたら、何らかのつながりがあるかも知れないので、きよめにも結びつきます。
 その時も祈りに行きました。なぜ、その人に、攻撃が許されたかと思いました。しかし、近頃、何となくそこに神の御手があったことがわかり始めました。
 最近、教会に素晴らしいことが起こされています。それは十年もそれ以上も前に教会に来なくなってしまった人たちが教会に帰ってきていることです。それも、神の超自然的な導きによって、帰ってきているということです。本当に感謝なことです。一度信仰を持ち、バプテスマを受けた後、離れてしまった人がいます。しかし、バプテスマは権威なので、神様はそのような人々を引き戻すことが出来ます。更に起こされるように祈っていただきたいと思います。
 不思議と最近、そのような方々が帰って来られます。帰ってきて、もう一度新しい権威を受け取ると、前以上に燃えます。面白いものだと思います。
 一ヶ月ほど前、ある方から電話がかかってきました。「私の家に来て話を聞いてください。」と言われました。その方は、教会のテレフォンサービスにメッセージを入れました。名前を聞くとわかりました。十五年程前、高校生の時に来られていた方だとわかりました。「家まで来て欲しい」というので、何か問題があるのだと思いました。家庭か夫婦の問題について聞くことを予想しながら、家内と一緒にその家に行きました。住所をもらって驚きました。何と、ある方が霊的な攻撃を受けたガソリンスタンドのすぐ近くでした。
 すると、「私はイエス様のことを全く忘れていました。聖書もなくし、イエス様のことも心に全く思い浮かびませんでした。イエス様とはかけ離れた生活をしていました。」と言われました。しかし、今年になって、突然、不思議なことが起こったそうです。それは、三回連続して、新城教会に来て礼拝を守っている夢を見たそうです。忘れていた私たちの顔も出てきたそうです。それで、「教会に行かなくてはならない」と思ったそうです。すると、自分の頭の中に一つの数字が浮かんだそうです。それは三四八〇〇という数字だったそうです。その方はあまり電話番号を覚えるのが得意ではないそうですが、番号が突然脳裏に描かれたそうです。「これは何だろう」と思い、もしかしたら、教会の電話番号かも知れないと、新城の〇五三六二を付けてかけてみたら、教会のテレフォンサービス、「御言葉の剣」だったのです。とても驚いたそうです。これは神様が語っているに違いないと感じたそうです。そして、テレフォンサービスの中にメッセージを残したのです。今、彼女は、水曜礼拝に毎週来られて喜んでおられます。素晴らしいことです。
 その地域の解放のために祈らされたことは、神が目的を持っていたからです。「あなた達は、この地域のために祈りなさい。」なぜならば、主は、そこにその方が住んでおられることをあらかじめ、知っておられたからです。与えられた権威を使うようにと主が命じられたのです。私たちは、その理由を完全に知りませんでしたが、権威を使いました。何と、その地域に聖霊が注がれ、その人にも主が語られました。「あなたは教会に行きなさい。」そして、信仰が回復されました。これは権威の領域により、背後の悪しき力が打ち砕かれたことによる勝利ではないかと感謝しています。そのようなことを最近、神様が多く起こしてくださっています。これは神様のみ業です。ということは、権威を受け取ることがいかに重要であるかということを知らされます。権威は背後の悪しき力に向けられなければならないものです。
 今日、私たち一人一人が権威を受け取り、神がその権威を「使いなさい」と言われるときに、背後の悪しき力に対して権威を行使するならば悪しき力は手を引きます。すべての事象において戦いを意識し、権威を使うべきです。
 権威について意識し、それを受け取るために主の前に出たいと思います。権威を受け取って帰るならば、皆さんを通して主が働いてくださることを信じます。私たちは神の国に属するものです。その権威を使うことが出来ることを感謝したいと思います。一言お祈りします。

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