今週の礼拝メッセージ
戦い   1999.8.15(SUN)

新城教会牧師 滝元 明

<今週のメッセージの御言葉>
旧約聖書 民数記13章1節〜3節
主はモーセに告げて仰せられた。「人々を遣わして、わたしがイスラエル人に与えようとしているカナンの地を探らせよ。父祖の部族ごとにひとりずつ、みな、その族長を遣わさなければならない。」モーセは主の命によって、バランの荒野から彼らを遣わした。彼らはみな、イスラエル人のかしらであった。

 ハレルヤ!今日久しぶりに新城教会で礼拝を守ることができ感謝します。私がこの教会で礼拝を守ることができるのは五週ぶりです。先週は和歌山、その前は大阪、その前は茨城、その前は新潟におり、忙しい時を持ちましたが、皆さんの祈りで支えられていることを感謝します。また来週は長崎県に行きますので覚えて祈ってください。
 今日は八月十五日です。日本は終戦記念日と言っていますが、はっきり言うならば敗戦記念日です。それから五十四年が経ちますが、このように平和で礼拝をすることができることを感謝します。来月、九月二十日はどのような日でしょうか。それは私の誕生日です。早いものでもう七十才になります。そこで私が考えていることは、感謝な事にこの教会には五人の牧師が与えられています。今まで私が主任牧師としてきましたが、私は七十才になりますので、今度は順牧師に主任牧師を譲ろうと思っています。ですから覚えてお祈りください。十二月十五日は有賀先生が来られて、特別に順牧師のための祝福式を持ちたいと思います。これは大げさなものではなく、後継者を与えてくださったということで感謝する時を持ちます。しかし私は主任牧師をやめて何をするかというと、特別な名前はありません。牧師のひとりとして許される限り、死ぬ日まで新城教会で奉仕することになります。主任牧師には全部の責任があります。教会、プレイズ、ミッションの全ての動きは私の印鑑で動いています。借金も全部私の印鑑で動いています。しかし今回、わかりやすく言うと順牧師に全部借金を移行することになります。そして私はこれからはもっと色々な教会で奉仕するようになると思いますが、全日本リバイバルミッションの働き、来年は四十日間のスーパーミッションがありますので、そちらの働きにもかけることができます。覚えてこれからのために祈っていただけると幸いです。
 先週は東京で奉仕しましたが、その集会にリ・サンヨルという韓国の先生が来られました。この先生は非常に有名な先生です。クリスチャン二世で霊的な目が開かれており、預言者学校の校長という肩書があります。私も一緒に働くので、どんな人かと興味を持っていきましたが、非常に心がきよい立派な方でした。
 以前、孫が私にこう言いました。「おじいちゃんが武道館で説教している時に、天の使いが周りを廻っていた。」と言いました。何回も廻っていたのに残念なことに私は目が開かれていないのでわかりませんでした。今回、その先生が私を見て、「見えます。あなたが火の馬に乗って、手に火の剣を持って走ってくると、サタンが倒れていくのが見えます。あなたはその馬に乗って走っていますが、止まってはいけません。」と言われました。その言葉を聞いて感動しました。私もいつまでこの地上にいられるかはわかりませんが、この地上にいる限り、その馬に乗って火の剣を持ってサタンの陣営を打ち砕くために走っていきたいと思います。
 今年は戦争が終わって五十四年になります。ここにおられる方は戦争を知らない人がたくさんいますが、戦争が終わったとき私は十五才で、田口の学校に行っていました。ある意味で悔しさもあり、ホッとしたこともありました。また日本に平和憲法を与えられ、戦争のない時代を過ごしていることは素晴らしい恵みだと思います。歴史は色々な視点から見ることができますが、一番大きな事は戦争が終わってから日本に信教の自由が与えられているという事です。信仰が自由ということです。それまでは自由がありませんでした。それまでは誰でも神社礼拝をしなくてはなりませんでしたし、天皇礼拝をしなければなりませんでした。厳しかったです。朝学校に行くと、かならず、天皇の写真に最敬礼させられ、東に向き宮城遥拝をさせられ、拝まなかったりすると殴られるという非常に束縛された時代でした。しかし、戦争が終わり天皇が、「私は神様ではなく、人間だ」と宣言しました。それからある意味で自由になりました。私たちが自由に礼拝できることは感謝な事です。はっきり言って、私も戦争が終わらなかったら今日クリスチャンでいることができなかったと思います。東京に勉強に行き、十九才の時に福音を聞いたことにより、イエス様を信じられたことは戦争が終わったおかげだと思います。戦争が終わったときに日本を支配していたのはアメリカのマッカーサーという人でした。天皇よりも彼はもっと権力がありました。その方が日本に来て、まず、三千人の宣教師を送ることをアメリカに要請しました。その時に三千人の宣教師がいませんでしたが、その中に、私を導いてくださったミスター・ミセス穐近がいました。ですから私が心から感謝していることは、穐近先生ご夫妻をアメリカから送ってくださった神様に深く感謝しています。もし、先生方が来られなかったら、私も私の家内も救われませんでした。先生が来られたことにより、私は素晴らしいものを受け継ぐことができたと思います。それは単純な信仰です。聖書をまともにそのまま信じる信仰です。これは素晴らしい遺産です。そして先生は偶像礼拝に妥協しないでハッキリと偶像を拝まないことを宣言されています。また、先生はきよさ、姦淫をしてはいけない、夫婦喧嘩をするものは教会から除名するほどのものでした。ある意味でこの四十九年間、私が影響を受けて、浮気もせずに夫婦が仲良く来れたことは先生のおかげだと思います。私たちが今どのようにあっても感謝するべきです。しかし、霊的な戦いを通して、私たちは働きを別にしていますが、感謝は忘れてはならないと思います。
 今日、皆さんとこの時間学びたいことは、「戦い」というテーマです。クリスチャン生活は戦いです。勝つか負けるか。私たちの戦いは血肉の戦いではなく、天の所にいる悪しき霊との戦いで、私たちはその悪しき霊に勝利して行かなくてはなりません。戦いの中で何が一番大きな事かというと、「神に従うか、信仰を持つかどうか」ということです。外の敵もいますが、内側にもいます。それは私たち自身です。私たち自身が本気で神様に従うか、従わないか、信じるか信じないか。これが大きな問題です。ですから今から皆さんと共に、民数記の中からイスラエルの歴史について共に学びたいと思います。

『主はモーセに告げて仰せられた。「人々を遣わして、わたしがイスラエル人に与えようとしているカナンの地を探らせよ。父祖の部族ごとにひとりずつ、みな、その族長を遣わさなければならない。」モーセは主の命によって、バランの荒野から彼らを遣わした。彼らはみな、イスラエル人のかしらであった。』

 イスラエル民族はエジプトに四三〇年間奴隷生活し、モーセが解放して約束の地を目指して進みました。しかし、その途中、イスラエルの十二部族のかしらたち、族長たちを集めてこれから占領しようとしているカナンの地を偵察に行くようにと、パランの荒野から十二人を遣わしました。その時モーセは彼らに、

『モーセは彼らを、カナンの地に探りにやったときに、言った。「あちらに上って行ってネゲブにはいり、山地に行って、その地がどんなであるか、そこに住んでいる民が強いか弱いか、あるいは少ないか多いかを調べなさい。また彼らが住んでいる土地はどうか、それが良いか悪いか。彼らが住んでいる町々はどうか、それらは宿営かそれとも城壁の町か。土地はどうか、それは肥えているか、やせているか。そこには木があるか、ないかを調べなさい。あなたがたは勇気を出し、その地の果物を取って来なさい。」』

と言いました。丁度その時期はぶどうが実る季節でした。そこで十二人が約束のカナンの地を四十日偵察して帰ってきました。その時、ぶどうの木の一房を取り、二人が棒で担いできたと書かれています。とても豊沃でした。そしてモーセと全会衆のいるところで彼らが報告会をしました。しかし、十二人の内の十人は不信仰を持って帰ってきました。二人だけ信仰を持って帰ってきました。最初は不信仰な人たちが報告しました。十三章二十七節に、

『「私たちはあなたがお遣わしになった地に行きました。そこにはまことに乳と蜜が流れています。』

ぶどうとザクロを持ってきて見せました。

『しかし、その地に住む民は力強く、その町々は城壁を持ち、非常に大きく、そのうえ、私たちはそこでアナクの子孫を見ました。』

アナクの子孫は巨人です。
 私は一九七二年初めてスウェーデンに行きました。その時デンマークからコペンハーゲンに行き、スウェーデン行きの飛行機に乗り換えました。待ち時間に、スウェーデン人を見るととても大きいのです。巨人のようです。私は日本人でも特別に小さな方ですが、イスラエル人も、カナンに入ったらやはり、彼らの大きさに驚いたそうです。そして、

『ネゲブの地方にはアマレク人が住み、山地にはヘテ人、エブス人、エモリ人が住んでおり、海岸とヨルダンの川岸にはカナン人が住んでいます。」』

と「しかし・・・」という言葉を持ってその地について報告しています。しかし、信仰を持ったカレブとヨシュアは、

『そのとき、カレブがモーセの前で、民を静めて言った。「私たちはぜひとも、上って行って、そこを占領しよう。必ずそれができるから。」』

と彼は勇気を持って語りました。十人は大きさを見ました。いわゆる外側を見ました。カレブとヨシュアはこの地を与える主を見ました。神はエジプトからカナンの地を与えるために導かれたので、「すごい!私たちに約束されたカナンの地は、蜜と乳の流れる地だ」きっと彼らは城壁に住むということで考えたときに、「これが私たちのものになる。あの家に私が住む。荒野でマナとうずらしかないのに、このぶどうもザクロもすごい。ここに入れてくださる主は何とすごいのだろう。」ここに、問題を見た人と主を見た人がいます。
 さて、これは昔の話ではありません。今の話でもあります。今でもある人は問題を見てつまずきます。ある人は神様を見ます。私たちはどちらを見るか。カレブのように主を見なければなりません。すると不信仰の人が、

『「私たちが行き巡って探った地は、その住民を食い尽くす地だ。私たちがそこで見た民はみな、背の高い者たちだ。そこで、私たちはネフィリム人、ネフィリム人のアナク人を見た。私たちには自分がいなごのように見えたし、彼らにもそう見えたことでだろう。」』

と言っています。彼らが自分自身を見ると、アナク人やネフィリム人から見たらいなごのようでした。彼らもきっと偵察に来た私たちを見てそう思ったでしょう。そしてそれを聞いたときに、会衆は不信仰を持った人たちに汚染されました。

『全会衆は大声をあげて叫び、民はその夜、泣き明かした。』

と書かれています。十四章二節に、

『私たちはエジプトの地で死んでいたら良かったのに。できれば、この荒野で死んだほうがましだ。なぜ主は私たちをこの地に導いて来て、剣で倒そうとされるのか。私たちの妻子は、さらわれてしまうのに。エジプトに帰ったほうが、私たちにとって良くはないか。』

とつぶやきました。不信仰の言葉です。私たちはエジプトの地で死んでいた方が良かった。この人たちの心の根底には、神は良い方だということを信じていないのです。自分たちを滅ぼそうとしていると思い込んでいるのです。
 皆さんは神様に愛されていることを信じていますか。神様が良い方で、導いてくださる方であると信じていますか。時々、私たちは問題を見て、「どうして私はこんなに従っているのに悪いことがあるのか」とつぶやきます。それと同じことです。なぜここまで神様は私を導いたのに、私を滅ぼそうとしているのか。このくらいだったら荒野で死んだ方がましだ。これだったらエジプトに帰ったほうが良いと言っています。そして、四節に、

『そして互いに言った。「さあ、私たちは、ひとりのかしらを立ててエジプトに帰ろう。」』

と書かれています。よく考えるとエジプトに帰る前に神様がイスラエル民族に見せたのは、十の奇蹟でした。最後には子羊をほふってその血を鴨居に塗って彼らは救い出されました。そして彼らは紅海を前にして、後からエジプト人が追って来たのに、神が紅海を真二つに裂きました。そこを彼らは悠々と渡って来ました。そして神様がエジプト人を全てやっつけられました。そこで彼らは神様をほめたたえました。水から上がったときに、「こんな水が飲めるか」と言ったら、神様が水を甘くしてくださり、また食べ物がないと言ったときに毎日マナを降らしてくださった。うずらをくださり、昼は雲の柱、夜は火の柱で導いてくださいました。現実的に目の前に雲の柱があるのです。あるにも関わらずそれも信じられないというのです。自分のことを考えてみたら、あの時は助けられた。しかし、今はこのようだと考えてはいけません。信仰を持つべきです。どのようにしても不信仰を持ってはいけません。その時にヨシュアとカレブが言いました。

『「私たちが巡り歩いて探った地は、すばらしく良い地だった。もし、私たちが主の御心にかなえば、私たちをあの地に導き入れ、それを私たちに下さるだろう。あの地には、乳と蜜とが流れている。ただ、主にそむいてはならない。その地の人々を恐れてはならない。彼らは私たちのえじきとなるからだ。彼らの守りは、彼らから取り去られている。しかし、主が私たちとともにおられるのだ。彼らを恐れてはならない。」』

 霊的な目が開かれていない人は「大きな人だ。大きな家だ。」と言いました。しかし、ヨシュアとカレブは、「恐れてはいけない。彼らは私のえじきになる。彼らの守りは彼らから取り去られている。」と言いました。彼らの目には、今にもイスラエル民族が攻めてくるということで震えている敵の姿を見ました。霊的に目が見えない人たちはうわべだけを見ました。
 今の日本も同じことが言えます。今日は盆です。日本人は盆でガタガタしていますが、日本はだんだん攻め取られてきています。今、仏教でどのような考えがあるかというと葬式仏教です。盆とは、仏教から言うと一年に一度、地獄の蓋が開いて先祖が帰ってきます。何の救いもありません。一般の人は本当は嫌気がさしています。守りが取り去られています。やがてイエスの時代が来ます。
 今日は敗戦記念日で、私たちが十日間集会をした武道館では、天皇をはじめとする七千人が集まって慰霊祭をします。それから今は閣僚たちが靖国神社を拝みに行っています。彼らはA級戦犯は外して礼拝するところを探しています。昔に帰ってきています。しかし、帰るように見えますが、これまで霊的戦いで祈っているので、彼らの守りは取り去られています。これからの時代には、必ず日本においてもリバイバルが起きます。必ず勝利することができます。信じましょう。
 私はよく夢を持ちます。神様からのビジョンを持ちます。私は近い将来に大きな教会を建てるべきだと思います。立派な教会、これも大して立派ではないかも知れませんが、今度建てる時には二千五百人くらい入る教会、文化会館よりも大きな教会を作るべきです。崩れ去っていく寺よりも魅力を感じる教会を造りたいと思います。そのような教会が必要だと思います。造りたいと思いますか。「アーメン」皆さんの声が小さいです。将来二千五百人くらいの教会を作りたいと思いますか。「アーメン。」それから、もう一つ教会を作りたいと思います。それは百人くらいが入れる結婚式場のような教会を作りたいです。とにかく素晴らしくて、この町で最高のものを作りたいです。「教会に行きましょう。」と町の人が来たくなるような教会です。将来信仰を持たなくてはなりません。信じられますか。また金がいる。できないそんなこと・・・。
 最初は百人の会堂、三百人、一九八〇年にこれを作りました。佐野兄、岡本正広兄、順牧師が実行委員で会堂建設が進められました。その時に私がお願いしたことはとにかく、「最高のものを作ってください。」と言いました。最初に増築した教会は安く作りました。私は皆に「これは安くできたのですよ。」と言いましたが、ある時、私は責められました。神の家が安くできたなんて誉めたものではない。申し訳ない。だから、「五百人以上入る最高の教会を作ってください。」とお願いしました。ここの委員たちは頭が良いです。皆が一生懸命に設計して作りました。建堂式を二回しました。最初、一般の人のための建堂式をしました。その時、愛知選出の代議士三名、県会議員、市会議員もほとんど来られました。村の人もお祝い持ってきました。反対していたような人も来ました。そしてここで国会議員が「このような教会がこの三河にできたことは誇りです。」と言われました。希望を持ちました。しかし、今は文化会館の方が大きいです。今度は二五〇〇人の大きなのができたら、寺よりも教会が良いと言います。しかし、寺の坊さんが救われなければなりません。今は守りが取り去られています。神社ははっきり言って何が何だかわかりません。ですから、信仰を持つべきです。彼らの守りは彼らから取り去られている。「しかし、主が私たちと共におられる。彼らを恐れてはならない。」と書かれています。不信仰な会衆がヨシュアとカレブを石で打ち殺そうとしたと書かれています。その時に神の栄光が現れ、神様が怒られました。しかし、モーセは、彼らを滅ぼさないでくださいとストップをかけました。「あなたが滅ぼしてしまったら皆が言うでしょう。せっかく導き出されたのに導き入れる力がなかったから滅ぼされた、と言われるから我慢してください。」とモーセがとりなしました。しかし、神様は「二十歳以上の勇士はひとりとして約束の地に入れない。」と言いました。そして四十日、一日を一年として四十年を荒野をさまよわなければならないと言われました。信じるか信じないかで素晴らしいところに入れるか、入れないかが決まるのです。信じるかどうかです。主を信じます。ある人は人を恐れます。信じましょう。そして、十四章三十七節に、

『こうして、その地をひどく悪く言いふらした者たちは、主の前に、疫病で死んだ。』

と書かれています。彼らは神様にさばかれて死にました。しかし、神様は三十節に、

『ただ、エフネの子カレブと、ヌンの子ヨシュアのほかは、あなたがたを住まわせるとわたしが誓った地に、だれも決して入ることはできない。』

と書かれています。ヨシュアとカレブは特別に力が強かったのではありません。主を見たか、人間を見たかということです。これからの人生において祝福される秘訣は大きな神を見ること、問題を見ることはよくありません。
 それから四十年が経ち、ヨシュア記五章六節に、

『イスラエル人は、四十年間、荒野を旅していて、エジプトから出て来た民、すなわち戦士たちは、ことごとく死に絶えてしまったからであす。彼らは主の御声に聞き従わなかったので、主が私たちに与えると彼らの先祖たちに誓われた地、乳と蜜の流れる地を、主は彼らには見せないと誓われたのであった。』

と書かれています。六十万ほどの戦士が全部死に絶えたというのです。それから、ヨシュア記十四章六節から十一節に、

『ときに、ユダ族がギルガルでヨシュアのところに近づいて来た。そして、ケナズ人エフネの子カレブが、ヨシュアに言った。「主がカデシュ・バルネアで、私とあなたについて、神の人モーセに話されたことを、あなたはご存じのはずです。主のしもべモーセがこの地を偵察するために、私をカデシュ・バルネアから遣わしたとき、私は四十歳でした。そのとき、私は自分の心の中にあるとおりを彼に報告しました。私といっしょに上って行った私の身内の者たちは、民の心をくじいたのですが、私は私の神、主に従い通しました。そこでその日、モーセは誓って、『あなたの足が踏み行く地は、必ず永久に、あなたとあなたの子孫の相続地となる。あなたが、私の神、主に従い通したからである。』と言いました。今、ご覧のとおり、主がこのことばをモーセに告げられた時からこのかた、イスラエルが荒野を歩いた四十五年間、主は約束されたとおりに、私を生きながらえさせてくださいました。今や私は、きょうでもう八十五歳になります。しかも、モーセが私を遣わした日のように、今も壮健です。私の今の力は、あの時の力と同様、戦争にも、また日常の出入りにも耐えるのです。』

と書かれています。信じ従ったカレブは、四十五年経ち八十五才になっても四十才と同じ力があると言うのです。私たちの人生の祝福は神様から来ます。ですから、不信仰を持ってはいけません。たとえ弱くても強くなる。難しい問題があるけれど問題は解決されると信じましょう。必ず良くしてくださる。これが戦いです。戦いは心の中で信じるか信じないか、従うか従わないか。簡単なことです。従います、信じます。これだけで祝福されます。ですから、皆さん、心の底から従っていきましょう。ヨシュア記二十一章四十四節から四十五節に、

『主は、彼らの先祖たちに誓ったように、周囲の者から守って、彼らに安住を許された。すべての敵の中で、ひとりも彼らの前に立ちはだかる者はいなかった。主はすべての敵を彼らの手に渡された。』

本気で主に従ったら私たちクリスチャンの前に立ちはだかるものはありません。これから霊的な戦いの中で全ての支配者なる主を見上げるなら、私たちの前に立ちはだかるものは誰もいないと書かれています。そして四十五節には、

『主がイスラエルの家に約束されたすべての良いことは、一つもたがわず、みな実現した。』

と書かれています。主は生きておられます。信仰を持ちましょう。戦いの中で心から主を信じましょう。サタンがどのように言っても「サタンよ退け。」と祈り、イエス様を信じ、従っていきましょう。宣言しましょう。「主を信じます。主に従います。」必ず祝福されます。一言お祈りします。

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